寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第二部 01◆

 ざわざわと聖域の空気が動いたのを感じて、ミロは 、今度は何だ、とやや倦んだ息をついた。
 近頃の聖域はいつも何かしら小さな騒乱が起こっている。
 数百年に一度の神々の戦いを目の当たりにすることは、聖闘士であっても日常的であるとは言い難い。雑兵たちは、一気に現実味を帯びてきた聖戦の気配に神経質になっていて、些細なことにも動揺しがちだ。ピリピリと緊迫した空気だけならばむしろ望むところだが、こうも乱れ動じているのはいただけない。
 雑兵とはいえ聖闘士の端くれが何を小心なと苛立つ気持ちもあるが、雑兵たちの動揺の原因は黄金聖闘士の半数が欠けていることに根差すものであることも理解しているから、安易に叱咤もできない。態度に出るほどではないが、黄金聖闘士たちの心にもその事実は重く圧しかかっている。過去の聖戦において、これほどの人数の黄金聖闘士を欠いて臨んだことはただの一度もないのだ。
 大山鳴動して鼠一匹のことも往々にしてあるが、ただ、何か起こっているのであれば放ってもおけない。何しろミロの守護する天蠍宮より後は女神神殿まで延々と無人宮が続く。ミロにできることは、できるだけ速やかに彼らの元へ顔を出してやり、頼もしい聖域の守護者が未だ健在であることを知らしめてやるだけだ。

「どうした」
 聖衣を纏って駆けつければ却って不安を与えるか、と、簡易な修行服のままで入口まで出て、できるだけ何気ない調子で、右往左往していた雑兵の1人にそう問えば、彼はミロの姿にハッと畏まるように敬礼をして、居なくなったのです、と訴えた。
「居なくなった?誰がだ」
 まさか女神ではあるまいな、とミロの表情が一瞬で引き締まる。つい先頃、海界へ単身乗り込んだと聞かされた時は生きた心地がしなかった。
「医務所で治療を受けていたはずの青銅が1人……」
「なに」
 そちらはそちらで問題だ。皆、海界との闘いで負った傷は深く、ほとんど昏睡状態だと聞いている。
「居なくなったのは誰だ」
 自力で抜け出た可能性は低い、状況によっては拐かしの可能性もある、と既に探索の体勢に入ろうとしていたミロは、キグナスですという返事を聞いてピタリと動きを止めた。
「キグナスが?」
「今朝の時点ではまだ意識を取り戻してはいなかったはずですが、今しがた、ベッドがもぬけの空になっているのが見つかったと」
「誰もついていなかったのか」
「それが……小康状態にあったため……」
「油断していたわけだな」
 ミロは単に事実を確認したつもりであったが、雑兵たちは叱られたととったか、申し訳ありません、と項垂れた。
「俺も探そう。天蠍宮は通っていない。聖域外には出ていないはずだ」
 そう言ってミロは雑兵たちに背を向けて歩き出した。
 足を向けた先は女神神殿へと続く石段である。
 医務所は双魚宮より上、教皇宮との分岐の先にある。
 聖域外へ出るには天蠍宮を必ず通ることになるが、ずっと宮にいたミロには彼が通っていないことは保証できる。
 意識を取り戻したばかりの怪我人の足で行ける場所など限られていた。

**

 円形の柱で覆われた宝瓶宮の入口に立ってミロは足を止めた。
 柱の間からそれとわからぬほど微かに冷気が宮の外まで漂っていることを発見したためだ。
 既視感を覚えてふっと胸に痛みが差す。
 宝瓶宮は、いつも水底にいるかのような湿った冷気に包まれていて 、それはカミュがシベリアにいる間も途切れることはなかった。遠く隔たれてはいても、いつだって彼はここ宝瓶宮の守護者だったのだ。
 カミュを失ってしばらくは、加護が続いているかのようにどこかひやりとした空気は残っていたが、やがていつしかそれも消え、宝瓶宮は他の宮同様に乾いた聖域の一部に同化していった。主が宮を留守にしていることと、主を失ってしまうことでは、同じ不在でも決定的な隔たりがそこには存在するらしい。
