ほのぼのシベリア修行時代のあれこれ
カプ要素なし
◆雪だるまの涙◆
くすくすと忍び笑いが聞こえる。
カミュは寝室のドアノブに手をかけようとしてそのことに気づいた。
まだ起きているのか……。
明日も早いのだからもう寝なさい、と促したのは、かれこれ1時間以上も前だ。なのにコレは一体どういうことだ。
少々のことは目をつぶる寛容さは持ち合わせているが、ベッドに入ってから1時間以上も遊んでいるというのはいただけない。
ひとこと注意しないわけにはいかない、と思いながら、カミュはドアノブをくるりとまわした。
と同時に、「先生が」という単語が耳に飛び込んできた。どうやら自分の話をしているようだ、と気づいた時にはしかし、
ドアは音を立てて開いていた後だった。
「わあっ!?」
「ひゃあっ!」
二人は突然開いたドアに、飛び上がらんばかりに驚いたようだった。
暗闇の中で、窓際のベッドから真ん中のベッドへと、慌てふためいて飛び移る人影が見えた。
氷河……お前という奴はまたアイザックのベッドに潜り込んでいたのか……。
そのこと自体は別にいい。自分のベッドで眠れないというのなら、アイザックと一緒に眠るくらいは許す。正直、
アイザックを頼りすぎていないかと不安を感じている部分はあるが、まだ幼い、そのうちに関係も変わってくるだろう、
と様子を見ているところだ。
しかし、大人しく眠らず遊んでいると言うのなら話は変わってくる。
布団をかぶって、バレバレのタヌキ寝入りをしようとしている二人にカミュは声をかける。
「わたしは寝なさい、と言ったな?師の命令に背いてまで起きていないといけないよほどの理由があるのだろうな?
どんな理由で起きていたのか言ってみなさい」
もぞもぞと動いていた布団は、シーンと静まり返った。
「アイザック?」
動かない。
「氷河?」
こちらも動かない。
カミュはしばらくそのまま待ったが、どちらも微動だにせず、布団をかぶったままじっとしている。たいていのことに素直な二人らしくない。
先ほど「先生が」と聞こえた。おおかた自分の悪口でも言っていて、申し開きができないに違いない。素直に、ごめんなさい、もう寝ます、
と言ってくれれば、遊んではだめだぞ、と一言で終わりにできたのに、黙り込まれてはけじめがつかない。
仕方がない。カミュはできる限り厳しい声で告げる。
「わかった。お前たちがそういう態度なのであればわたしにも考えがある。
明日からは、そんなふうに遊ぶ余裕などないほど鍛えてやるから覚悟しておきなさい」
こう言えば、氷河くらいは布団から顏をのぞかせて、ごめんなさい、と言うかと思ったのに、相変わらず二人とも沈黙している。
は、とカミュは聞えよがしにため息をつき、もやもやした思いを抱えながらベッドへと入ったのだった。
**
「……?なんだ?水か?」
数日後のこと。朝食準備をしている時だ。
カミュは、暖炉の前の床が濡れていることに気づいた。
昨夜、就寝前に火の始末をしたときにはなかったはずだ。と、いうことは、カミュが眠ってから、
朝、この時間までの間に、ここに何かを零したヤツがいるわけだが……さて、どちらだ。
どちらにしても、何を零したのか知らないが、拭き取りもせずにその場を離れるというのはナシだ。これはまた叱らねばならぬだろうか。
屈みこんで床に手をやっているカミュの背後で、ハッと大きく息を飲む声が聞こえた。
氷河の方か。
カミュが振り向くと、案の定そこには、まずい、とありありと顔に書いている氷河の姿があった。まずいことを自覚しているなら叱るのが道理。
「氷河、ここに何か零したのはお前か?」
カミュの問いに、氷河は顔を赤くして、酸素を求める金魚のように口を開いたり閉じたりさせる。
あまり威嚇しては氷河が言い訳もできないかと、カミュはやや声を和らげてさらに重ねた。
「どうした。何か理由があるなら言ってごらん」
その時、洗面所の方からアイザックが顔を出した。
彼は、棒立ちになっている氷河と、暖炉の前に座り込んでいるカミュと、それから濡れた床に次々と視線を巡らすや否や、
カミュの前まで飛ぶような勢いで駆けて来て、氷河を背に庇いながら早口で言い立てた。
「すみません!先生!俺です。俺が、朝、そこで水を飲もうとして零しました。拭くのを忘れていて……今拭きます!」
違う。
アイザックではない。
カミュの直感はそう告げていた。
紛れもなく、アイザックは氷河を庇っている。だが、何を失敗したとしても、
叱られるのを恐れて兄弟子の背に隠れるような氷河ではないこともカミュは知っている。
言葉の裏にあるものを探そうと、カミュは静かにアイザックを見つめたが、その瞳は揺れることなく真っ直ぐにカミュを見返すのみ。
