寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第一部 07◆

 目が覚めて、動くものの気配のない、しんと凍えた空気に、そうだ、俺は一人なのだった、という知覚はいつも遅れてやってくる。
 カミュがいなくなってしばらく経つのに、この起き抜けの寂しさには未だ慣れない。
 身を起こしてカーテンを開けば、いつも通りの雪と曇天が広がっていて、知らず、氷河は息をついていた。
 見慣れた馴染みの光景ではあるが、ただ───生まれて初めて1人きりで過ごす空間から見える唯一の慰めがこれでは、さすがに心は沈む。
 ふる、と身を震わせて、氷河は暖炉へと向かった。
 火かき棒で灰の中で眠っている熾をたぐり寄せ、細い薪を重ねてやると、しばらくしてパッと赤く小さな炎が上がった。
 パチパチと薪の爆ぜるささやかな音ですら、今は少しは氷河の心を慰める。


**

 カミュからは、一度便りが来たきりだ。

 あの日、時間の感覚がわからぬほどに眠り続け、ようやく気怠い身体を起こした氷河は、薄暗い小屋の中に一人残された自分を発見し、師を見送りそこねてしまったことを知ったのだった。
 抑え込めていた感情が爆発したかのような、ただただ身を焦がし続ける熱に翻弄されていたあの交わりを自分の中でどう位置づけるべきなのか、だから、氷河はカミュの真意を確かめる機会を持てないままだ。
 目が覚めた時には、氷河はベッドに入った時と同じようにきちんと夜着を纏っていたし、部屋の中には昂る熱の交じり合った夜の痕跡どころか、カミュがそこにいたという気配すら残っていなかった。
 腰のあたりを微かに疼かせている甘い熱の余韻だけが、夢ではなかったことの証左として、氷河に救いを与え、同時に己の晒した痴態を思い出させて羞恥をもたらしたが、日が経つうちにそれももうすっかりと消えてしまった。
 確かに氷河を満たした、と思った温かなものは、時間とともに容赦なくその形を失ってさらさらと指の間からこぼれ落ちてゆくばかり。

 現実感のないまま、取り残された自分をどう動かしたらいいのかわからずに過ごしていた氷河に、答えを与える形でもたらされたのが数日後に届いた師からの便りだ。

 と言っても、氷河が期待していたような言葉はそこにはまるでなかった。
 あれが現実のことであったと信じるに足る言葉でもあれば、いや、そんな高望みはすまい、次に会えるのがいつかだけでも知れたら、と逸る気持ちに指を震わせて開いた封筒の中身には、ただ、聖域の刻印とともに、師の丁寧な筆致で、お前に聖闘士の称号を与える、と短い単語が並んでいただけだ。

 聖闘士……?

 まるで、見知らぬ言葉に出会ったかのような戸惑いに包まれて、氷河は紙の上へ整然と並ぶカミュの文字をじっと見つめた。
 一分の隙もない師の筆跡のどこをどう探してみても、師と弟子という関係性に、ただの僅かの揺らぎが入り込む余地もない。元気か、の一言もない、素っ気ない便りには、甘い熱を共有したと思っていた記憶はますます幻のように儚く消えていく。

「せんせい」

 返事はないとわかっていても、思わず漏れた声は、丸太作りの木の天井に存外に響いて、少し氷河を怯ませた。
 残響が消えるのを待って、氷河は今度は思い直したかのように、カミュ、と呼んだ。
 しんと静まりかえった部屋で応えるものは何もない。それでも諦めきれずに、狭い小屋の中を、カミュの居た痕跡を探してふらふらと歩き回って、ようやく氷河は気づいたのだ。
 カミュの衣類はおろか、防寒用のブーツ、歯ブラシに愛用の羽ペン───師の私物が何一つ残されてはいないことに。
 小屋の中にカミュの気配がチラとも残っていなかったのはそのせいだ。
 いなくなってすぐには気づかなかった。
 こんなにも明らかな変化を、なぜ、気づかずにいられたのだろう。
 がらんと広くなった空間で、氷河はへたりと座り込む。

 カミュはもう、戻っては来ないのだ。
 俺が───聖闘士になったから。

 心にぽっかりと穴が空いたような脱力感に呆然と包まれて、氷河は芯を失ってぐらりと揺れる身体を傍らのテーブルの足へと預けた。

 なぜ発つ前に何も言ってくれなかったのだろう。
 もう戻ることはないと知っていたなら、なぜ、せめて見送らせてくれなかったのだろう。
 あの夜のことは忘れなさい、という意味なのか。
 俺があんまり浅ましく求めたから疎まれたのか。