 日に日に失っていく凍った空気を寂しく思い、どこかに彼の加護が残ってはいないかと、女神神殿まで往復するたびに無意識に気配を探してしまうのはミロだけではなかっただろう。
 探し求めていた懐かしい凍気を今感じたというのに、だがしかし、 カミュが戻ったのだ、とはほんの僅かも思えなかった自分を発見して、ああ、 とミロは呻くように息を吐いた。心臓を締め付ける痛みが邪魔で、うまく息を吐くことも難しい。
 カミュが決して戻ることはないという現実を己はとうに受け入れていたのだ。
 宝瓶宮の主は本当に逝ってしまった。
「いるのか?氷河?」
 カミュが戻ることはない以上は、自ずとこの冷気の主は知れている。
 そもそもその少年を探していたのだ。
 ミロは薄暗い宝瓶宮の奥へとその姿を探す。
 奥に進むにつれて、石造りの柱を、床を、びっしりと氷が覆い、聖衣姿で来なかったことを後悔するほど空気が凄まじく凍りついている。
 ハラハラと雪まで舞っていて、まるで───あの日のようだ。


 絶対零度の究極奥義のぶつかり合い、聖域全体が衝撃波で揺れ、人知を超えた凍気は季節外れの雪まで降らせた。
 立ち上がるのもやっとの状態で天蠍宮を後にした少年が、無傷のカミュ相手に互角に戦ったのだと───多分、自分が実際に対峙して、少年の未知数の可能性を目の当たりにしていなければ決して信じられなかったに違いない。
 あの少年ならばあるいは、と思っていてすら、聖衣なしでは近づけないほど冷たい嵐の名残が残る宝瓶宮に足を踏み入れた時の衝撃は小さくはなかった。
 思わず駈け寄り、膝をついて触れたカミュの身体は完全に凍りついていた。
 穏やかに閉じられた瞳は開くことはなく、満足げな笑みを浮かべているかのような頬にはもう血の色は通っていなかった。
 既に数人の黄金聖闘士を失った後ではあったが、カミュの死の衝撃はそのどれとも違っていた。
 経験したことがない重さがずしりと心臓に負荷をかける。
 カミュの傍では、少年が同じように倒れ伏している。
 ミロがつい数刻前に鼓動を取り戻させてやった心臓は今にも消え行かんとその響きを弱め始めていた。
 だが、虫の息といえど、まだ生きていることにミロは驚いていた。黄金聖闘士の究極奥義を身に浴びて未だ命あることはあり得ない奇跡だ。こう何度も少年たちが奇跡を引き起こすのは、体現しようとしているものが真の正義だからか。正義の在り処は己が護っていた聖域にはもはやないのだと、今一つ信じきれていなかった事実が、己にアンタレスを撃たせ、そしてカミュを凌いでみせた少年の姿に、確信へと変わった。
 青銅の身でありながらここまで辿り着いた彼をこのまま死なすにはあまりに惜しく、祈るような気持ちで抱え上げた身体を小宇宙で温め、ミロは少女の───初めて目にする己が戴く女神の元へと向かったのだった。


 あの時、ミロが抱き起こした少年は今、まるきり同じ位置に倒れ伏している。
 違うのは、カミュがいない、それだけだ。
 それだけだが、いないことでこれほどその存在を主張する光景というのもほかにないだろう。
 何を求めて少年がここへ足を向けたのか、想像すれば胸は痛い。
 だが、感傷に浸っている場合ではない。まだ療養が必要な身の少年を見つけることがミロの本来の目的で、あまり労なくしてそれが達せられたことをまずは安堵すべきだろう。
 雑兵たちでは、主を失ったとはいえ、さすがに宮の内部の探索までは躊躇われたのだろう。 聖域における黄金聖闘士の神聖性はかくも特別だ。
 ミロは少年の傍に膝をついた。
 片目を白い包帯が覆い、全身が消毒薬と血の臭いを放っている。
 もう片方の瞳は閉じられていて、頬は青白い。だが、カミュが見せた死人のそれとはまるで違い、彼が生きていることははっきりとわかる。
「氷河」
 呼びかけに反応はない。
 まだ傷も癒えぬ身でこれだけの凍気を放ったのだ、気を失っていても無理はない。
 だが、意識のない身体へと手を伸ばした時だ。