すみません、と口では言っているが、自分には非がないと信念を持っている瞳だ、これは。
「…………わかった。今からでも拭いておきなさい。次からは気をつけるように」
アイザックが謝っている以上、カミュにはそう言うしか道はない。解せぬ思いを抱きながらそう言ってカミュが二人に背を向けると、
後ろでアイザックが「バカ」と氷河を小突いている気配がした。
**
また次の日。
今度はやけに風呂が長い。
以前は、燃料費の節約にと、三人で入っていた浴室も、二人が成長するにつれて次第に狭くなり、
いつの頃からか、カミュをのぞいて、子ども二人で入る習慣になっている。
湯船でキャアキャアと遊ぶ声がするのはいつものことだが、それが今日はひときわ長い。
一体、あの子たちは何をやっているんだ。湯が冷めて風邪をひくし、沸かしなおす燃料代ももったいない。風呂で遊ぶなと常日頃言っているのだが……。
ここのところなんだかわたしは説教ばかりしている。どちらも素直な性質で、今まであまり手がかからない子たちだと思っていたが、これが反抗期というものなのだろうか。
いずれにせよ、きまりを守らねば叱らないわけにもいかないから、やや憂鬱になりながらカミュは浴室に向かう。
「……ったら、お前がやってみろよ!できもしないくせに」
「うるさい、アイザック!まぐれでできたからってえらそうに」
「なにを!?まぐれなんかじゃないぞ!」
「じゃあ、もう一回やってみせろよ」
「見とけよ!」
「……ほら、できない」
「これから、なんだよ!……あーあ、お前が口出すから集中が切れたじゃないか」
「俺が口出さなくったって、さっきから何もできてないじゃないか」
なんだ?
遊んでいるのかと思ったが、喧嘩をしてるのか?
カミュは浴室のドアを叩いて声をかける。
「二人とも、どうしたんだ?喧嘩か?」
浴室の中が水を打ったように静かになる。
……?
おかしい。
喧嘩の仲裁に入ったら、先を争うように、聞いてください、先生とうるさいくらい二人が代わる代わる己の言い分を訴えてくるのがいつもの光景だ。
「どうした、二人とも。何かあったのか?」
「いえ、なんでもありません、先生」
「すぐあがります、先生」
さっきまで喧嘩をしていたのに、打って変わって息をそろえてそう答えてくる。まるでカミュに立ち入られては困ることがあるかのようだ。
どうも最近、弟子たちの様子がおかしい。
こんなことは過去になかった。
アイザックと氷河は、友人同士というより、兄弟のように仲が良かったが、だが、カミュに対しても同じように心を開いていた。
厳しい師とその弟子、でありながら、親子のようでもあり、兄弟のようでもあり、友人のようでもあり、
なかなか我々はよい信頼関係が築けているのではないかと密かに自負していたのだが。
しかし、近頃は、どうも二人だけの秘密、があるようだ。先日宣言した通りに、昼間の訓練メニューはさらに厳しいものになっていて、
夕飯中に二人のうちのどちらか、あるいはどちらともがうとうとと眠ってしまうこともあるほどなのに、
やっぱり寝室では二人でこそこそと話をしているし、喧嘩をしていたかと思うとカミュが姿を見せると急に仲良くなる。
先日氷河は10歳になった。アイザックももうすぐだ。
子ども同士では打ち明けられる話も、師であるカミュには言えない年頃に差し掛かりつつあるのかもしれない。
先生、先生、と素直に心の全てを預けきってきた二人も少しずつ大人になりつつあるのかもしれない。目を逸らさずに嘘をつくこともできるようになってきたようだ。
成長を喜ぶべきところだが、なんとなく───少し寂しい。
**
朝、目が覚めて隣を見ると子どもたちの姿がなかった。
カミュより早く起きることなど、クリスマスでもない限りまずない二人なので少したじろぐ。
まさか、夜中に抜け出したりしたわけではないだろうな、と慌てて身を起こした瞬間、キッチンの方角からひそひそ話す声が聞こえて、カミュは安堵した。
家の中にいるなら、どんないたずらをされてもたかが知れている。命の危険のないいたずらなら少々のことは叱ればすむ。
さて、今度は一体何を始めたのだろうか。
また、わたしに秘密、かもしれないな、寂しい限りだ、と思いながらゆっくりと身支度を整えて、カミュは寝室を後にした。
「お誕生日、おめでとうございます、カミュ!」
リビングに足を踏み入れるなり、両側から二人が飛びついてきた。カミュは、突然の出来事に面食らい、二人の体を柔らかく受け止めたものの、咄嗟には状況がつかめず、目を瞬かせた。
アイザックも氷河も満面の笑みでカミュの腕にぶらさがっている。
ええと……今、何と……?
