寒いところで待ちぼうけ

おうちへえろ

ほのぼのシベリア修行時代のあれこれ
カプ要素なし


◆先生の誤算◆

 夕食時のことだった。
 いつもは、気持ちいいほど、というか、食料が底をつかないか心配になるほど、大きな口でモリモリと食べる二人がずいぶんと元気がない。
 体調でも悪いのかと顔色を窺ったが、血色のよい頬は暖炉に照らされてつやつやと輝いている。
 では、嫌いなものでもあっただろうかと思案してみたが、普段と変わったものは食卓に並べておらず、いつもの二人なら先を争っておかわりを要求するようなものばかりだ。
 となると、師に知られたら困るような何かをやらかした、と言ったあたりだろうか。
 己が厳しい自覚はあるが、困り事を素直に相談もできないほど無理解ではないつもりなのだがな、と、少々消沈しながら、カミュは探るように言った。
「どうしたんだ、お前たち。二人揃って食欲がないとは。腹でも痛いか?」
 まさかいきなり、何かやらかしたな、と正面切って疑うような真似はしない。子どもなりに自尊心はあり、初めから疑ってかかるような真似をしては信頼関係は築けない。
 それに、実際、どれほど顔色がよくとも、幼いうちは油断ができないことをカミュは経験上よく知っていた。
 流行病に罹ったかと思うと、たいして発熱もしていなかったのに、あっという間に急変して儚く命を落とした可哀相な子どもをかつて見送った。
 あのような辛い思いはもうしたくない、できれば困った悪戯を隠している方であってくれ、と眉根を寄せたカミュに、二人はもじもじと顏を見合わせた。
「どうした?腹でないならば頭でも痛いのか?」
 ううん、と二人が同時に首を振り、そして、全く同時に両手で口を覆う仕草をした。
「……?わたしには内緒という意味か?」
 それにも二人は否定の動きに首を振って、それから、ずいぶんと情けない顔をして異口同音に言った。
「「はが……」」
 
 は?

「はというと……ああ、『歯』か?」
 こくんと頷く二人に、痛いのか?と聞くと、抜けそうで、と返ってきた。
 抜ける?
 たまに運悪く、鉄板でもこうまで固くはあるまいと思えるほどの質の悪い肉に当たってしまうこともあるが、今日は白身魚の香味スープがメインである。噛んで歯が抜けるような料理は並んでいない。カミュは一瞬思案し、ああなるほど、と思い至る。
「ちょっと見せてみなさい」
 ためしにアイザックの口の中を見てみる。
 ───やはり。
 アイザックの左上の奥歯がぐらぐらしていた。抜け替わりの時期がきたのだ。
 氷河の方も見る。こちらは右上の犬歯だ。
 そういえば、二人とも数日前から、食事のたびに何やら変な顔をしていた。どちらも、ぐらぐらと揺れる歯を気にしていたのか。
「そこまでぐらついていては食事にならないな。よし、わたしが抜いてやろう」
 カミュが事もなげにそう言うと、二人の顔がさっと強張った。
「ぬ、抜く!?」
「いずれにせよ抜けるものだ。早く抜いてしまえば気にならなくてすむ」
 一瞬とはいえど、流行病による死まで想像していたのだ、心配したぶんだけ反動で、なんだ、歯か、と、普段のカミュより少々対応が雑になってしまったことは否めない。
 お前たちの歯はまだ小さい、指よりはペンチでもあれば掴みやすいが、と思わず零した独り言を耳ざとく聞きつけて、氷河は真っ青な顔で首を小さく左右に振っている。アイザックは、そんな氷河をかばうように背に隠しながらも自分も頬を引き攣らせている。
「ああ、そんなに怖がるようなことではない。ペンチというのはあれだ、間違って一緒に別の歯を抜いてしまわないようにと思っただけだ。むかしそれで大流血沙汰になったことがあってな……ああ、違う、失敗したのはわたしではないから安心しなさい。聖域で、そういうこともあった、というだけだ。ただちょっとコツは必要だな。抜く方もおそるおそるやったのでは事故の元だ。そういえばほら、この間、戸板から飛び出ていた釘の頭をペンチで捩じ切ろうとして失敗しただろう。あれは思い切りが足らなかったのがよくなかった。変な風に力が伝わってしまったおかげで釘の頭どころか戸板まで粉々になってしまった。だがまあ心配はいらない、力加減を誤って歯が砕けてもそれはそれだ、放っておいてもそのうち勝手に根は抜ける。万一抜けないようなことがあれば切開くらいは必要になるかもしれないが、お前たちがよほど暴れない限りはそう不幸な事故もそう起こら……氷河?おい、どこへ行く?」
 青い顔でじわりじわりと後ずさりをしていた氷河はついにはカミュにくるりと背を向けようとしていたが、完全に背を向けきる前に、お前だけ逃げるなんてずるい、と言ったアイザックにそれを阻まれた。
 昼間の訓練では、互いに拳を当てても、地面に頭から落ちても、涙ひとつ見せない二人なのに、小さな物体が口の中で揺れているだけのことにそこまで顔を青ざめさせるとは。
 まだまだほんの子どもなのだ。日頃、カミュの膝の上に競って乗りたがるのもこれでは無理はない、とカミュは苦笑した。

