アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第二部 04◆
このところすっきりとしない曇天が続いていたが、珍しく今朝は、爽やかな朝日が雲の隙間から細い帯状に幾筋も地上に降り注いでいる。
まるで地上の惑える魂が天に召されるのを導くかのような、その美しい光を、麓の人間は天使の梯子だと呼んでいた。なるほどよく言ったものだ。そう言われてみるともうあれは梯子にしか見えなくなるから不思議だ。
単なるものの喩えだと知りながら、それでも、梯子を上る天使の翼を、金色に輝く射手の聖衣に密やかに重ねて空想したことは一度や二度ではない。
今もまた、光の中に金色の翼が見えるような気がして、なんとなく、目を凝らしてしまったことに気づいてアイオリアは苦笑した。
見えるわけがない。
射手の聖衣は、ずっと女神の傍で彼女をお護りしていたのだから。
視線を前方へと移して、アイオリアは柔らかな土の斜面をゆっくりと下りていく。
無数に林立している石群にも陽の光が反射して少し眩しい。
こんなにも光が溢れているのに、どの石に刻まれている名も既にこの世にない過去の人間のもので、それは荘厳でありながら酷く寂しい光景だ。
道と呼ぶほどの道もない、迷路のような石群の間を縫って、まだ真新しい墓標へとアイオリアは辿り着いた。
正面へ回って膝を折ったところで、アイオリアは、おや、と軽く目を見開いた。
墓標に一輪、薄青の花が供えられていた。
まだ花弁が瑞々しく形を保っていて、供えられてそう時間が経っていないことが見てとれる。
先客がいたのは初めてのことだが、ありがたく思いこそすれ厭うようなものではない。
ふ、と軽く息を吐いて、アイオリアは己の拳を開いた。
開いたその拳にも、同じように一輪、白い花が握られている。
摘んだ時はピンと生命の煌めきを宿していた花は、真っ直ぐに光を向いて立っているところが兄に似ている気がして気に入っていたのだが、道中で強く握りしめすぎていたせいか、しんなりと茎が力を失っていて、アイオリアは少し困ったように笑った。
まあいい。兄は細かなことには拘るまい。
刻まれたばかりの名に、そうだろう、兄さん、とアイオリアは心の内で呼びかけた。
何年も前に亡くなったにも関わらず墓標が真新しいのは、ごくごく最近作られたせいだ。
長らく、こうして花を供える先もなく、雲からこぼれる光を梯子に見立てて、天に上る兄の姿をそっと思い浮かべることくらいしか、悼む手段はアイオリアにはなかった。
今もこの墓標の下には兄の「身体」はない。ないのだろう、と思う。
例えその名誉は回復されても、逆賊として打ち棄てられた兄の身体はもう取り返しはつかない。
どこへどう葬られたのか、当時の事情を知っているものも探せばいるのだろうが、敢えて探し回ったりはしていない。
兄はとうに肉体を必要としない世界へ旅立ったのだ。朽ちて無用となった魂の容れ物を、今更聖域に取り戻すことにそれほどの意味はない。
だから、この墓標の下に葬られたのは、兄というよりは、長いこと宙に浮いたままどこにもやり場がなかったアイオリアの喪失感なのかもしれなかった。
少しだけ感傷的な気分となって兄の名を見つめて、アイオリアは立ち上がった。
だが、立ち上がった瞬間に、視線のやや先に、見知った人影を発見して思わず驚いて息をのむ。
「……………悪い。邪魔をするつもりも覗き見るつもりもなかったんだが」
斜面を背に、墓標にもたれ掛かるように腰掛けていたミロがそう言って困ったように肩をすくめた。