 ミロの手が彼の肩へ触れるか触れぬかのところで、ビク、と少年の身体が大きく戦慄いて、1つだけの瞳がパチリと音を立てて開いた。同時に、跳ね起きた少年の掌が、ミロの腕をしっかと掴んだ。
 ぶるぶると全身を戦慄かせて、 威嚇するかのように小宇宙を燃やし始めた少年をミロはチラと見下ろす。
 青い瞳の瞳孔は開いて、 眼球が右に左にと揺れている。完全に目の前のミロの姿が見えていない。
 ミロは自由な方の手を彼の首の後ろへ回して、肩に流れる金糸を一房掴んで無造作に引いた。
 意志のない人形のように、少年の頭が、がく、と後ろへと傾く。
 だが、痛みで己を取り戻したのか、 青の瞳の焦点はようやくミロの上で結ばれた。
「…………ミ、ロ……?」
「俺を覚えていたとは結構」
 よほどリアルな夢の中にいたのか、少年の瞳が激しい混乱を見せている。 己のいる場所を確認するかのように左右に視線をやり、ミロを見、そして最後に彼は己の左目を覆った包帯に手をやってようやく、ああ、と身体の力を弛緩させて激しい凍気を放出させていた小宇宙を燃やすのを止めた。
 凍った空気の名残はまるで湯気のようにしゅうしゅうと音を立てて二人の身体の周りで渦巻く。石造りの床に広がっていく白い靄が落ち着くのを待って、氷河、と声をかければ、少年はようやく己がミロの腕を掴んでいたことに気づいて、慌てて手を引っ込めた。
 ミロの腕には氷河の掌の形に赤い火傷のような氷傷が刻まれている。
「あ……すみません、俺……」
「気にするな。たいした傷ではない」
 肩をすくめて立ち上がりながら、ミロは、立てるか、と少年へと手を差し伸べた。
「皆探している。医務所に戻ろう」
 少年は差し出されたミロの手のひらをじっと見つめて動こうとはしない。
 立ち上がれないほど具合が悪いなら担ぎ上げるか、そう判断して腰を折りかけた頃、少年はようやく口を開いた。
「……もう治療は必要ない。シベリアへ戻ろうと思う」
「そんな身体でか」
「心配はいらない。動けることは確認した」
 そう言って少年は差し出したミロの手を借りずにふらりと立ち上がる。その僅かな動きにさえ、血の臭いが空に漂い、少年の眉根が引き攣るように歪められる。
 だが、それも一瞬で、少年は唇を引き結ぶと、顏を上げて宮の外へ向けて歩き出した。
 守護すべき宮を持つ黄金聖闘士と違って、青銅聖闘士は必ずしも聖域に控えている必要はない。聖域を拠点とするものもいるにはいるが、斥候のためであったり、情報収集のためであったり、遊軍として世界中に散らばっているのが実情だ。
 本人が動けると言うのなら、彼を止める理由はない。
 黄金と青銅という立場の違いはあれど、互いに一人前の聖闘士同士、師でもあるまいしその行動に口を出す権利もなければ義務もない。
 例え、シベリアへ戻る理由が現実からの逃走であったとて、普段のミロなら決して止めはしなかっただろう。
 闘うも逃げるも人は皆自由だからだ。己自身の選択だけが己の生き方を決める。
 そうした信念と共に生きてきたにもかかわらず───気づいた時には、足を踏み出した少年の腕をミロは咄嗟に掴んでいた。このまま彼を行かせてしまってはならない、という焦りめいたものが、何故だか、天秤宮から自宮へ戻るカミュの濡れた横顔となって脳裡にちらついていた。愛弟子を氷の柩に屠って涙していた、あれが、ミロが見た、生きているカミュの最後の姿だ。
 歩き出そうとした勢いを削がれた形になった少年は、驚きとともに不満げな固い表情を頬に上らせた。
「……医務所には戻らない。動けると言ったはずだ」
「俺はまだ何も言っていないだろう。治療が必要な状態だってことを自覚でもしているのか?」
「……っ違う!俺は何ともない!」
「そこまでしてシベリアに急ぎ帰らねばならん理由でもあるのか」
 カミュもいつもいつも飛ぶように戻っていたものだが、それは待つものがあったせいだ。
 シベリアで今、少年を待つものは何もないはずだ。
 証拠に、少年は押し黙った。
 は、とミロは思わずため息をついた。
