アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第一部 10◆
一面の白銀世界に、そこだけキャンバスを白く塗り忘れてしまったかのように、ポツンと立っている小屋を久しぶりに目にして、氷河は、ほ、と息をついた。
吐いた息は白く色づいて凍えた空気中にふわふわと雲のように広がっていく。
しばらく無人となっていた小屋の周囲には、戸の開閉を妨げるかのようにすっかりと雪が降り積もっていた。
デイパックを背負ったまま氷河は小屋の裏手へ回って薪棚からシャベルを取り出し、小屋の入り口付近の雪をザクザクと掘り始めた。
融けて凍ってを繰り返したのか、雪は存外に固く凍りついていて、かき分ける氷河の額にはうっすらと汗が滲む。
ぐ、とシャベルの柄に力を入れるたびに、まだ完全には塞がっていない左胸の傷口が痛み、そのたびに氷河は天を仰いでは汗を拭った。
ずくずくと重い痛みに脈打つ傷口は、己の命が続いていることを氷河に強く意識させる。
日本で待っていたのはまるで怒涛のような嵐だった。
私闘に加わった青銅聖闘士を抹殺、ただそれだけの任務のはずが、あれよあれよという間に事態は目まぐるしく展開し、氷河は否応なく暗黒聖闘士とも、白銀聖闘士とも戦うことになった。
だが、それらはあまり印象に残っていない。氷河には、降りかかる火の粉を仕方なく払ったという認識しかない。
シベリアに戻った今も何度も思い起こされるのは一輝との戦いだけだ。
死んでいてもおかしくはなかった。
実際、死を覚悟した。紙一重、母の形見が氷河を守らなければ、氷河は命を落としていただろう。
死ぬことを怖いと感じたことは一度もない。生きることに強い執着などなかった。
母がまだ完全に死の世界に行ってしまったわけではない、シベリアの低い海水の下で在りし日の美しい姿のまま存在している、と信じることで、どうにかこの世に留まってきたが、ある日あっさり死線を越えてしまっても気づかないような危うさと、氷河は常に隣りあわせで生きていた。
それが───
一輝の拳に噴き出る真っ赤な血潮に視界を赤く染めながら、まだ死ぬわけにはいかない、という、込み上げる熱い思いに衝き動かされて、氷河は無我夢中で再び目を開いた。
このまま意識を閉ざしてしまえば母の元へ行けるのだ、などという甘い陶酔は、不思議なことに掠めもしなかった。
まだ星矢たちが戦っている。
俺と同じ血を持つ同朋がまだ───
極限の状況で氷河は、生きて彼らと戦う選択をしたのだ。母を喪ってからずっと傍にあった死の世界を、氷河は、自らの意志で強く向こう岸へと押しやった。
それは、氷河自身にも予想しえなかった変化だ。
アイザックを失った時ですら、彼のためにも聖闘士になりもせずに簡単に死んではならない、と自分を戒めることはあっても、それほどの強さで生へしがみつくようなことはなかった。
なのにほとんど死に瀕した今、彼らへの抹殺指令を受けた時にはまるで感じなかった熱いシンパシーが、氷河に、生命への強い執着を生み出していた。
我が子を躊躇いなく死地へ送り込んだ男を通じて繋がっていたのでなければ、きっとあれほどのシンパシーは感じることなどなかった。
ただ、血が繋がっているというだけの兄弟ではない。
一人の男を忌敵と信じ、地獄の苦行を耐え抜いて戻ってきた者たちだけに許された、説明がつかない絆が少年たちを強く結びつけようとしていた。
