寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第一部 09◆

 時は動き出した。

 日本における青銅聖闘士同士の私闘は混沌を極めた。
 くだらない商業的見せ物ごときと歯牙にもかけられていなかったが(だからこそ、抹殺は同じ青銅の氷河で十分とされたわけだが)、優勝者への褒賞に黄金聖衣を掲げたことがわかって以降は、聖域におけるその認識は一変した。
 黄金聖衣は聖域の要だ。
 一たび纏えば、神に近い力を発揮できるという、それそのものが至高の存在だ。軽々しく青銅聖闘士が扱えるものではない。
 その黄金聖衣を単なる私闘の褒賞にと掲げただけでも前代未聞の一大不祥事であるというのに、ましてや、それが長らく所在不明であった、あの、射手座の黄金聖衣とあれば。
 アイオロスの聖衣が何の縁もない極東の島国などに存在するはずがなく、偽物に違いないという声は多かったが、だが、この際、聖衣の真贋は関係がなかった。
 よりによってそれが、所在のわからない射手座の聖衣だった、ということが問題だ。
 所在がわからないがゆえに、聖域はそれを偽物だと断定してしまうことができなかったのだ。
 ゆゆしき事態だ。
 聖戦を前に聖域は、黄金聖衣を全て掌握しきれていないということを図らずも世界中に露呈させてしまう羽目になった。

 全くの予想外の場所で数年ぶりに姿を現した黄金聖衣が、聖域に、否、世界中の聖闘士に投げかけた波紋は思いの外大きかったのだ。

 青銅聖闘士同士の私闘だったものは、暗黒聖闘士の乱入によって既に私闘の域を越え、黄金聖衣を巡る攻防へと変貌していた。
 一体何がどうなっているのか。
 氷河からは何の連絡も入らない。
 業を煮やした教皇は、早々に氷河を裏切り者と切り捨て、白銀聖闘士を送り込むことを決めた。
 突如現れた射手座聖衣と、聖域の召還に応じない二人の黄金聖闘士の存在に酷く苛立ち、尋常ではない緊張を漲らせている教皇に向かって、お待ちください、と氷河を庇って、さらに疑心暗鬼に陥らせる真似をすることは、聖域を護る立場であるカミュにはできるものではなかった。
 キグナスは寝返った、白銀を呼べ、と慌ただしく行き交う伝令を、カミュは感情を封じて、ただ、黙って見送ったのだった。

 だが、カミュには、氷河が「寝返った」わけではないことはわかっている。
 氷河は絶対に己を裏切らない、という、傲慢な自信などはありはしない。
 師の目を盗むようにして母に会いに行ったことから知れるように、氷河は元々、カミュの言うことを全部が全部行儀よく聞くような性質ではなかった。たいていの場面では素直で従順であり、そしてカミュのことを心から敬っていることは疑いもなかったが、アイザックよりよほど泣き虫なくせに、己が心に決めたことは決して覆さない頑固さは持っていた。
 どれほど氷河とカミュの間に深い結びつきがあろうとも、カミュが下した命を、それだからと言って氷河は盲目的に従うことはしないだろう。
 アイザックと氷河はそこが決定的に違っていた。
 氷河のその性質が短所であるのか、長所であるのかカミュに判じることはできない。
 ただ、それは不思議と、アイオロスを思い出させた。
 彼と氷河はまるで似てはいないのに。

