アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第一部 11◆
火時計に蒼白い焔がゆらゆらと揺らめいている。
二つ目の火が消えた今、燃えているのは十の火だけだ。
一体、誰がこのような形で火時計が燃えることになると想像しただろう。
十二の宮を護って戦うのは聖戦だ、と信じて疑っていなかった。まさか聖闘士どうしで、などと一体、誰が。
射手座聖衣を城戸光政から受け継いだ少女は、ついに、己こそが女神であるとして聖域へとやってきた。
だが、教皇は、彼女が女神だとは認めなかった。
女神なら女神神殿に今もいる、だからお前は偽物だ、と。
その発言の真意はわからない。
教皇は女神のご不在をご存知だと思っていたが、それはカミュのとんでもない思い違いで、真実のところは、言葉どおりにあの少女は偽物で、女神は聖域にずっといらっしゃったのかも知れない。
あるいは、全ての聖闘士を統べる立場では、どんな意図があったにせよ、長らく聖域を欺いていたことを認めてしまうわけにはいかなかったのかもしれないし、もしかしたら、全てが、神の帰還を劇的に演出し、聖戦に向けて聖域を一つにするための予定調和であるのかもしれなかった。
全ては教皇お一人の胸の中だ。
感覚としては既に少女が女神であることをカミュは確信していたが、根拠のない己の勘に従うべきではないというのもまたカミュの信念である。聖闘士の頂点である教皇から聖域を守護せよ、という命が下されてしまっては、それに従う以外の選択肢は見当たらなかった。
女神は───女神だと名乗る少女は、聖域に帰還するには、神であることを自ら証明しなければならなくなった。
教皇が女神は神殿にいらっしゃるとした以上、類まれな強大な小宇宙を持っているからと言って、それが本物の女神であることの証明にはならない。本来であれば彼女を護るために設けられている十二宮を突破し、女神神殿に何も祀られてなどいないことを白日の下に晒さない限り、教皇の言葉が真実ではないことを確かめる術はないのだ。
だが、彼女は教皇の放った刺客によって、胸に矢を受けて命の火が消えようとしている。その証明は危うくされたかに思えたが、彼女を助けんとして少年たちがまさに今、十二宮を駆け上がっている。
そして、氷河もまた───
カミュはふと足を止めて火時計を仰ぎ見た。
燃え盛っていた双児宮の火がさきほどより小さく見える。
望まない形で氷河と相対することになったが、ただ、同じ聖闘士であるせいか、氷河をよく知るせいか、不思議なことに「敵」をこれから迎え討つのだ、という意識はあまりない。
あの、頑ななまでに一途な純度の高いブルーの瞳は、その頑なさゆえに悪しきものにも染まりはしないことをカミュは知っている。
己の血肉を削がれるほどの辛い喪失を経て、ひとときの熱を共有した。
どちらがどちらの熱を感じているのかわからぬほど一つに融け合った、あの何ものにも代えがたい繋がりが、正義と悪、真逆のものに分かたれることなどあろうはずがない。
二人が目指しているものは今もまだ同じだ。
だが───ただ、もう、そこに至る道は同じではない。
氷河は青銅聖闘士となった。
氷河の師としてのみ存在していたカミュは、今はもう黄金聖闘士として聖域に在る。
氷河が今、聖闘士として乗り越えなければならない試練に立っているように、カミュもまた、カミュの立場でこの試練に打ち克たねばならぬのだ。
だが、ただひとつ───黄金聖闘士としての務めを果たす前にカミュには師としての務めが残っていた。
朽ちた沈没船を氷河の手の届かぬ彼方へ押しやったことは彼にどう作用したか。