 空洞となった心に、なぜ、どうして、という思いがいくつも湧き上がる。
 聖闘士になったという喜びは、そこにはない。
 カミュが去ってしまった、という事実が、じわじわと氷河の身体を凍らせて、恐ろしくしんと静まりかえった一人きりの空間に、寂しさと孤独を連れてくる。
 いつか終わることは知っていたが、こんな風に終わるとは思っていなかった。
 まだまだ無限に教えを受けられると思っていたし、感謝の気持ちだって、これっぽっちも言葉にできていない。アイザックを失わせてしまったことに至っては、考えることも禁じられた。
 一番大事なことですら伝えられていないのだ、ましてや、あの夜、何故カミュは氷河に応えたのか、そもそもあれは現実の出来事だったのか、確かめることなど。
 氷河の気持ちはどこにも着地点を見いだせずに、胸の真ん中にほろ苦い寂しさを残して空に浮いたままだ。

 その寂しさは一筋の雫となって氷河の頬を伝い下りる。

 会いたい。
 傍にいても罪の意識と胸の疼きがない交ぜになって顔すら見られない。何かカミュにとても大事なことを言わなければいけない気がするのに、それが何かわからなくてもどかしさばかりが募って息苦しい。
 それでも、カミュに会いたくて堪らない。

 聖闘士になった、ということは待ち望んだ一歩であるはずなのに、引き替えに何かを失ったような心細さが氷河の身体を小さく震えさせている。
 過去の温かな思い出ばかりが甦り、それがもう過去にしかない、ということが耐え難いほど寂しい。
 しっかりしろ、といくら己を叱咤してみようとしても、次に進むべき道もわからない状態では、己を厳しく律する気力すらも湧き上がらない。

 どれほどの時間をそのまま放心していたのだろうか。
 気づけば燃え種の尽きた暖炉は消えていて、小屋の中はすっかりと気温が下がってしまっていた。
 既に乾き始めていた涙痕を掌底で拭いながら、氷河はのろのろと立ち上がった。
 空洞になった心を何で満たせばよいかわからなかったが、吐く息の白さが氷河を日常の営みへと強制的に戻そうとしていた。
 火を熾すために暖炉に近寄ろうとして、だが、途中で氷河は歩みをキッチンの方角へと変えた。
 涙となって身体の中の水分が失われたせいか、酷く喉が乾いていた。
 数歩の歩みで到達した、僅かばかりの間口のそれはキッチンと呼ぶのもおこがましいほど簡易なものでしかない。食器棚など置くようなスペースはなく、最低限しか用意されていない食器類は、作り付けの吊り戸棚に調理器具と共に収められている。
 その吊戸棚から取り出したグラスを握り、氷河は蛇口を開いた。
 一連の動作は完全に無意識のまま為されていたが、無意識であったがゆえに力加減は不十分だったのだろう。勢いよく吹き出した水はグラスの底に跳ね返って暴れ回り、小さな硝子の器内に収まりきらなかった奔流はあっという間にその縁を乗り越え、氷河の指を冷たく濡らした。
 遠くを漂っていた氷河の意識は、あ、と瞬時に、思いがけない冷たさを感じた指先にと引き戻される。しまった、と氷河は慌てて蛇口を捻ったが、既にグラス内に収まった水より何倍もの水が滝のように溢れて済んだ後だった。
 蛇口を閉めた後も、気泡が激しく弾けて波立つグラスからは次々に水が零れ落ち、それは、そのまま排水口へと消えていく。
 透明な水の流れがシンクを濡らして排水口に消えていく様を氷河はゆるゆると瞬きを繰り返しながら眺めた。

 指先に感じた身を切るような水の冷たさと、流れゆく透明な揺らぎは氷河にひとつのイメージを喚起させる。

 あの溢れた水は、排水口を通り、大地を流れてやがては川へと合流し、川はやがて大河となり、大河の行き着く先は───海だ。
 この水は海へと繋がっている。
 母の眠る、あの海に。