 しかし、ここまで怖がっているとなると、どうすべきか。
 カミュ自身は中途半端な状態で放置するよりもスッキリさせたい性質である。だが、怖がる二人を無理矢理押さえつけてまで抜かねばならないほど放置して害があるものではない。

「仕方ない。それならば自然に抜けるのを待ちなさい。そのかわり、食事を残すのはなしだ。しっかり食べないと体を動かせないぞ」
 ため息とともにそう言って、カミュが食事を再開させると、二人ともまだ幾分青い顔をしたまま安堵の息を吐いた。そして、カミュの動向を窺いながら、おそるおそる食卓に戻ってくる。
 まるでわたしが取って食うみたいな顏をしているな、と、カミュは内心でまた苦く笑った。

 椅子に腰かけ直した二人は、もそりもそりと咀嚼を再開させたが、だが、事態は好転したわけではない。結局元の状態に戻っただけである。
 少し噛むたびに、口の中で歯が揺れて気持ち悪いのだろう。もしかすると、食べ物が当たると痛いのかもしれない。
 腹は減っているだろうに、一向に食が進まない。
 スープはいいのだが、問題はパンだ。
 よりによって、今日はハード系のカンパーニュだ。
 ちびちびと長い時間をかければ食べられないこともないだろうが、あいにくと、食事が終わる時間は決めてある。夕食後にも座学に明日の準備と、やることは山ほどあるのだ。このままでは時間どおりに食事を終えることはできない。
 さて、二人はどうするだろう、とカミュは成り行きを見守った。
 タイムアップとなって泣きが入れば、今日だけはパンを小さく切ってミルクに浸してグラタン風に焼き直して夜食にしてやるか、と思案していたが、やがて、ちまちまとパンをちぎって口に運んでいたアイザックが、やにわに力強く立ち上がった。
「俺、やっぱり、抜きます!!」
 隣で、氷河が裏切り者!と言いたげに大きく目を見開いている。
 抜く!と言ったものの、アイザックの顔は、断崖絶壁から飛び降ります、とでも言ったかのように、ものすごく悲愴な顔をしている。
 しかも、その後に
「氷河、お前も抜けよ!」
と、続けた。
 決意したものの、自分一人ではいやなようだ。
 氷河はいやだ!なんで!俺はいい!と口元をおさえて声を出さず抗議している。口を開けばその隙にカミュが無理矢理抜くとでも思っているのだろうか。そんなばかな。
 アイザックは、自分を励ますかのように氷河に向かって説得している。
「大丈夫だから!先生に取ってもらって、すっきりすればいいだろ!お前、男だろう、歯くらいで騒ぐな!」
 騒いでいるかどうかだけを問題にするならアイザックの方がよほど騒いでいる。氷河については口すら開けないほど震えあがっているわけだから。
 が、それを冷静に指摘したところで何の役に立つわけでもない。
「わかった。とりあえずはアイザックは抜くでいいわけだな」
 カミュがそう言うと、アイザックはまさに死刑宣告でも受けたかのように、ビクリと硬直した。が、意を決したのか、氷河の方を一瞥すると、見とけよ、とでもいうようにカミュの隣へやってきた。
 どんな小さなことひとつ、「兄弟子」らしく先輩風を吹かせたがるのは彼のプライドだ。氷河が来る前のアイザックはさして「しっかりもの」なところはなかったから、競う存在ができたことは彼にもよい効果をもたらしているのだ。氷河がいなければぴいぴい泣いていたのは彼の方だったかもしれない。
 カミュの前で直立不動の姿勢を取って口を開けるアイザックは、子どもらしくギュッと両目をつぶって、恐怖心と戦っているようだった。恐怖心に自ら立ち向かうのはある意味小宇宙に目覚めるより難しいものだ。それでも克服しようとする姿はいじらしく、好ましい。
 滑らないようナプキンを指先に巻いたカミュは、揺れるアイザックの歯の位置を確認し、したと同時に、刹那、それを引き抜いた。
 あえて予告はしなかった。

