アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第二部 03◆
「どうした、もう立てないとは君らしくないな」
「立てないとは言っていない……!」
「口だけは威勢がよいが膝は震えているぞ」
「それはあなたの方だ。さっきから逃げ回ってばかりで少しも近づかないのは怖いのだろう」
「フッ。君もなかなか言うな。ならば試すか、坊や」
ミロはニヤリと口角を上げると、ふらふらと立ち上がろうとしている氷河に一瞬で詰め寄った。
頬に風を感じたと思った瞬間にはすぐそばまで迫っていたミロに気づいて、氷河がハッとしたような表情となり、ミロの拳を受け止めるかのように両腕を胸の前で交差させた。
ミロのスピードの前に咄嗟に防御の姿勢がとれることはさすがだが、かつて対峙したときほどのキレはまだない。
「それでは急所ががら空きだ」
氷河の腕を掻い潜って、彼の鳩尾に拳を一発入れれば、かはっという短く乾いた呼吸音を残して、氷河の身体はくたりと力を失ってミロの腕へ倒れ込んだ。
それを荷のように肩の上へ担ぎ上げて、まあ、君のやる気だけは買っておくとミロは誰に聞かせるともなしに呟く。
初めの数日間こそ、高熱を出して起き上がることもできなかった氷河だが、解熱し、口がきけるまでに回復したかと思えば、やはり開口一番、動きたい、ときた。
看病の礼もなしにそれか、と苦笑するとさすがにバツが悪そうな顔をして、素直に礼の言葉を口にしたものの、その後も彼の強い訴えは続き、そのたびに、だめだ、もう少し身体が整うまで待て、とミロはその訴えを退けた。だが、最終的に、ミロが少し目を離した隙に起き上がって腕立てなどを勝手に始めてしまった少年の強情さに根負けをする形で、彼の療養生活は予定していたよりずっと短い期間で終わりを迎えた。
一日も早く動きたい、身体を鈍らせたくない、という必死の訴えは、同じ聖闘士としては理解できたが、何かに憑りつかれたかのように己の身体を虐めたがる少年の余裕のなさは、どことなく危うさを孕んでいた。
過去に面識こそなかったが、カミュが彼を弟子にとったときのことをミロはよく覚えている。
「弟子が二人に増えた」
いつも聖域からすぐにシベリアへと舞い戻っていたのに、よほど嬉しかったのか、わざわざそれを報告するためにカミュが天蠍宮へ寄ったのだ。
カミュの聖闘士の育成はあまり平坦な道ではなかったようだ。最初の一人こそどうにか食らいついているようだったが、図らずも、「どうせすぐ死ぬ」というミロの言葉通りに、彼の元へ派遣された幼子たちは、不幸にも命を落としたり、逃げ出したりとあまり長続きしていないようで、それを聞くたびにミロは、つまらぬことを言うのではなかったと後悔する羽目になった。
ミロのその居たたまれなさを、多分、カミュは薄々察していたのだろう。(それとも、ミロを気遣う余裕すらなく、カミュ自身が、なかなか順調に行かない育成に滅入っていて、誰とも口をききたくない気分だったのかもしれないが)聖域に戻った時でも、カミュは、自分の方からはミロの前に顔を見せることはなくなっていた、そんな矢先の出来事だった。
「……どうせまたすぐにいなくなるのではないのか。お前のところはいつも二人になったり一人になったり忙しい」
手痛い失敗を何度か経験したミロは、もう、己の一時の感情をそのまま口にしないだけの分別が十分備わっていたが、それでも、そんな風にカミュの喜びに水を差すような言い方をしてしまったのは、彼を案じたためだ。
期待が大きければ失ったときの傷も深い。
温度の低い喜怒哀楽しか見せない割に、情の深いカミュは、弟子を失うことに慣れてしまうことはきっとない。失うたびに己を責めては傷つくだろうことをミロはよく知っていた。
