寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第二部 06◆


「話にならん」
 ミロが、構えの姿勢を解いて、ふ、と息を吐いた。
 声に苛立ちでも含まれていればまだ救いがあったが、失望がありありと伝わる冷たい声に、氷河の腑がぞくりと冷える。
「なぜだ、俺はただ、あなたに手を抜いて欲しくないだけで、」
 このまま背を向けられて見放されれば後はない、そう思うのに十分なだけのミロの温度のない瞳に、焦りで、氷河は追い縋るようにそう言った。

 何度目かの手合せ最中の出来事である。
 どこへ行っているのか(女神神殿だ、と行き先を告げて出る時もあれば、青い顔をした雑兵が呼びに来て行き先も告げずにバタバタと出て行く時もあった)、ミロが宮にいる時間はさほど多くない。
 宮の主に対して、居候している身でどうかと思うが、正直、彼の不在は今の氷河にはありがたかった。
 硝子で切った両手のひらの傷はそろそろ塞がりかけていたが、あれ以来、ミロとは気まずいからだ。
 氷河が馬鹿げた間違いを起こしたことにきっと気づいたであろうに、ミロは全くそれに触れることはなく黙って手当てをしてくれたが、それはそれで却って居心地は悪かった。
 沈黙は居たたまれず、かといってぎくしゃくと上滑りする無難な会話も長くは続かず、結局、彼が宮にいる時間のほとんどは、こうして、拳に頼って間をもたせている始末だ。
 とはいえ、相手は黄金聖闘士だ。「間をもたせる」どころか、口がきけなくなるほど完膚なきまでに叩きのめされるのがせいぜい関の山だ。
 それでも、最初のうちはまだ、ミロも少しは氷河と手を合わせることを楽しんでいるように見えたのに、いまや、その瞳にはそんな色は微塵も見られない。
 自分とミロとの温度差に焦る気持ちから、手を抜くのはいい加減にやめてくれないかと抗議したところ、ミロの纏う空気が一変したのだ。
 手を抜くな、と言ったものの、氷河が易々とミロを打ち負かし続けていて困っていたわけでは全くない。むしろ一方的にミロに膝をつかされているのは当然と言えば当然だが氷河の方で、まるで敵わないばかりか、満足に拳一つ当てられてはいない。
 だが、ミロの速さについていけもせず、何度も何度も、紙人形のようにいとも容易く地面へ叩きつけられているだけのくせに、生意気にも手を抜かないでくれ、と氷河が抗議したくなったほど、ミロの拳の速さも重さも過去に対峙した時と違っていた。
 そればかりではない。
 はっきりそうとわかるほどではないが、狭い視界に四苦八苦している氷河が戦いやすいように誘導している節さえある。実戦ではありえない気遣いだ、それは。
 この茶番劇を続けることに何の意味もないことは明らかだった。

