寒いところで待ちぼうけ

おうちへえろ

ほのぼのシベリア修行時代のあれこれ
カプ要素なし


◆小さな手◆

 東シベリア、コホーテク村。
 年中、雪と氷に覆われたこの地で、アイザックという弟子を聖闘士にするべく修行を行っていたカミュは、今日、新たにもう一人の弟子を迎えた。
「氷河」という名のその子どもはアイザックと同じ8歳で、アイザックは早速喜んで先輩風を吹かしている。 氷河は、整った顔立ちの中でもひときわ美しい青の瞳が印象的な子どもだ。もともとこの地で生まれ育ったということなので、言葉の壁がないことがありがたく、 また、この過酷な環境にも慣れ親しんでいるのはアドバンテージにはなるが、ただ、自ら進んで戦士を目指すようなタイプには到底見えないのが気にかかる。
 それで、不思議に思いながら、カミュが聖闘士になる理由を尋ねると、あろうことか氷河は、「死んだ母の遺体を海から引き揚げるため」と答えた。母を亡くしたのか、という胸の痛みを凌駕して、まさかそんな理由で、 という驚きがカミュを襲う。 咄嗟にその甘さを諌めたものの、それで彼が納得したかどうかは怪しい。厳しい修行生活の船出としてはどうにも不安なスタートだ。


 初日は、彼の実力を測るために、走り込みや筋トレなど基礎的なメニューだけをこなした。1年前から修行しているアイザックは軽々とこなす訓練だが、氷河は初めてとあって、ついてくるので精いっぱいだ。 もっとも、聖闘士としての修行を積んで1年のアイザックについてきただけでも上々と言える。並みの8歳に比べると格段に運動神経も勘も良いようで、ひとまずは合格といったところか。
 夕刻、訓練を切り上げる頃には物も言えないほど息を上げてはいたが、疲れた、とか休みたい、とか一度も弱音を吐かなかったことも好ましい。


 夕飯を食べるために食卓についた氷河が、スプーンを持ったまま、椅子からすべりおちるようにして深い眠りに入っているのを見つけたのはアイザックだ。
「先生……氷河の奴、飯も食わずに寝ちゃいましたね」
「いきなりではきつかったか。仕方がない。わたしがベッドまで運ぶとしよう。お前は氷河の分の夕飯をしまっておいてくれ」
「はい」
 カミュは氷河の背中と膝裏に手をまわし、ゆっくりと抱き上げた。予想していたより、わずかばかり軽い体に少したじろぐ。聖闘士の資質に、本来は体格は関係がない。小宇宙が全ての世界だからだ。 だが、体格の良し悪しはそのまま体力の有無に直結する。今日のところは体力と筋力のなさを、天性のバネと運動センスでカバーしていたが、それだけでやっていけるほど聖闘士というのは甘くない。 まずは訓練に耐えうる体づくりからか、道のりは遠いな、とカミュは頭の中でこれからの予定を組み立て直しながら寝室へと向かった。

 寝室のドアを開け、ベッドへゆっくりと氷河をおろす。昨日まではカミュとアイザックとで使っていた部屋だが、氷河が来ることになり、ベッドを一つ増やしてある。
 真新しいシーツに氷河を横たえ、靴を脱がせ、雪と汗で湿った洋服を乾いたものに替えてやる。上衣を脱がせた際に、シャラ、と金属音が鳴って、冷たい塊がカミュの手に触れた。
 北十字を象った祈りの道具──ロザリオである。
 まさか8歳の少年が、ファッションで身に着けているわけではなかろう。鎖の古ぼけ方からして母の形見か何かかもしれない。
「母の遺体を」と言った氷河の表情を思い出す。油断すると零れそうになる涙を必死に堪えていた。 「そんな甘いことでは死ぬな」と一刀両断したものの、カミュとて人の心のわからぬ機械ではない。これが、例えば村の子が言った言葉であれば自ら進んで墓標を作るのに手を貸したであろう。
 だが、氷河は聖闘士を目指しているのだ。聖闘士は強大な力を得るのと引き換えに、多くのものを手放さねばならない。例えばそう、人並みの家庭を築く幸福や、休日を怠惰に過ごす自由など。 全ての私欲を捨て去って、ただ、女神のために、女神の守る世界のために生きることが求められる。 母を弔いたい、というのは、人間としてはごく当たり前でささやかな欲求ではあるが、1を許せば2を求め、2を許せばその次を、となってしまうのもまた人間。 わずかばかりの心の揺れが原因で深淵へ落ちた仲間を大勢知っている。氷河にとって、聖闘士とは何かを理解させるためにも、亡き母への思慕は遅かれ早かれ断ち切らせる必要がある。
 カミュは少しの間、鈍く光るロザリオを見つめていたが、やがて、氷河の首からそれをそっと外し、サイドテーブルの上に乗せると、静かに部屋を出た。


