寒いところで待ちぼうけ

おうちへえろ

ほのぼのシベリア修行時代のあれこれ
カプ要素なし


◆さがしもの◆

「あっ」
 洗面所の方角から、普段冷静な師のものとは思われない、情けない声が響いた。
 朝食の準備をしようとキッチンでグラスを出したり、カトラリを並べたりしていたアイザックと氷河は互いに顔を見合わせた。
 二人で恐る恐る洗面所に向かう。
「……せんせい……?」
「駄目だ!近寄るな!」
 鋭い声で叱責されて、二人はビクリと身を竦めた。
 氷河が、俺またなんかやっちゃったのかな……と不安そうな顔をしてアイザックを見るので、 アイザックは大丈夫だよ、というつもりで氷河の手を握ってやる。
 師に言われたとおり、洗面所の少し手前で立ち止まり、死角にいて姿の見えないカミュへ再び声をかけた。
「先生、どうかしましたか?」
「ああ……大声を出してすまない。そこからこちらには入ってはいけない」
 カミュはどうやら床に座っているようだ。声が相当低いところから聞こえる。 具合でも悪くて倒れているのかと、二人はますます心配になり、身を乗り出して洗面所の中をのぞきめば、 そこには、床に這いつくばって何かを必死に探すカミュの姿があった。

 …………………。

「せ、せんせい……?」

 日頃標榜している『クール』からほど遠い師の姿を目の当たりにし、 何ごとかと目をまるく見開いた二人を見上げて、カミュは困ったように笑い、言い訳を探すかのように目を泳がせていたが、 やがて観念したのか躊躇いがちに告げた。
「コンタクトレンズをな……落としたのだ」
「コンタクトレンズ??……ってなんですか??」

 本好きの宿命か、カミュは視力が大変に悪い。
 戦闘において不都合はない。敵を捉えるのには視覚より小宇宙に依る部分が大きいからだ。
 ただ、日常生活においてまで年中小宇宙を研ぎ澄まして緊張を漲らせることまでしていては、不便なこともあるため、 通常は素直に文明の利器に頼っている。すなわち、目が覚めたら一番にコンタクトレンズを装着し、寝る間際まで外すことはない。 (風呂でも外さない。外すと石鹸の位置がわからないからだ。)
 だから、カミュより遅く起きて、早く眠る二人がそれを知らないのも無理はなかった。
 今朝はたまたま、瞳に異物感を感じて洗面所の鏡で確認しようとしたところ、コロリとどこかへ落としてしまった次第である。

「コンタクトレンズというのはな、こう……目の中に眼鏡の代わりに小さなガラスを入れて使うものだ」
「目の中に……眼鏡の代わりに、ガラスを???」
 氷河はものすごく痛そうな顔をした。(が、カミュにはそれが見えなかった)
 カミュはため息をつこうとして、しかし、すんでのところでそれを堪え(ため息でレンズが飛んではいけない)、二人に言った。
「すまないが、朝食は二人で先に食べておいてくれ。わたしはもう少しここで探すから」
 そう言って、また手探りで、冷たい洗面所の床を探し始める。
 その様子が、師らしくなく、心底途方にくれている様子だったので、二人はなんとなく立ち去りがたく、 つい一緒に四つ這いになってそのあたりを探し始める。
 カミュは、内心、危険な予感(主に大雑把な氷河の方に)を感じたが、親切心から出た行為を無碍に断ることはできず、ハラハラしながら二人に声をかける。
「慎重に、慎重に、な。床に足をつくときは何もないことを確かめてから下ろすんだ。氷河!足だけじゃない、手もだ!」
 狭い洗面所に三人が這いつくばって、目を皿のようにして床を探したが、お尻がぶつかったり、互いの手を踏んだりして、効率が悪いばかりである。 数刻のおしくらまんじゅう状態の後に、カミュはようやく諦めをつけた。
「もういい。二人とも、ありがとう。これだけ探して見つからなかったのだから諦めるとしよう」
 師の視線が、二人を通り超えてその向こうを見ている。焦点が合わないせいである。全く隙のない師が、 そんなふうに焦点の合わない視線を向けることなどないので、二人はそれをまじまじと見つめた。
 眉がこころなし八の字に下がっているところがかわいい、と思いながら。
 二人がややのぼせ気味で見上げていることにも気づかず、カミュは額に手をやって唸っていたが、やがて言った。
「アイザック、私のベッドの脇の物入れをちょっと見てきてくれないか。上から二番目の抽斗に眼鏡が入っていると思う」
 自分で行かないのは、裸眼では探せないからだ。
 アイザックはハイ、と返事をして寝室に向かった。氷河も、俺も、と一緒について行く。

「先生でもあんな声出すことあるんだな」
「うん。びっくりした。……でも困ってる先生、ちょっとかわいかった!」
「確かに!初めて見た、あんな顔」
「先生にも弱点があったんだなー」
 思いがけず、『Mr.パーフェクト』のささやかな失敗を目撃して、不謹慎ながら、喜んでしまう二人である。

