アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第二部 09◆
「いい朝だ。すっきりと晴れて遠くまで見渡せる時は、運が良ければ陽に輝く海が見えることもある」
「海?」
「そうだ。綺麗だぞ。……ああ、今日は『運がいい』」
氷河は自分の一歩先で立ち止まって振り返ったミロの視線を追って、同じように振り返った。
聖域の長い石段から臨む景色は、朝靄と、乾いた空気に舞い上がる土埃で霞がかかっていて、白と灰色ばかりの色の少ないシベリアとそう大差ないように見える。
どこに海が見えるのかと必死に目を凝らしてみたが、氷河にはどれが山でどれが街だか判別のつかない茶色っぽい靄が見えるばかりだ。
見えないじゃないか、とミロの方を見れば、彼はニヤリと片頬を歪めて笑った。
「その目では見えるものも見えんな。残念だったな、坊や」
「……っ」
からかわれたのだ、と瞬時に悟り、幼子を宥めるようにポンと頭に乗せられた大きな手を氷河は憮然と払いのけた。
よくわからないひとだ。
意地悪だ、苦手だ、と感じる瞬間と、やさしい、いいひとだ、と思う瞬間が入り混じり、その落差は激しく、ミロに対する印象は定まらない。
同じ黄金聖闘士だというのにカミュとは似ても似つかない。
昨日だって、あんな……
すっかりと我に返って冷静さを取り戻した頭が、なかったことにして追い出していた己の情けない姿を思わず思い出してしまい、氷河の臓腑がぐうっと変な音を立てて萎縮した。
昨日は結局、一日中、日の目を拝むことはなかった。
あれほど泣いたのは母親が死んだとき以来だ。
涙と共に情けない本音を吐き出して(そしてそれを笑わずに受け止められて)少しだけ心は軽くなっていたが、代わりに身体はひどく気怠く、顔もむくんでいてうまく目も開かない。ミロにからかわれたのはそのあまりに酷い顏のせいだ。
ミロは───
ミロは何を考えているのだろう。
氷河は、再び聖域の石段を上り始めた彼の背をそっと盗み見た。
氷河は正気を保っていたとは言い難く、その上視覚は奪われていたから絶対にそうだという自信はないが、多分、ミロ自身は吐精どころか熱すら上げていなかったのではないか。
彼が身勝手に己の欲望を満たすために、言葉巧みに氷河を丸め込んだわけではないことくらいはさすがに知れた。
ならば一体何のために。
まさか本気で、カミュの代わりを務めようとしたとでもいうのだろうか。
……だとしたら、その試みは全くうまくいかなかった。
耳元で甘く吐く息づかいと、全身を包まれるような温かさは、氷河が知っているものに重なった、気がした。
一度きり感じたあの熱が甦るような心地がして、熱に浮かされるようにカミュの名を呼び、だが、行為が深まるにつれ、次第に、違う、俺が知っているのはこれじゃない、という違和感にも苛まれた。
シベリアのあの夜にあったのは、こんな、やさしく心を溶かすような温かな熱ではなかった。
カミュに触れている間中、氷河の胸は切なく苦しく締め付けられていて、その痛みに何度も涙が滲んだし、カミュもまた、何かを堪えているかのように酷く辛そうだった。
触れれば触れるほど胸が疼いてどうしようもなく苦しくなるばかりだというのに、それでも触れずにはいられないような、切実な何かに衝き動かされて感じたあまりに烈しい熱は、その烈しさゆえに、去った後、氷河を長く凍えさせたほどで───
あの熱をまだこの手は覚えている。
だから、今触れているこれはカミュの手なのだと、欺瞞に浸りきることもできなかった。
カミュはもういない。
誰もカミュの代わりにはならない。
理解していながら、同時に、理解することを拒絶もしていた、その事実に改めて向き合わなければならなくなって、氷河はもう涙を止める努力もせず、力なく四肢を寝台に投げ出したまま、解けた包帯の隙間から滲む石造りの天井を一晩中ぼんやりと眺め続けていた。