 聖闘士の称号を与える、というカミュの文字が、氷河の脳裡に何度も何度もリフレインする。

 聖闘士に、なったのだ、俺はもう。
 ───あの冷たい水底にも潜ってゆける。

 空洞になった心にするりと入り込んだ凍りついた海のイメージはあまりに鮮烈で、健気に母を想い続けた子どもの一途さを呼び覚ますのには十分だった。
 カミュと出会ったのも、アイザックを失ったのも、そもそもは母の眠る船を引き揚げたい、その一心からだ。アイザックを失って、そして今またカミュが去り、一人取り残された氷河にはもうその想いのほかに何もない。

 まるで水の流れを追うかのように、氷河はふらふらと扉へと向かい、そして、何かに衝き動かされるように扉を開いて雪の中へと転び出た。
 気流に乗って舞い上がった氷の礫がバラバラと氷河の頬へ打ちつけ、冷気はすぐに睫毛までも凍りつかせる。
 だが、シベリアの凍えた空気くらいでは、積年氷河を捉え続けてきた一途な想いの枷になりはしなかった。
 生物の息の根を止めるような酷薄な冷気より、よほど冷たく氷河の心は寂しさに冷えていて、行かなければ、行かなければ、と、まるで暗示にかかりでもしたかのように繰り返される想いが、凍り付いた心を氷の海へと誘い続ける。

 危うい強迫観念にせき立てられるように駆け続けて駆け続けて───ついに氷河は近づく者の全てを拒む、氷の海へとたどり着く。
 激しく乱れた息を整えることもせず、氷河は小宇宙を高める。
 心は冷静さとほど遠いところにあったが、皮肉にもカミュに授けられた確かな力のおかげで、そのことが小宇宙の燃焼を妨げたりはしなかった。
 呼び覚ました内なる銀河を拳の一点に集中させて、氷河は己の背丈以上もある分厚い氷を穿ち、そして躊躇なく夜のシベリア海へと飛び込んだ。
 飛び込むために氷を蹴った瞬間、いけない、氷河、と彼を止めようとする兄弟子の声が聞こえたような気がして、はっと氷河は目を見開いたが、だが、それも一瞬だった。
 次の瞬間には、氷点下の海水を割った衝撃に全身が包まれて、ごぽごぽと身体の周囲で騒ぎ立てる気泡の音に耳は塞がれてしまい、氷河を引き止めたものは気泡と共に海上へと上り、儚く消えてしまった。

 緯度の高い北極圏近くの地、昼間でも太陽の光は頼りない。
 ましてや、氷で覆われた海中ともなると、ほとんど暗闇に近い。
 だが、薄らぼんやりと揺らめく船体の輪郭はかろうじて見えていて、氷河は、一直線に、その幽鬼のような船体を目指して潜ってゆく。
 水深が深くなるにつれて光は届かなくなり、全方向から襲いかかる水圧に、どちらが海底なのか、その感覚すらも朧気になっていく。
 それでも氷河は、岩肌へかろうじて引っかかって海溝へ落ちずに留まっている船のデッキへとどうにか泳ぎ着いた。
 潮流に流されぬよう支えに掴んだデッキの鉄柵は、形こそとどめていたが、腐食が進行し、小さな藻が表面を覆ってぬるりとしていた。沈没した時に流入した海水の衝撃だろう、船室の窓ガラスは全て割れていて、昏い口をぽっかりと海に向けて開いている。
 海流からも大型の補食動物からも守ってくれる船体は小さな生き物たちの格好の棲み処となっていたようで、氷河が近づいたことに驚いたか、ガラスのなくなった窓の向こうでは、それらがざわざわと蠢く気配がしている。
 氷点下の海にも漂う生命の神秘は、本来なら温かな感嘆をもたらしたはずだが、昏い水底で傷んだ船体が主を取って代わられている様は、どこか不吉で禍々しい。
 何年も前に沈んだ船には、隠しようもなく冥い死の臭いが満ちていた。
 もうすぐ母に会えるのだ、と、氷を蹴った瞬間まで氷河を衝き動かしていた想いはここへ来て、押し寄せる不安と、墓を暴いているかのような畏れに次第に取って代わられ、氷河の心を重く冷たくしていく。
 行かなければ、と急きたてられる気持ちと、行ってはいけない、という不吉な予感がせめぎ合い、狭い通路を泳ぎ進む氷河の心臓はどくどくと脈打つ。
 見覚えのある船室のドアを発見した時、あまりの興奮と緊張と不安とで氷河はほとんど我を失っていた。
 カミュのことも、アイザックのことも彼方へと消え、何のためにこの扉を開けようとしているのかさえも霞がかった意識のまま氷河は船室のドアノブを握り───そして、開いたのだ。