 非難の色が滲み出たそのため息に少年は唇を結んで俯いたが、ミロにそれを喜ぶような加虐趣味はない。簡単に追い詰められた少年の救い手となるよう、今度はできる限り軽い調子に聞こえるよう、ふっと息を吐いて笑ってみせた。
「わかった、医務所が嫌なら戻らなくていい。俺もあそこはあんまり好きじゃないしな」
 えっ、と少年が驚いたように顔を上げる。
 治療に戻らなくていいと言われて驚くとは、つまり、己の身体はまだ治療が必要だと自覚していることを認めたも同然だ。
 顔にそれを出してしまうとはずいぶんな甘ちゃんだ。
 苦笑して、ミロは少年の頭を撫でた。
 ミロの腕の動きが死角となって視界に入らなかったのか、頭を撫でられたことに驚いて、細い身体がビクリとすくんでいる。
「代わりにしばらく俺につきあえ。鍛えてやろう、君を」
「……あなたが……俺を……?」
「不満か?」
 まさか、と少年は首をふる。だが、ミロの意図が読めなかったのか瞳が猜疑に満ちている。いや、それとも、カミュ以外に教えを乞うことを躊躇しているのかもしれない。
「まあ、凍気の扱い方は俺は知らないがな。それでも、」
 ミロは少年の頭に乗せていた手を輪郭に沿って下ろし、そのまま、頬に落ちる金色の髪をすくうように指を差し入れ、包帯で覆われたうなじをゆるりと撫でた。先ほどから彼の首元に巻かれた包帯に滲む鮮血がじわりじわりと広がっている。うなじを撫でた己の指先をさりげなく見やればじっとりと赤く濡れていた。
「一人よりは幾分マシというものだろう。……君がまだ闘いたいと望むなら、だが」
 どうする、とミロが問えば、金色の頭は俯いて、だがすぐに力強く、しっかりとした頷きを返した。

**

 天蠍宮の回廊まで氷河を連れ戻り、自分は今一度石段を上って、氷河はしばらく俺が預かろう、と、医務所の人間に告げて、再び自宮へ戻れば、氷河はミロが残したそのままの形で待っていた。
 壁に背を預け四肢を投げ出し、瞳は閉じられている。
 眠っているのかと思ったが、氷河は、ミロの足音ですぐに目を開いて、世話をかけてすまない、と律儀に立ち上がろうとした。
 そのままでいい、と仕草で彼を座らせたままにして己の方が彼に近づいて膝を折り、その包帯は代えるぞ、と、ミロは医務所から取ってきた真新しい包帯を彼の傍らに置いた。
 チラとそれに目をやって、氷河はミロを見上げる。
「自分でする」
「自分では傷口は見えまい。難儀だぞ」
「シベリアではそういうこともあった」
「カミュが君にそうさせた?」
「………………先生の、いないとき」
「今は俺がいる」
 あっという間に論じ伏せられて、氷河は何か物言いたげに口を開いたが、言い合いになるのが億劫になったのか、不本意そうな表情のままそれ以上何も言葉を発することなく口を閉じた。
 元来、あまり嘘のつけない性質であるのだろう。触れさせたくないならいくらでも嘘はつけただろうに、それができない無器用さと何もかも顔に出てしまう素直さは聖闘士にしておくにはどうにもいとけない。
 看てやるから上を脱げ、と言えば、氷河は、しぶしぶシャツの裾をめくりあげた。腕を抜き、首を抜くときに血が布を掠めて白いシャツが赤く染まった。
 ああ、しまった、着替えもいったのだな、と、ミロはそれで気づく。
 カミュならもう少し気が利いていたのだろうが、あいにくと弟子などとったことはなく、己より年少の者も聖域にはいなかったから、他人の世話を焼くことには慣れていない。
 少し待っていろ、とミロは少年を残して、奥の間へと進んだ。
 人生のほとんどすべての時間を過ごす宮だ。要塞とは言え、それなりに整った居住区画は設えられている。
 大理石の柱を縫って、一見して宮の内壁に同化して扉とわからぬ石戸を押せば、長い廊下の先にミロの私的な空間はあった。
 少年が着られそうなものは何かないかと探してはみたが、物に感傷は抱かない性質だ。サイズアウトした端からすべて処分している。ミロより一回り以上も小柄な彼に合いそうなものはありそうになかった。