彼の豊かな巻き毛に朝日が映えていて、そう言えばなんだか前方に光るものがあるな、と無意識に感じていたことに今頃気づいて、これで黄金聖闘士だとはな、と己の鈍さに呆れるばかりだ。
彼の方が先にいた上に、決して気配を消していたわけでもないのに気づかなかったのだから、謝られる筋合いはない。
いや、気にするな、と首を振って、アイオリアは彼の方へと近づいた。
数歩の距離まで近寄って、彼がもたれ掛かっている墓標に刻まれた名と、そこへ供えられた、今しがた見たのと同じ薄青の花に気づいて、ああ、と思わずアイオリアは口を開いた。
俺ももう一本花を持って来ればよかった。悼むべき死者は兄ばかりではない。俺はいつもそういうところが気がきかなくていけない。
「よくここに?」
手ぶらでは少々恰好がつかなかったが、それでも、胸に手を当てて目を閉じ、死者に敬意を払っておいてから、アクエリアスの名が刻まれた墓標を挟んでミロの反対側に腰掛け、アイオリアはそう問うた。
「いや……俺は二度目だな」
「そうか」
どうやら、互いにそう頻繁に訪れているわけでもなく、この邂逅は偶然の賜物に過ぎないようだ。
なんとなく会話も途切れて沈黙が漂う。
もともと口数が多い方でもない己はともかく、人好きのする性質の彼が言葉少ななことは珍しく、この静寂はどうにも気まずい。
もしかしたら、一人になりたかったのを邪魔したのは俺の方なのかもしれない。
ミロが動く気配がないため、気まずさに耐えかねて、では俺は先に、とアイオリアが立ち上がろうとしたときだ。
「一つ聞いてもいいか」
既に立ち上がるために地面に掌底をついてはいたが、それを元に戻し、さりげなく反対の手で土を払いながら、なんだ、とアイオリアは答えた。
その前に、とミロがこちらを見た。寝不足なのか、珍しく切れ長の瞳の下をうっすらと隈が縁取っている。
「アイオリア、俺を殴れ。お前の気が済むまで」
「……藪から棒になんだ?俺にはお前を殴る理由は何もない」
「わかっている。だが、お前になくとも俺にある。いいから殴れ。俺の気が済まない」
今、お前の気が済むまで、と言っていたのに、気が済まないのは実のところミロの方なのか。
「駄目だ。私闘になる」
「俺が反撃しなければ私闘ではない。お前が俺を殴るまで、俺はお前には何も聞けない」
聞きたいのはお前であって、俺はそこまでしてお前に何か聞かれたいわけでもないのだが。
だが、ミロはアイオリアの困惑などお構いなしのようだった。
よし、いいぞ、来い、と既に立ち上がって手足をぶらぶらさせている。
なぜ俺はよりによって今日、兄の墓標に手を合わせようなどと思い立ってしまったのだろう。
おかげで意味なく同朋を殴る羽目になっている。
知らんぞ、と言ってアイオリアも立ち上がった。なぜこんなことをしなければならないのか全く理解はできなかったが、ミロが悪ふざけでこんなことを言い出す奴ではないことについては信が置ける。供花の礼に彼の酔狂に乗ってやることにして、いくぞ、と、短く息を吐いてほとんど光速の拳を一発、アイオリアはミロの身体に打ち込んだ。
手は抜かなかった。
「気が済まない」とした彼の意図がどこにあるか知らないが、下手に生ぬるい拳を打ったのでは、徒に数を打つ羽目になることは目に見えていたからだ。
かはっと乾いた呼吸音を響かせてミロの膝ががくりと崩れる。
「……ッ、さ、すがに……き……くな……」
顔をしかめて苦笑いをしたミロに、気は済んだか、と手を差し出せば、「だが、お前の本気はこんなものじゃないだろう、アイオリア」という衝撃の一言とともに一閃、ミロの反撃の拳がアイオリアの鳩尾へと深く入った。
「な……ッ!?」
『反撃しなければ』なんだって?