おたんじょうび……おたんじょうび……ああ、誕生日。
壁にかかったカレンダーに目をやる。
忘れていた。
2月7日だ、今日は。
ようやくカミュは、驚きから抜け出し、二人を交互に見た。
初めて会った時より、背は伸びた。
頼りなく細かった体はずいぶん筋肉がついてきて、こうして、二人同時に抱き上げることもそろそろ難しくなってきている。
いたずらっぽくカミュを見上げるその顔はまだまだ幼いが、こうして、師に悟らせずに苦手な早起きもできるようになった。
内緒ごとをする二人を寂しく思っていた自分をやや反省して、カミュは微笑んだ。
「おぼえていてくれたのか。ありがとう。お前たちがいてくれて何よりの誕生日だ」
二人はくすぐったそうに笑い、カミュの腕から、とん、と飛んで下りると、カミュの両手をひいた。
「せんせい、来て!」
「俺たちだけで、あさごはんもつくったんだよ!」
二人に手をひかれるまま進むと、赤々と燃える暖炉(子どもだけで火と使うなとあれほど厳しく言ってあるのだが)の前のテーブルの上に、
確かに三人分、朝食の準備が整っている。
野菜のスープに(切り方が不揃いだ)、トーストに(焦げている)、目玉焼き(というよりほとんどスクランブルエッグだ)……。
苦手な早起きをして奮闘したのだということがものすごくよくわかる食卓だ。
キッチンの方の惨状は恐ろしくて見たくもない気がするが、とにかくがんばってくれたことがうれしくて心が温かくなる。
「あのね、ホットケーキで、ケーキも作ったの!」
氷河が皿に乗ったケーキ(と呼ばれなければ、何の塊だかわからない物体)を運んできた。
喜びながらも、そろそろ二人にも後片付けや準備だけではなくて料理そのものも教えねば、と頭の片隅でチラリと思う。
しかし、それでも、食卓の上は、子どもたちなりに飾りつけをしてくれていたようで、色とりどりの折り紙の花で飾られている。
シベリアでは生花が手に入らないため、氷河がアイザックに教えて(教えられている方がどう見ても器用なのだが)、少しずつ作ったのだろう。
さらには、食卓の真ん中に雪だるまが三体置いてある。木の実や枝で目鼻を作ったそれは……
「もしかして、これは、私たち、かな」
アイザックと氷河は目を見合わせて、今日一番の笑顔で返事をした。
「はいっ!!真ん中がカミュで、こっちが俺で、こっちが氷河ですっ!!」
「やあ……これは、上手にできている。よく似ているぞ」
カミュがそう言うと、二人は、ころころと笑った。
三人で、賑やかに食卓を囲む。
二人が作った朝食の味は……もはや何も言うまい。とにかく、初めてにしてはがんばった。
さっきから、氷河とアイザックがチラチラ視線をかわしている。なんだ、また内緒の話か?と思いながら二人の視線を追う。視線の先は食卓の真ん中に置かれた雪だるまだ。
本当によくできている。
ちゃんと細かいところまで三人の特徴をよく掴んでいて、雪だるまというより氷の彫刻のようだ。
どっちが作ったのだろうか。
こんなふうに形を崩さずにとどめておくにはむずかし……い……のに……?
