アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第二部 10◆
空気の流れを読むのにも、読みやすい温度というものがあるのだと、視覚を遮ることで氷河は初めて知った。
聖域のぬるい空気は、ゆるゆると全ての感覚を緩ませる気がして氷河には少し苦手だ。
自分の発した声さえ凍りつくようなシベリアの冷たい空気の方が、感覚を研ぎ澄ますのには都合がいい。
「おい、ずるいぞ、それは禁じ手だ」
笑いを帯びたミロの声で、周囲の気温を意図的に下げたことを気づかれたことが知れる。
呼吸のタイミングに合わせて密かにやってのけたつもりだったが、さすがに黄金聖闘士には通用しなかったか。
「氷の聖闘士を相手にしておいてこれが禁じ手とはおかしなことを言う」
こそこそと気温を下げる真似をしてみたことはあっさりなかったことにして大口を叩いて、氷河は開き直って小宇宙を燃やす。
氷河の小宇宙が燃えるに従い、辺りの温度はどんどんと下がってゆく。
空気というものは何もないようでいて、意外に不純物を含んでいる。目に見えぬそれら全てがピシピシと小さな音を立てて凍りついてしまえば、天蠍宮の中庭には、もう、動くものは聖衣に身を守られたミロと氷河しかいない。
両の目を塞いでいても、慣れ親しんだ凍気に包まれていれば、不安も恐怖も感じない。雪と氷の世界においては、例え黄金聖闘士相手でもそう簡単に打ち倒されぬ自負がある。
よく言った、ならば君もスコーピオンの黄金聖闘士を相手にしている覚悟はあるのだな、と喉で笑っているミロの聖衣に微細な氷の粒子が当たる微かな気配がする。
左だ、と認知したと同時に突き出した氷河の拳が捉えたのはだが、ミロのマントの裾が起こした風だけだ。
位置は捉えている。
だが、捉えた、という知覚すら追いつかないほどミロの動きが速すぎる。黄金聖闘士を相手にするのに位置を捉えているだけではだめだ。
そう理解した途端に右肩に重い衝撃を食らって、ぐぅっという呻きとともに氷河はたたらを踏む。
転倒を避けるためにぐっと大地を踏みしめた足元へまた一閃。
容赦のない攻撃の連続に氷河は防戦すらままならない。
口だけか、坊や、と煽るミロから距離を取るように氷河は地面を蹴って後方に下がった。
煽りに乗って度を失う愚は犯さない。退いて体勢を立て直すことも大切だ。
血は熱く滾っているのに、不思議に頭は冷えていて、己の細胞のひとつひとつの存在がありありと感じられるほど全ての感覚が鋭敏になっているのがわかる。
ミロの小宇宙が燃えている。
カミュの小宇宙は音なく降り積もる雪のように静かで犯しがたい神聖さに満ちていたが、彼の小宇宙は赤々と燃えるアンタレスそのもののように烈しい情熱を内包している。
その、烈しく、恐ろしいほどに他を圧倒する熱量の前では、降伏を口にせずにいることは常人には至難の業だ。
氷河は彼に負けないように身体の内奥の銀河を呼び起こす。
両の瞳を包帯で覆っているため視界はないが、そもそも、光の速さで動く相手を前にしては、視覚も聴覚も、あまり役に立つとは言えない。
頼れるのはただ、人間の内なる宇宙が秘めた力、それだけだ。
来る、と意識する暇があったかどうか。
それほど一瞬の出来事だった。
眼前に翳した氷河の左腕に鋭い痛みが走ると同時に、突き出した右拳が黄金聖衣の感触を捉えていた。
無意識に身体が動いたとはいえ、攻撃を凌いだのもミロを捉えたのも初めてだ。
はっと刹那驚いて、そのせいでほんの僅か次の動作が遅れた。
その隙に鳩尾に拳を食らって後ろへ吹っ飛ぶ羽目になったが、氷河はくるりと身体を反転させて軽やかに地に足をつけた。
拳を食らった衝撃で舌でも噛んだか、口の中に錆びた鉄の味が広がる。だが、光速を見切ったことへの昂揚が勝って、痛みは感じない。
閃光のような蠍の毒針と絶対零度の凍気が交錯する。
視覚でもない、聴覚でもない、第六感ですらない、それら全てを超越したものが、氷河の中で覚醒する。