わけがわからず不意打ちで痛みを食らっては本能が勝手に疼き出す。身に染み着いた戦士の習性が目の前の敵を倒せと言っていて、気づけばアイオリアは夢中でそれに従っていた。
何発殴り合ったかわからないが、ふらりと立ち上がったミロが、唇の端の赤いものを拭って拳を握ったのを機にようやくアイオリアは我に返って、待て!と肩で息をしながら彼を止めた。
「この辺りにしよう、俺はもう気が済んだ!」
「もう」どころか、最初からずっと済ませるような『気』などなかったのだがとりあえずはそう叫ぶと、ミロは動きを止めてアイオリアを見つめ、軽く頷くと、再び元の位置に腰を落ち着けなおし、ハアハアと激しく肩で息をした。
「お前とはもっと早くこうするべきだった」
「………俺はあんまりそうは思わないが」
墓標に片手をついて同じく肩で息をしながら、アイオリアはそう言った。
ミロの拳をいくつも受けた身体はまだその衝撃を細胞のひとつひとつに巡らせていて、うまく息をすることも難しい。
黄金聖闘士になったばかりの頃にしかミロと拳を合わせたことはないが、相変わらずとんでもなく速い。その上、記憶にあるよりずっと拳が重い。
───当然か。あれから何年経ったと思っている。共に戦う仲間の拳の重さも知らずに、長い月日を過ごしてしまっていたのだ。
「アイオロスのことは悪かった」
ミロが口を開いたのは、二人の息がようやく会話できるまでに整ったときだ。
どことなく予想はしていたか、やはりそれがこの殴り合いの原因か、とアイオリアは眉を寄せて、威嚇するような不機嫌な唸りを発した。
「お前に謝られる筋合いはない。……兄の潔白を信じきれなかった、という意味では俺も同罪だった。それが理由だったなら殴るのではなかった」
まったくの本心だった。
兄がこの十三年もの間、逆賊として聖域から追放され、墓標すらなかったことに関して、アイオリアは自分自身にも責があった、と感じている。
そしてその責はミロと己とで何ら違いを生じるものではない。
教皇の仮面の奥に潜む悪を見抜けず、あれほど正しく崇高だった射手座の魂を逆賊のままにさせておいたのは誰も彼も同じなのだ。血が繋がっているぶんだけ、むしろアイオリアの方が負うべき責は大きいとも言える。まるで被害者のような顔をしてミロからの謝罪を受けるいわれはどこにもなかった。
気まずさで怒ったような表情となったアイオリアに、だがミロは、ニヤ、と唇の端を上げた。
「お前はそう言うと思った。同じだけ俺も殴り返しておいたから、フィフティ・フィフティだ。だからこの件で自分を責めるのはこれで終わりにしよう、お互いに」
は、と拍子抜けして、思わずアイオリアはミロを見た。
俺のこの反応まで織り込み済みで先手を打っての「反撃」か。
それも、俺が自分自身を責めていることまでも見通しているかのような……
「……お前というやつは…」
ははっと、解けた笑いが自然にこみ上げた。
ゆるゆると積年抱えた蟠り(ミロに対して、というより、己自身に対しての)が解けていくような、温かな心地がアイオリアを包んでいた。
ミロの言うように、もっと早く、こんな風に肚を割ったつきあいができていたら、この十三年間は違うものになっていた、そんな気がした。
「それで、俺に聞きたいこととは何だ」
元々はそれが発端だったはずだ。
促すように彼の方を見やると、ああ、とミロは視線を遠くへ投げ、しばらく沈黙していたが、やがて、お前はどう克服したのかと思ってな、と呟くように言った。
「何をだ?」
「……アイオロスの死を、だ」
それは、と絶句したのは、それが琴線に触れる内容だったからではない。
「すまん。そういうことなら力にはなれない」
人に説いてきかせるような正解を俺は持っていない、情けない話だが俺もまだ模索中だ、正直にそう告げるとミロは頷いて、無神経なことを聞いて悪かった、今のは忘れてくれ、とあっさりと退いた。
いや、違う、そうじゃないと慌てたのはアイオリアだ。
無遠慮に他人の傷を抉るような真似を彼がするはずがないことには確信がある。それを敢えて踏み込んできたからには理由がある。バカ正直に上っ面の言葉尻だけ捉えて、力にはなれない、と返したことをアイオリアは激しく後悔していた。
「克服したいのか?お前も兄の……いや違うな……その、あー……カミュ、の死を……?」