ただ───彼らとはそうだ、というだけで、全ての蟠りが消えてしまうには、男が(父が、と呼ぶのは今もってなお強い抵抗がある)少年たちに遺した傷はあまりにも大きかった。
遺伝学上の父親だということは理解した。
自分達を聖闘士に、というのは、偽善的な口先だけの正義からきたものなどではなく、真にこの地上を護ろうという真摯な動機に根差していたものだったという説明も聞いた。
だが、だからと言って、ならば亡き父親の遺志を継いで、と、易々と一致団結、というわけにはいかない。
少年たちには、自らの意志に反して聖闘士にならざるを得なかった運命と向き合うための時間が今少し必要だった。
かてて加えて、沙織に対する反発もあった。
現在の彼女がどうか、ということより、城戸光政の寵愛をいいことに、星矢を鞭で打って遊んでいた、鼻持ちならない幼年時代の印象はあまりに強すぎた。あの高飛車な少女が聖闘士全てが護らねばならない女神だったのだと言われても、そう簡単に印象が覆るわけではない。
氷河を助けて氷の海へ消えたアイザックが、護りたいと目指していたものの正体が、あの、我が儘なお嬢さんだなどと、認めたくもない。
だいいち、彼女の気の強さはあの頃と何も変わってなどいない。
「話はわかった。だが、俺達には関係がない」と言って背を向けても、沙織は顔色一つ変えはせず、五老峰へ戻る紫龍のことも、シベリアへ帰る氷河のことも、全く引き止めはしなかった。
お嬢さんなら俺達が護るまでもなく一人で平気だろ、などという軽口すら真正面から受け止めて毅然と立っている姿に、却って後ろ髪を引かれてしまった、と、現実から逃げるようにシベリアまで戻ってきた身の氷河が言うのは、あまりにも身勝手というものだろう。
そんな、俺にはすべきことがあるのではないのか、という、焦燥感と幾ばくかの後ろめたさに苛まれていたのも、だがしかし、懐かしきシベリアの大地を踏むまでだ。
白の世界に身を包まれて、初めての実戦を経験して消耗し続けていた氷河の精神は、ほ、と柔く緩んでゆく。
戸外に立っているだけで命を奪われることもある厳しい雪の世界だが、氷河には何ものにも代えがたい故郷だ。
母だって───氷河を待っている。
は、と氷河は手を止めて、再び額に流れた汗を拭った。
痛みは今や限界に達していた。滲む汗は、身体を動かしたことによるものより、痛みを堪える冷たいものに変わりつつあった。
傷口でも開いたか、と氷河は顏をしかめて、ブルゾンのジッパーを半ばまで下ろし、胸をぐるりと覆っていた包帯を覗きこんだ。凍えた空気中に、鉄が錆びたような血の匂いがふっと広がったが、幸いなことに包帯は真新しい白のままで、新しい血がそこに滲んだ様子はない。重く疼く痛みは、単に、縫合痕が引き攣れたことによるものなのだろう。
少し休めば動けそうだと判断して、ザク、とシャベルを雪の中へ突き立てて、氷河は自らが掻いてできた雪の小山へと腰を下ろした。
しんと痛いほどの静寂に包まれて、何もない白の景色にぼんやりと視線を遊ばせていれば、努めて意識の外へ追いやっていた、この痛みをもたらすことになった原因の記憶が甦ってきて心が重くなる。
───鳳凰幻魔拳。
厭な魔拳もあったものだ。
氷河へと放たれた拳が見せた幻影はあまりに無惨で、幻と理解した今も思い出すのも苦痛だ。
人は皆死ぬ。
死ねば骸は醜く変化して、やがては完全に消滅してしまう。
美しかった母も例外ではない。
知っている、そんなこと。
だが、シベリアの海は氷河に奇蹟を見せてくれたのだ。