……………。
……………室内は温かい。
暖炉の火が熱いほど燃えていて、カミュを期待に満ちた目で見上げる二人の顏も火照って上気している。
もう一度雪だるまを見る。
まるで雪の中に置かれているかのように、しっかりとその形をとどめている。
まさか。
二人の顏を見る。
相当に驚愕の顏をしていたに違いない。
気づいた?気づいた?という、わくわくとした顔で二人の顏がくしゃくしゃにほころんだ。
「……どっち、だ……?」
氷河の方が誇らしげで、アイザックの方が恥ずかしそうだ。ということは……。
「アイザック、なのか……?」
「……そう、です」
カミュは思わず立ち上がって、雪だるまを手に取った。二人も席を立ってカミュの元へ来る。
キラキラした雪だるまに残る小宇宙の片鱗らしきもの。確かにこれはアイザックのものだ。
カミュがあまりに無言でじっとそれを眺めているので、アイザックがいたたまれなくなって、カミュに告げた。
「あのー正直に言うと、自分で雪を生むところまではできなくて、雪だるま自体はズルして外の雪で作りました。
だから、俺にできるのは維持、だけなんですけど……。しかも、長い時間もたないからこれも多分そろそろ溶けてくるはずだし……」
維持。
初めてなら、それで十分だ。
しかも、この子は自分に内緒でそれをやってのけた。
カミュは思わず傍らに立つアイザックを抱き締めた。
口を開くと、声がみっともなく揺れそうだった。
膝の力が抜けそうなほど、生まれてこのかた感じたことのない大きな喜びに包まれていた。己が黄金聖闘士を拝命した時ですら感じたことがないほどの、喜びと……安堵に。
幼い二人の人生をこの手に引き受けることに全く不安がなかったわけではない。
初めてアイザックと会った時、カミュはまだ13歳だった。自分自身は物心ついた時には既に黄金聖闘士としての資質に覚醒していたから、
正直、小宇宙に目覚めてもいない子どもをどう教えたらいいのかは完全に手探りの状態だった。
何人か引き受けた子どもが、脱落していくたびに責任と罪悪感を感じていた。自分の元に預けられたのでなければ、あの子たちも聖闘士になれたのではないか、と。
アイザックと氷河を教えながらも、どこかで常に大きな重圧を背負っていたのに違いない。
赤々と燃える暖炉の火の前で決して溶けない雪の塊を見た今、ずっと不自然に強張っていた肩の力がすっと抜けるのを感じて、初めてそれに気づいた。
そして、それと同時に、ようやく師としてのカミュの中枢に確かな芯が通った、そんな感じだった。
アイザックは、横に立つ氷河の顔を不安そうに見た。
先生、何にも言ってくれないけど……俺、なんか間違ってたのかな?やっぱり、維持だけじゃ不十分だった?
「あのーせんせい、喜んでもらえました……?」
アイザックのSOSを受け止めて、氷河はカミュの顏をのぞき込んでみる。
先生、なんだかすごく難しい顔してる……。
「せんせい……?」
弟子たちに不安と緊張が走っていることに気づいて、カミュはようやく、アイザックから離れて、二人の瞳を交互に見た。
「ありがとう。二人とも。私は……嬉しい」
多分、お前たちが想像しているよりもずっと。ずっと。
「よかった!」
二人は安心したように笑った。
氷河が少し拗ねたように言う。
「俺も早くできるようになりたい」
「大丈夫。アイザックができたんだから、お前もできる」
「先生、凍気を生み出すのは難しいですか?二人で練習したけど失敗ばかりで。本当は二人で凍気を生み出すとこまで行きたかったのに、ほんのちょびっとの維持が精いっぱいなんです」
そうか、この間から二人でこそこそやっていたのはそれか。暖炉の前の水は失敗の成れの果て、というわけだったか。
自分を喜ばせるために、叱られて、罰として訓練を厳しくされても、本当のことを言わずにこっそり練習していた二人が思い浮かび、いじらしさで胸が痛くなる。
「維持ができるなら、生み出すのもじきにできるようになる。原理はそう変わらないからな。今日はわたしがよく見てやろう」
「俺たち、氷の聖闘士になれますか?」
「なれるとも。……私が、きっとかならずお前たちを聖闘士にしてみせる」
お前たち二人ともを、だ。
二人が目指す白鳥座の聖衣はひとつきり。
だが───いや、それを考えるにはまだ早い。
カミュは二人をしっかりと両腕で抱き締めた。
アイザック、氷河。
今日の日をわたしは一生忘れない。
お前たちの存在が、わたしを名実ともに『師』たらしめてくれていることをいつかきっと告げよう。
パチパチと燃える炎に、雪だるまがほんの少し溶けはじめていた。それはまるで涙の雫のように、ポタリ、と音をたてて落ちた。
(fin)
(2012.2.7UP 2017.1.23加筆修正)