師の責任において導くべきだった最も大切なことを教えきれぬまま氷河を聖闘士にしておきながら、それを見届けないわけにはいかない。
だが、黄金聖闘士は白銀聖闘士や暗黒聖闘士と違って奇跡が少々起きたところで簡単に打ち倒せるような存在ではない。どう足掻いても、氷河はカミュの守護する十一番目の宮までは到底上ってはこれまい。
宝瓶宮でただ待っていたのではカミュの師としての最後の務めは果たせないのだ。
険しい顔で見下ろすカミュの視線の先に無人の天秤宮の六角屋根が映る。
視線を少し上げれば次第に消えゆこうとしている双児宮の火。
氷河と、もうひとつは彼の仲間だろうか、時折、荒削りで若い小宇宙が激しく燃えているのを感じる。
銀河を内包したエネルギーが聖域の空気を震わせているのをカミュの肌が捉えるたびに、居てもたってもいられぬ心地となる。
また、閃光のように小宇宙が弾けた。
今のは間違いなく氷河だ。
だめだ、あの程度の甘い小宇宙では───
カミュの足がついには一歩踏み出した。目指す先は……
**
**
カミュ、と。
言葉が発せられることはなかったが、すれ違いざまに黙ってカミュの肩を叩いたミロの横顔がそう呼んでいた。
案ずるな、と言おうとして、カミュは己の頬がまだ濡れていることに初めて気づいた。
ああ、とカミュは歩みを止めて天を仰いだ。
なるほど、ミロがこちらを見ようとしないわけだ。
見ぬようにしてくれたのは彼の情けだ。
火時計の燃ゆる非常時に個人的な感情を抑えきれずに涙する黄金聖闘士など、もはや黄金聖闘士を名乗る資格はない。
カミュは、目を閉じて大きな息をついた。ミロはカミュに背を向けて、じっと火時計を見つめていたが、彼の纏う黄金聖闘士然とした気高い空気が今のカミュにはありがたかった。自宮へ戻る前に、氷河の師としての自分から、氷のごとく非情な水瓶座の黄金聖闘士に戻るための時間がカミュには必要だった。
氷河は───カミュの作り出した氷の柩によって永遠の眠りについた。
死んだ母を唯一残された大切なものだと涙する氷河は、こと、ここに至っても未だ過去に囚われたままだった。
カミュが施した、死者と訣別させんがための導きは、カミュの意図と真逆にしか作用しなかったのだ。
なぜ、という失望が湧き上がる。
もっと早い導きを与えてやれなかったカミュも師として未熟だっただろう。悔いても悔い切れぬ。
だが、だからといって、駄々っ子のようにいつまでも現実から逃げていい理由にはならない。
同情すべきどんな過去があったにしろ、聖闘士は、いつまでも過去に拘泥してはならないのだ。
いや、聖闘士でなくとも、死者への未練を断ち切ることはきっと救いともなるはず、氷河ならばできる、そう信じていたが───
聖闘士となってなお死んだ母を恋しがる氷河が痛々しく、思い通りにゆかぬことが歯痒い。
師であるあなたとは戦えないと涙する氷河は情けなく、だが、その甘さがいとおしい。
カミュの中で去来していた感情の色も決してひとつではない。複雑な葛藤は未だカミュと共にあった。
だが、その葛藤と戦う必要はもうカミュにはなかった。
氷河をどうすべきかは、天秤宮へ到達する前にカミュははっきりと決めていたからだ。
情の深さならカミュも氷河に負けてはいない。だが、感情と行動を切り離すことができるかどうか、そこが氷河とカミュとの差だ。青銅聖闘士と黄金聖闘士の差でもある。カミュが理性を己の感情に委ねて行動したのは、ただあの一夜だけだ。そしてその一夜があったからこそ、二度目はない。
氷河をここで葬る。
それ以外の選択肢はカミュにはなかった。
聖闘士として生きる覚悟を決めきれなかった氷河は、この十二宮を突破することはおろか、黄金聖闘士に一矢報いることすらできぬだろう。