辛い別ればかりが訪れる世界、母だけは変わらず氷河の傍にいる。命は失われてしまったかもしれないが、まだ肉体は失われておらず、そしてこれからもあの水底にいる限り二度と失われることはない。
それがあんな……幻だとしても受け入れがたい。母がもう醜く崩れた骸になってしまったなどとは絶対に認めない。あれが現実であるとしたら、故郷に氷河を待つものはもう何もなくなってしまう。
断じて違う、と信じる一方で、だが万が一あれが幻ではなかったら、と恐れる気持ちも拭い去れないでいる。
確かめれば済むことだ。そのために傷が完全に塞がるのも待たずに無理を押して帰ってきたと言っても過言ではないのだから。
なのに何故俺は、母の眠る海に行きもせず、もう誰も戻りはしない小屋の扉を開くことに躍起になっている。
現実と向き合うことを恐れているのか。いや、違う。あれは幻だったのだ。恐れるべき現実などどこにもありはしない。
極寒の空気に慣れているはずの氷河の指が酷く震えている。
両手を口へと近づけて、は、と息を吐いて氷河はそれを温めた。震えは一向に止まる気配を見せない。指先から徐々に這い上がった寒さが氷河の中心を凍えさせていく。
己の中の弱さを認めてしまえば、もっと早く、氷河は正しい道を探し当てていただろう。
だが、この時の氷河にはそれができなかった。
本当は誰を求めていたのか。
シベリアで、氷河を待っていて欲しかったのは誰だったのか。
物言わぬ冷たくなった母だけしか心の拠り所は本当になかったのか。
しんと静まり返った小屋に胸が締め付けられたのは何故なのか。
後になって思い起こせば、答えは明白だった。
「『カミュ』と」と、熱を帯びた低音が促したその名は他のどんなものよりずっと簡単に氷河の心を揺らがせる。
初めての勅命を成し遂げられなかったことは師を失望させるだろう。
だが、己の命を賭して紫龍を救った星矢を、私闘に参加したことのみをもって抹殺もやむなしとは氷河にはどうしても思えなかったのだ。あの時の星矢は───氷河を救ったアイザックと同じだった。自分の命すら危ういような極限の状況で、それでも、他者の命を救うことを優先できるような魂を滅してしまうことなどできるはずがない。
だから、氷河の心を重くしているのは師の命に背いた結果になったことではなかった。
もっとずっと単純に、ただただ、その存在が恋しい、と。
情けない失態を曝した、と、叱られるのでいい。期待に応えられずに失望させたことなど一度や二度ではないのだ。
取り返しのつかぬ過ちを犯した氷河すら、決して、見放しはしなかった、あの、厳しくもやさしい師に会いたい。未だ迷うこの心をどうしたらいいのか、ずっと傍にいて導き続けて欲しい。
だが、傍にいて欲しい、会いたい、と、胸を焦がして希っていると自覚することは、母がもう本当はとうに氷河の手の届かないところに行ってしまっているのだと認めるより、ずっとずっと難しかった。
何故なら───聖闘士だからだ。
カミュが、氷河をそう認めた。
あの、己にとても厳しいひとに認められたからには、そんな甘ったれた感傷を抱いていることは許されない。
氷河自身が存在を強く拒んだその感傷は、存在を認められないくせに、簡単に抑えつけられないほど強く胸の中心を占めていて、だから、繊細さに軋む少年の心は、それを、死んだ母を想う寂しさに全て転化するしかなかった。
胸が寂しさで締め付けられるのは、母を喪ったせいだ。会いたいのに会えない寂しさは、母に対してだ、全部。