ミロは───氷河の包帯が解けたと同時に彼は『ミロ』に戻っていたが───それに対して何か言うでなく、明かり取りの天窓に薄らと陽が射し始めるや、床へと散らばっていた衣服を氷河に投げ、己も身づくろいをしながら、「順番は前後したが今日はデートと洒落込むか」と、悪戯っぽく笑ったのだ。
黄金聖闘士とは思えない、世俗的な冗談(しかも全然笑えない)を言う人だ、と、お義理で頬をおざなりに歪ませるだけでそれに応え、後は気怠さに任せて目を閉じようとすれば、こら、とコツンと頭を小突かれた。
「……痛い」
「ほら、早くしろ」
「早くって……用でもあるのなら別に俺に構うことはない」
「デートだと言っただろう。君がいなければ始まらない」
「はあ……?」
そこで初めて氷河は、『デート』というのは彼流の言葉遊びであるにしても、どこか、宮の外へ出ることを本気で提案されているのだ、ということに気づいた。
女神を護るための機能しかないこの要塞の一体どこへ、と激しく戸惑ったが、ミロに急かされて、仕方なく氷河は掌底でごしごしと涙痕を擦って、精一杯の不本意をのろのろとした仕草で表しながらようやく起き上がったのだった。
どこへ行くんだ、と宮を出るまでに何度か投げた氷河の問いは、ことごとく黙殺された。
まさか街へ出て呑気に気晴らしをするつもりだとは思っていなかったが、宮を出たミロの足が石段の上へ向けられて、氷河はその後を追うのを躊躇した。
「さ……女神に用なら聖衣を纏った方が……」
「女神のところまでは行かない」
「……医務所ならば俺は行かないからな」
天蠍宮より上に位置する場所など限られている。予防線を張った氷河に対して、ミロは肩を竦め、そして数歩戻って氷河の耳元で「わかっているさ。『カミュ』は君に怪我はさせていないだろう?」と笑いを帯びた声で囁いた。
かあっと全身を赤くした氷河に対して「まさか歩けないほど腰が使い物にならないか」などと追い打ちをかけられて、断じてそうじゃない!と怒ったように歩き始めたはいいが、人馬宮を通り過ぎ、磨羯宮もそろそろ抜けんとしたあたりで、氷河の足取りはみるみるうちに重くなり、やがて、一歩も動けなくなった。
先んじたミロは、磨羯宮をちょうど抜けたところで、途切れた氷河の気配に気づいて振り返っている。
ミロが立っているところは昇り始めた陽が当たって温かそうな色をしているが、氷河は、薄暗く、陽の射さない、主を失って死んだ宮から出ることができない。
「……どこへ行くつもりなんだ」
答えが返ることはもう期待していない、何度目かの問いを氷河は発する。
ミロが答えずとも、薄々気づいている。
この先にあるものはもういくつもない。
女神神殿でもなく、医務所でもないなら、そこは。
ミロは、しばし、振り返った形のまま氷河を待って、それから、ゆっくりとした所作で磨羯宮の中に戻ってきた。
「俺は、行かないからな」
彼がまだ何も言わぬうちから、そう言って氷河はぐっと拳を握って俯いた。
意識を保っていられないほどの混沌とした迷いはそう簡単に克服できるものではない。
まだ、気持ちの整理が完全についているとは言い難く、ともすれば、また、息ができなくなるほどの苦しさが襲い来る。
これ以上、ミロに情けない姿を見せたくもなかったし、いつか気持ちに区切りをつけなければならないにしろ、そのタイミングは自分自身で決めたかった。
母親と別れるのにも何年もかかった。それだって、カミュに引導を渡されたから結果として区切りがついただけで、氷河自身がそのステップを踏んだわけではない。
だから、今度こそ、自分自身の力で乗り越えたい。
このひとに───己を認めて前へ進ませてくれたミロに、あなたの選択は間違っていなかったということを見せたい。
だが、それには今少し時間が必要だった。師にきっぱりと別れを告げるのは、まだ、とてもできそうにない。そうする自分を想像しただけで動悸が起こり、吐き気が込み上げる。