 アイオロスは聖闘士でありながら、聖域の掟に、というより、己自身の正義に忠実なところがあった。
 いなくなってしまった黄金聖闘士二人は、そういう意味では対極にいた。
 サガはこの上なく真面目で、聖域の掟を守ることにも厳格だった。
 慣れぬ聖域の掟をしばしば逸脱する年少の黄金聖闘士たちを、本質的に正義に悖っていないのであれば細かいことはいいではないか、と、庇うアイオロスに対し、だが掟は掟だ、小さな逸脱を許せばいつ大きく道を踏み外すやもしれぬ、と眉間に皺を寄せていたのがサガだ。
 アイオロスはそんなサガをいつも、お前は本当に生真面目だなあ、と笑っていた。だが、そのたびにサガは、
「だが、大事なことだ。我々聖闘士は女神を唯一絶対の正義とする存在だ。各々がそれぞれの主観に従って正義を判断していてはあまりに危うすぎる」
と、よく反論をした。
 アイオロスはサガの言葉を吟味するように黙考し、なるほど、確かにその通りだ、お前はいつも正しい、と頷いてみせるのが常であったのに、結局は謀反という形で最悪の掟破りを犯してその聖闘士人生を終えてしまった。
 皮肉にも、小さな逸脱を許せばいつか大きく道を踏み外す、と言っていたサガの言葉が正しかったことをアイオロスは己が身をもって証明する形となってしまったのだ。未だに、あの高潔だったアイオロスが、とカミュは信じられない気持ちでいるのだが、それでも、それはもう覆らない事実として聖域の歴史に刻まれている。
 だからというわけではないが、カミュ自身は、どちらかと言えば、サガの考えに近かった。
 女神そのものが正義を体現する存在である。その女神に従っている以上、聖闘士が正義ではない、ということは起こり得ないはずだ。
 ただし、各々が勝手に何が正義か判断するなら事情は変わってくる。神は過ちを起こさないが人間は過ちを起こす生き物だ。厄介なのは、自分自身、正義だと信じていることが誤っていることもある、ということだ。だから、カミュは、サガのように融通が利かないほどに己を厳しく律することが正しい聖闘士の在りようだと思っている。風のように柔軟だったアイオロスはその点では間違っていた。

 アイオロス同様に自分の命を危うくしかねない、氷河のその性質がどうにも不安で、だからあれほどまでに感情を排除する術を厳しく教え込んだというのに───氷河はやはり、抹殺を遂行するのに、正邪を迷った、のだろう。
 年寄り子ども相手に乱暴狼藉を働くわかりやすい悪漢相手になら、氷河とて迷いはしなかっただろうが、同じ聖闘士同士、それも血を分けた同朋の私闘が粛清の理由とあっては……カミュを、聖域を、裏切ろうという明確な意図はそこにはなかっただろう。
 だが、生じた迷いは、結果として抹殺指令に逆らった形となった。
 結果だけみれば「寝返った」と判断されるのは致し方ない。

 カミュは、ふ、と息をついた。
 ついた拍子に天地がぐらりと揺れて、己がひどく疲労を感じていることに気づく。
 全身が必要以上に強張っていて、臓腑が冷たく凍えている。
 眠れない夜を過ごしたシベリアの日々に戻ったかのようだ。
 師としては、任務を遂行しきれなかった弟子に聖闘士失格だと失望し、嘆く場面なのだろう。
 だが、カミュの心の内側を占めているのは、女神に対して弟子の不始末を申し訳なく思う気持ちどころか、氷河を失ってしまう、という絶望、ただそれだけだ。
 これではわたしも聖闘士失格だな、とカミュは片手で己の顏を覆った。
 蒼白な顔で氷の海を見つめていた少年が今どうしているのかと考えるだけで、身が引き裂かれそうだ。
 暗黒聖闘士とは戦ったのか。
 白銀はもう日本に着いた頃か。
 寝返った、と取られた以上は、白銀聖闘士は氷河をも抹殺するよう言い含められているだろう。
 氷河の態度次第では見逃して───いや、それはない。白銀ともなればそんな甘い考えの者はないだろう。何より、氷河は命乞いをするような真似はしないと断言できる。言い訳すらもしないだろう。
 我が愛弟子の生はここまでか。
 懸念したとおりに、捨てきれぬ甘さゆえに命を落とすのか。

 カミュは己の指先をじっと見つめた。
 別れの日、眠りに落ちた氷河の柔らかな金糸を梳った感触がまだそこには残っている。
 記憶の中の温かさを引き寄せるようにそっと小宇宙を燃やせば、指先に、ぽう、と蒼白く冷たい焔が燃えた。
 ピシピシと空気を凍えさせる焔はやがて白い結晶となってはらはらとカミュの足元へと舞い落ちる。

 正義とは一体何のためにあるのだろう。
 黄金聖衣を纏うときに、女神とこの美しき地上のために生き、そして死ぬのだと心に決めた。アクエリアスとして世界を護ることは誇りだった。
 だが───
 アイザックも、今また氷河をも失ってしまうなら、アクエリアスのカミュが護っていた「世界」は一体どこにあったというのだろう。
 あれほど大切に育てた愛弟子はカミュが護る、護りたいと強く願う「世界」の一部ですらなかったのか。