 一瞬の出来事だ。

 アイザックは、何が起こったかわからなかったようだ。つまり、それほどに痛みはなかったということだ。
 カミュが広げて見せたナプキンの上に、ころんと小さな歯が乗っているのを見て、ようやく理解したようで、目を見開き、それからふうっと大きな安堵の息をついた。
「ほら!!痛くない!!」
 ふんぞり返ってアイザックは氷河を振り返ったが、氷河はますます顔面蒼白だ。
「……血……!!」
 振り返ったアイザックの口元から一筋の血がたらりと流れ落ちたからだ。
 少しだけ残っていた歯の根っこから出血したのだろう。だが、出血量の割に痛みはないらしく、本人はケロリと平気だ。
「でも別に痛くなかった。……血ぐらいどうってことないだろ?お前だってよく怪我をしているじゃないか」
「それとこれとは別だから……!」
「痛くないって」
「アイザックの場合は、だろ!俺が同じとは限らない!」
「結局痛いのが怖いのか」
「別に怖くない!けど、俺はやらない!」
 それにしても尋常ではない嫌がりようだ。
 たいていのことはアイザックに負けまいと張り合う氷河にしては少々様子がおかしい。
 普段の氷河なら、氷の海に飛び込めと言えばアイザックと同じに躊躇いなく飛び込むし、拳を打ちこめば逃げもせずにしっかりと目を見開いて受け止めもする。氷河に対して、そこまで怖がりだという印象は抱いたことがないにもかかわらず、こうまで嫌がるのは、単に怖いのとは違い、歯医者に対して何かトラウマでもあるのかもしれない。
 カミュは視線だけで、もうそのあたりにしておけ、とアイザックを窘めたが、アイザックは、でも、こいつの歯、ほんとにすぐ抜けそうですよ、俺でも抜けるかも、と氷河を押さえつけて口の中をのぞきこんだ。
 やだ、いやだ、と氷河は声にならない悲鳴をあげて、全身を硬直させた。
 このままでは失神しかねない、と、さすがにカミュも見ていられなくなり、制止に入った。
「アイザック、氷河を離すんだ」
 いつもの親切心のつもりだったのに(そしてその親切心はたいていよい方向に作用していたのに)、思いのほか深刻な状況になってしまって、アイザックは戸惑い、身を固くして数歩後ろへと下がった。
 すみません、としゅんとしてしまったアイザックに、目線で、大丈夫だ、と告げて、カミュは氷河の前へ膝を折った。
 氷河は強張ったまま小さくなって、ガタガタと震えている。
 カミュは氷河の頭に手を乗せ、宥めるようにやさしく撫でた。
「大丈夫だから少し落ち着きなさい。アイザックの血はそんなにびっくりしなくてもいい。氷河だって歯磨きの時に強く磨きすぎて血が出たことがあるだろう?あれと似たようなものだ。痛くもないし心配はいらない」
 氷河はうずくまったまま、無言でがくがくと頷いた。
 アイザックが怪我をしたわけではない、ということは頭では理解しているが、それと自分が歯を抜くこととは話が別、といったところか。
「もうあまり時間はないがそのままでも残り全部食べられそうか?」
 カミュの問いは、要は、固いパンをしっかり咀嚼することで、抜ける寸前の歯にとどめとなることを期待するのか、覚悟を決めて抜いてから落ち着いて食事にするのかを、遠まわしに訊ねたのである。抜くのが嫌でも、食事をして結果的に抜けるならいいと思ったのだ。
 だが意図はうまく伝わらなかったようで、氷河は青い顔をしたまま首を振って、「今日はもう食べません」と答えた。
 これには困った。
 食事を残すという選択肢を与えたつもりはない。
 激しくエネルギーを消費する身体に、動けるだけのカロリーをきっちり補給することまで含めて聖闘士の修行だ。
 だからと言って食べないと言っているものを押さえつけて口に突っ込むわけにもいかない。アレンジして夜食にしてやる腹づもりはあったが、二人ともならともかく、氷河一人を特別扱いするのは甘やかしているようで気が進まない。
 仕方がない、とカミュはため息をついた。
「食べないのは良くないが、今日だけの特別だぞ……」
 厳しい師がここで譲歩するとは思わなかったのか、氷河は上目づかいで目を瞬かせた。
「だが明日の朝食も食べないのは駄目だ」
 譲歩は一度きりだ、と顰め面で告げたが、それでも、とりあえずは目先の恐怖から逃れられたことは、氷河には救いになったようだ。青ざめていた頬にみるみる赤みが差して、金色の頭がこくんと頷いた。
「眠っているうちに自然に抜けるといいんだがな……氷河、もう一度口を開いて見せてごらん」
 はい、と素直に頷いて、口を開きかけ、だが慌てて口を両手で押さえ、猜疑心たっぷりの青い瞳がカミュを見上げた。
 普段は絶対見られない警戒心だ。
 困ったくらい素直な性質で、ひっかけというひっかけに全部ひっかかってしまうような氷河の日頃の様子を思い浮かべて、カミュは密やかに心の内で笑った。
「大丈夫。見るだけだ。私が嘘を言うと思うか?」
「……本当に、見るだけですか?」
 氷河は器用に口を開かないようにしてしゃべっている。
「そう、見るだけ」
 長い逡巡だった。
 めったにない、日頃厳しい師が譲歩を見せたとあっては、さすがに頑なに拒絶はまずいとでも幼心に思ったのだろうか。逡巡の後に、やがて氷河は、両手を口元から離して、おそるおそる口を開いた。