視覚を閉ざしているにも関わらず、ミロの動きがまるで止め絵のようにはっきりと見え、己が次に何を為すべきか思考するまでもなく、身体が勝手に動く。
過去において、カミュと戦った時もミロと戦った時もそうだった。
戦った結果何が起こるかなど微塵も意識していなかった。もしかしたら、絶対零度の扉を開いた瞬間は、今己が対峙しているのが師であることすら、意識の中からは失われていたかもしれない。
あの瞬間は、無、だった。
理屈も感情もいずこへかと消え去り、魂に刻まれた使命、ただそれだけが氷河を構成する全てだった。
今も、同じだ。小宇宙を燃やしている今この瞬間は、度重なる喪失に傷いた心からも解き放たれて、氷河は自由だった。
聖闘士として戦い続けることは、氷河には、ある種、救いでもあるのかもしれなかった。
気がつけば、激しい動きで緩んだのだろう、いつの間にか包帯ははらりと垂れ下がり、隙間から薄く光が氷河の瞳をさしていた。
ミロがこちらに向かってゆっくりと歩み寄ってくるところが見える。(正真正銘、視覚で氷河はそれを捉えた)
止めたてするような仕草を視認して、氷河はようやく構えを解いた。
だらりと両の腕を下ろしたというのに肩が激しく上下している。
少し早足で近づいてきたミロが背へ手を当てて、吸うな、吐け、と言ったことで、氷河は、己が軽い過呼吸を起こしていることに気づいた。
急激に勢いを増した小宇宙の燃焼に身体が対応しきれなくなったのだ。
神の領域に近い、第七感の世界は氷河にはまだ簡単には御しがたい。
ミロに促されるままに、何度か深く息を吐けば、しばらくして呼吸は落ち着いた。
対等に戦えたように感じていたが、あちらこちら流血し、呼吸の制御を失った己に比して、ミロがあまりにも無傷なことに、昂揚していた気持ちはしゅうと音を立ててしぼんでしまう。
だがしかし、今日はもうこの辺りにしよう、と、宮の中へ戻るよう促したミロの背が目に入って氷河はハッとした。
聖衣の背を覆う、彼の白いマントはすっかりと凍り付いていた。
───俺は、戦える。
密やかに吐いた安堵の息は、凍りついた空気の中に白く広がり、そして、消えて行った。
**
そうか、聖域はシベリアではないのだな、とごく当たり前な事実を今更確認して途方に暮れていたのは、天蠍宮の食材庫に並んだ野菜や缶詰がまるで見慣れぬものだったせいだ。
そう言えば今朝まで口に運んでいた料理はどれもこれも名前すら知らぬような、氷河には珍しいものばかりだった、と、今初めて認識した氷河には、自分が何を咀嚼していたかはまるで意識の埒外だったのだ。ただ、目の前に運ばれてくるから反射で口にしていた、それだけだった。
ミロに悪いことをした。
とうに怪我人でもなくなっているのに身の回りの世話を任せきりにしていたばかりか、ろくに礼も言っていない。
ここ数日、少しずつ現実感を取り戻して、取り戻すと同時にようやくそこへ思い至った氷河は、己のこれまでの非礼に気まずくなりながら、今日は俺に作らせてください、と、ここへ来て初めての食事作りを申し出たのだった。
だが、多少の勝手の違いは想定していたものの、ここまで食文化が違うとは思ってもいなかった。
シベリア以外で自炊などしたことのない身(シベリアでも、ほとんど師に任せきりだった)、当たり前と言えば当たり前だが、作れるものどころか、食べたことがあるものすら限られている。極北の僻地を思えば、夢のように種類豊富に揃えられた食材庫の中にいるにも関わらず、氷河は頭を抱えるばかりだ。
ボルシチなら失敗しない自信がある、と思っていたのに見渡す限りビーツがないときた。これだけ色とりどりの野菜が並んでいるのに。経験値が高ければ、代用品でビーツ抜きのボルシチをそれらしく作れたのかもしれなかったが、残念ながら氷河にそこまでの経験値はまだない。当ては完全に外れた。
だが、大丈夫なのか、とからかい気味に笑っていたミロに、後でびっくりしても知らないからな、と大きく出た手前、今更無理でしたとは言いづらい。