 降り積もる氷の結晶は、まるで白い花のように美しく咲き誇ってカミュを包み込む。
 石造りの床をゆっくりと覆っていく雪の花は、哀しいほど白く、カミュはいつまでもその白を静かに見つめ続けていた。

**

 聖域では、今やカミュの立場は危ういものになりつつあった。
 十二宮の守護者という、聖域の最高峰の存在でありながら、『裏切り者』の師となったせいだ。
 密かに、宝瓶宮付近に配備される雑兵の数が、獅子宮同様に増やされたことにもカミュは気づいている。
 ただ、感情を表出させないカミュの努力は完璧だったのだろう。
 弟子を葬り去られようとしている師にしては、些か冷酷すぎるほどに冷静であるように見えたらしく、カミュに対する視線は、疑惑と言うより、どちらかと言えば不肖の弟子を持ったことによる同情的な意味合いのものが多かった。
 誰にどう思われようとカミュ自身は構いはしなかったが、十二宮の守護を思うなら、これ以上の離反の疑いを蔓延させて聖域を動揺させるのは得策ではなく、冷酷に弟子を切り捨てた師だと思われていることは聖域のためには好都合だった。

 このままわたしはきっと心を殺して氷河の死の報せを受け取ることになるのだろう。
 既にその報せを受け取ってしまったかのように、すっかりと心は凍りつき、次第に諦観がカミュを包み始めていた、そんな時にその衝撃の報せは聖域へともたらされた。

「『抹殺失敗』、『白銀全滅』……?」

 そうです、と慌てふためいてその報を教皇宮へ告げに走る伝令は、今日か、明日か、と、永遠に受けたくないはずの報せを、死刑宣告を受けるような気持ちで待っていたカミュが、そのただならぬ様子に何か起こったことを察して宝瓶宮前で咄嗟に呼び止めたものだ。
 直ちに教皇様に知らせねばならない重大事ですので、と、初めのうち、立ち止まろうとしなかった伝令は、一度はカミュに背を向けて、だがしかし、カミュが氷河の師であったことを遅れて思い出したのか、石段の途中で振り返り、あなたには知る権利がある、と言わんばかりの表情で件の報せを告げたのだ。
「正確に言えば、白銀のうち、イーグルの魔鈴は奴らの側に寝返りました。そして……ケンタウルス星座のバベルを斃したのは……キグナスです。青銅の、あの、あなたの、そのう……とにかく、そういう、報せでした」
 青い顔をした伝令は、自分自身で発しておきながら、それが事実だとは信じられないかのように頭を振りながらそう言った。
 そして、周囲を憚るように小声となって、
「奴らの手元にある射手座の黄金聖衣はどうやら本物です。どういう経緯で奪われたものか、城戸光政という男が所有していたようです。ただその男は既にこの世にはなく……現在はその孫娘の所有となっています。此度の青銅どもの私闘の首謀者はその小娘であります」
と、そう付け加え、カミュに頭を下げると、今度こそ教皇宮を目指して石段を駆け上がって行った。

 受けた衝撃が全く表情に出なかったのは、己を律し慣れている日々の賜物であった。

 伝令は一体何をあんなに慌てていたのかと、遠巻きに見つめていた宝瓶宮づきの(と言えば聞こえはよいが、要はカミュを見張っているのだろう)雑兵たちに何ごともなかったかのように労わりの声をかけてやり、そして、カミュはゆっくりと宝瓶宮の奥へと戻った。

 宝瓶宮の最奥、埃っぽい書庫へと籠って鍵を掛け、そして書棚を背に座り込んでカミュはふーっと長い息を吐いた。

 氷河が白銀を……?

 真っ白になった頭の中に、伝令の言葉がじわりじわりと今更ながらに意味を持って浸透していく。
 カミュは思わず目を閉じて、天を仰いだ。

 生きているのだ、いつまでも涙で揺れる感情を捨てきれなかったあの少年は今もまだ。
 それも、白銀を斃したとは……!
 聖域から遣わされた刺客を返り討ちにしたことは、単に任務放棄とはわけが違う。はっきりと聖域を敵に回す意志を示したということだ。
 氷河にとってもカミュにとっても、そして聖域にとっても、これで事態は悪化した。
 黄金聖闘士としてのカミュには望まざる事態だが、だがしかし、師としてのカミュには、己の授けたものが白銀に匹敵するまでの力となっていたことに、言葉では言い表せぬほどの熱い思いをもたらしていた。