「ミロ、気持ちはありがたいが、俺は、」
だが、ミロは、そんな氷河のささやかな決意などお構いなしだった。
近づいて、全身を強張らせて立ち止まっていた氷河の背を一瞬抱いたかと思うと、彼はきつく握っていた氷河の拳を包むように己の手を重ねた。
見上げれば、
「手を引いてくれと駄々をこねるとはずいぶんかわいい坊やだ。確かに手も握らないのはデートとは言い難い」
と、青い瞳が甘くやさしく弧を描いていた。
いや、デートって、と虚を衝かれた隙に、ぐっと腕を引かれて、氷河はミロと共に歩き出す形となった。
「誰が手を引いてくれなどと、俺は、ただ、」
慌ててミロの歩みに抵抗するように身体を引いたが、黄金聖闘士の力はとてもそんなもので封じられるはずがない。
半ば引きずられるように氷河の身体は磨羯宮の外へと連れ出される。
「ミロ……!」
突然に瞳に飛び込んだ陽の光が眩しくて片腕を翳し、何度か瞬きすれば、徐々に馴染んだ光の光景の中に否応なしに宝瓶宮の姿が浮かんだ。
あっと息を飲んだ瞬間に、氷河の手を握るミロの手に、大丈夫だ、と言うかのように力が込められる。
「……あ……」
まだ朝は早く、見張りの雑兵の数は少ないが、それでも皆無ではない。
あまり騒ぎ立てて注目を集めるのも憚られ、結局、力強く引かれる腕に導かれるように、氷河は自ら足を踏み出した。
陽の光の元で宝瓶宮の前に立つのは初めてのことだ。
女神の命のためにと十二宮を上ったときは空に星が瞬いていた。
天蠍宮でミロの帰りを待つ間に思わず足を向け、恐怖に足がすくんで踵を返したあの時もまた夜だった。
医務所からふらふらと下りてきたときはどうだっただろう。消毒薬臭い寝台から起き上がったところまでしか記憶にない。
初めて太陽の下で見る宮は、夜の闇の元で見るのとはまるで印象が違っていた。
寂寥感漂う死の宮であることには変わりはないが、以前感じた禍々しさも恐ろしさも今はない。
それどころか、年代を感じさせるひび割れた大理石が白く光っていて……
「綺麗だろう」
氷河の心の声を代弁したように発せられたミロの声に思わず頷いてしまう。
神話の時代から何度も戦場になったせいだろうか、それとも経年劣化だろうか、宮の屋根を支える円形の柱は崩れないのが不思議なほど傷だらけだ。
元は真っ白だったに違いないそれは、薄灰色に煤けている。
だが、なぜだろう。
廃墟に近い、主の気配の失われた要塞は哀しくもあるが、刻まれた歴史の痕跡が胸に迫るほど美しく見えて、氷河は素直に感嘆の息を吐いた。
ミロが氷河の手を離し、数歩、柱へと近づく。
「カミュはよくここへ立っていた」
知っている。
白いマントを風にはためかせ、氷河のことを待つあの日もそこにいた。
石段を上る氷河を見つめる瞳は、これから互いに命を取り合うとは思えぬ、変わらぬやさしい色をしていた。
それを思い出せは胸が張り裂けそうになる。
ミロの指が、石造りの柱を撫でる。
早朝の冷えた空気に少し表面が濡れている。光って見えるのはそのせいだ。
「カミュがいた時にはこんな朝露は見たことがなかった。ここにはいつも氷の花が咲いていてそれはそれは綺麗なものだった」
切れ長の瞳に寂しげな色が過ぎった、と、そう見えたのは、自分も同じ寂しさを抱えているせいだろうか。
氷河は一つ大きく息を吐いて、ミロの元へと近寄った。
ミロが手をついている柱へ、指先を伸ばす。
薄らと濡れた石の表面に触れた指先は隠しようがなく震えていた。
だが、氷河が触れた瞬間に、小さな水の雫たちは、次々に白く霜づいて、円形の柱はあっという間に氷の花で覆われてゆく。
驚いたようにミロは柱から手を離して、そして、ああそうか、とどこか懐かしむように目を細めた。
「『アクエリアス』はまだここに居たのだな」
君の中に、と、ミロの手が氷河の胸へ触れる。
氷河は片腕で顏を覆った。
氷の花に反射する朝日が眩しすぎてとても目が開けられない。
