寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第二部 05◆


 中庭の木々がさわさわと風の形に揺れている。
 額を流れる汗を手の甲で拭って、氷河は、乱れた息を整えるため、二度、三度と深く呼吸した。
 天蠍宮の回廊の形に沿って植えられた常緑樹はまだ枝をしならせて揺れている。
 冷たさの残る風だが汗ばんだ身体にはそれが少し心地よい。
 乱れていた呼吸はすぐに落ち着きを取り戻した。
 数日前まではほんの小一時間動くだけで息が上がっていたが、朝からずっと動いていてもさほど身体は重くない。順調に快復している証は上々と言えたが、こうなってくると今のこの状況は物足らない。
 天蠍宮の中庭だけで、それも一人でできる鍛錬など知れている。
 もっと身体を動かしたい。
 鉛を流し込まれたように身体が重くなるほど疲れきって心を空にしておかなければ、息苦しさで押しつぶされそうだ。
 ミロはどこへ行ったのか、目が覚めたときには姿がなかった。鍛錬するのにミロの手を借りたい一方で、昨夜の気まずいやりとりを蒸し返されるのもごめんだ。すっかりと整えられた空のベッドを、氷河はがっかりしたような、安堵したような複雑な思いで眺めたのだった。
 ───やはりシベリアへ戻るか。
 ミロのことが少し苦手だ。
 尊敬はしている。
 素晴らしい聖闘士であることには疑いがない。
 対峙したときの、恐ろしいほどの攻撃性と鋭さは普段は形を潜めていて、本来の彼は、時々言の葉が意地悪に尖るほかは存外に親切で紳士的だ。
 ヒエラルキーの明確な聖域において、黄金聖闘士というのは雲の上の存在だが、雑兵たちはミロに対しては、近寄り難い畏怖の中にも、若干ながら親しみを感じているように見え、彼の普段の人柄もそれでなんとなく察せられる。
 だが一般的に好感が持てることと、個人的に相性が合う合わないは別の話だ。
 あの深く鋭い青に見つめられると、全部見透かされそうで落ち着かない。
 昨夜もそうだ。
 あの勘の良さはどうだろう。
 聖域の夜は街から離れているせいか風の音がうるさいシベリアよりよほど静かだ。
 静かな夜も3日目を数えると、主の戻りが遅いことがさすがに少し気にもなる。外の様子でも窺おうと、宮の入り口まで出てみたのがいけなかった。
 見上げた斜面の中腹に、夜空に散らばった星の煌めきに彩られるように、特徴的な宝瓶宮の屋根が見えた。
 あっと氷河は小さく息を飲む。
 カミュの元へ行かなければ、と、ただその思いだけで這うように天蠍宮を後にした、あの日見た光景が、二重写しのようにそこに重なり、気がつけば、思わずふらふらと足を踏み出していた。

 記憶に導かれるように、ただ茫然と足を踏み出していた氷河が、我に返ったのは磨羯宮にさしかかった時だ。
 ───違う。
 刺すような違和感が氷河の足を止めさせる。
 恐ろしいほど静かだ。いや、静けさだけなら、あのときもそうだった。シュラは気配を潜めていて、物音と言えば、自分たちの走る足音だけしか聞こえなかった。
 氷河が今感じているのはそういう静けさではない。音だけではなく、空気も、温度も、時間さえ───磨羯宮は宮全体が死んでしまったかのように、虚無の闇に包まれていた。

 宮が主を失うとは、こういうことなのか。

 人馬宮では気づかなかった。氷河が知る人馬宮は最初からそうだったから。
 だが、ここ、磨羯宮は───
 氷河は足を止めたまま、次に控える宮をおそるおそる間近に見上げた。
 月明かりに浮かぶ黒い宮影は禍々しいほど暗く、冷たい、死の静寂に包まれて、まるで……巨大な墓標だ。
 ごくりと、喉につかえる不快な塊を飲み下して、氷河は一段、一段、石段を上る。