 うーん……これはもはや、くっついている、とは言い難いな……。

 そう確認するや否や、カミュは電光石火、ブラブラと力なく揺れていた小さな歯を指先で摘んで引いた。
 意図して、というより、カミュ自身、条件反射のようなものだった。
 ゴミがついていたから取ってやった、くらいの気軽さで。それほど、抜かないことの方が不自然な状態だった。
 プツリという抵抗音すらもなく、白いものがころりとカミュの手の中に転がり落ちる。血も出ない。
 ほら、と手のひらの上にそれを乗せて氷河に見せてやったのは、カミュとしては、氷河を安心させようとしてのことだった。
「全然痛くなかったです」「そうだろう」という展開を予想して、やさしげな微笑すら頬に上らせていたのに、カミュの予想に反して、氷河の青い瞳はみるみるうちに透明な水の膜を張り始めた。
「先生のうそつき……!!見るだけって言った……!!」
 そう言うなり、氷河は立ち上がるとバタバタと足音を立てて、寝室へと逃げ込んで扉を閉めてしまった。

 後には手のひらに小さな歯を乗せたまま茫然としているカミュと、居たたまれなさそうに立ち尽くして師を見上げるアイザックが残される。

 ………………まずかった、か。
 カミュは、歯さえ抜ければ万事解決かと思ったのだが、どうやらそういう問題でもなかったようだ。

 しんと静まり返った小屋の中に、うぐうぐと噛み殺した泣き声が鈍く響いている。
 気まずく歯を摘んだまま、カミュはアイザックを振り返った。
「…………えーと、俺、行ってきましょうか」
 よほど情けない顔で振り返ってしまったのか、ずいぶん年下の一の弟子が、カミュを気遣うようにそう言ったのを、思わず、ああ、頼む、と頷いてしまいそうになるほど、カミュは途方に暮れていた。
 すぐに涙が零れるのは氷河の困った性質で、いつもなら、泣くなと厳しく一喝して、アイザックがこっそり宥めるのくらいは見て見ぬふりしてやるものの、後はたいてい放置して終わりなのだが、だがしかし、いかんせん、今回は、自分が嘘を吐いて泣かせたという負い目があり、放置もしにくく、アイザックまかせというわけにもいかなかった。
「いや、わたしが行こう……」
 気乗りしないがどうにかそう言えば、アイザックが、健闘を祈ります、といった深刻な顔で頷きを返した。
 あれを宥めるのはそんなに骨が折れる作業なのか、と既にげんなりしながらカミュは寝室へと向かう。
 軽く扉をノックして開いたが───氷河の姿がない。
「……氷河?」
 まさか今の一瞬の隙に家出か、とヒヤリと背が冷えて、慌てて窓へと駈け寄ったが、霜づいて凍り付いていた窓枠には開けられた形跡はない。
 いったいどこへ消えたかと振り返ってみれば、ず、と鼻をすする音が足元から響いてきた。
 ぺたんとしぼんだシーツがかけられただけのベッドからではない。それよりももっと低い位置だ。
 窓枠から離れてベッドの下をひょいとのぞきこめば、果たして、腹這いとなって、涙と鼻水で濡れた顏をこちらへ向けている氷河と目が合った。