「手加減してくれ、の聞き違いか?」
 氷河に数歩近寄って見下ろしながら、ミロがそう問うた。
 まだ立ち上がれもしない状態で息を荒くしているのだからそれももっともだ。
 だが、話にならん、と切って捨てられたのだ、そのまま、今日はもう終わりだ、と背を向けられてもおかしくはなかったにも関わらず、そう問われたことは、まだ完全には見放されていないことの証だ。
 氷河は、そのことを内心安堵しながら、震える膝に鞭打ってどうにかよろよろと立ち上がった。
「あなたが『鍛えてやる』と言ったんだ。あなたが言う『鍛える』とは遊びなのか。こんなぬるい拳だけなら、相手なんかシロクマでいい」
「ぬるい拳」で満足に立っていられないほど叩きのめされている氷河がそう言ったのは、ずいぶん滑稽に映ったのだろう。ミロはその、聖域最高峰の戦士に対するには酷く不遜な物言いに、怒るどころか、は、と笑って、一瞬、表情を崩した。
「黄金聖闘士をシロクマ以下だと言い放つとは、なかなか面白い坊やだ。だが……」
 緩んだ目元が再び厳しい色を滲ませる。
「カミュは君をずいぶん甘やかしていたのだな」
 予期せぬ流れの中で持ち出された師の名に、な、と氷河の表情は強張る。
「今、先生の話はしていない。……カミュはすばらしく完璧な師だった」
「ならば君がよほど甘ったれているだけか」
「なぜそうなる!元はあなたが手加減ばかりするから俺は、」
「馬鹿め、あなたが、あなたが、と喚いているうちは甘ったれだということもわからんのか」
「……お、れは、」
「俺に本気を出させたいなら、君自身がそれを引き出してみせることだな。手心を加えるような余裕がないほど追いつめられたなら俺だって本気を出す。持てる力の全てを出そうともしていない青銅聖闘士様にはそれではご不満かな」
「な、何を、あなたには及ばないかもしれないが、俺はちゃんと全力で、」
「全力?」
 ほう、と、怖い声を出したミロの人差し指が、左目に巻かれた包帯の上をひっかくように滑る。
 彼の言う、『全力』が何を指しているかに気づいて、氷河はぐっと次の言葉を飲み込んだ。
「『完璧な師』のカミュなら今の君をどうすると思う」
「……………やめろ……カミュの話をするな」
「そうやっていつまでも向き合わずに逃げるつもりか」
「……あなたには関係ない」
「本当に関係がないならとうにシベリアでもどこへでも追い出している。君が聖闘士である以上、事は君だけの問題ですまない。皆を危険に晒すような問題を抱えているなら俺は今ここで君に引導を渡す」
 ほとんど虚勢の氷河のそれとは違って、彼のそれは真実、有言実行だ。
 真紅の衝撃に貫かれた瞬間の激痛が記憶を揺さぶり、刻まれた蠍の心臓がずきずきと鈍く痛む。
「片目で戦う俺は足手まといだと言いたいのか」
「まさか!聖闘士には隻眼の者も、戦いの果てに五感を失ったままの者もいる。シャカなど見てみろ、両目を開かずとも簡単に君たちを捻じ伏せることができる。そんなものはハンデにもなりはしない」
 隻眼のままでも、では、戦えるのだ。
 ミロの言葉は、氷河にやや安堵をもたらした。同時に、では、ミロは氷河の何を問題だと言いたいのかわからずに混乱をももたらしたが。
 ミロは最後まで説明する気はないようだった。
 わからぬならこれまでだ、とばかりに氷河に背を向けて、宮の中へと戻っていく。
 さすがに愛想を尽かされたのだろうか。
 あまり気の長い性質に見えない彼にしては、満足に反撃できもしない氷河に、これまで辛抱強くつきあってくれたことの方が奇跡だったのかもしれない。
 痛むわけでもない左目に自然と手がいき、氷河はぐっと唇を噛みしめた。

 じゃり、と小石を踏む音でハッと顏を上げれば、いつの間に取って返して来たのか、目の前には再びミロが立っていた。
「あ……」
 さすがにそう何度もは、うっかりと師の名を呼んでしまう間違いを犯しはしなかったが、代わりに、間の抜けた、惚けた声が出た。
 油断だ、とまた呆れられるかと思ったが、もはやその価値もなくなったか、ミロはそれに反応することはなく、ただ、何かを氷河へ放って寄越した。
 慌てて片手でそれを受け止めて、拳を開いて手のひらの中にあるものを発見して氷河は困惑した。
 封を切る前の真新しい包帯だ。
 手当てをしろ、という意味だろうか。確かに防戦一方でボロボロの身体は擦り傷切り傷に打ち身、満身創痍と言ったところだが、きちんと手当てをするには包帯一巻では到底足らない。
 意図を窺おうとミロを見返せば、ミロの切れ長の瞳は温度なく氷河を見下ろしていた。
「理由も事情も『関係のない』俺には言わなくていい。だが、そうすると君が選択したのなら中途半端な覚悟ではいるな」
「何のことを言っているのか、」
「自分で気づいていないのか?身体の左側が強張っていてまるで動いていない。それに、しょっちゅう左目に手をやっている。どうぞ攻撃してくれと弱点を晒して歩いていては、赤子のシロクマでさえ簡単に君を殺せる。手加減するな、と君は言うが、俺だって無防備に喉笛を差し出しているような人間を嬲り殺すような真似は御免だ」
 うそだ、と氷河は唇を震わせた。
 聖闘士として厳しい戦いをいくつも経験した氷河としては、そこまであからさまに弱点を晒すような真似はしていないはずだった。
 ミロが大袈裟なのか、自分の方が間違っているのか。
「俺は、」
 その時、不意に、ミロの手のひらが、ポン、と氷河の頭の上に乗せられた。死角で動いたそれに気づかずに、びく、と小さく肩が跳ねたのを、ミロがくすりと笑う。
 ほらな、と容赦なく指摘されたようで、氷河の顔は強張った。
 違う、今のは、と表情を強張らせたまま首を振ろうとすれば、そんな悲愴な顏をするな、とミロの笑みが苦いものを飲んだかのように崩れた。
「だから、いっそのこと、荒療治だ」
「荒療治?」
「それで両目とも覆ってしまえ。なまじ半端に見えるから満足でない視界に頼ることになる」
「……は?」
 ぽかんと口を開けて氷河は手の中の包帯を見た。
 両目を、塞ぐ……?
 あまりに予想外で突拍子もない提案だ。
 てっきり、力づくで包帯を剥ぎ取られて責め立てられるか、勝手にしろ、と放り出されるかすると思っていたのだが。
 早くしろ、とミロは氷河の頭を乱雑に掻き回している。
 両目を覆って戦うなんて馬鹿げている。
 なんと意地悪なんだろう。ミロは俺をからかっているのだ。
 だが、わしゃわしゃと掻き回す大きな手のひらの隙間から見上げたミロの瞳は、冗談めかして笑ってはいたが、ごくごく真剣だった。
 氷河は視線を落として包帯を見つめる。
 答えはもう決まっていた。