 その後のことは氷河の記憶からすっかりと抜け落ちてしまっている。
 気づいた時には既に馴染みの小屋の暖炉の前に座っていて、明日は花を持って行ってあげないと、マーマの好きな赤い花を、ということを氷河はぼんやりと考えていた。

 まるで夢でも見ていたかのように、船の中を探索した記憶は曖昧で朧げだというのに、手向けの花を手に、二度目に潜った時のことは不思議と鮮明だ。
 初めて目にしたときには、濃い死の気配が禍々しく漂っていた死の船は、よくよく見れば在りし日とまるで変わらぬ姿をしていたし、母は───母こそ、まさに眠ってでもいるかのような美しい姿のまま、そこに、居た。
 例え氷点下の海水といえど、何年も前に死んだ人間が神の摂理に反してその姿を留めていられるものなのか、よしんば類まれなる奇跡が氷河の母に起こったのだとしても、腐食が進んでいたはずの沈没船までもが同じ奇跡を享受できたのは何故なのか。
 あと少し、状況を俯瞰して見る心の余裕があれば、必ず過ぎったに違いない疑問は、次々に訪れる別れを受け止めかねて進む道を迷う少年には、ほんの僅かも過ぎる余地もなかった。
 目にしている、目にしていると思っているものは果たして真実そこに存在するのか、それとも、少年期の繊細さが生み出した幻か。
 氷河にはどちらでも関係がなかった。

 母は変わらずそこに居る。

 氷河にとってはそれが真実で、そして全てだった。

 刻々と移り変わる時の流れの中で、アイザックもカミュもいなくなったこの地、時間の止まってしまった死者だけは、氷河を置いて去ることは決してない。海の底の母親に花を手向けに潜り、変わらないものがそこにあることを確認する、それだけが氷河の心を慰める。

 以来、氷河は氷の海へ潜るのが日課となってしまった。
 船を引き揚げるはずだったことなど、忘れてしまったかのように。

**

 しばし暖炉の前で暖を取り、簡単な筋力トレーニングで身体を整え、氷河は防寒着を取り出した。
 ブリザードでなければ、重いコートなどは却って動きを妨げて邪魔になるだけだが、花を買ってそのまま母の元へ行くなら必要だ。
 永久凍土の地では生花は簡単に手に入る代物ではなく、少し足をのばして町まで出ないとならないのだ。
 町までは遠い。
 聖闘士の足でも数時間はかかる。
 小屋に戻るのは日が暮れてからになるだろう。
 火の始末をしようとしていた氷河の耳に、とん、というノックの音が響いた。
 ドキリとして氷河は耳を澄ます。
 この小屋の存在を知る人間は片手ほどしかいない。
 跳ねた心臓を宥めながら、誰だろうかと氷河は気配を探る。
 一度叩いて反応がなかったことに焦れたか、今度はとんとん、と忙しなく続けて鳴った。

 ───カミュじゃない。

 カミュはあんな叩き方をしない。
 それに、鳴る位置がずいぶんと低いような……?