しばらく唸りながら食材庫を行ったり来たりした末に、仕方なく、ペリメニを作ることにした。揃っている食材で作れるものをほかに知らなかったから選択肢がなかったのだが、できれば避けたかった。作れないわけではないが、形よく包むのがあまり得意ではない。
きっと、何だこれは、と笑われるのだろうな、と作っている最中から既に赤面せずにはいられないへんてこな物体を、傾きかけていた陽が地平線の向こうへ消え星が瞬く頃まで奮闘した挙句にどうにか量産して、もうどうにでもなれ、と半ば投げやりな気持ちでミロを食卓に呼んだが、案に相違して、並べた不格好な代物を見ても、ミロはからかいはしなかった。
「人に何かを作ってもらうのは久しぶりだな」
うまそうにできている、と目を細められては、却って落ち着かない。こんなことなら、大笑いしてからかってほしかった。
ミロはきっと本物のペリメニを知らないのだ。だから、こんな、幼児の粘土遊びの残骸みたいなもので、喜べるんだ。あんな、あんな……嬉しそうな顔をされては、胸が疼いて困る。
「……………本当はちゃんとしたロシア料理も作れるんだ。もっとうまいやつ」
赤くなった頬を隠すように俯いて、ペリメニに添えるスメタナ代わりのサワークリームを皿にあけながら、子どもじみた言い訳をすれば、ミロはそこで初めて笑った。
「ロシア料理だろう。『ペリメニ』」
「……知っているのか」
「カミュが作っていたのを見たことがある。食べさせてもらったわけではないが」
「よく同じものだと認識できたな……」
正直な氷河の感嘆にミロが、確かに見た目は俺の記憶とは少し違うな、と肩を揺らした。
「だが、懐かしい。香りであの頃のことを少し思い出した」
あの頃とは、どの頃のことだろうか。
自分の知らないカミュのことを知っているミロに妬けるような、羨ましいような、まだ懐かしむほどの過去にして欲しくないような、複雑な心地がして胸が痛い。
「シベリアでも先生はよく作ってくれた。包むのは俺とアイザックの役目で……二人でいくつもいくつも作った」
思い出話をすることは、それを、『過去』にしてしまうことで、だから酷く抵抗がある。
それでも、今は、ミロにつられて自然と口にできた。
へえ、と相づちを打ちながら、ミロはつるりとしたペリメニをフォークで口に運んで、ん、いけるな、と満足げに頷いた。
彼の口に合ったらしいことを心底安堵して、氷河は己もひとつ口へと放り込む。
小麦粉の練り方がおかしかったのか予想以上に歯ごたえがあって目を白黒させることになったが、味は確かにそう悪くない。雪の中にぽつんと立つ、あの小屋の中へ戻ったかのような、懐かしく、切ない、カミュのペリメニと同じ味がした。
「……先生はいつも、俺が作った方とアイザックが作った方を見分けてしまうんだ」
思い出話を続けたいわけではなかったが、黙っていれば、いっそう胸が苦しくなりそうで、氷河は、誰に聞かせるともなくそう言った。
耳ざとく聞きつけたミロが、そりゃこれだけ特徴的ならわかるだろう、と、へしゃげた帽子のような物体をフォークで掲げながら笑う。
「違う。俺も酷いが、アイザックも酷かった。本当に大差なかったんだ。俺たち自身ですら、自分が作ったものを判別できないほどだった。だけど、カミュはいつも見分けていた」
あれはどうしてだったんだろう……と氷河は視線を落とした。
本人たちの気づかぬ癖をカミュは知っていて見分けていたのだろうか。もうそんな、ささやかな疑問にすら答えがもたらされることはないのだと思うと、やはりどうしようもなく寂寥感が込み上げる。
───やめておけばよかった、食事作りなんか。
日常のささいな事柄に重なる過去の光景は、それが何でもない小さなことであればあるほど、いっそう大きな喪失感となって胸を締め付ける。
だが、重く沈みかけたその空気を、ミロが、フッという小さな笑いで打ち払った。
「簡単なことだ、俺でも見分けられる」