 夜が更けて、アイザックも寝室へと消えたころ。
 開いていた本も読み終え、そろそろ自分も寝室へ、と暖炉の火を消そうとしていたカミュは、ふと、背後に気配を感じて振り返った。
「……氷河」
 あの様子では朝まで熟睡するに違いない、とふんでいた氷河がそこには立っていた。
 氷河は何も言わず、立ち尽くしたままうつむいている。
 どうかしたのか、眠れないか、と口を開こうとしたその時。

 きゅるるるるる~。

 鳴り響いたのはかわいらしい腹の虫だ。小さな新弟子の。
 一瞬の沈黙の後、カミュはふふっと吹き出し、氷河は上目づかいで物言いたげにカミュを見上げた。
「ふっ……おいで。大丈夫、お前の分の夕飯はとってある。今、温めなおしてやろう」
「……す、すみません」
「謝ることはない。見どころのある奴だと感心した。腹がへったからと、起きてこられるなら安心して鍛えられる。……ふ、ふはっ」
 氷河は顏を赤くして、笑わなくても、と拗ねた表情だ。
「ふ、ふふ、……ああ、すまない。笑って悪かった。ほら、座りなさい。熱いから気を付けるように」
 ハイ、と勢いよく頷いて、物も言わずにがつがつとスープボウルの中身をスプーンで口に運ぶ氷河を、カミュは静かに見つめた。 氷河の首もとに、さきほど外してやったはずの、ロザリオの銀の鎖が再び律儀に光っている。僅かな間も手放せぬらしい。やれやれ、手ごわそうだ、とカミュは小さく息を吐く。
「氷河、訓練はどうだ?つらかったか?」
「大丈夫れふ。(と、氷河は最後の一口を慌てて飲み込んで答えた)俺、早く先生みたいになりたい。氷山を砕いたりとかいつできるようになりますか?」
「そう焦るものじゃない。お前はまだまだ体力も筋力も到底足らない。慌てて技能ばかり習得したところで、自分自身の技の反動で自らの拳が傷ついてしまうだけだ。 氷山を砕けるようになるまでは早くても数年はかかる。アイザックですら、まだとてもその域には達していないのだから」
「……数年……そんなに……」
「嫌になったか?」
「まさか!嫌になど!だって俺は絶対に聖闘士になるんだから!」
 きっと顏をあげて首をふる氷河に、いっそ、嫌になった、聖闘士になるのをやめる、と言ってくれれば、すぐにでも力になってやれるものを、とカミュはため息をつく。
「昼間の話、だな?母の遺体を引き揚げたいという……だが、言ったように聖闘士とはそんな甘いものではない」
「はい……」
 肯定の返事とは裏腹に、『聖闘士になれなくても、氷さえ割れる力がついたらそれでいい』と、氷河の顔にありありと書いてあるのが見える。一筋縄ではいきそうにない。
 さて、どう言えばこの少年の心に響くのだろうかとカミュが考え込んでいると、氷河がおずおずと尋ね返してきた。
「先生の……マーマは今どうしているんですか?会えなくて寂しいと思ったことはありませんか?」
 不意をつかれた質問に、意図せずして長年思い返すこともなかった自分の幼年時代が蘇った。物心ついた時には既に黄金聖闘士となるべく運命を歩んでいた。それでも、聖域を知る以前の記憶も微かながら残っている。 氷河のように思慕の念を抱くにはあまりに微かだが。
「家族はいない。会えなくて寂しいと感じることはないな、だから」
 幼子に対する答えとしては、あまりに冷たい物言いであったかもしれないが、カミュなりの励ましのつもりだった。わたしは感傷を克服している。だからお前も、きっぱりと未練を断ち切り、前を向くのだ、と。
 だが、それに対する氷河の反応はまるで予想外のものだった。
「せんせい……」
 涙を堪えるかのように眉間を複雑に歪めた氷河は、椅子をするりと滑りおり、カミュの傍までやってきた。そして、おもむろにカミュの腕に取りすがるように抱きついた。否、体格差ゆえに抱きついた格好になったが、 どうやら彼は一生懸命カミュを抱きしめようとしているようだった。
「……どう、した……?」
 やはり言葉が冷たすぎただろうか、それとも却って感傷を刺激したか、と困惑していると、氷河は顏を上げてカミュを見上げた。
「俺がいます」
「……??なんだ?」
「俺とアイザックがいます」
 だから、と、氷河がカミュにすがる腕に力を込める。