 期待をしたぶんだけ失望しながら、氷河は扉へと歩み寄ってそれを開いた。
「ヒョウガ!」
 高い声が粉雪とともに舞い込んできて氷河は目を白黒させる。
「……ヤコフ……?」
 飛び込んできたのは氷河の腰ほどの背の、村の少年だ。
 人里離れた小屋で生活する氷河たちだったが、全く人家と隔絶された暮らしをしているわけではない。
 食料や燃料、医療品の調達などはコホーテク村の商店通り(と言ってもたかだか数軒の店が軒を連ねているだけの通りだ)へ出て行かなければならなかったし、そこで手に入らない物が必要な時は、村人に頼んで遠くの町から物資を取り寄せてもらっていた。
 よくある抗生剤を手に入れるのですら、犬橇で数時間はかかる町まで出なければならないコホーテク村では、風邪ひとつが命取りになる。病気で重篤となった子どもを、犬橇より早いという理由でカミュが町の病院まで連れて行ってやったこともあった。
 ヤコフはそうした関わりの中で知り合った少年だ。
 少年、と言うより、まだ確か7歳かそこらの子どもで、初めて出会ったのは彼がよちよち歩きをしていた頃で、母親の腕に抱かれていたのを氷河は覚えている。
 だから必然的に氷河は、彼の「保護者」を探して雪の中へと目を向けた。
 聡い少年は氷河の視線の意味をすぐに察したか、酷く得意げに胸を反らして、
「今日は1人!」
とニッと笑った。
「1人?って、え……っ?お前、1人でここまで……?」
「そんな驚くようなことでもない。こいつら、ちゃんと道わかってるから、乗ったら勝手に連れてきてくれたぞ」
 そういってヤコフは雪の中でハッハッと息を吐いてしっぽを振っている、橇犬たちを振り返った。
 見覚えのある犬たちは、確かに彼の本来の主人とともにこの小屋まで何度も物資を運んで来たことがあるのだが。
 戸惑う氷河をよそに、ヤコフはぶるぶるっと犬のように頭を振って雪を払いながら、暖炉の前へと進む。
 ああ寒かった、と防寒着のまま炎の前で震える子ども相手には、死者への手向けの花を買いに出るところだったとは言えなくなって、氷河は黙って扉を閉めた。
「ヒョウガ、やせた?ちゃんと食べてる?」
「……食べてるよ」
 大人びたヤコフの口調は、彼の周囲にいる大人たちのそれと同じだ。
 1人でここまで来れたという自信が、彼をちょっと背伸びさせているのだと知れて、その微笑ましさに少しだけ氷河の頬が緩む。
 こんな風に誰かと会話をするのは久しぶりのことだ。このところの氷河の話し相手と言えば、冷たい水底の母か、過去の思い出たちだけだった。
 久しぶりに発した自分の声に違和感を覚えて、俺の声はこんな音をしていただろうかと、不思議な気持ちとなりながら、氷河は彼の防寒着の肩に積もった雪を払うのを手伝ってやった。
 暖炉の炎に当たって頬に赤みがさしたヤコフはようやく帽子と手袋を取って、忘れないうちに、と、ごそごそと防寒着のコートを探り始めた。
「ヒョウガに手紙だぞ」
「俺に?」
 問い返した声が上ずらなかったのは幸運だった。
 手紙と聞いただけでカミュの姿が脳裡を過ぎって氷河の動揺を誘う。
 みんな忙しそうだったから、ぼくが届けに来たんだ、と言いながら防寒着のポケットに手を突っ込んでいるヤコフは、氷河の動揺には気づいていない。
 どこだっけな、とヤコフがうつむいているのをいいことに、氷河は二度、三度と深く息をして心を落ち着けた。
 あった、とヤコフが声を上げた時には、すっかりとガードは固まっていて、何が起きても動じない用意はできていた。
 だというのに、ヤコフが差し出した手紙を一目見るなり起きた動揺を、氷河は隠しきることはできなかった。
「グラード財団……?」
 カミュからではなかった、というだけでも氷河を失望させるには十分すぎるほどだったが、それが複雑な感情抜きに思い出せない名とあっては。
 もう関わり合いになることはないと思っていた。
 禿頭の執事が、必ずや旦那様の元へ聖衣を持ち帰れと喚いていたのを覚えているが、仮に聖衣を得たとしてもその命令を守るつもりはさらさらなかった。
「旦那様」と自身との関係を知らぬ者は、孤児の身を拾い上げてもらったと恩義を感じて、律儀にそれに応えようと考えたかもしれないが、氷河はそうではない。
「拾ってもらった恩」どころか、背筋が寒くなるような事実があることを知っている。
 我が子をまるでおもちゃのように扱い、躊躇いなく死地に送り込んだあの男を悪し様に罵ることも、面と向かって反抗することもしなかったのは、男を「立派なお父様」だと信じたまま亡くなった母のためだ。
 氷河があの男の正義とやらに従うことで、母の魂が慰められるならそれでもいいと思っていたが、彼は己の大義を体現することなくこの世を去った。
 あの男が死んだことで、聖衣を持ち帰れという命は反故となり、そのまま縁は切れたと思っていたが……

 氷河はヤコフが差し出した封筒を手に取った。
 日本からだな?なんて書いてあるんだ?と興味津々で身を乗り出しているヤコフを後目に開封をする。
 文字を追い、そして氷河は全てを読み終えないうちにばかばかしい、と開封したことを後悔しながら手紙を投げ捨てた。