「……え……っ?あなたはアイザックを知りもしないのに?」
「知っている必要はない。君こそなぜわからないんだ?今、自分でも言っただろうに」
「俺が……?」
「カミュをあまり神格視してやるな、と言っただろう。だから真実が見えなくなる」
「ミロ、あなたが何を言っているのか……」
本当にわからないのか?と大げさな仕草でミロが肩を竦める。
「カミュが見分けていたものか。はったりに決まっているだろう、そんなもの」
「はったり……?」
「『自分たちですら自分が作ったものを判別できないほどだった』んだろう。君たちが正解を知らないんだから、カミュはどうとでも言えたさ」
「いや、だが、」
「したり顔で『うむ、これはアイザックが作ったのだな。こっちは氷河か。よくできているぞ』と言うカミュを疑いもせずに、すごい、先生、どうしてわかるんですか、と信じ込んだのだろう、どうせ」
「い、や、いやいや、あなたじゃあるまいし、先生に限ってそんないい加減な、」
「ほら、これだ。盲信は目を曇らせる。案外、君たちがあまりに素直に信じ込んだものだから種を明かすきっかけを失ってカミュは困っていたかもしれんぞ」
そんなはずはない、と思う反面、シベリアにサンタが来た日のことだとか、二人同時に歯が抜けそうだと騒いだ日のことだとかが次々に思い浮かんで、もしかしたら、師は、ミロが言うように、冗談を真顔で言うような茶目っ気を持っていたのだろうか、という疑念がチラチラと胸に起こる。
でも、あの先生がそんな、まさか、とまだ半信半疑で呟けば、ミロが、少なくとも俺は何度かあいつにしてやられた、と肩をすくめた。
『師』になる前のカミュを知るミロが言うなら、そうなのかもしれない。
こんな小さなペリメニひとつ。火を通してしまえば元の形も変わる。はったりだ、とミロが言うのももっともなことに思えてくる。
カミュがそう言うならそうなのだろうと疑いもしなかった自分と、真顔でもっともらしく見分けたふりをし続けたカミュを思えば、奇妙な可笑しみが湧いてきて、はは、と氷河は乾いた笑いをひとつ漏らした。
「なんだ、そう、だったのか……」
答えが得られてすっきりしたような、拍子抜けしたような。
すっかりと騙されていた自分がなんだか可笑しくて、そして、胸が張り裂けそうに痛くて寂しかった。
知らなかったカミュの一面を知ると同時に、もうそれが喪われたことを自覚するのは、ひどく苦しいプロセスだ。
それでも、この苦しさから目を背けて、自分を失うことは多分もうない。
いつもなら、とうに耐えかねて意識を手放していたほどの息苦しさを感じていたが、氷河はその、冬の嵐のような痛みを、唇を噛むことでどうにかやり過ごした。手は少し震えていたが、それだけで堪えきったのは大きな進歩だった。
克服するために前に進む、その一歩一歩は、時間を止めてしまった死者たちに自ら別れを告げて距離を隔てる行為だ。踏み出すたびに大切な者たちを過去に置いたまま遠ざかってゆくことを知っていて、それでもなお前を向き続けるのは、全く簡単なことではない。きっとこの先何度も立ち止まっては振り返り、次第に大きく開いてゆく距離に切なさと寂しさを感じながら生きていかねばならないのだろう。
───それでも、俺は、進んでいる。
ミロにもらった言葉を、拠り所のように何度も反芻して、氷河は、よし、と顏を上げた。
すこし冷めたペリメニの並んだテーブルの向かい側で、温かな海の色をした瞳が、いいこだ、とやさしげに瞬いていて、そのことが、痛いばかりだった氷河の胸に少しだけ甘い疼きをもたらしていた。
**
「俺、シベリアへ戻ろうと思う」
暗闇の中、発した声はひどく掠れていた。
女神神殿へと用でもあったのか、夕餉の後で一度宮の外へ出ていたミロが戻ったのが夜半過ぎのこと。寝台に身体を横たえた気配を確認して、さらに数刻たって、すっかりと動く気配がなくなった、会話をするにはまるで不適当なタイミングで氷河はそれを口にした。
夕餉を終えた時にはもうシベリアへ戻ることは決めていた。