ポタポタと頬を伝って落ちる雫もまた、氷河の足元で次々に小さな白い花となった。
ミロが氷河の頭を撫でて、そして、離れる。
彼はそのまま、ぐるりと巡らされた宝瓶宮の柱に沿うように歩いて、そして何本目かの柱の前で足を止め、振り返って仕草で氷河を呼んだ。
ごしごしと拳で顏を擦って、素直に氷河はそれに従った。
地面に膝をついたミロが、柱の根元あたりについた傷を、遠い瞳をして指先でなぞっている。
「俺とカミュの喧嘩の跡だ」
「喧嘩……?」
「そうだ。カミュに吹っ飛ばされた俺がここにぶつかった」
「カミュがあなたを……?逆ではなく……?」
信じられないって顔だな、と、ミロはくつくつと笑った。
「まあ、喧嘩をふっかけたのは俺だがな。聖闘士を育成するためにシベリアへ行くことになったカミュに俺は言ったんだ、そんな子どもどうせすぐ死ぬ、とな。……あれほど感情顕わに怒ったカミュを見たのは初めてだった」
氷河がそっと盗み見た精悍な男の横顔には、それを悔いるように密やかな蔭が落ちている。
「今思えば、あいつも本当は不安だったんだろうな。あの時のカミュは今の君と同じ歳だった。……俺たちもまだ年相応に未熟だった。迷っているのは君だけじゃない」
違う、と氷河は首を振る。
己が未熟であることは疑いがないが、カミュのそれと比べるなどあまりに畏れ多い。
氷河が出会ったときの師は既にもう黄金聖闘士として完成された人間だった。
氷河がそう言うと、まだ柱の傷跡を見つめていたミロが、横顔だけで苦笑した。
「あまりカミュをそう神格視してやるな」
「……え……?」
「いくら神に近いと言われていても、神ではない。感情に流される弱さもあれば、ひとを愛する心もある。外に見せないようコントロールできるかできないか、違いはそれだけしかない」
言葉の意味を考えて、少し戸惑う氷河の頭を、ミロはくしゃりと撫でた。
「いつか君にもわかる時が来る」
そんな風に頭を撫でるのは師の癖でもあったが、ミロに同じようにされるのは、子ども扱いされているようで落ち着かない。
やめてくれ、と言おうにも、彼の言葉をよく理解できないでいる自分にはそう言う権利もないのだ。
いつか、などと言わず、今、理解したいのに、すぐに正解を教えてくれないミロのそれは、厳しさなのか、それともやさしさなのか。理解できるようになる頃には、それもわかるようになるのだろうか。
そのうちに、さて、とミロが立ち上がった。
「中も見ていくか?……カミュの私物が残されているかわからんが」
ミロの言葉に氷河の心臓がひゅっと冷たくなる。
ああ、この先ずっと俺はこの痛みを抱えて生きていかねばならないのだ、という哀しさが再びせり上がり、ミロを追って立ち上がるのはずいぶんと遅れた。
氷河は天蠍宮の中を思い浮かべた。
宝瓶宮の深部がどうなっているかはわからないから、想像するヒントがそこにしかなかったからだ。
聖域に長く居る割に、天蠍宮の中は驚くほどに物が少ない。多分、彼が常に抱えている『覚悟』のせいだ。
シベリアを発つ時に、カミュもまた、何ひとつ残してはいかなかった。カミュはあれらの物を全て宝瓶宮へと持ち帰っただろうか。否、きっと、シベリアの日々へ繋がるものは何もかも処分してしまった、そんな気がした。
何もないがらんとした空間をのぞき見ても、懐かしい師の痕跡を見つけても、辛いだけだ。
やめておく、と首を振った氷河に、ミロは、そうだな、と頷きを返した。
ではそろそろ行くか、と続けて差し出されたミロの手があまりに自然だったものだから思わず己の手を重ねてしまい、だがしかし、温かさに触れた瞬間に、氷河はハッと我に返った。
この場を離れることに異議はないが、なぜまた手を握るのだろう、と今更ながら動揺して、慌てて手を引っ込めようとしたがもう遅かった。
ミロは、氷河の手を引き寄せて、全部の指を絡めあわせるやり方で繋ぎ直すと、行こう、と石段を下り始めた。