 あの日もこうして上った。唯一、火時計が燃えていないほかは、目に入る景色すべてがあの日の記憶を呼び起こす。
 ミロと戦った後の身体は指一本動かすこともできないほど極限状態にあったはずだが、不思議に痛みも重さも何も感じなかった。
 今は。
 今は、酷く身体が重い。一歩踏み出すたびに、重さが増して、嫌な汗がどっと噴き出る。小宇宙は無意識に燃え、冷たい炎が氷河を守るように包む。
 一体何と戦うための小宇宙なのか氷河自身理解できていないが、何かで身を守っていなければ立っていられないほど背が震えていた。

 宝瓶宮に行っていたのか、と問うたミロは核心をついていたが───行っていない、と氷河が答えたのもまた嘘ではない。
 氷河は、結局、石段を全て上りきる前に足を止め、そしてそこで踵を返したのだ。
 ───行けなかった。
 なぜなのか、自分でもよくわからなかった。
 死の世界はずっと氷河の身近にあった。
 だから、墓標にも死者にも恐怖を感じることはない。
 城戸の屋敷に集められた幼い頃、星矢が悪い顔をして幽霊話を始めたことがあったが、きゃあきゃあと皆が悲鳴を上げるのを、氷河は初め、嬉しさで悲鳴を上げているのだと勘違いをしたほどだ。だって……もう会えない、と絶望していたひとに、例え幽霊という形ででも会えるなら最高じゃないか。半泣きで布団を被っている子どもたちの間でひとり、うっすら笑みを浮かべていた氷河に、星矢が、俺のニホンゴ難しかったか、と今度は身振り手振り大げさな表情つきでもう一度同じ話を繰り返して、それでようやく、星矢は俺を怖がらせようとしていたのだ、と遅れて理解したが、意図を理解しただけで、やっぱり恐怖は感じなかった。
 幽霊も、霊魂も、かつての家族であり、友人であり、仲間だ。生と死の境界を超えただけで突然に恐怖の対象になる理由が氷河には今もわからない。
 それなのに、静まりかえった宝瓶宮を想像すれば背が酷く震えてしまう。ばかりか、海溝に沈んでいく船と、崩壊していく海底神殿のイメージまでもが次々に浮かんでは消えて、その震えに拍車をかける。
 それが何を意味しているのか、思考がうまくまとまらない。立て続けに起きた戦いは、氷河から思考する力を奪い、何をしていても頭の芯がじんわりと痺れて心の中もまるで霞がかったようだ。

 ちりちりと身を刺す凍気を肌に感じて、氷河はハッと我に返った。
 闇に包まれた宝瓶宮に思いを馳せているうちに、また知らぬ間に小宇宙が燃えていたようだ。
 ふるふる、と大きく首を振って、身を包んでいた冷たい炎を四方に霧散させ、氷河は自分の居場所を確認するように瞳を瞬かせる。
 天蠍宮の中庭だ、ここは。シベリアでも宝瓶宮でもない。
 俺は聖闘士だ。
 女神を護って、戦う、ただそれだけだ。
 余計なことを考えるな、と己を強く叱咤していた時だ。
「雑念だらけだ」
 不意に耳元で低い声が響いたことに驚き、ビク、と氷河の背が跳ねた。
「ミ、ロ……」
 振り返れない。
 背に当てられた温かな手のひらが氷河を害する意志を持っていたら、確実に今、また命を落としていた。
 背に嫌な汗が流れる。
 ───だから、苦手なんだ。
 やさしい声で容赦なく氷河の弱さを突きつける。
「戻ったなら戻ったと……黙って背後をとるのは趣味が悪い……っ」
 唇を噛んで抗議すれば、背に当てられていた手のひらがぐっと拳の形へ握られて、甘ったれた坊やめ、と笑われた。
 図星を指されて頬が熱い。
「俺は声はかけたぞ。何度もな」
 ミロがそう言うのなら、多分そのとおりなのだろう。己の世界に過剰に集中し過ぎていた自覚はあった。
 それでも、それをそのまま認めてしまうのは悔しく、精一杯の強がりを吐く。
「十二宮内で背後からいきなり襲われることなんかそうそうないだろ……っ」