よかったな、と安易に言えないことに、ミロは幾ばくかの痛みを感じていたが、カミュは、ミロの懸念をよそに、いや、と力強く首を振った。
「今度はきっと大丈夫だ」
「何故そう言える」
それが全く根拠はない、とカミュは珍しく声を出して可笑しそうに笑った。
「今まで見てきた誰よりよくめそめそ泣く」
「だめじゃないか」
「それも死んだ母親を思って、だ」
「ますます駄目だ。なぜ聖闘士になんかなろうと思った」
「その母親の遺体を海底から引き揚げたいからだそうだ」
「問題外だな。さっさと破門にしてやった方がその子のためだ」
「それが不思議に折れないのだ。3日と持ちそうにないと思ったが、もう3か月も確りと修行についてきている。筋もいい。刺激を受けたのかアイザックもこのところ目を瞠るほど伸びた」
「だが力だけがあってもそんな甘ちゃんでは聖闘士になどなれんぞ」
「大丈夫だ。母親が恋しいのは幼いうちだけだ。彼はきっと強くなれる」
今にして思えば、カミュに似つかわしくない、非論理的な物言いだった。もしかしたら、久しぶりに現れた、見どころのありそうな子どもにカミュは、少々冷静さを欠いていたのかもしれない。
だがそれも、本当に、今振り返ってみればもしかしたら、という程度だ。弟子などとったこともない人間に、カミュのそれが師として冷静さを欠いていたかどうかなど判別がつくはずもなく、きっぱりと言い切るカミュに、まあせいぜい楽しみにしておこう、と皮肉な笑みを浮かべてやることしかその時のミロにはできなかった。カミュはただ、とても喜んでいた。確実なことはそれだけだ。
氷河は宮の内部へ戻っていくらもしないうちにすぐに目を覚ました。
カハッと腹に受けた衝撃を今頃呼吸として吐き出して、石の床から飛び起きるなりミロの姿を探すように首を回したが、あいにくの片目だ。視界は狭い。
死角に立っていたミロの手刀が彼の首にトンと当てられて、ビク、と身体を硬直させたがもう遅い。
「今日二度目の死だ」
氷河も十分にわかっている事実を改めてそう突きつけてやれば、ぐっと彼は押し黙って、悔しそうに「……もう一度チャンスをくれ」と唇を噛んだ。
「二度死ねば十分だろう。日に三度はさすがに多い」
「まだそうなるとは決まっていない。今度こそ、」
既に氷河に背を向けて去りかけていたミロは、彼の言葉が終わらぬうちに振り向くや否や、細い腰を引き寄せて己の親指の腹を少年の柔らかな脇腹へぐっと押しつけた。
「アンタレスだ。………これで三度だ。本物でなかったことに感謝して今日はもう休め」
氷河は声も出せずに立ち尽くしている。ミロの姿がまるで見えなかったのだ。───意図して死角側へと身体を反転させてやったから。
「……ミロ、俺は、だが、」
ここまでされてなお食い下がれるのだから、その根性だけは見上げたものだ。何度食い下がられても、現状ではどうにもならないことを理解しないのは賢いとは言えないが。
聞き分けのなさへ苛立つより、なんだか可笑しくなってミロは少し表情を緩めた。
「悪いが俺も忙しい。今日はもう君が死ぬのにつきあってはやれない」
忙しいのは本当だ。
氷河にばかりつきあっていられる身ではない。
少し不在にする、と、ミロは壁際へ置いていた蠍座の聖衣箱を肩へと担ぎ上げた。
それで察したのだろう、氷河はさすがに聖衣を携えたミロを引き留めるような真似はしなかった。
**
半日程度、多くて1日、そのつもりで天蠍宮を後にしたが、聖域を守護するために張られた結界を念入りに確認して戻った時には既に3日が経過していた。