**

 惨憺たるものだった。

 片目ですら歯が立たない格上の聖闘士相手に、視覚なしでいきなり通用するはずがない。
 何のための小宇宙だ、目で見ていた感覚は捨てろ、第七感に目覚めた感覚を思い出せ、と繰り返されるミロの言葉ももう届かないほど、限界まで何度も地面に叩きつけられ、指一本動かせなくなったところで、ミロが、襤褸雑巾のようになった氷河の身体を肩の上へ担ぎ上げて、一日が終わった。
「いやだ、終わりたくない」
 うわ言のように吐き出した氷河の掠れた声を拾って、ミロがフッと笑った気配がした。
「俺にも少しは休ませてくれ。……案外と君の相手は骨が折れる。しぶといからな」
 表情が見えないと、それがどういう意味で発せられた言葉なのか読むのも意外に難しい。バカにされたわけでも叱られたわけでもないことはわかったが、憐れみか、同情か、淡く甘さが乗った声はどういう意図で発せられたものかよくわからなかった。

 疲労困憊で食事をとることも億劫で、氷河は、あとでいい、とミロの誘いを断って、汗や血を洗い流すために軽く湯浴みだけして、そのままふらふらとどうにか寝室まで歩いた。
 本当はこのまま寝具に身を包んで泥のように眠りたかったが、いつもの定位置へ寝具を広げてしまえば、後から来るはずのミロが己の寝台へ近づく邪魔になるだろうと思い、固く冷たい石の床の上へ、とりあえずは身体だけを横たえた。
 限界の身体にはそれでも十分すぎるほどの休息だった。
 深く呼吸すると、ミロの拳によってダメージを受けた細胞がじわりじわりと再生し、回復しようとしているのを感じる。生きていることは不思議なもので、そこに氷河の意志は何もなくとも、生命活動は勝手に未来を目指して繋げられていく。
 ぼんやりと見上げた高い天井は、今はまた半分欠けている。
 湯浴みの際に包帯は一度外し、迷った末に、氷河はやはり左目だけを巻き直して浴場から出たのだ。