 このところ凍り付いていた心が、愛弟子が見せた予想外の逞しさにぐっと熱いものを込み上げさせ、ただ、それと同時に働き始めた思考がカミュに強い違和感を運んできた。

 おかしい。

 母の死を静かに弔いたかっただけのはずの氷河はなぜ聖域に立てつくような真似を……?
 聖闘士の力を邪な目的に使う意図など氷河にはないことは、アイザックに誓ってカミュ自身が断言できる。
 それに、そう、城戸光政だ。
 まさかその名をこのような形で再び聞くことになるとは……!
 何がどうなって射手座の聖衣がアイオロスの手から氷河の父親へと渡ったのか。
 我が子を世界中に送り込んで聖闘士にせんとしていた城戸光政は、では、射手座の黄金聖衣を纏う人間を探していたということか。
 何のために。
 正義のためというのなら、聖域に任せておけばいいものを、何故わざわざ、聖域から聖衣を隠すような真似をした?そうまでして隠しておきながら、受け継いだという孫娘は、なぜ今、このタイミングで派手な私闘で聖域の目に留まるような真似を……?

 どういうことだ……?

 カミュは書架に並べられた本の背表紙を睨みつけるようにして目まぐるしく考えていた。

 仮に、城戸光政が射手座の黄金聖衣を使って聖域の顛覆を狙っていたとしよう。
 悪事を謀る身には、正義の目を光らせている聖域は頭の痛い存在だ。彼が何か企んでいたのなら、アイオロスと利害が一致してどこかの時点で手を組んだということも考えられる。
 だがアイオロスの、女神を亡き者にしようという企みは潰え、既に年老いていた城戸光政は何も為すことなく他界した。長年それで聖域は平和を取り戻したつもりでいたが、ただ、悪の遺志は受け継がれていたのだ。聖衣と共に、彼の孫娘へと。
 彼の子である青銅聖闘士たちが時を経て、その孫娘の元へと集った、と。そういうわけか。
 青銅聖闘士の中でもより強い力を持つ人間を選別し、射手座聖衣を纏わせようとしたが、その戦いの最中に暗黒聖闘士が乱入し、黄金聖衣を奪われては聖域を顛覆させる力を失ってしまうと彼らは必死にそれを退け、粛清のためにやってきた白銀聖闘士を聖域に乗り込む手間が省けたとばかり返り討ちにした……

 その仮説に、カミュは何ら綻びを見つけることができない。
 彼らのことを何も知らぬ状態で聞いたなら、さもありなん、と頷いただろう。
 だが、それは、氷河の存在がなければ、の話だ。
 他の青銅聖闘士のことはカミュは知らないが、氷河の存在はこの仮説にどうしてもうまく嵌らない。氷河が彼らの側にいるということが、この仮説では説明がつかないのだ。
 母の死に深く傷つき、その後に父から受けた仕打ちによってさらに傷ついていた氷河が、父がカミュのいる聖域を崩壊させようとしていたと知って、その片棒を担ぐような真似をするだろうか。
 ありえない。
 アイザックを失って、それでも聖闘士になると、それだけを拠り所のようにして生きていた、あの、息もできないほど苦しい日々が、こんな邪な目的に続いていたとはどうしても思えない。

 それに───やはり、白銀が誰一人敵わなかった、ということが気にかかる。
 脇が甘く実戦で通用するかどうかは微妙なところだったが、氷河だけならば、可能性としては白銀に匹敵したということはあり得たかもしれない。
 だが、白銀が揃いも揃って、青銅をただの一人も片付けられなかったというのはあまりに不可思議だ。
 簡単に越えられぬ壁があるからこそ、白銀は白銀であり、青銅は青銅であるのだ。
 一人裏切ったという白銀の後押しがあったにしろ、全滅とは……何か、ほかに大きな力が働いたとしか思えない。大きな力───射手座の黄金聖衣か、それに類する何か。