聖域は四方を切り立った険しい崖に囲まれていて、その地形そのものが要塞の役割を果たしている。ちょっとした足がかりになりそうもないほど岩肌は脆く、翼でも生えていない限りは、例え聖闘士といえども崖を上ることは不可能だ。畢竟、女神神殿へ向かうルートは、十二宮を繋ぐ石段のみになる。
それだけでも十分に強固な護りだが、加えて、小宇宙による迷路のような結界までもが聖域には張り巡らされている。空洞の宮ばかりとなった聖域に、真の女神を迎え入れることとなったつい最近になって、その結界は作られた。
黄金聖闘士たちと女神との小宇宙で張られた結界だが、聖域の守備領域はあまりに広大だ。万一のことがあってはならない。鉄壁の守りを維持するために、黄金聖闘士たちは交代で定期的に巡視している。
特別に小宇宙を燃やさねばならぬ場面はなかったが、ひしひしと迫る聖戦の予感に慎重に結界を確認して歩いたせいか、深夜に天蠍宮に戻ったときには、ミロは普段になく疲労していた。
正直に言えば、だから、氷河の存在を思い出したのは、己の宮の入り口に立った時だ。
そう言えば、まるきりミロに歯が立たずに、ぐうの音も出ないほど打ちのめされていた氷河はどうしたか。
もう少し早く戻れる予定であったから、後ですぐにフォローをするからよいだろうと振り返りもせずに出てきたが、いささか冷たく突き放しすぎたか。
───あの包帯を外してみる気になっていればよいが。
動けるようになってからの氷河の回復は驚異的なほどで、体中に負っていた傷はもうほとんど塞がりかけている。うなじに負っていた裂傷など、まるでその傷の存在そのものを厭うかのように、じくじくとした赤い肉芽がまだのぞいているうちからとうに包帯など外してしまっていた。
にもかかわらず、いつまでたっても彼の左目は包帯で覆われたままだ。ある程度傷口が塞がれば、視界を妨げるだけの包帯をいつまでも巻いている意味はない。むしろ、早々に外してしまわねば、瞳を調節する筋力は衰えて、見えるものも見えなくなってしまう。
医務所からの申し送りでは、眼球までは傷ついていないということだった。よほど傷口を悪化させてしまったのでないならば───執着か、拘りか、はたまた贖罪か。彼の兄弟子が片目を失っていたことと、多分、これは無関係ではない。
涙ひとつ見せない姿も、ストイックに己を鍛えようとする姿も、一見頼もしく見えるが、それでこそ聖闘士だ、と褒めてやるには、纏う空気がどうにも張り詰め過ぎていて危うい。
私情に流されぬのが聖闘士とは言え、人の心がないわけではない。師とも、兄弟子とも立ち位置を異にして戦うなど、普通は起こり得ない過酷な体験だ。よりによって、「死んだ母を思って誰よりよくめそめそと泣いていた」少年が、一体どうその事実と向き合ったのか。……あるいは、向き合いそこねているのか。
少年の葛藤を思えば、黄金聖闘士の半数を失ったこととは違う重さが、ミロの心にずしりと圧し掛かる。
夜半も越えた刻限だ。
きっともう眠っているだろうと思い、明かりも灯さずにミロはそっと己の寝室に身体を滑り込ませた。
高熱が下がって周囲の状況に気が回るようになったとき、氷河は、この宮で唯一の寝具を己が占領したせいで、代わりにミロが床で眠っていたことを知って酷く恐縮した。
主が床で眠って己が寝台を使うのは居心地が悪いという彼の主張もまあ理解はできたし、かといって共に横たわるには狭い寝台であったから、寝具だけもうひと揃い運び込ませて、今では氷河はミロの寝台の傍らの床を寝処としている。彼の性格なら、主が不在であってもそれは変わらぬはずだった。
起こしてしまわないようにと気配を消して慎重に足を進めたが、徐々に順応したミロの瞳は暗闇の中にそれらしき人影を何も見つけられずに思わず戸惑いに瞬いた。
いないのか……?