忘れてくれ、と言ったなら本当に潔く会話を打ちきりかねない彼のことだ。どうにか会話を終わらせないために、なりふり構わず、アイオリアは真横の石碑に刻まれた名を咄嗟に口にしていた。
克服しかねるほど親しかったかどうかよくは知らなかったが、少なくとも死を悼むための供花を贈る程度には距離は近かったはずだ。
当てずっぽうだがそう的外れでもなかったか、ミロの眉根が僅かに引き攣れるように歪んだ。
「……俺の話じゃない」
「カミュのことではないのか」
「いや、カミュのことだ」
「……?」
困惑したアイオリアの表情に気づいて、ああ、とミロは声を上げた。
「聞いていなかったか。俺は今、カミュの弟子を預かっているんだ」
「白鳥座の?」
「ああ」
そういうことか、とアイオリアはようやく合点した。
正直に言えば、きちんと情報は伝わっていたが、まるで結びついていなかっただけなのだが、わざわざ己の鈍さを曝け出すこともあるまい、と、それについてはだんまりを決め込んで、代わりにアイオリアは問うた。
「かける言葉もないほど毎日塞ぎこんでいる、というわけか」
「そうじゃない。少なくとも俺の前ではそんな素振りは見せていない」
「では、隠れて泣いてでもいるのか」
「恐らくはそれも違うな。……あれは涙ではなかった」
「ならば何だ?気になることがあるのか?」
そうだな……と言いながら、ミロは墓標へと視線を落とした。
「弱音一つ吐かないのは、乗り越えたからではなく、そもそも死を受け入れていないせいなのか、と思ってな」
「受け入れていない?」
「氷河はここへは一度も来ていない。……カミュが葬られたところは見ていないんだ、彼は」
そうか、とアイオリアは記憶を探る。
そう、だったかもしれない。
黄金聖闘士たちと文字通りの死闘を繰り広げた青銅聖闘士は誰も彼も死線を彷徨っていた。覚醒したばかりの女神は、そんな彼らを酷く案じて、慣れぬ聖域ではなく、己のよく知るグラード財団の療養所へと運んだのだ。(聖域内部に己を害するものが潜んでいた事実を思えば、それも無理はないことだ)そして彼らは全ての傷も癒えぬうちに、女神を危機から救うため再び海界との戦いに赴くことになった。
氷河どころか、誰も、今日という日に至るまで一度も黄金聖闘士たちの墓碑すら目にする機会もなかったか。
ああ───それで、俺か。
心から敬い、憧れ、頼りにしていた兄は、ある日突然、女神を害する「敵」となった。ばかりか、遺体を目にしてもいなければ墓碑すらないにも関わらず、死んだとだけ聞かされた。そのせいばかりとは言えないが、兄が逆賊として死んだことを受け入れるのに費やした時間は決して少なくはなかった。
「……時間は必要だと思うが受け入れるしかない。カミュがもうこの世に存在しないことはそのうちに嫌というほど肌で感じるようになるだろう」
十三年目にしてようやく初めて兄の墓参りが叶ったアイオリアに言えるのはそれが精いっぱいだった。どんな言葉も、多分、少年の救いにはならない。無情に過ぎ去る時間だけが、彼に「哀しみの忘却」という僅かな癒しをもたらしてやることができるに過ぎない。
言葉にしてみればえらく冷たく響いたが多分気持ちは伝わったのだろう、そうだな、ほかに道はないとミロは頷いて、痛みを堪えるかのように眉間の皺を深めた。彼のそういう表情は珍しい。鋭さはあってもあまり表情に険しさは上らない男だ。
「……お前でも、そんな風に悩むことがあるのだな、ミロ」
聞きようによってはひどく失礼な言葉だが、心の底から不思議だったのだ。
兄が居た頃にしか親しく交流はしていなかったが、黄金聖闘士の中でも、他人と交わることにおいてミロほど器用な人間はいなかった。
アルデバランのように人が善いのとはまた違う。兄のように誰にも分け隔てなく親しむのとも異なり、どちらかと言えば気性は荒い方で、真を突く鋭い言の葉はしばしば周囲の人間をハッとさせていたが、彼は知らぬ間に人の懐に入り込むことに割に長けていたように思う。
今だってそうだ。アイオリアとは長らくこんな風に口をきく機会もなかったというのに、拳の痛みと引き換えに、いとも鮮やかに距離を縮めてみせた。アイオロスの死という、誰とも共有してこなかった痛みを、彼には言葉にしてみてもよいかと思わせるほどに。
本人がそのあたりを計算している様子はまるでなく、それゆえ、彼のその器用さは天賦の才で、他人との交わりに迷いを生じさせることなどないかのように思っていた。