 思考を巡らせながら見るともなしに書架を眺めていたカミュだが、ふと、1冊の本が目に留まった。
 収納する時に慌てていたのか、天地が逆さまになって押し込められている。
 整然と並んだ書架において、1冊だけ真逆の向きになっている様はどうにも気持ちが悪く、思考を一時中断してカミュは立ち上がった。
 逆さまになった背表紙に指をかけて抜き出し、何気なくパラパラと頁をめくってカミュはおや、と目を瞠った。
 背表紙の文字の並びからして逆さまに押し込められていると思った本は、意外にも逆さまではなかった。珍しいことに装丁ミスによって、本文の天地の向きと真逆の向きに表紙がつけられてしまっているだけだったのだ。
 そうか、誰が収納したか知らないが、これはこの向きでよいのだな、とカミュはそれを書架に戻しかけ───そして、雷に打たれたかのように動きを止めた。

 もしや、逆、なのか。
 この本のように外側を包むものに目を奪われて、本質的な正邪をわたしたちは見誤っている……?

 ぞく、と背を駆け上がった悪寒にカミュは身を震わせた。

『女神に従う聖域が正義ではないということは起こり得ない』

 その大前提が覆されるのだとしたら(・・・・・・・・・・・・・・・・)、すべてがピタリと符合しはしないか。
 異質に変質してしまっていた聖域。
 聖域側へつくよりもよほど高い精神的障壁を抱えていたにも関わらず、それでも、青銅側へとついた氷河。
 圧倒的な力量の差を凌駕するほど、彼らの後押しをしたであろう、何かの力。

 かつての射手座の輝ける黄金の翼が脳裏を過ぎる。
 強く、やさしく、皆の憧れであった、正義を体現するために生まれてきたような、あの高貴な戦士の悪への変節に皆衝撃を受けたものだが……もしも、彼が何も変わっていなかったのだとしたら。

 女神が平和を愛する正義の神だということに疑いはない。神は過ちを犯さない。それゆえに神なのだから。
 だとしたら。
 過ちを犯したのは、犯しているのは、誰だ。
 あの頃、降誕なされたばかりだった女神は御年おいくつになられたか。
 そろそろ、代弁者を立てずとも自らの言葉で聖闘士たちに語りかけることができるまでになられたのではないか。
 それが一度もないのは何故だ。
 聖域にいて、女神の小宇宙を感じることがないのは。

 アイオロスは何をした……?

 もやもやと答えを探してカミュの思考は行きつ戻りつしている。カミュの怜悧な頭脳は既に答えの穂先に触れつつあったが、己の拠り所である聖域の禁忌に触れることへの強い抵抗感が、結論を出すことを拒んでもいた。

 と、宮の外でバタバタと空気が乱れ動いた。
 畏れ多い思考を中断するきっかけを得たことに些か安堵しながら、カミュは元通りに本を収めて、呼吸を整え、再び宝瓶宮の入り口へと向かった。

「どうした、何かあったのか」
 入り口付近でざわざわと騒いでいた雑兵たちの元へ歩み寄れば、はっとした顔で彼らは振り向いて、畏まるように一礼をした。
「今、教皇宮に呼ばれていたアイオリア様が通ってゆかれました」
「青銅どもの抹殺に向かうようです」
「なに」

 白銀で駄目なら黄金、ということか。
 たかが青銅ごとき黄金が出ることはない、と教皇自らがそう言ったというのに。何が何でも殺さねばならぬ、という並々ならぬ強い粛清の意が感じられる。
 なぜそんなにも「たかが青銅」に拘る。聖域の顛覆を狙うなら暗黒聖闘士と手を組んだが早いにも関わらず、結果的に彼らは、暗黒聖闘士の手から射手座の聖衣を守った形になったのだ。問答無用で悪だと切って捨てるのは早計だと感じてしまうのは、カミュが『氷河の師』である私情を捨てきれていないせいか。
 それを脇に置いておいたとしても、だ。よりによって刺客にアイオリアとは。
 黄金ならほかにいくらもいる。
 日本にある射手座聖衣が本物だという報告を受けた上での選定であれば、あまりに心がない仕打ちではないのだろうか。アイオリアの忠誠を試そうとでもいうのか?忠誠を問いたいならば、よほどカミュがその任を任されるべきではないのか。弟が兄の不始末の責を問われるのは不自然でも、弟子の不始末の責は師にあるのは明らかだ。
 なのに何故、アイオリアなのだ。

