アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第一部 12◆
彼方に見える地平線の向こうに太陽がその姿をゆっくりと隠してゆく。鮮やかな茜色に染まっていた空は、その色を群青色へと変え、やがて辺りは夜の気配が漂い始める。
だが、今日、一度降った雨のせいか空気は澄み渡り、天空に瞬く星の光が真っ直ぐに地上へと降り注いでいて、闇の色はそう濃くはない。
カミュは、宝瓶宮の入り口の柱に少し寄りかかるようにもたれ、眼前に広がる景色を眺める。
十一番目の宮である宝瓶宮は、丘の頂に近いため、聖域全体がよく見渡せた。
聖域は、こんなにも美しかっただろうか。
七歳で黄金聖闘士としてこの宮に就いてから十三年。聖域にいる時は宮の入り口に立って、よく、裾野に広がる景色を眺めた。
自分よりも下の宮に位置する友は「いいよな、お前のとこ見晴らしがよくて」と唇を尖らせていたが、見える景色と言ったら、茶色っぽい岩肌の広がる丘陵や、自分達の守護する宮の屋根、遠くに霞む街くらいで、取り立てて見るべきものなど何もない、せめて海でも見えれば違ったろうに、と残念に思ったものだ。
だが、今見る景色は、何故か格別に美しくカミュの目に映った。
あれほど感じていた聖域の歪さは、火時計の炎が一つ消えるたびに少しずつ浄化されでもしたかのように、今はまるでその姿を消している。
彼方に見える街明かりも、揺れる木々に乗った雨の雫に反射する星の光も。
あらゆる光が温かく世界を満たしていて、いつまででもこの光景を眺めていたい、とそれを目に焼き付けるかのように、カミュは静かにそこへ佇み続ける。
カミュの頬を柔らかく撫でていた風が少し強まった。
だが、それすらも大地が返す命の鼓動のようで、カミュは目を閉じてその感触を楽しむ。
絹糸のように柔らかなカミュの赤毛が夜目にも鮮やかに広がり、風をはらんで広がるマントはその白さでカミュの立ち姿を凛と輝かせている。
カミュはゆっくりと目を開く。
火時計の青白く燃ゆる焔。ゆらゆらと、その姿を変える焔の数は残りわずか。
天蠍宮の火は消えている。人馬宮の火ももう消えた。残る火ももう───まもなく。
風がまた優しくカミュの頬を撫でてゆく。
静かだ。
下の方で小宇宙同士のぶつかる僅かな衝撃音が聞こえているが、それでも、聖域を包む空気は何故か恐ろしいほど静謐さに満ちてる。
カミュは、ほんの少し身じろぎして、自分の守護する宮を振り返る。
黄金聖衣を拝命した時の喜びと緊張感は今も鮮烈に覚えている。自宮への愛着と女神と世界のために負った覚悟は計り知れない。
だが今は───
間近で、ドン!というひときわ大きな衝撃音が、静寂を切り裂いて聖域に響いた。
夜空に、昇竜のように、燃える二つの小宇宙が昇ってゆく。
それを見送るは三つの影。
やがて、影のひとつがカミュの視線に気づいて振り返る。
聖域を渡る柔らかな風が、彼の金色の髪をさらりと撫で、カミュの髪をまた撫でてゆく。
あの髪の柔らかな感触をわたしの指は知っている。
梳る冷たい指先をくすぐったがって笑う声も。
すぐに涙で濡れる、春の空のような青い瞳も。
愛おしく、何ものにも代えがたい、わたしの全て。
だが、今は彼の瞳に涙はない。
真っ直ぐに、ただ、カミュを見つめて、石段に足をかける。
一歩。
二人の距離が近づく。
一歩。
迷いのない歩み。
また、一歩。
カミュの瞳を見つめて進む彼の顏が、一瞬だけ、泣き出しそうに歪み、だがすぐに、きっぱりと顔を上げる。
共に立つ二人の同朋に、先に行けと促す姿は本当にあの子だろうかと見紛うほどに頼もしい。
まるで呪いであるかのように少年の心を凍らせていた父親の血は、今はかけがえのない絆として同朋たちを熱く結びつけている。
カミュにも、アイザックにも決して与えてやることができなかったものを得たことを嬉しくも思い、そして、ほんの少し、妬けるような心地もする。
カミュの横をペガサスとアンドロメダが通り抜けて行く。
宝瓶宮を通る二人をカミュは止めなかった。
先の聖戦を生き残った老師が彼らに力を貸したこと、青銅聖闘士が己の命を犠牲にしてまでここまで上ってきたこと、正義の在り処がどこにあるかの答えはもう明白だ。
だからミロも彼に道を譲ったのだ。
聖域にとって、これ以上カミュが戦う意味はもうないのかもしれない。
だが───
最後の、一歩。
石段を昇り切った愛弟子の視線を一瞬だけ受け止め、カミュは誘うように背を向ける。
聖域のためではない。
たった一人、ここまで生き残った弟子のために、師は小宇宙を燃やす。
**
**
宝瓶宮にふわりふわりと雪が舞っている。
白く美しいその花は、倒れ伏したカミュに降り積もる。
肩に、背に、髪に、優しく。
優しく。
「せんせい!見た?今の!おれ、はじめて凍気だせたよ!」
幼き日の氷河がカミュに飛びついてくる。
「よーし。よくやったぞ、氷河!」
氷河を抱き上げ、その髪にキスをする。
「せんせい、おれ、間違ってなかった?これであってた?」
ああ、氷河。
ちゃんとわたしの教えたとおりにできていた。
「やったな、氷河!」
アイザックが自分のことのように喜んで、同じように飛びついてくる。
二人を抱きしめ、きっとお前たちは強い聖闘士になる、と頭を撫でてやった日が何度あったことだろう。
アイザックを失って、師としてのカミュはその時に半分死んだ。
だが───
氷河。
絶対零度の凍気を身に浴びた瞬間のわたしの喜びがどれほどだったか、既に意識もなく無我夢中で立っていたお前にはきっとわかるまい。
ああ、女神よ。
もしも赦されるなら。
どうかわたしの残りの命の火を、あの子へ。
もうわたしには、限界を越えて戦い続けたあの子を、よくやったと抱きしめてやるだけの力すらも残っていない。
だから、どうか。
はらはらと舞う雪はカミュから次第に最後の命の火をも消し去っていく。
冷たい氷の結晶は、だがしかし、カミュには懐かしい白の大地と同じ色だ。
ただいま、とシベリアの根雪を踏みしめた瞬間のような、葛藤からも、苦難からも解き放たれた、温かな心地がカミュを今包み込んでいる。
自分の心の中ですら、一度も言葉にはできなかった。
してはならないと戒め続けてきた。
だが、カミュを縛り続けていたものはもう失われた。愛弟子が師を越えたことを見届けて、心は自由でそして温かいもので満たされている。
氷河、わたしはお前を───
白く美しい花が降り積もるカミュの頬は、最後に戦士の厳しさを刹那失って甘く優しく笑み、そして、今、十一番目の火は消えた。
(第一部・終)