 結局は、だから完全に油断していました、と認めたも同然だ。言った瞬間に自分でもしまったと思い、いっそう笑われるか、呆れられるかするのを覚悟したが、背後の気配は黙したままだ。
「……?」
 怪訝に思っておそるおそる振り返ってみれば、意外にも険を滲ませた真剣な瞳が氷河を見下ろしていて、ドッと心臓が跳ねた。
「……ミロ……?」
「どこにいても油断はするな。十二宮はもう完全無欠の要塞とは言えない。半分の宮は主を失ったからな」
 あっと息を飲むと同時に、真っ赤に燃える焼き鏝を心臓の中心に押しつけられたような激烈な痛みが走った。
 白い嵐の向こうにゆっくりと倒れていく師の姿が脳裏をちらつく。まるで墓標のように静まりかえった宝瓶宮の黒い影───
 全身に冷たい汗が滲み、叫び出しそうな衝動が腹の底からわき上がり、水底にいるかのように息ができない。
 万力で全身を締め上げられているかのように、血の気が引いているのがわかる。
 気分が悪い。吐きそうだ。
 ミロは事実を確認しただけだ。
 今更だ。氷河も理解している。昨夜だってまざまざと感じた。主のない宮は多い。
 聖闘士として生きることは、こうした痛みと常に背中合わせで生きるということだ。わかっていて、氷河は聖闘士であることを選択した。星矢たちと共に戦うことに、強い使命感と喜びを見いだして、それは確かに、氷河を強く生の世界へ結びつけている、それなのに、何故こうも身体が言うことをきかないのか。
 ミロが何か言っているのが聞こえる。だが音が聞こえるばかりで何を言っているのか意味が頭に入らない。気持ちばかりが焦り、嫌な汗がつぎつぎに流れる。
 なんでもいい。何か返事をしろ。
 ただそれだけのことでこの場は取り繕える。
 理解しているのに、なすすべなくただ翻弄され、氷河の視界は徐々に暗くなっていき、最後はぐるりと黒く暗転した。

**

「信仰でもしているのか?お前が神に祈ってるところなんか見たことないけど」
 枕代わりに氷河の腹に頭を乗せていたアイザックが上目遣いの視線を寄越す。
 はばかるように低く落とした声は、隣の部屋にいる師に、とうに休んでいなければならない時間にまだ起きていることを悟られないようにするためだ。
 ガタガタと風に鳴った窓枠の音が邪魔をして全てを聞き取れず、氷河は小首を傾げた。
「何の話だ?」
「それ。いつも着けてるだろ」
 指さした先を目で追って、ああ、と氷河は身を起こした。拍子にころりとアイザックの頭がベッドの上へ落ちて、いてえよ、と抗議の声が上がる。
 ごめん、と謝っておいて、首もとから銀の鎖をたぐり寄せて、これのことか?と氷河は彼の前に十字の祈具をぶらさげた。
 そうそう、と頷いて、アイザックは、お前を枕にするときに当たって痛いんだ、いつも気になっていた、と肩をすくめる。
 互いを枕にし始めたのは昨日今日の話ではないのに、いつも気になっていたという割に何年も口にしなかったのは、彼の思慮深さとやさしさゆえだろう。
 アイザックは本当にいい奴だ、彼が聖闘士にならずして誰がなるというのだろう、ともう何度目か知れない思いがわき起こったが、さすがにそれをそのまま口にするには少々恥ずかしい年齢だ。
 照れ隠しに、ふん、と目をそらしながら、氷河は、勝手に枕にしといて痛いとか文句を言うな、と言って、逆に彼の腹の上へ己の頭を乗せた。
「信仰していたのはマーマだ。俺じゃない。マーマのもので残ったのはこれだけだった」
「………そうだったのか」
 出会ってすぐの頃は、マーマという単語を発しただけで涙が滲んでいたせいか、アイザックが、よしよし、と言いたげに腹の上へ乗った氷河の頭を撫でる。
 それが気持ちよくて、もっと、と、ぐりぐりと腹に頭を押しつければ、ばか、くすぐったいだろ、とアイザックが声を上げて笑った。