 カミュが黙り込んだのを、今度こそ弟子の最期を悟って動揺しているととったのか、雑兵たちは意味ありげに互いを肘でつつき合った。
 辟易する低俗さだ。
 皆、何もおかしいと思わぬのか。
 聖闘士は一丸となってこの地上を護っているはずだ。
 兄弟で、師弟で、立ち位置が捻じれているこの状況がどれだけ危険で、どれだけ歪なことなのか、誰も危機感を持っていないのか。聖戦はもうすぐそこに来ているというのに。

 小さな苛立ちに気持ちをささくれ立たせて眉間に皺寄せるカミュの上に、突然に懐かしい声が降ってきた。
「久しぶりだな、カミュ」
「……ミロ!お前も呼ばれていたのか」
 見上げれば、輝く蠍座の黄金聖衣にマントを翻らせながら、ミロが石段をゆっくりと下りてきていた。
 数年ぶりの邂逅だ。
 だが、最後に会った時とまるで変わらぬ闊達さをその涼やかな目元に滲ませた同朋の姿に、聖域に帰還して以降、張り詰めっぱなしだったカミュの神経は初めて少し緩みを見せた。
 カミュを囲む雑兵たちの波を割って大股で近寄ったミロは、
「俺の宮と違ってえらく手厚く護られているようだな、お前のところは?」
そう言って、皮肉げに口元を歪めてみせた。
 その笑みは、カミュの今置かれている苦境をよく理解している笑みに他ならなかった。
 だが、再会を喜んで、落ち着いて旧交を温め直すような状況では到底ない。
 満足に会話も交わさぬうちに、ミロの後ろから、数人の白銀聖闘士がバタバタと駆け下りてくる。
「お前たち、どこへ行く」
 問うたのは宮の主ではなく、何故かミロの方だ。
 眼光鋭く見下ろされて、白銀聖闘士たちは一瞬怯み、だが、誇らしげに胸を張って答えた。
「教皇様の命によりアイオリア様の監視に就くのです」
 なに、と激しく色をなしたのはやはりミロだ。
「アイオリアは黄金聖闘士だぞ」
 ミロの声に滲んだのは自分と同じ黄金位の誇りを傷つけられたことに対する憤りだ。ミロをよく知るカミュであれば、重ねてその誇りを傷つけるような愚は犯さないが、白銀聖闘士たちはそこまで読めなかったのだろう。迂闊にも彼らは、ですが、と、口を開いた。
「アイオリア様は謀反人アイオロスの弟です。監視は当然のことかと……」
 白銀聖闘士たちが全てを言い終える前に、彼らとミロの間にカミュが割って入らなければ、少々ややこしいことになっていたかもしれない。表情を変えずに聞いていたかのように見えたミロの肩は僅かに震えていた。
 彼らの心無い(彼らにとっては、それが正義のつもりなのだろうが)言葉を遮るように、「ならば」と声を張ったカミュに、ミロは、一瞬、虚を衝かれたかのように、握りかけていた拳を止めた。
「……ならば、わたしもアイオリアを追おう。仮にも黄金の監視に白銀だけではアイオリアにも礼を失しているというものだろう」
 ミロの切れ長の瞳が微かに見開かれ、正気か?と言いたげに鋭くカミュを見た。
 カミュの真意を見定めんとするかのように眼光を増す瞳は、揺らぎない信念を己の中に持っている男のそれだ。ああ、この男は何も変わっていない、と、それは、混沌に飲み込まれようとしていたカミュを再び黄金聖闘士の位置に取り戻させる。
「お前が、アイオリアを……?」
 まさかカミュがアイオリアの監視に就くなどと言い出すとは思いもしなかったのだろう。ミロは、裏切られでもしたかのような酷く難しい顏をしてカミュを見ている。
 援軍を得た形になったはずの白銀聖闘士たちも、それなりにプライドを挫かれたのだろう、ですがその任はわたしたちが、と戸惑いの表情で互いを窺っている。
 何より、遠巻きに成り行きを見守っていた雑兵たちが緊迫した面持ちで駈け寄ってきた。
「アクエリアス様、今、何と……」
「アイオリアの任務遂行を見守るために日本へ発つ」
 それは、と、雑兵たちの間に動揺が走る。
 ざわざわと激しく人の波が揺れ、やがて、一人の雑兵が震えながら進み出る。
「それはできません。あなたが宝瓶宮を離れることは許可できない」