以前のように、居心地悪さのあまり、逃げ出そうとしたわけではない。
女神の存在を傍に感じる安心感と、常にどこかしらで人の気配がしている聖域の賑やかさには日に日に馴染みつつあったが、だがしかし、心のどこかで、これ以上馴染んではならない、という危機感も覚えていた。
いくら馴染んでみても、天蠍宮はミロの守り宮で、氷河は全くの居候に過ぎない。聖闘士として向かう道に迷いの消えた今、氷河の居場所はここではないことは明白だった。
決まった守り宮を持たない青銅聖闘士の氷河が、どこかひとつを拠り所にするとしたら、シベリア以外にはありえなかった。
美しい白銀で覆われた、あの凍えた大地は、氷河の魂と不可分だ。生まれ、育ち、多くのものを失い、それ以上に多くのものを与えられた。決して逃げではない、生きるために、氷河は、再びシベリアの地を踏む必要があると感じていた。
にもかかわらず、言い出せなかった。
うまかった、と子どものように笑われて。
明日はもっとうまいものを作ってみせる、と思わぬように心を抑えることは酷く困難で、結局、こんな、ミロの耳に届くとも届かぬともつかぬような、どうしようもないタイミングでしか別れは口にできなかった。
だが、もう眠っていて声は届かないかもしれない、という狡い逃げ道を残した氷河をぴしゃりと叱咤するかのように、そうだな、それがいい、と暗闇からすぐに声が返ってきて氷河の心臓はドッと跳ねた。
話しかけておいて声が返ってきたことに動揺するとは情けない話だが、意志に反して鼓動はドクドクと脈打つばかりで収まる気配がない。
一度は氷河を引き止めたミロが、それがいい、と認めたことで、もうここに留まる理由は本当に何もなくなったのだ。
何と言われてもシベリアへ戻る意志は揺らがない。引き止めて欲しかったわけではない。ないが、それでも、鼓動が抑えきれないほど別れ難さが募るのは───
暗闇にしんと静寂が落ちる。
身じろぎの気配すら感じない。
だが、不思議に、ミロの体温が空気を通して伝わってくる気がする。
何かを言わなければならないことはわかっている。
バラバラに砕けて死んでいた氷河の心に人の形を取り戻させてくれた感謝と恩義、それだけではない何か。
氷河はおそるおそる身を起こした。
立ち上がって、寝台へと近づく。
気配はせずとも、眠ったわけではきっとない、という確信はあったが、それでも、瞳が閉じられていたら何も言わずに去ろう、と思うほどには怖気づいてもいた。
満月でもないのに眩いほどの月の光が細い窓から射し込んでいて、寝台に掛けられたシーツを青白く照らしている。
夜明け前の空の色をした青藍の瞳は、閉じられることなく、氷河がそうすることをわかっていたかのようにじっとこちらを見つめていた。
言葉の形になりかけていたもやもやしたものは、何故かまた、跳ねまわる心臓の音にとって替わり、氷河は自分が何をしようとしていたのかわからなくなって、ただ立ち尽くす。
ふ、とミロの唇が笑みの形に崩れ、伸ばされた腕が氷河の背を抱いて引き寄せた。
「ミ、ミロ……ッ」
「『カミュ』に会いたくなったか?」
やけに腰にくる艶めいた低音がそう囁くと同時に、大きな掌が包帯を巻いていない方の氷河の瞳を遮るように覆ったことで、あ、と氷河の中でもやもやしていたものが刹那、答えを得た。
違う、と氷河は瞳を覆い隠していたミロの手を掴んで払いのけた。
再び視界に入った切れ長の瞳が少しだけ驚いている。
「あなたはカミュじゃない。両目を塞いだところで混同しようがない。カミュの代わりは誰にも務まらないが、あなたの代わりも誰にもできない。だから、俺は、だから、だから、ただ、あなたのことが、」
最後までは言えなかった。
勢いよく反転させられた身体をシーツに押しつけられ、塞がれた唇に言葉は全てのみ込まれた。
可愛いことを言ってくれるな、と囁いた吐息も、まだ言ってない、と返した抗議も、全て全て、貪り食うように重ね合された唇のあわいへと消えた。