結果的にそれで死者へ執着を深めることとなって命を落としかけてなお、氷河は、己が抱えた弱さと向き合うことがまだできないでいた。
震えはまだ続いている。
だが、身体の痛みは少し和らいだ。
やはり身体を動かしていた方が楽だ、と氷河は立ち上がる。
シャベルの柄を握って、氷河は再び雪を掘り始めた。
星矢の傷はどうなっただろうか。紫龍の目は。一輝はきちんとカノン島へ向かったか。
こんな時、師と母以外に思いを馳せる存在ができたことは少しありがたい。
彼らといる時に感じていた熱い思いは、氷河をいくらかは勇気づける。
大丈夫だ。
シベリアは何も変わってはいない。母は変わらず水底で氷河を待っている。
小屋の扉を開いて、暖炉に火を入れたら、会いに行こう。
命日も近い。
いつもよりたくさんの花を買わなくては、と、氷河は霞む雪景色を見つめていた。
**
**
乾いた風を頬に感じて、カミュは、ふと顔を上げて辺りを見回した。
聖域か、ここは。
知らぬ間に戻って来ていたのだ。
シベリアからどう帰還したのか……遠目に見た氷河の姿と、あり得ない場所であり得ない小宇宙を感じた衝撃は冷静なカミュの心をも落ち着かなくさせていた。
聖域を離れたカミュを日本で待っていたのは、氷河ではなく、想像を絶する衝撃だ。
会話が聞こえるような距離ではなかった。
ミロに言ったとおり、干渉するつもりもない以上、必要以上にアイオリアの領分に踏み込むことは、彼のためにも、カミュのためにも得策ではなかった。
白銀が監視についたことは彼なら易々と察知しただろうが、本気を出せば、白銀など何人束になってかかったところで彼の髪の毛ひとつ動かすことが能うものではない以上、意味のない形ばかりの監視は、教皇からの牽制、それ以上でも以下でもないことは明白だ。
だが、同じ黄金のカミュまでが近くにいることがわかれば話は別だ。ただの牽制では話は済まなくなってくる。
教皇はそこまで俺を信用していないのだ、という不審をアイオリアに植え付けてしまうのは、カミュの本意ではない。いくらカミュの中に疑念の芽が生まれてはいても、聖域が正義を担う砦であることはまだ揺らがぬ事実なのだ。徒に混乱を招いて聖域を崩壊させる真似をするつもりはカミュにはない。
だが、結果として、そんな距離にまで近づく危険を冒す必要はまるでなかった。
何だ、この小宇宙は……!
アイオリアではない。
相当に離れていても感じられるほど強大な小宇宙を持つものは黄金聖闘士以外にないが、衝撃で総毛立つほど圧倒的に強大でありながら、まるでカミュが心の奥底に抱えた葛藤までを包み込むかのような慈愛に満ちた温かさは、聖闘士のそれとは根本的に違う。
正体がわからぬうちから、自然と地にひれ伏したくなるような畏敬すら覚えてしまう、この小宇宙は……
───女神……?
忘れもしない、降誕の夜に、聖域中を包んだ小宇宙ではないのか、これは。
何より、峻烈なほどに勇猛でありながら全てを包み込むやさしさ、対極に存在するものを同時に内包する偉大な小宇宙は、神以外は持ち得ない。
カミュのこめかみを汗が一筋流れる。
女神もアイオリアを追っていらっしゃったのか?───違う。女神は……既に聖域にはいらっしゃらなかったのだ。
いつから?
射手座聖衣がこの地にあることと無関係ではあるまい。
意思を持つ黄金聖衣が、長きに渡って聖域の地へ戻らなかったのは、女神をお護りしていたからか。
そうなると、サジタリアスが聖域から失われた十三年前、アイオロスの謀反を機に女神は聖域に不在だったと……?