窓辺から薄くもれている月明かりが、きれいに整えられている己の寝台に光の帯を作っている。
寝台の下に濃く落ちている影が、ミロが用意させた寝具を黒い塊に見せている。
こんもりと小さな山が盛り上がっているが明らかに人間の質量ではない。
念のために寝具に手を触れてみたが、ひやりとした冷たい感触が指先へ触れただけだ。灯を燈して探し回らずともこの部屋の中にそれらしき気配がないことは明らかだった。
シベリアへ帰ったか……
あんな風に叩きのめされたままで逃げるような柔な少年ではないと思ったが。
俺の買い被りだったのか。
ひどくがっかりしたような、それでいて、自分自身が何か取り返しのつかない過ちを犯してしまったかのような、わけのわからぬ焦燥感に襲われて、は、と知らず嘆息したミロの肩は、トン、と壁に触れた。
だが、そのときだ。
「ミロ」
背後から、酷く驚いたような少年の声が暗闇に響いた。
視線をそちらへやれば、回廊の暗がりに、淡く光る金色の髪と、左目を覆う包帯の白が薄らぼんやりと浮かんでいた。
シベリアへ逃げ戻ったというのは早とちりだったか、という安堵と、ああ、やはり彼は世界を半分欠いたままか、という失望が同時に起こり、ミロは複雑に眉根を歪めた。
「「こんな時間に」」
安堵の反動で思わず詰問調となったミロの声と、剣呑な空気に怯んだような氷河の声が同時に同じ音を発した。
ミロが黙ったまま軽く顎で促したのを見、氷河は仕方なく、予定していた言葉を紡ぐ。
「……戻ってくるとは思わなかった。あー、その、」
宮の主の帰還だ、居候の身であってもここはおかえりなさい、と言うべきなのか迷っている唇が動くのを今度は待たずに、どこへ行っていた、とミロはかぶせるように言った。
「別に……どこということはない。その辺を歩いていただけだ。……聖域は俺には珍しいから」
それだけだ、と氷河はふいと視線を落としたが、それは「こんな時間に」うろついていた理由としては弱い。
とにかくあなたが帰ってきてよかった、と視線を落としたまま言った氷河の長い睫毛の上にきらりと何かが光った。
淡い月の光で雫にも見えたが───違う、あれは小さな氷の粒だ。同じ光景をミロは以前にも見た。凍りついたカミュの睫毛に、白く霜づく石の床に倒れ伏していた少年の頬に。
「宝瓶宮に行っていたのか」
「違う、行っていない!!」
氷河は顔を跳ね上げて叫ぶようにそう言ったが、不自然に激しい否定では逆効果だ。
「何故隠す。責めているわけじゃない」
「隠してなどいない。行っていないものは行っていないと、」
それはどうかな、とミロは氷河の方へと手を伸ばした。殴られるとでも誤解したのか、反射で防御の姿勢をとった氷河の腕の間へ手のひらを向けると、睫毛に乗っていた氷の結晶がはらはらと落ちてきた。
大きな手のひらで受け止めたそれを、ミロは黙って彼の目の前に差し出す。
暗闇ではブルーグレイに見える少年の瞳が、ミロの手のひらの熱でも融けることもなく、その形をはっきりと留めている美しい六角形の花をじっと見つめている。
やがて氷河は、大きくひとつ息を吐いた。
「……雪だ。いつの間に降ったんだろう。俺は気づかなかった」
あくまで認めないことに決めたようだ。
小宇宙による結晶だということは明白であるのに、雑な言い訳があったものだ。
これでは、言えない、言いたくない何かがそこに隠されていると主張しているようなものだ。その単純なことにも気づかない稚さは却って痛々しい。
「そうだったか。聖域で雪とはずいぶん珍しい」
起居を共にするようになって、少年が割に強情なことを知った。不毛に言い合うことを避け、ミロは静かに拳を閉じた。
氷河は唇を結んだままだ。あからさまな嘘をそのまま受け止めたミロの真意が読めずに、どう返していいのかわからないのだろう。
さて、とミロは伸びをしながら欠伸をし、俺は休むぞ、少し疲れた、と言いながら氷河に背を向けて、寝台へと身を乗り上げた。今ここで厳しく追及して、少年の内面で何が起こっているのか白日の下に晒してもよかったが、疲れているのもまた確かだ。今夜のところは仕切り直しでいい。
あからさまに、ほっと緩んだ背後の気配が、俺ももう寝ます、と低い位置に膝を折ったのがわかる。
しばらくの間、シュ、という衣擦れの音が続いていたが、やがてはそれも聞こえなくなった。
音のしなくなった空間で、ミロはゆるゆると己の拳を開いた。吹けば飛ぶような小さな小さな氷の粒は、やはりまだそこにあって、傾き始めた月の光を反射して鈍く光っていた。