 聖衣を持ち帰れ、というのはあの男が亡くなった今もどうやら反故になったわけではないらしい。
 のみならず、持ち帰った後は見せ物まがいのショーへ出ろときた。
 銀河戦争とは聞いて呆れる。
 財団の名とともに記されていたのは城戸沙織という名だ。
 我が子すらまともに育てようともしなかったあの男が、どういう経緯で拾って来たのか知らぬが、血の繋がらぬ彼女のことはたいそう可愛がっていた。
 そのこと自体はどうでもいい。
 母を喪った直後、初めて出会った時に男が氷河に向けた瞳の冷たさに、この男は母親と氷河が築いたような温かな家族の絆を、氷河との間に築くつもりは毛頭ないのだ、と即座に悟り、彼に期待をすることを早々に諦めていたからだ。元々、一度たりと言葉を交わしたこともない男だ。父親だと実感する前に、その諦めが訪れたがゆえに、彼がほかの誰に愛情を注ごうが氷河には関係のないことでしかなかった。
 だが、男があまりに彼女を特別扱いするために、彼女はずいぶんと我が儘で女王様然とふるまうようになっていて、幼いながらに鼻持ちならない言動が目立っていた。正義感の塊のような星矢とは始終衝突していたように記憶している。
 財団はその彼女が継いだらしい。
 聖闘士の力を使って金儲けをたくらんでいるのか、それとも力の誇示か。
 正義のため、と嘯いていたあの男の方がこうなるとまだまともに思える。聖闘士を見世物扱いとは、あまりにくだらなすぎて冗談だとしても性質が悪い。
 聖闘士であることに、カミュがどれだけ真摯に向き合ってきたか知る氷河には、取り合う価値もない話だった。

 氷河が投げ捨てた手紙を拾い上げながら、ヤコフが、返事をしなくていいのか?と首を傾げている。
「日本からは一体何だって?」
「つまらないことさ」
「へんなの。わざわざつまらないことを書いて寄越したっていうのかい?」
 怪訝な顔をしているヤコフの手から氷河はもう一度手紙を取り返し、そしてそれを暖炉の中へと投げ込んだ。
 あっという間に炎は白い紙を舐め尽くし、瞬きもせぬうちにそれは灰となって散った。
 あーあ、いいの?と心配そうに暖炉を眺めているヤコフの髪を氷河は撫でる。
「せっかく届けてくれたのに悪かったな」
「ぼくはいいんだけど……」
「お礼とお詫びに昼食を食べていくといい。もっとも、俺はあまり料理は得意とは言えないが」
 そう言って氷河はキッチンへ向かおうとしたが、ああっとヤコフが高い声を上げたため、なにごとかと振り返った。
「シチュー!持ってきたんだった!」
「……シチュー?」
「そう。聖闘士の先生がさ、ヒョウガに時々届けてやってくれって言ってたんだ」
「…………………カミュが……?」
「『氷河はこれから一人になるから』って、あれは何日前のことだったかなあ?……えーと、ぼく、鍋をどこに入れたっけ、途中まではこぼれていないか気にしていたのになあ」
 発つ際に、カミュはコホーテク村へと寄った、というのか。
 1人残される氷河を案じて……?
 何も言わずに去った師が、知らぬ内に残していたやさしさに思いがけず触れて胸が苦しく疼き、橇へ戻って荷台をのぞき込んでいるヤコフの背がじわりと滲んで揺らめく。
「あったあった!まだちょっとだけぬくいぞ。これ一緒に食べよう!」
 橇の荷台から、大鍋を取り出したヤコフが振り返る。
「……?どうかした?腹でも痛いのか?」
 うつむいて、唇を噛みしめている氷河をのぞきこむヤコフに、いや、大丈夫だ、と氷河は首を振って、彼が重そうに抱えた鍋を取ってやる。

 キッチンで鍋を温め直し、ヤコフの他愛もない話と共に食事をしながら、氷河はそっと窓の外を盗み見た。

 今日はもう母に会いに行く時間は取れそうにない。

 ヤコフの明るい声に応えながらも、心はずっと昏く冷たい海を漂っていたが、だが、冷たく凍えっぱなしだった心にはほんの少しだけ温かさが戻ったような、そんな気がしていた。