 は!とミロが短く引き攣れた笑いで空気を切り裂いた。
「許可?許可とは笑止千万!雑兵の分際でたいそうな口を利くものだ。この聖域で俺達黄金を動かせるものは女神だけだ。カミュがお前たちに寛容だからと言って勘違いはするな。立場は弁えろ」
 ミロの威圧に、口を開いた雑兵は袈裟懸けに斬られでもしたかのように気の毒なほど血の気を失った。雑兵ばかりか白銀聖闘士までが身を固くしている。
 自分の代わりに憤られた形になったカミュもまた驚いた。先ほど、カミュに裏切られたように感じたことと、黄金位を軽んじられることへの憤りとは彼の中では別問題なのだ。
 だが、それでも雑兵は、もごもごと口の中で、いえ、ですからその女神が、と言い募ろうとしている。ミロにあんな風に威圧されてまだ口がきけるあたりは、ただの雑兵にしておくには惜しい、と、思わず聖闘士の育成者としての視点で見てしまうのは長く「師」をやっていたせいか。
「女神がお前にそう言ったのか?カミュを決して宝瓶宮から出すな、と。聖域の砦たる十二宮を、まるで罪人を閉じ込めておく檻であるかのように、そう言ったというのか」
「そ、そんな、罪人などとはめっそうもなく……女神といいますか……教皇様が万が一ということもあろうから動向を窺え、と……」
 聞いたか、とミロは肩を聳やかした。
「動向を窺う、とはいつから宮を離れてはならぬという意味になった」
 それは、と雑兵たちは互いに顏を見合わせる。
 誰もはっきりとそうしろと命じられてはいないのだろう。ただ、尋常ならざる聖域の歪な空気が、教皇の命の言外に含まれた意味を彼らに忖度させたのだ。
 こんな風に少しずつ少しずつ聖域は歪んで来てしまったのだな、とカミュはため息をついた。
 下っ端にはだが、罪はない。もうそのくらいでよしてやれ、と、カミュはミロの肩に手をかけて首を振った。
 そして、雑兵と白銀聖闘士へと向き直る。
 ミロほどストレートに感情を表出しないだけで、譲れぬものは同じだ。
「お前たちの任務に干渉をする意図は毛頭ない。もちろん、アイオリアの任務に対しても、だ。これだけ裏切りが続けば、監視をおつけにならざるを得なかった教皇のお気持ちも理解はできる。だが、アイオリアならば決して一人も討ち漏らすまい。裏切り者となった我が弟子も例外ではないだろう。それを見届けることをわたしに許してはくれまいか」
 しん、と水を打ったかのような静寂が辺りを包む。
 半ば本心で、半ばは建前だ。
 師としての責任だけなら、アイオリアに全てを委ねていただろう。
 氷河の死を自ら見届けたいのは山々だが、だが、それのみで動けるほど黄金聖衣を纏う意味は軽くない。
 確かめたいのは、あの氷河をして、青銅たちに味方させたものの正体だ。伝えられている情報以外のものがきっと何かある。
 聖域に何をもたらすかわからぬ以上、不用意に彼らに全てを説明してやるわけにはいかないが。
 カミュの言葉をどう受け取ればよいかわからなかったのか、誰も口を開かず、ぱちぱちと瞬きを繰り返しているのみだ。
 ミロは───ミロだけは、言葉の裏に含まれたカミュの本心を読まんと射抜くように見ている。戦いを挑まれているようで落ち着かないが、だが、弟子の死を見届けたいだけの甘い人間ではないと彼に信じられていることは、どこか誇らしくもあった。
 カミュの思考が読めたはずはないが、だがやがて、ミロは、ふ、と纏う空気を和らげた。
「干渉はしないと言うのだな」
「ああ。女神に誓って」
「……教皇へは俺からとり成しておこう。それならばお前たちも文句はあるまい」
 雑兵たちにそう語りかけるミロは既にカミュへと背中を向けている。
 姿勢よく、真っ直ぐに立つその背が、行け、とカミュに告げていた。

 その背にカミュは悟る。見届けたい、などという酷く危うい、理由にもならぬ理由で聖域を抜けるカミュのことを、だがしかし、ミロはきっと教皇には告げはしないだろう。

 衷心篤い男が見せた信頼に、石段を下りるカミュの心は知らず、熱くなっていた。