そんなにも長く───
それは、十二宮の存在意義に関わるほどの衝撃だ。
命かけて守護している宮のその先に護るべき女神は居はしないのだ。
久しぶりに聖域に戻ったカミュが感じていた歪さは、あるべきところにあるべきものがないことを取り繕うことによって生じていた歪みだったのか。
据わりの悪さを感じていたものがようやく腑に落ち、同時にカミュはハッとした。
唯一、女神にお目通りを許されていた教皇は───女神がずっとご不在であったことなどとうにご存知だ。ご存知どころか、自らその事実を隠すための嘘をついていたことになる。
謀反人アイオロスから女神を取り戻した、と教皇そのひとが言ったのだ。実際には、取り戻すことなく、射手座聖衣ともども行方知れずになっていたにもかかわらず。
教皇は、聖域を統べる立場でありながら、長きにわたり、全ての聖闘士を偽り続けてきたのだ。
───いや、だがしかし。
カミュは掻きむしるように己の髪へ指をさし入れた。頭が割れそうに痛い。思考が叫びとなって口から溢れてしまいそうだ。
まだ、それのみで教皇の真意を判断するには早計だ。
女神の居所が知れないことがわかれば聖域中が大混乱だ。聖戦を前に女神が失われたなどと、もしかしたら、希望が失われたとばかりに離反する者を出してしまうかもしれない。
事実を全て詳らかにすることが正しいとは限らないのだ。カミュであっても、その重大事実は聖域のために伏せておく決断をしたかもしれない。教皇には下々の聖闘士には窺い知れぬ、何か深いお考えがあったのかもしれないのだ。
───だが、そもそも、なぜ一体アイオロスは聖域から女神を連れ出したのだろうか。まだ赤子であった女神を聖域から排除したかったのであれば、その場で殺してしまうのが一番簡単だったはずだ。だが彼は女神を連れ出した。そして彼亡き後も女神は生きていた、ここ日本で、ずっと。
それは一体何を意味しているのか。
真理に到達しそうでしないもどかしさに苛まれてはいたが、このまま埒なく考え込んでいるわけにもいかなかった。
全く想像もしていなかった出来事に心を乱されたが、干渉しないと誓ったからには、後はアイオリアに任せるしかない。真実を知ったところで、カミュが彼らに手を出せない事実は変わらないのだから。
ただこれで、青銅たちが揃って白銀を凌駕した理由はすっかりと合点した。女神の小宇宙に護られていたか、さもなくば、真の正義を体現するものにのみ許された奇跡が彼らに起こったか。
我が愛弟子が勅命を反故にした理由もきっとこの大いなる存在のためだ、と信じたいところだが───そもそも、氷河は今どうしている。
今この瞬間も女神を護っているならカミュの出る幕はなかったが、氷河の小宇宙は感じない。
まさかとは思うが、氷河、お前は……
そうして、カミュはシベリアへ急ぎ跳んだのだ。
懐かしきシベリアの凍えた空気に感慨に浸るような心の余裕もなく、向かった先でカミュが目にしたものは───
分厚い氷の下、カミュの足元のはるか下方で、海底へ向かって泳ぐ氷河の小宇宙が揺らめいている。
心に重い光景だ。
最後まで、氷河との間で母親のことは深く話し合えないままだった。
カミュの立場では(アイザックを失ってからは特に)、禁ずる方向でしか話題にできないからだ。
だが、母のために聖闘士になりたいと願い、そしてその母を思う気持ちのためにアイザックをも失ってしまった氷河に、今さらそれを禁じてしまうのはあまりに酷だった。
はっきりと禁じるならば、アイザックを失う前でなければならなかった。
それをしてこなかった以上、氷河が自発的に未練を断ち切ることを祈ることしかもうできることはないと思っていた。
本来であれば聖闘士となる前に断ちきらねばならぬ未練だが、幼かった氷河に生きる力を与えていた唯一の望みだ。聖闘士の力は私的に行使できぬ決まりだが、母の乗った船を引き揚げて墓碑を作るという、誰に害をなすわけでもない、ささやかな願いを密かに叶えたとしても、見ぬふりくらいはしてやれる。聖闘士となっても、まだ聖衣を纏う前であるならば。
それで氷河が過去を克服し、聖闘士として揺るぎなく生きていけるなら、アイザックも報われるというものだろう。
そう思い、聖衣の在り処を知らせるのを遅らせたが───