 もしかしたら宝瓶宮へとって返せば、周到なカミュが、いつか訪れるであろう弟子のために何か用意をしていたかもしれないな、と思いはしたが、そんなもの、見つかっても見つからなくても胸が痛くなるばかりだ。そんなもののために時間も労力もかけてはいられない。
 結局ミロは、今己が纏っているのと同じ、筒形の修行服をつかんだ。彼には丈が長いだろうがはっきりしたサイズがないだけそう借り物っぽくもならないだろう。ウエストあたりを皮ひもで絞れば、余る裾幅もごまかせる。
 何度も待たせて悪いな、そういって少年の元へ戻れば、氷河の足元には血に濡れた包帯がとぐろを巻いていて、胸にも腕にも首にも、真新しい包帯が巻きつけられて済んでいた。ちょうど最後の、左目を覆うように頭に巻いた包帯を結びあぐねて四苦八苦していた氷河に、ミロは呆れ果ててため息をついた。
「……俺が看てやろうと言ったはずだが」
「自分で看た。……大丈夫だった」
 何がどう大丈夫だったのか詳しく聞きたいものだな、とミロは苦笑した。あの融通が利かな過ぎるほど真面目なカミュがこんなきかんぼうをどうやって育てたのかと思えば少し可笑しくもあった。
 ほら、着替えだ、とミロが己の服を差し出してやると、氷河は黙ってそれを見つめた。
 いりません、俺はこれでいい、と血に濡れたシャツをもう一度纏いなおすことくらいはしそうだぞ、この坊やは、そう思っていれば、案の定彼がいりません、と首を振ったため、今度はふふっと笑い声が思わず漏れた。
 何故笑うのか、と少し憮然とした表情で頬へ血を上らせた彼に、ミロは、問答無用だ、と己の服を強引に彼の頭に被せた。
「君が何を着ようと口出しをするつもりはないが、せめて俺の宮を無用な血で汚さぬ気遣いぐらいはしてほしいところだな」
 いらない、と払いのけようとしていた氷河の手は、ミロの言葉でピタリと止まる。
 既に血で汚してしまった石畳を氷河は気まずそうに見下ろして、すみません、後で拭いておきます、と殊勝に頭を下げて、おずおずとミロの修行服を着込み始めた。
 ちょっとした冗談も皮肉もまともに受け止めてしまうところはカミュによく似ている。
 もともと結びが甘かったのだろう、服を着込んだ拍子に緩んでしまった彼の左目の包帯にミロは手を伸ばした。
「……ッ」
「大丈夫だ、巻きなおしたりはしない」
 治療の痛みが嫌なのか、人に触れられることにそもそも抵抗感があるのか、単にミロのことが嫌いなのか。
 過剰とも思える拒絶には多分何か理由はあるのだろう。何をそんなに神経を尖らせているのか気にはなったが、戦闘以来ほとんど初めて口をきくような間柄で、無理矢理に踏み込んでは拒絶が深まるだけだ。
「端を止めてやるだけだ。それならいいだろう?きっちり止めておかなければ動けたものじゃない」
 鍛えてやろう、と言われたことを思いだしたか、氷河は、ぐっと押し黙り、不承不承頷いた。
 少し触るぞ、と予告はしてやってミロは少年の頭を抱えるように引き寄せる。
 あちこちに跳ねた金色の髪は見た目より柔らかな感触をしていた。
 撓んで垂れ下がっていた包帯の端を捕まえて少しきつめに止め、できたぞ、と言ってやれば、氷河は礼儀正しく頭を下げた。そういうところは好ましいと思ったが、すぐに、準備は整った、もう動ける、と言わんばかりに、腕を回し、己の身体の感覚を確かめては逸る気持ちを隠そうともしない瞳でミロを見上げる姿には呆れるばかりだ。動けたものじゃない、とも、鍛えてやろう、とも言ったが、それは全て怪我が快復してからの話だ。今これからなどであるものか。
 ただ、不思議に少年のそういうところもカミュを彷彿とさせた。
 いつも冷静で合理的、淡々としているように見えたが、カミュには意外にも、己が決めたことは何としても覆さない我の強さはあった。同時に己を抑える術を心得てもいて、それを人に見せない努力もしていたが。
 カミュなら、酷い怪我から回復もしないうちから己を鍛えたがる今の氷河に何と言ってやるんだろうな、とミロは密やかに息をついた。