「女神の聖闘士になろうっていうのに異教の十字架を拠り所にしているのはまずいんじゃないかとずっと気になってたんだ。形見なら仕方ないか」
「カミサマなんか拠り所にはならないさ。いざってときに助けてくれないことはよく思い知った。本当はいないって言われても俺は驚かない」
「おいおい、それは『女神の』聖闘士としても問題発言だぞ。俺たちの神は聖域にいる」
「…………まだ聖闘士じゃないからセーフ」
 本当は、女神なんかに仕える気だって毛頭なかったわけだが、それを口にすればこの生活は終わりだと言うことはさすがにわかっていたから、氷河はそう言って口を閉ざした。
 聖闘士じゃなくとも物の言いようがあるだろ、先生に心構えを教えていただいたじゃないか、と、アイザックは、氷河の不敬を心底案じて、声を潜める。
 まるで、神がすぐ傍でそれを聞いていやしないかと畏れるかのように。
 この件に関しては何を言っても平行線だと知っている氷河は黙り込み、そんな氷河を扱いあぐねて、アイザックもまた沈黙する。
 会話が途切れた二人の間で、細い銀の鎖に通された十字架だけが所在なげにぶらぶらと揺れている。
 先に口を開いたのはアイザックだ。
「……俺たちが目指してる聖衣、あるだろ」
「何だよ、急に。白鳥座の聖衣のことか?」
「そうだ。白鳥座は別名、北十字星だ。ちょうどこれと同じ形をしている。ほら、ここがデネブで、サドル、アルビレオ……」
「ああ……」
 アイザックが十字架の上へ星の軌跡を描くように指を動かしていく。
「ノーザンクロスだ。白鳥座の守護をお前は既に持っているなんて、運命的だと思わないか」
 ま、だからって俺も譲る気はこれっぽっちもないけど、とアイザックは氷河を抱き抱えて笑った。
 何言ってるんだ、そんなのこじつけだ、と氷河も笑う。
 いつもそうだ。後ろ向きになりそうになるたび、アイザックの真っ直ぐな明るさが氷河を救ってきた。
 今もまた神の存在を巡って拗ねていた心は少し上向いた。
 堅かった空気はゆるりとほどけて、今すぐ勝負をつけるか?と軽く拳を握ってみせたアイザックの声は楽しげな色を滲ませていて、いいぞ、と氷河も拳を握ってそれに応える。
 師に気づかれないように気配を潜め、ベッドの上でじゃれ合うように上になり下になりを繰り返していたが、だがしかし、不意にアイザックの動きが止まり、ポツンとひとつ、氷河の上へ温かな滴が落ちた。
「……アイザック……?」
 俯いた前髪が影を作っていてアイザックの表情は読めない。だがさっきまでの忍び笑いはいつの間にか止んでいる。
 またひとつ、滴が氷河の上へ落ちてきた。
 ───涙……?
 酷い不安に襲われて、氷河はゆるりと身体を起こす。
「アイザック……」
「俺は聖闘士にはなれない」
「……え……っ?」
 アイザックの顔がよく見えない。
 こんな怖い声を聞いたことがない。
 どくどくと心臓が脈打つ。
「どうかしたのか、先生を呼ぼうか……?」
 恐ろしくなって師に助けを求めようと、氷河は後ずさって腰を浮かせる。
「カミュならいない」
「……いや、だってさっきまで……」
「もう死んだ。お前が殺した」
 そうだろう、氷河、と正面を向いたアイザックの左目がまるで泣いているかのように血を流している。
 息を飲んで、己の上に落ちた滴を慌てて拭って見てみれば手のひらが真っ赤に染まった。
「あ……あああーー……っ」

 目を開くと同時に跳ね起きて、氷河は身体を二つに折って激しく肩で息をした。
 これ以上ないほど心臓が暴れ回っていて、酸素の足らない肺はキリキリと痛みを伝える。
 全身は震え、背はじっとりと冷たく濡れていた。
 震える手のひらを開いてみたが、汗で湿っているだけで血に染まってはいない。
 見間違いではないかと拳を握って開いてを繰り返してみたが、何度見ても健康的に灼けた肌の色が見えるだけだ。
 ───夢、だ。