今は先ほどと違い、特段行き渋っているわけでもないのに、この手は一体どういうつもりだろう。
これも『カミュ』としての延長だろうか、と、氷河は落ち着かなくミロを見た。
だが、ミロは、それが当然であるかのように氷河の手を握ったまま黙って淡々と石段を下りている。
落ち着かないものの、騒ぎたてるのも坊やだと笑われそうで癪だ、どうせ天蠍宮に戻るまでの短い間だ、と、氷河は仕方なしにミロに手を引かれる形のままで石段を下りた。
だが、ミロは天蠍宮には戻らなかった。
十二宮の石段の途中で、知らなければ分岐と思えぬような細い脇道に逸れたかと思うと、不揃いの形の石を敷いただけの、人ひとり通るのがやっとの細い石段を彼は下り始めた。
「ミロ……?」
どこへ行くのだろうという疑問が上ったのは初めのうちだけ。
石段はすぐに途切れ、踏み固められているからかろうじて道に見える程度の剥き出しの山の斜面を歩くころには、彼の意図は目に見える形で現れ始めていた。
山の斜面にまるで雨後の筍のように夥しい数の石群が並んでいる。
石碑に刻まれているのは星座と名前だ。
古いものも、新しいものもどれもこれも……
「あ……」
自分がどこにいるかに気づいて、氷河の心臓は大きく波打った。
心臓が脈打つ度に、冷たい汗が背を流れる。
「あ、あ、」
情けなく、意味をなさない呻きが唇から零れる。
この上なく、死と近い場所にいることに、氷河の身体はシベリアの凍りついた海の中にいるかのように震えていた。
ミロの指が絡められた手のひらだけが温かで、氷河をかろうじて生の世界へ繋ぎとめる。
触れ合った手のひらから彼の脈動を感じられなければ、多分、逃げ出していた。
ミロは確かな足取りで、柔らかな斜面を下りて行き、そして、やがて立ち止まった。
『CAMUS GOLD AQUARIUS SAINT』
立ち止まった理由の説明は、その文字が目に飛び込んできたことで不要となった。
石碑の文字を何度も目で追って、氷河は近づいて、ゆっくりと膝をついた。激しく震える指で真新しく刻まれた文字をひとつひとつなぞる。ざらざらした石の表面は、氷河の指に冷たい感触をもたらす。間違いようもなく、現実だった。
カミュ、あなたは、ここに───
それは、まごうことなき、生と死の明確な区切りの形だった。
母のときにも、アイザックのときにもなかった。
気配のしなくなった宮や、主を失った聖衣より、もっとずっと、はっきりと、逃れようのない形での、永遠の別れそのものが陽の光に寂しく照らされていた。
冷たい墓標を抱き締めるように崩れ落ちた氷河の喉からは自覚なく、ああーっと悲鳴じみた慟哭が迸り出ていた。
**
気がついたときには、何がどうなったのか、氷河は泥まみれで大の字となって師の墓標の前で天を仰いでいた。
陽はすっかりと傾いて、辺りは薄闇が下りはじめている。
長いこと呼吸もしていなかったのか、酸欠を起こした後のように肺のあたりに痛みが走り、指先は痺れて何の感覚もなく、湿った地面に当たった背は濡れて冷たく冷えている。
涙なのか濡れた泥なのかよくわからないもので頬もぐちゃぐちゃだった。
あまりに全身が冷え切って山の斜面と同化していたものだから、哀しみのあまり俺は死んだのかもしれないな、とふと思ったが、死んだにしろ、まだこうして意識があるのなら、これ以上、師の前で恥ずかしい真似はできない、と思い直し、ひとつ息を吸って全身の感覚を取り戻した後、ようやく氷河は身を起こした。
ぐるりと首を回してみたが、ミロの姿はどこにも見当たらない。
いつからいなかったのか、いなくなったことにすら気づいていなかったが、おそらくひとりにさせてくれたのに違いない。
あまりに情けない姿を見せずに済んで安堵した反面、ふと、繋がれた温かな指を思い出し、今ここに彼がいないことに対する寂しさが過ぎった。
お前のそういうところが甘いのだ、とあなたは叱るのでしょうね。