 少し見ないくらいの澄んだ青だな、と、そう師が言ったのは、あれはいつのことだっただろう。
 師をずいぶん高く見上げていた記憶からして、きっと、シベリアへ来てすぐの頃だ。
 あまり外見の美醜に言及することがなかったカミュが、ただ一度だけ、氷河の瞳を感嘆するようにそう評したのだ。
 バイカル湖の色だな、と、シベリアの真珠と言われる、あまりに美しい湖に比されたものだから、恥ずかしくなって氷河は俯いた。
 本当だ、なみなみと水を湛えていつも濡れているところまでそっくりだ、などと横からアイザックが茶化したものだから、すぐに、まだ三回しか泣いてない!ときっと顏を上げる羽目になったけれど。
 三回泣けば十分だ、とカミュは笑いを堪えていて、それがやっぱり恥ずかしくて、氷河は、顔が赤くなるのを誤魔化すように、でも、先生の瞳の方がずっとずっと綺麗です!と慌てて言った。
 実際、最初に会った時は、その赤い瞳に驚いたのだ。
 見たことがないような美しい赤毛と、その色を映したかのような赤い色の瞳は、ほんの少し怖くて、でも、冷たく凍えたシベリアの大地にそこだけ温かな色を添えていて、不思議なほど惹きつけられた。
「あの、先生の瞳は、赤くて綺麗で……赤くて……ええと、スイカみたいです」
 大真面目にそう言った氷河にカミュは、そうか、と堪えていた笑いを抑えきれずに頬を震わせ、アイザックは横で「スイカ……?」と呆れていた。
 お前な、シベリアの真珠に例えた先生に対してそれは失礼じゃないのか、と言われてもまるで氷河にはピンと来ていなかった。そのときの氷河が思いつく「赤いもの」の中で、一番好きなものがそれだったから。
 瑞々しくて甘くて、極北のシベリアでは簡単に手に入らない高級品で、だから、見れば心が躍る、氷河には特別なものだ。最上級の賛辞のつもりだった。伝わりはしなかったが。
 後からアイザックが、一般的に見て美しいもの、綺麗なものに例えるんだよ、と教えてくれて、なるほどそうか、と一瞬わかったような気がしたが、つい今しがた笑われたばかりでは、「一般的」とはどういうものを指すのか自分の感覚に自信はなく、「りんご?」「微妙」「夕陽!」「まあまあ合格」「フェラーリは?」「赤いとは限らない」「さくらんぼは赤いぞ」「……食べ物からは一旦離れよう」などとアイザックと言い合い、最終的に、宝石に例えるのが一番間違いがないというところに落ち着いた。
「赤い宝石ってなんだろう。ルビー?」
「そうだなあ、ガーネットも赤い」
「でも、先生のはそういう深い赤よりもうちょっと透明っぽい」
「じゃあどっちかと言うとルビーなのかな。今度図鑑で調べてみよう」
「うん」
「お前はアクアマリンって感じだな。深海の幾重にも折り重なった深い青じゃなくまだ何も混じり合っていない浅瀬の透明な水みたいな」
「また涙だって言いたいんだろ、どうせ」
「違うって。……さっきは悪かった。本当は綺麗だなってずっと思ってた。先生に先を越されてちょっと悔しかったんだ。もう言わない。お前が泣かない限りは」
「………………だから、俺、本当にそんなに泣いていないって」
「うん、わかってる」

 アイザックは、やさしい兄のようだった。
 常に真正直で清廉で、カミュを心から敬愛していた。

 海闘士として氷河の前に立ったとき、アイザックの心の中では一体、何が起こっていたのだろうか。

 開口一番、「白鳥座の聖衣、似合っている」と、アイザックはそう言った。
 彼自身、それを纏うことを夢見て、何年も厳しい修行に身を置いていたに関わらず、よりによって、それを台無しにした当の原因が纏っている姿を見てさえ、そう言ったのだ。
 声に含まれていたのは、皮肉でも怒りでも、ましてや羨望でもなかった、と思う。
 その聖衣はもう自分には関係ないものだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、と、まるで見えない一線を引かれたかのような冷たい声だった。

 これは本当に俺の知るあのアイザックなのか、と、その時覚えた違和感は戦う中でより一層強くなった。
「俺の目を潰せ」と氷河は言ったが、アイザックはそうしなかった。
 動脈を切ったのか目を開くことができないほど出血がひどく、結果として、アイザックと同様に片目で戦うことにはなったが、傷ついたのはたった薄皮一枚、瞼だけだ。
 無抵抗に跪いていた氷河を相手に、まさか目測を誤ったわけではないだろう。眼球ごと抉った方がよほど簡単だったはずだ。
 情けをかけられたのだ、とその時は感じた。
 だが、そうではなかった。
 アイザックは主張していたのだ、と思う。
 お前によって聖闘士の道を断たれたから仕方なく海闘士になったわけではない、俺は、自ら選択して(・・・・・・)信じる大義を変えた、だから、お前の瞳など今更奪う理由が俺にはない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、と……それは彼が海闘士となっても変わらず持ち続けていた矜持だったのだろう、と、戦いが終わった今ではそう理解している。

 無垢な赤子や年老いた人々までも苦しみながら海に飲み込まれていくことに何も感じないような、真に非情な人間ではなかったことを氷河はよく知っている。
 虚栄心や権力欲ともまるで無縁だった。
 あれほど聡くやさしかったアイザックが、なぜ、地上の人々の命を大量に奪う企みこそが正義だと誤信したのか氷河にはわからない。美しい地上を作り上げるため一度全てを破壊する、というのは完全な詭弁だ。破壊の上に成り立つ平和は平和ではない。
 氷河の愚かさがアイザックを海へと結びつけたのだとしても、本質的に正義を目指す心が変わっていなくとも、それでも、それは見過ごせない過ちだった。
 そこここにかつてのアイザックの欠片が残る彼を討つことは、酷く氷河の心を苛んだが、過ちを犯し続けるかつての兄弟子の姿はこれ以上見ていられなかった。
 誰かが終わりにしなければならなかった。師が───師は、もういないのだ、己以外に彼を止められる人間はいなかった。