 なぜベッドの下……?
 その答えは、氷河がカミュの視線から逃れるようにくるりと顏を背けたことで知れた。
 なるほど、顔も見たくないから、隠れた、つもりか。
 仕方なく、逆サイドに回り込んで、カミュはまたのぞきこむ。
 氷河は再びプイと反対側に顏を背ける。
 数回繰り返して、カミュは、目を合わせて氷河と話をすることは諦めた。
「あー……、氷河、わたしが悪かった」
 カミュは少し丸まった背中に話しかけた。
「嘘はよくなかったな、嘘は。そのつもりはなかったが、結果的にそうなってしまった。すまなかった」
 丸まった背中は、ずず、と鼻をすする音で応えるのみだ。
「歯は大丈夫か?痛くはないか?痛いなら医者を呼ぶが……」
 ほとんど確信犯的にそう言えば、案の定、氷河は慌てたようにくるりとこちらを向き直して、痛くない、と首を振った。
 コミュニケーションが取れたことにほっとして、カミュは精一杯やさしげな声を出して手を伸ばした。
「おいで。床は冷える」
 だが、涙で濡れた瞳は、また頑なさに強張って、うらめしそうにカミュを見つめるばかりだ。
「氷河、そのままでは風邪をひく」
 いいこだから、と宥めながら、一体わたしは何をしているのだろう、と冷静に己を俯瞰して、その滑稽さに笑いが込み上げる。
 確か聖闘士を育てているはずだというのに、現実はなぜかカミュは、隙間に入り込んだ猫の仔を誘い出すように地べたに這いつくばって懇願しているのだった。
 力づくで引っぱり出すのは容易いが、今日のところはそれは封印して、せいぜいその滑稽さにつきあってやることにする。
「食事の続きをしよう。きちんと食べられたら今日はホットチョコレートがデザートの予定だった」
 そんな予定はなかったが(だってあれは特別なイベントの日用だ)、奥の手を使うと、濡れた金色の睫毛が何度も瞬いた。
 よし、あとひとおし。
「今日は眠るまで本を読んでやってもいい」
 嘘を吐いたお詫びだ、と言えば、氷河は大きく目を見開いて、ほんとう!?と腹這いの形から飛び跳ねるように身を起こした。が、当たり前と言えば当たり前だが、狭い空間での出来事であったために、跳ねた勢いのままにベッドの床に頭を強かに打ちつけた。
「だ、大丈夫か!?」
 慌てて手を伸ばしたカミュだが、氷河は、ぐう、と変な声で数瞬呻いたあと、すぐに先ほどの嬉しげな声に戻って、ベッドの下から這い出てきた。
 盛大に打ちつけた額はどうやら切ったようで、たらりと一筋の血が流れるが、氷河は顏を輝かせたまま事もなげにそれを拳で拭った。
 歯よりよほど痛そうだがどうでもいいらしい。氷河の基準がよくわからない。
「今度は嘘はなしですよね!?アイザックも一緒に先生のベッドに入ってもいいですよね!?朝まで手も繋いでいてくれますよね!?」
 誰がそこまですると言った、とカミュはややたじろいだが、喜色満面でそう何度も確認する氷河の勢いに押されるように、ああ、と頷いたのだった。
 
(fin)
 
(2011.11.26UP 2019.1.23加筆修正)