心の裡で語りかけるように、墓碑に視線をやれば、多分、己の仕業なのだろう。あちこちについた泥の跡が目に入って、氷河は膝でにじり寄った。
手のひらを何度も尻で拭って泥跡を擦ってみたが、手のひらどころか尻も背中も顔ですら泥だらけでは、綺麗にしているのか却って汚れを広げているのかわからなくなって、氷河は困り果てた。
カミュの魂を鎮める神聖な碑がこうも汚れているままではとてもではないが戻れない。
しばし思案して、氷河は上衣を脱いで裏返した。
表も裏も粘土質の山土がよく含んだ泥水で余すところなく茶色く染まってしまっていたが、少なくとも、直接土に触れていない分、裏地の方がまだマシと言えた。
その上衣で、時間をかけて丁寧に石碑を磨いているうちに、シベリアの小屋の床を同じように磨いた時のことが思い起こされて、またじわじわと哀しみが湧き上がったが、もう涙も涸れたのか、それが形になることはなかった。
氷河は、再び美しさを取り戻した石碑を前に、立ち上がる。
立ち上がったものの、だが、離れ難い。
師はこんな寂しい場所で眠っていたのかと思えば、もう永遠にここから離れたくない心地がする。
でも、あなたはそれを望んではいない。
そうですよね、先生。
最後にもう一度跪いて、冷たい石碑に唇を触れさせて、今度こそ、氷河は歩き出した。
泥だらけの上衣を纏い直すのもおかしな気がして、迫る夕闇に肌寒くはあったが、下衣だけの異様な風体のまま、氷河は斜面をゆっくりと上る。
戻る道がわからなくなりそうなほどの数の墓標だ。
これだけの聖闘士たちが、世界と、女神のために戦い、そして散ったのだ。
ひとつひとつの魂に、どれだけの別れの物語があっただろう。
この光景を見て育ったカミュも、そして、ミロも、聖闘士として生きる者は皆、なんと気高く、強く、美しいのだろう。
この光景を見たからには、彼らに恥じるような生き方はできない。自然とそういう思いが氷河の心を満たそうとしていた。
薄暗い山道を抜け、視界に入る石碑がまばらになりはじめる頃、氷河は困った問題に自分が直面していることに気がついた。
なにしろ、全身泥まみれの半裸となった、何か敵の襲来でも受けたのかと思うような酷い姿だ。
さすがにこのまま天蠍宮に戻るのも憚られる。だが、ほかに当てもない。あまり好きではないが医務所の世話になろうか、いや、それではまた宝瓶宮を通ることになる、一人で俺は平静でいられるか、いやもう大丈夫なはずだ、その前に、そもそもこの姿を人に見られでもしたら誤解を受けて大騒ぎにならないか、と、さんざんとりとめのないことを考え考え歩いていたら、驚いたことに、十二宮の石段への分岐のところに、ミロが立っていた。
自分の風体の理由を何と説明したものか、口ごもる氷河に構わず、ミロがすっと右手を差し出した。
「いや、あなたが汚れるから」
さすがに今度は反射でその手を取るような失敗はしなかったが、どちらにしろ関係はなかった。
確かにすごいなその姿は、と笑ったミロに、あっと言う間に汚れた手を取られてしまったからだ。
汚れると言ったのに、と抗議しようとする間に指を絡められ、だが、その、朝とは違う、自分と同じくらい冷え切った指先に、氷河はハッとしてミロの顏を見た。
まさかずっとここにいたのか……?
いつ終わるとも知らぬ、あんな、どうにもできぬ現実を受け入れかねている幼子の癇癪と大差ないような氷河の感情が落ち着くのを待つより、黄金聖闘士の彼にはよほど大切なことがあっただろうに。
「どうしてなんだ、あなたも、カミュも俺なんかに……」
何と表現していいかわからぬ疼きに胸が鳴り、どうしようもなくなって俯いた氷河に、ミロは、チラと視線を流して、フッと笑った。
「顏を上げろ、氷河。もっと自分を誇れ。大丈夫だ、君は強い。ほら、こうして前に進んでいる」
───やっぱり、苦手だ、このひとは。
涸れたはずの涙が零れるようなことばかり言うから。