 アイザックが犯した罪については、彼の死をもって決着がついた。

 だが代わりに───

 氷河は彼に対して過ちを償う機会を永遠に失った。


『カミュなら今の君をどうすると思う』
 ミロの声がまだ耳に残っている。
 責任などと口にできるのは、荷を負うのにふさわしき実力を備えたものだけだ、と、かつて師はそう言った。聖闘士でなかった氷河の代わりに、全ての荷をカミュは負ったが、今は───今なら、氷河は聖闘士だ。せめて彼の失われた左目の責任を負いたい、と。そう考えても許されるだろうか。
 今更、だろう。
 結果を思えば、こんなもので負えるほど、その荷は重くない。それでも、せめて、同じ、半分欠けた世界を通して、彼が何を思って戦ったのか理解したい、と思わずにはいられない。
 俺はまた意味のない拘りで過ちを繰り返しているのだろうか。
 今こそカミュの導きが欲しいのに、そのカミュはもう───
 また息苦しさで胸が掻きむしられそうになり、氷河の全身ががくがくと震えだす。
 考えるたびに苦しさは増していき、もう、何が正解かを考えることにも疲れていた。
 聖闘士であるために必死になればなるほど、正解から遠ざかっていくようで、どう生きていいかわからない。
 両目を塞いで、世界の全てに背中を向けて、ゆらゆらと水底で揺蕩う母を彩る花の一つになれたらどんなに楽だろう……あの水底には苦痛も悲しみも何もなかった……


「遅いと思えばここにいたのか」
 突然に降ってきた声に、氷河はハッとして目を見開いた。
 俺は今、何を考えていた?
 まるで心の中を見ていたようなタイミングで現れたミロに動揺し、いや、と慌てて氷河は起き上がろうとした。
 だが、身体は酷く重く、咄嗟には起き上がることもできずに、徒に忙しなく瞬きをしただけに終わったが。
「そんなに慌てなくていい。別に俺は怒ったわけじゃない。疲れているなら床になど転がらずに上で眠ればいいものを」
 ほら、と腕を取って、ミロは氷河の身体を寝台の上まで引っ張り上げた。
「いや、それではあなたが……」
「気にするな、たまには逆でもいいだろう。床では寝れないなどという繊細さは俺にはないぞ」
「だからって、駄目だ。そういうわけにはいかない」
 君は律儀だな、とミロは苦笑して、己も寝台の縁に腰掛けた。ミロ自身も湯浴みを済ませたのか、長い巻き毛は濡れて、その曲線を失っている。
「カミュもそうだった」
 ミロの言葉に、心臓が大きな音を立てた。
「融通が利かな過ぎるほどにカミュは律儀だった。カミュに育てられた君が似るのもわからないではない」
 もう一度重ねられたミロの言葉に、氷河は、あ、と声を漏らしたきり、動けなくなった。
 叫び出したくなるほどの苦しさがまた臓腑をせり上がる。
 勝手に全身が震えだして、意識を保つことが難しい。
「カミュの話をしよう、氷河」
 したい。カミュに会いたい。
 ───違う、したくない。話などしたところでカミュにはもう会えないという事実は変わらない。
 チカチカと視界が明滅する。ブラックアウトの兆候だ。意識が身体に踏みとどまれない。
 だが、だめだ、とミロの手が、震えている氷河の手の甲の上へ重ねられた。
「これ以上逃げるなと言っただろう」
 逃げたいと思っていない。だが、カミュのことを考えれば、自分が制御できなくなる。
「排除できないものを排除しようとするから苦しいんだ。苦しいなら、ただ、苦しいと認めればいい。そうしなければ何も始まらない」
 ミロが何を言っているかわからない。
 呼吸が乱れて酸素が足らない。違う、酸素が過多で息が吐けない。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 逃げたくない、逃げたくないのに、身体が。
 仕方のない奴だな、とミロが、がくがくと震える氷河の身体を引いた。
 がくん、と大きく傾いで、ミロの胸に額がぶつかる。
 頬を挟むようにミロの両手のひらが触れる。
「……?」
 間近に迫った瞳と、唇に触れた温かさにも、何が起こったかよくわからなかった。
「荒療治だと言っただろう」
 不穏な台詞とちぐはぐなやさしい声が零れる唇がもう一度氷河のそれへ触れた。

 温かい。
 俺はこの温かさを知っている。

 激しい既視感に包まれて、氷河は何度も瞬いた。
 気づけば息苦しさはいつの間にか消えていた。