つくづく、わたしが犯した過ちは大きかった。
半端な情けは残酷なだけだった。
情に流されがちな己をいつも厳しく律していたというのに、わたしは氷河のこととなるといつも己を失って判断を誤る。
死者への未練を断ち切らせることもできず、腕の中にかき抱きたいという感情を抑えきることもできず───
その結果が、これなのか……。
まっすぐに水底を目指していく氷河の小宇宙。
万人が得られるわけではない、その類まれな才能も、亡くなって何年にもなる物言わぬ骸に向けたのでは何も生み出さぬ。
聖闘士の何たるかをよく知りもせずに、幼子の一途な思いのままに、死んだ母のために聖闘士になりたいのだと言ったのとは今はわけが違う。
カミュと過ごした六年の間に、氷河は聖闘士の存在意義をよく理解したはずだ。その上で、それでもなりたいのだと、いなくなってしまったアイザックに誓ったのではなかったか。
カミュからの勅命を反故にしても、そして遺恨ある父に従う形になったとしても、それでも護りたい、護らなければ、と思う存在に出会ったのではなかったのか。
白銀と戦ったことは、暗黒聖闘士と戦ったことは、お前を何も成長させなかったのか。
なぜまたこの地へ戻ってきてしまったのだ。
「氷河……!」
もはや、躊躇いはなかった。
聖域に女神がいないとなれば、事態は大きく動く。一度キグナス聖衣を纏い、白銀を斃した氷河が嵐のような騒乱に巻き込まれるのは必至。氷河が己自身で過去を克服するのを待つ猶予はない。
まるで大地に渦巻くブリザードのように爆発的に勢いを増したカミュの小宇宙は海底地震を引き起こした。
鳴動する海底に、氷河の母が眠る船は海溝の底へと落ちていく。
波立つ海面は氷河の動揺を伝えているかのようだ。
もっと早く、出会った初めの日に、こうするべきであった。
お前に情けをかけずにはいられなかった、この心根の弱い師を許せ、氷河。
───許せ、アイザック。
聖域の地を踏みしめているカミュの指は、今も、揺れる海底を感じでもしているかのように微かに震えている。
カミュは顏を上げて十二宮を見上げた。
荘厳な佇まいの石造りの要塞は、女神神殿に続く天空へと上っている。
あの先に本当に女神はいらっしゃらないとは、今もってなおカミュには信じられない思いだ。
今この瞬間も聖域は非常に強い小宇宙で護られているのを感じる。女神が不在なのだとしたら、この加護は誰によってもたらされたものだというのか。───教皇以外には考えられない。
女神が失われた聖域を十三年間維持してきた教皇が、何を思い、どう動こうとしているのかカミュにはわからない。
今まで経験したことがない、酷く難しい局面を迎え、石段を上りゆくカミュの顔は険しい。
迂闊に声をかけ難い空気だったか、それとも既に何か事が起こる気配を感じているのか、通り過ぎるどの宮も、まるで無人であるかのようにしんと静まり返っていた。実際に無人だったのかもしれない。それほど、聖域は静かだった。
ミロだけは宮の入り口でマントを風にたなびかせて聖域を見渡すように立っていた。
カミュの顏を見ると、その鋭い目元をわずかに緩ませたのは、きっと、彼の信頼を裏切らずに戻ってきたことへの安堵だろう。
だが、彼は、アイオリアがどうしたのか、日本で何が起こっていたのか、何も聞こうとはせず、軽く頷いてみせただけで声を発することはなかった。
信頼しているのだ。カミュを、というより黄金聖闘士という存在を。
ミロばかりではない。黄金聖闘士は皆そうだ。良くも悪くも、互いの領分に軽々しく踏み込んだりはしない。
だから、カミュも頷きを返しただけで何も語りはしなかった。
真を見抜く力を持っていることもまた黄金聖闘士たる条件だ。まだ何もわからない中で迂闊に言葉になどできるはずもなかった。
聖域の石段を踏みしめる、その一歩ごとに、黄金聖闘士になってからの日々が次々にカミュの脳裡を去来する。
聖域と、そして、シベリア。
水瓶座の黄金聖闘士である己と、氷河と、そしてアイザックの師として過ごした日々。宝瓶宮を守護していたのと同じ時間だけ、師としての時間はあった。
どこに正義があるか真実の読めぬ今、揺るぎなく確かだとカミュが信じられるものは───