 理解してなお、確信しきれないほどにはリアルだった。確かに体温も息づかいも感じていた。
 夢、なのか……。
 覚める瞬間に絶望的な恐怖を味わったというのに、半ば強制的に離脱させられてしまったその幻の世界に今すぐにも戻りたいと感じている自分を自覚して、胸が引きちぎられそうに痛い。例え夢でも、最後に耐え難い痛みが待っているのでも、あと少し、もう少しだけ、あの温かな身体にどうして触れていられなかったのか。
 こんなに苦しい思いをするくらいなら、カミュもアイザックももういないのだという事実を、いっそ夢の中でも抱え続けていられればよいのに、なぜか決まって夢の中では二人はまだ生きている。
 そのくせ、自分の心が見せる夢の中ですら自身を騙しきれないのか、最後はどうしようもない絶望的な別れを突きつけられて、幻は儚く消えてしまう。
 そんな夢を見てしまう自分の心根の弱さが苦しい。
 恨めしげな声で氷河を責める、あんなのは本当のアイザックじゃない。
 敵として対峙してすらアイザックは……
「気がついたか」
 無意識に左目を触りながら、身体を横に捻った氷河は、寝台の横へ座っていたミロとまともに目が合って心臓が縮み上がった。
 そうだ、天蠍宮だ、ここは。シベリアなんかじゃない。
 ───ミロは、ずっと側にいたのだろうか。
 俺は何かみっともないことを口走りはしなかったか。
 意識を失っていたのはどのくらいの時間だったのか。
「……すみません、またあなたのベッドを」
 探るようにおずおずと言った氷河へは答えずに、ミロが腕を伸ばして手の甲で氷河の頬を撫でた。
「酷い顔色をしている」
「……ゆ、雪灼けだ」
「それに尋常じゃない汗だ」
「暑いせいだ。聖域は俺には暖かすぎる」
「昨夜は『雪が降った』はずだが」
 あっと思わず氷河は声を上げた。
 その場しのぎについた嘘は巡り巡って結局己を窮地に陥らせる。お前は詰めが甘いと何度アイザックに笑われたか知れないのに。
 ぶわ、と一瞬でまた全身から嫌な汗が噴き出したが、ミロは昨夜同様に氷河の矛盾を深追いすることなく、するりと立ち上がって、サイドテーブルから水差しを取り上げ中身を注いでグラスを氷河へ差し出した。
 まるく波立つ透明の液体を見た瞬間、氷河は、己が猛烈に喉が乾いていることに気づいて、受け取ったグラスに夢中で唇をつけ、礼もそこそこにごくごくと喉を鳴らした。
 冷たい水が勢いよく喉を潤せば思考もいくらかは巡り始める。
 ぷは、と空のグラスから口を離し、唇の端から少しこぼれた中身を拳で拭いながら氷河はミロを見上げた。
「すまない。またあなたに迷惑をかけてしまった。多分、貧血だ。だいぶ血を失ったばかりから。はは」
 うまく笑えたかどうかはわからない。
 だが、立ち上がって、床に足をつけることには成功した。
「休んだからもう平気だ。ほら、動ける」
 両の足をしっかりと踏ん張ってみせたがミロは何も言わずに氷河を見下ろすばかりだ。
「………………俺、洗ってくる」
 全てを見透かすような瞳が居たたまれず、手に持ったままだったグラスに逃げ道を見つけて、ミロの脇をすり抜けようとしたが、その瞬間に、動きを封じるようにミロの腕が氷河の身体に巻き付けられた。
 抱き留められた形になって驚き、思わず手からつるりとグラスがこぼれ落ちる。
 あっと氷河は膝を折って石畳の床にそれが激突するのを阻止しようとしたが、腰に回されていたミロの腕が氷河の動きを邪魔して、華奢な硝子は重力によって叩きつけられた床の上で粉々に砕け散った。
「……すみません」
 半分、いやもっと多い過失割合はミロにあると思ったが、そう言わないのもおかしな気がして、とりあえずは口にしたが、ミロは相変わらず黙ったままだ。
 氷河の動きを止めるために回されていた腕はまだ、目的を達した後も氷河を閉じこめている。