「抽斗、抽斗っと……これ?」
 初めて触れる師の私物である。なんとなく、『いけないこと』をしているような気持ちになり、顔が赤くなってしまう。
 そっと真鍮の取っ手を手前に引く。
 入っている物はそう多くない。文房具や聖域からの手紙が、几帳面なカミュらしく整然と並んでいる。 眠る前にいつも何か書き込んでいる日誌らしきものの奥に眼鏡ケースを発見し、アイザックはそれを取り出した。
 が、目的を達したにもかかわらず、二人の視線は日誌に注がれたままである。
 考えていることは同じ。
 師が自分たちをどういうふうに評しているのか、聖衣に近いのはどちらなのか、気にならないものではない。 どちらか一人だけだったら、きっと日誌を手にとってパラパラと目を通す誘惑には抗えなかったかもしれない。
 眼鏡ケースを手にとったまま、日誌に視線を定めたまま二人は黙り込んでいたが、先に我に返ったアイザックがパンと手をうった。
「眼鏡!これでいいんだよな?」
 ハッと氷河もアイザックに向き直る。
 どことなく後ろめたい気持ちを隠すかのように、二人して、眼鏡、そう、眼鏡だよ、と大きな声を出しながら手元のケースを開いて中を確認する。
 ケースにしまわれていたのは、細い銀縁の繊細なデザインの眼鏡だ。
 氷河が興味深々、という顔でそれを取り出し、ちょっと自分の顏にあててみる。度数がきついので視界が歪み、くらくらしている氷河の顏を見てアイザックは盛大に吹き出す。
「氷河、お前、超絶似合わねえーー!!」
「ええ!?そうかなあ。頭が良さそうに見えるはずだけど!」
「いや、もう違和感ありありだね。だいたいお前の瞳はさ、」
 そういって、アイザックは片手で氷河の前髪を額の上にあげて、反対の手でそっと眼鏡を外してその瞳をのぞき込んだ。シベリアではあまり見ることができない、穏やかに晴れ渡った美しい春の空の色だ。
「うん、こっちの方がいい。せっかくの青がもったいない。前髪ももっと短くしろよ。先生みたいに」
 アイザックが間近でじっと見つめるので氷河は恥ずかしくなり、前髪を押さえているアイザックの手を掴むと、首を左右に振ってくしゃくしゃと髪を元に戻す。
「俺の目は見世物じゃない。だいたい、アイザックはどうなんだよ。俺が似合わないならお前だって似合わないに決まってるよ」
 氷河に挑発されて、アイザックは見とけよ、という顔で眼鏡をかけてみせる。
「ほーら、お前だって……」
 似合わない、と笑うつもりが、存外に似合ってしまったアイザックの顔を見て、氷河は言葉を失う。三割増しくらい賢く見えるし、 なんだか大人っぽく見えて……悔しい。悔しいのになんだか見惚れてしまう。
「うー……これ、くらくらするな。どうなんだ、氷河。似合ってるのか似合ってないのかどっちなんだ」
 視界が歪んでいるアイザックには、言葉を失って顔を赤くしている氷河のことが見えない。んー?と氷河の顏の間近まで迫ってくるアイザックに、 思わず氷河は言い放つ。
「似合って……ない。すごく、すごくへん。そんなのアイザックじゃないっ!」
「なんだよ!言ったな、コイツ!」
 氷河の額を小突いてやろうと、アイザックは立ち上がりかけ、しかし、地面が揺れたように波打っているように感じて、もう一度座り込んだ。
 だめだ、これ。
 ───と、いうか、氷河と遊んでる場合じゃなかった!

 ようやく本来の目的を思い出して、アイザックは慌てて眼鏡を外してケースにしまう。
「いこ。カミュ困ってるよ」
「うん。そうだった」
 二人は立ち上がり、先を競う様に洗面所のカミュの元へと向かう。


 洗面所をのぞき込むと、まだカミュは膝をついて床に目を近づけているところだった。諦める、といいながらやっぱり諦めきれていないのである。
「先生、これでいいですか?」
 アイザックがカミュに眼鏡を渡す。カミュは、ああ、ありがとうと言って受け取り、それをかけて二人の弟子を見た。

 う、わあ……!

 アイザックと氷河は声も出ない。

 せんせい、すっごい似合う……!

 よく考えたら、カミュ自身の物なので、氷河やアイザックに比べれば似合って当たり前なのだが、 ただでさえ知的で怜悧な印象の師の端正な顔が、さらに理知的に彩られて、全然違う人のように見え、 二人は見慣れぬ師の姿にぽーっと上気した。(眼鏡ひとつでこうなのだ、聖衣姿の師を見たら憧れのあまり卒倒しそうな勢いである)
 
 ようやく視界を取り戻したカミュは、今日初めてはっきりと見る弟子たちの顏が不自然に赤いのを発見して、 おや、熱でもあるのか?と眉をひそめてそれぞれの額に手をやった。
 その時だ。
 氷河が、目の前に近づいてきた師の紅い髪の毛の途中に光るものを発見した。

 魚の鱗にも似た、小さな……

「あっ、せんせい、もしかしてコレが……!?」
 声をあげて反射的に手を伸ばした氷河に、待て、所在だけ教えてくれ、お前は触るんじゃない!と言いかけたカミュだったが、一足遅かった。 氷河が触れた拍子に、その小さな物体は、カミュの髪からひらひらと床に落ちた。
「あ───っ!!」
 三人同時に叫び声をあげ、同時に床にしゃがみこみ、そして、思いきり三人で頭突きしあうこととなった。
「痛っ!」
「せんせいごめんなさい!」
「いいから動くな!!!」


 レンズは無事に見つかった。
 眼鏡はまた抽斗の奥にしまわれている。

(fin)
 
(2012.1.21UP 2017.1.23加筆修正)