黄金聖闘士との圧倒的な力の差に、無為に傷つき、倒れ、血を流して徒に苦痛が長引くくらいなら、そうなる前に葬ってやることが、師に許された唯一の恩情というもの。
氷河が、カミュの望んだ以上の成長を見せたならあるいは、という淡い期待を抱いていたが、それは脆くも崩れ去った。
カミュの拳が生み出すきらきらと輝く微細な氷は、その美しさとは裏腹に、命を奪う絶対零度の柩となって氷河の身体を覆い尽くしていく。
やがて、黄金聖闘士でも破壊することはできない氷の柩は、少年の繊細な身体も、あの柔らかで癖のあるブロンドも、何もかも全てを閉じこめて、儚い命を永遠へ変えた。
生きているとも死んでいるともつかぬ状態ではあるが、氷河は何一つ損なわれることないまま、哀しみからも苦しみからも解き放たれた。
だが───だというのに、カミュの心の中はまるで、中核を失いでもしたかのように酷く空虚だ。
すぐに涙で濡れる、玻璃のような美しい青の瞳がカミュを映すことはこの先もう二度となく、せんせい、と呼ぶ声も未来永劫失われた。
氷の柩に閉じこめたのは、愛弟子だけではなく、カミュの六年間の師としての日々、全てだ。
聖闘士を目指す厳しく苦しい生活の中で、愛弟子のささやかな成長のひとつひとつに感じていた、心に小さな火が灯るような例えようもない温かな喜びと訣別して、カミュの頬には知らず、熱いものが流れ落ちる。
師として何も残すことはできなかった。
アイザックも、氷河も。
どれほど二人の存在に心を砕いてきただろう。
強く逞しく生きてくれることを、どれほど願っていただろう。
聖戦後、己亡き後の世界を護る弟子たちの姿を何度想像してみたことだろう。
まさか己自身が息の根を止めることになろうとは、決して、決して、想像もしていなかった。
シベリアで過ごした日々を思えば、止めどなく涙は溢れたが、だが、いつまでもその苦しさに浸っているわけにもいかなかった。
師であるというアイデンティティーは氷河と共に葬り去った。
ここにいるのは、アクエリアスのカミュ、それ以上でもそれ以下でもない存在、ただそれだけだ。
強い意志でそう過去と訣別し、さらば、と短く告げて氷の柩に背を向けたカミュだったが───感情を乱した名残が頬に張り付いていたままだったとは。
だがそれも、二度、三度と肺の隅々に聖域の空気を行き渡らせているうちに、乾いた風が消し去っていく。
は、とカミュは最後にもう一度大きく息をついた。
カミュが何かを削ぎ落としたことを察したか、それを待っていたかのようにミロが言った。
「巨蟹宮の火が消えるぞ」
振り返り見れば、双児宮に続いて、四つ目の火までが儚く消えゆくところだった。
あのデスマスクが、とカミュの目が僅かに開かれる。
誰しもが、青銅聖闘士ごとき、十二の宮の一つたりと突破できるはずがないと高をくくっていたのだ。
巨蟹宮の火が消えたことは、元よりあまり聖域に従う意志を見せていなかったムウの守護する白羊宮や、年少の者に比類なき大らかなやさしさを発揮するアルデバランのいる金牛宮、ましてや無人の双児宮の火が消えたのとは明らかに違う意味を持っていた。
本気で止めにかかったはずのデスマスクが敗れた。
青銅聖闘士ごとき、と侮り、どこか高揚すら漂っていた聖域中の空気が今や一変しようとしていた。
まさかここまでは上がってこれまいが、とまだ幾分余裕を残した声音で呟いたミロの切れ長の瞳にも、どこか鋭さは増している。
「後で会おう」
そう言って、ミロは足早に宮の奥へと戻っていく。
カミュが返事をし損ねているうちに、翻ったマントの白が暗闇へと消えたのが少しせっかちな彼らしい。
「そうだな、後で」