 吐息で髪がそよぐほどの距離で感じる、自分より一回り以上も大きな体躯が発する熱が落ち着かない。逃げたい、と思い、だが同時に、どこかその温かさが記憶の中にある熱に重なって胸が切なく疼き、強く拘束されているわけでもないのに、氷河は動くことができない。

 どれくらいそうしていただろう。
 割れてしまったな、と酷く今更なことを言いながら、腰を屈めて床の上へ膝をついたミロの体温を、思わず追いかけてしまいそうになるほど、気づけばその温かさに身を委ねていた。
 自分を包んでいた熱が失われたことで我に返り、それと同時に、甘える幼子のように温かさに耽溺して我を失っていたことが急に恥ずかしくなり、砕け散ったガラスの破片を拾い集めているミロを押しのけるように屈んだ氷河は、両手を広げて乱雑に硝子を掻き集め始めた。
「おい!」
 険を含んだ声を上げてミロがすぐさま氷河を止めたが、既に遅かった。不規則に割れた硝子の欠片によって、手のひらは小さな切り傷が無数について済んでいた。じわ、と赤いものが滲む氷河の手のひらを見ながらミロがため息をつく。
「バカなことを」
「この程度、傷のうちに入らない」
「そういうことを言っているんじゃない。必要もないのに無駄な血を流すような人間は聖闘士には向かない。例えそれが自分の血であっても、だ」
「硝子で切ったくらいのことで大げさだ」
「怪我の大小の問題じゃない。そうせねばならないなら、心臓でも差し出すのが聖闘士だが、意味もなく自分の身体を疎かにする奴はただの死にたがりだ。死ぬために聖闘士でいられては迷惑極まりない」
「うっかりしていただけでそこまで邪推されてはこちらこそ迷惑だ!」
 ミロの追求から逃げ出すように氷河は立ち上がった。
 手を洗ってくる、と言って彼に背を向ける。
 駆けるように、氷河は、浴場の前室代わりの洗面へ飛び込んで、水道と呼ぶには心許ない簡易な設備の真鍮の水栓を開いた。
 両手を水に浸せば、透明な水に赤いものが混じり、錆びた鉄の臭いが辺りに漂う。痛みはあまり感じないが、無造作に触ったことが災いしてか、思ったより傷は深い。
 傷痕から溢れる血があっという間に排水口を赤く染め、氷河はそれが流れゆく様をぼんやりと見つめた。
 排水口に吸い込まれていく水の流れは、いつも氷河に、その先にきっと繋がっているに違いない大海の存在を思い出させる。
 海は、氷河には、心をじくじくと疼かせる存在だ。
 母親も、アイザックも海の底だ。そればかりか、カミュだっていた。否、カミュの姿形を借りたまやかしだったに過ぎなかったわけだが、それでも、氷河には真実だった瞬間もあった。
 そこに思いを馳せれば、息ができなくなる。
 苦しい。苦しいと感じることすらも苦痛を呼ぶ。
 死にたがり、だって?
 違う。そうであったなら、どんなに簡単だったか。生きていたいと願うから、こんなにも苦しい。
 せめて涙でも出れば楽になるのだろうか。
 だが、聖闘士に、過去に拘泥する涙は不要だ。カミュが、そう教えてくれた。
 だから、そんなものは全部、アイザックと、カミュの幻影とともに、あの海の底に葬ってきた。どれほど苦しくても、涙など、もう流れはしない。
「氷河」
 水場特有の反響して揺れる呼び声にハッとして顏を上げれば、水栓の上へ吊り下げられている、反射の鈍い銅鏡に、死人のような酷い顔色をした己の姿と、その背後に立つ人影が見えた。
「……っ、カ、……」
 なぜそう見間違えたのかわからない。
 カミュのことを考えていたせいかもしれないし、氷河を見下ろす背の高さに記憶が混乱して接続ミスを起こしたのかもしれない。
 包帯を持って立つ、鏡の中の青い瞳と目が合って、己の馬鹿げた間違いに気づいた瞬間にまた、氷河の胸は救いようのない苦しさで酷く締め付けられた。