 ああ……もしやこれは。
 慰めてくれようとしているのか。
 家族はいない、と言ったわたしの言葉に小さな胸を痛めて。

 驚いて、すぐに戸惑い、それから何とも言えぬ面映ゆさがカミュを襲う。
 励ましたつもりが、慰められてしまった。まだ聖闘士の素質も見いだせぬような幼子に、黄金聖闘士たるこのわたしが。
 寂しいと感じることはない、と断言してみせたのに、氷河にはわたしが寂しそうに見えたのだろうか。自覚はまるでないが。

 わかった、とにかくお前の気持ちは受け止めた、というしるしに、カミュは氷河の背をよしよしと撫でる。
 夜が更けて外気の冷たさも増したのか、暖炉の火の前にいるというのに、カミュの指に触れる氷河の寝衣がひやりと冷たい。
「そろそろベッドへ戻った方がいい」
 氷河を案じてそう言ったカミュに、氷河は、ハッとした表情で、慌ててカミュから離れた。
 違う、今のは叱ったわけではない───気持ちは素直に嬉しかった、ということを伝えるためにカミュは柔らかく笑んだ。
「わたしももう休むとしよう。おいで、一緒に部屋へ戻ろう」
そう言ってやれば、氷河はほっと安堵したように頬を緩ませて、はいっと元気よく声を上げた。


 伸びやかな四肢を投げ出して、寝息をたてているアイザックへ毛布を掛け直してやり、再びベッドへ入った氷河にも同じように毛布をかけ、カミュは己もベッドへと身を横たえる。
「おやすみなさい、せんせい」
 既に寝ぼけ声の氷河に、ああ、おやすみ、と返事をして、カミュはじっと天井を見上げた。

 黄金聖闘士になって数年。
 自分自身のことをあまり顧みたことはなかった。
 女神の聖闘士として地上の平和を守って生きること、それが至上の喜びであり幸福なのだ。だから、カミュが家族と呼ぶべき存在はいない。これからも作ることはきっとないだろう。それを不幸と感じたことはない。

 ただ───

 カミュは隣へと視線を移す。温かな毛布の下で、まるでシンクロするかのように同じリズムで寝息を立てている小さな塊ふたつ。

 いつか、女神のために命を落とすような事態がわたしに訪れるとしたら。
 最期の瞬間に思い出すのは、この小さな手の温かさなのだろうな、きっと。
 
 温かく鳴った胸がカミュにそう告げていた。
 
(fin)
 
(2011.11.1UP 2017.1.23加筆修正)