誰もいなくなった空間にそう律儀に返事をして、黄金聖闘士としての使命に衝き動かされるように、カミュもまた宝瓶宮への道へと足を踏み出した。
**
**
天蠍宮で今燃えている、あれはミロの小宇宙だ。
格下の相手とはいえ、久方ぶりの実戦にやや昂揚はしているが、まだ彼の全力というほどではなく、どこか余裕すら感じさせる。
相対して燃やされている、こちらは余裕なく必死の小宇宙は───氷河だ。数刻前にカミュが氷の柩に葬ったはずの。
氷河、だ。
真っ直ぐすぎて危うく、だが、カミュの知るよりやや逞しく成長した、あの清涼な風のような小宇宙は紛れもなく。
ああ、と胸にぐっと熱いものが込み上げる。
死者の復活という奇跡が起きたわけではない。
カミュの作り出す氷の柩は、その細胞を損なう暇も与えないほど瞬時に対象物を氷結させてしまうため、それ自体が直接的に命を奪うことはない。
ただ、何者も破壊することができない以上は、例え、完全には命を落としていなかったとしても封じられれば命を奪われたも同然だ。だから柩と呼ぶのだ。
氷の柩の中で仮死状態となった氷河が、いつの日にか再び息を吹き返すこともあるかもしれない、と心のどこかで願ってはいた。
だがそれは、もっとずっと未来に起こる万に一つの可能性として、だった。
己の技に絶対の自信があればこそ、これが氷河との今生の別れだと思い、感情が涙となって流れるのを抑えられなかったのだ。
天秤座の剣を扱える人間がいたことも、命がけで氷河を救う仲間がいたことも、全くカミュの予想もしていなかった出来事だ。
すっかりと終わったかに思えた、師としてのカミュの時間はまだ続いていたのだ。
蠍座の黄金聖闘士を相手に臆することなく立ち向かっている、あれが、わたしの育てた弟子なのか───
氷河の小宇宙が大きく小さくうねるたびに、まるでそれがカミュ自身を揺さぶりでもしているかのように心が震える。
ミロは格下の相手だからといって容赦はしないだろう。
そういう男だ。
氷河は完膚なきまでに叩きのめされることだろう。
そんな風に傷つくことを望まなかったからこその氷の柩だった。
間違っていたとは思わない。
カミュを前に死者への未練に泣き崩れた氷河は、力はどうあれ聖闘士としては生きられない限界を抱えていた。
だが、今はどうだ。
あのミロを相手に怯みもしないとは───
己の想像を越えて、この極限の状況に信じられない成長を見せる弟子の姿に目頭が熱くなり、それが雫となるのを堪えるためにカミュはぐっと眉根を寄せた。
思えば氷河という人間は、いつだってカミュの予想を裏切り続けてきた。
死んだ母の乗った船を引き揚げたいのだと言った幼い瞳に、ああ、この子はきっとだめだと思ったが、結局最後まで残ったのは氷河だった。
おとなしく眠っていたはずがいつの間にかベッドを抜け出して母を求めて雪の中を歩き続けていたときにも驚かされた。
アイザックを失った時には、快復不能な喪失の苦しみに折れてしまう覚悟も決めた。
寂しげな目をして、凍りついた海にずっと心を向けていた少年が、こんなふうに十二宮を上ることになるなど、一体誰が想定し得ただろう。
ああ───
今まさに氷河と闘っているミロが少し羨ましい。
師として、というよりも、一人の聖闘士として。
闘ってみたい、と。
庇護し、教え導く対象でありながら、同時に、今の氷河は、カミュの戦士としての闘争本能を刺激する。
氷河がミロを凌駕することはないだろう。
それでも願わずにはいられない。
来い、氷河。
この師の元へ。
そしてわたしに見せてくれ。
死者に会うために燃やされる小宇宙ではなく、誰かを護るために燃やされる、真の聖闘士の小宇宙を───