少年一人の扱いくらい朝飯前のようにも見えるというのに、気の利いた答えが返らないことをわかっていてアイオリアに問うてみるなど、あまりに意外な姿だ。
悩むと言うほど大げさなものではないが、とミロは肩をすくめているが、そういう姿こそ、いつだって明解な答えを自分の中に持っているように見える彼らしくない。
───迷いもするか。己のことならともかく、カミュが命と引き換えに遺した忘れ形見のこととあれば。
「あー……俺は正直そういう、他人の心の機微のようなものには疎い」
何か彼の力になれれば、と大真面目に考えたにも関わらず、結局、思い付いたのはそんな言い訳めいた台詞くらいだ。どうにもこういうものは苦手だった。
だがこんなくだらぬ言い訳だけではミロは殴られ損だろう。せめて何かないか、とアイオリアは真剣に己の中を探って言葉を選ぶ。
「だが……俺自身の話をすれば、同じ気持ちを分かつ人間がいるというのは多少は慰めになったものだが」
「同じ気持ち?」
「……花を。人馬宮に花を供えてくれただろう。あれは、お前だったんだな」
忘れもしない、今、アクエリアスの墓標に供えられているのと同じ、薄青の花だった。
目立たぬよう、宮の柱の陰に一輪。
風で飛んででも来たのか、と最初は気にも留めなかったが、何度か繰り返されるたびに、ああ、もしやこれは供花なのか。墓標のない兄に対しての、と気づいて、ぐっと胸に熱いものが込み上げた。
一体誰かわからぬが、逆賊として、存在していたことを口にすることすら禁忌となった兄の死を悼んでいる存在が聖域にはあるのだ、と。
アイオリアの視線が注がれている先に気づくと、言わんとしたことを合点したのか、ああ、とミロはため息のような声を漏らした。
「あれは俺じゃない。……カミュが」
「…………そうだったか」
贈り主を知っている、ということはミロもまたその場にいたのだろう。人馬宮に黄金聖闘士が二人揃って近寄ることは難しかっただろうに。
カミュであろうとミロであろうと、結局は同じことだ。本人たちにはそんな意図はなかったに違いないその思いつきは、だが、確実に、アイオリアの救いになったのだ。
「俺はずっと兄に対して怒っていた。なぜ裏切ったのかと軽蔑もしていた。黄金聖闘士として、兄を責めることは当然だと思っていた。なぜあんな兄と血が繋がっているのかと己を呪ったこともある。だが、あれを見て……俺は、初めて涙と言うものを流した。本当はずっと『兄』の死が哀しかったのだ、とそれで自覚したんだ。例え女神に対して大罪を働いたとしても、怒りと軽蔑で心の中の兄をどれだけ踏みつけようと、温かかった兄の手の記憶も俺にはまた真実だった。『逆賊』が死んで哀しいと思っているなどとは後ろめたくてとても認められず、俺はただ兄を責め続けることで自分自身の心から逃げていた。結局、その後も向き合い切れたとは言えないが、一度哀しみを自覚したことで、兄に対する気持ちの昇華の仕方はずいぶん変わったように思う」
「……そうか」
「俺の話だ。役に立つかどうかはわからん」
いや、十分だ、と言ってミロは立ち上がった。陽が眩しいのか細く目を眇めている。
「言いにくいことを言わせて悪かった」
「いや、話せてよかった。なかったことになるよりずっといい」
ありがとう、という気持ちを込めて拳を出せば、頷いて、ミロは同じように拳を突き出してコツリと当てた。
「そろそろ俺は戻る。……アイオリア」
なんだ、と顏を上げれば、既に斜面に足を踏み出していたミロが半身振り返っていた。
「アイオロスは聖域の誇りだ」
お前は彼によく似ている、とそれだけ告げて去っていく背は少年時代と変わらず姿勢よく真っ直ぐだ。似ているというのなら、己よりよほど彼の方が兄に似ているような気がするが。兄が気に入っていた、曇りなき誇りが、巻き毛に彩られたあの背をピンと伸ばしている。
目の醒めるような気持ちの良い男だ。
生まれた時代が悪かったのかと鬱屈した時もあったが、彼と共に女神を護って戦えるなら、この時代も悪くない。
小さくなる背をしばし見送って、さて、とアイオリアも立ち上がる。
アクエリアス、と刻まれた石碑を昇り始めた陽が照らしている。
兄のために花を摘むことを思いついたという彼のために、去る前に何か、気の利いた言葉だけでも贈りたかったが、あいにく、どんな言葉を彼が喜ぶのか皆目見当はつかず、結局、アイオリアは拳で墓碑を軽く磨いて、また来る、とそこを後にした。
次は花を忘れないようにしよう、と思いながら。