寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第一部 05◆


 永久凍土の地にも、季節と呼ぶべき変化は僅かながらにある。凍えた海は相変わらず氷の下に閉じ込められてはいたが、短い夏には根雪も緩み、いくらかは緑も顏をのぞかせて目を楽しませてくれるのが常だ。
 だが、どうしたことか、今年はその夏の訪れがなかった。根雪が緩むどころか、鈍色の雪雲がいつまでも低く垂れ込めているばかりで、一向に寒さは遠のかないまま、もう季節外れのブリザードが早い冬を連れて来てしまった。
 シベリアの大地はあの日からずっと凍えたままだ。喪失に傷ついた二人の心のように。
 降り積もって小屋を凍りつかせる雪は、結界となって二人を世界から隔絶していたが、結界の内側が春のように暖かだったかと言えばそれもまた違っていた。
 二人分には多すぎるほどの夕餉を無意識に並べてしまうような失敗も、何げなく目に入る、主を失った物たちに動揺させられることも少しずつ減った。
 一人欠けた空間に日々の営みは馴染みつつあったが、アイザックの不在を自分たちが受け止め始めている、という事実もまたどうしようもなく二人の心を軋ませる。
 同じ傷を抱えていることは明白であるのに、慰め合うには師弟という関係が邪魔をした。師は弟子の前で揺らぐわけにはいかなかったし、弟子は師に対して簡単に弱音を吐くわけにはいかなかった。寂しいとも苦しいとも言葉にできない空間は、いつも息を詰めるような緊張感を孕んでいた。
 まるで限界まで水を湛えたコップのように。
 溢れんばかりに湛えられた水は、表面張力でかろうじてこぼれることなくコップの中に収まっていたが、決壊するための僅かな刺激を今や遅しと待っているようなものだった。


**

 何日、小屋の中に閉じこめられていただろう。
 時折は、ブリザードの中を訓練に出かけはしたが、だが、視界を奪われ、体温を奪われる危険の中では、いつものように一日中をずっと戸外で過ごす、というわけにはいかなかった。
 荒れ狂う季節外れのブリザードから身を隠すように、二人はほとんどの時間を小屋の中で過ごした。それほど、酷い嵐だった。

 悪天候の日は座学に勤しむのが常だが、こうも続けばそればかりというわけにもいかない。
 よい機会だ、少し身体を休めるといい、と言ってカミュは氷河に自由をくれたが、取り立ててすべきことがない閉ざされた空間というものは休むどころか、却って氷河を落ち着かなくさせた。
 狭い小屋の中には一人になれる場所などそう多くない。
 ぎゅうぎゅうにベッドを押し込めただけの寝室と、小さなキッチンから続く暖炉の間、それがこの小屋の全てだ。
 あまりに狭い空間のせいなのか、それとも、小屋にずっと満ちている重苦しい緊張感のせいなのか、本を読んでいても、考え事をしていても、常に意識は同じ空間に居るカミュの存在を追ってしまっている。
 難解な専門書を読み解いている姿に自然と湧き上がる尊敬と崇拝の念は、頬に流れた髪をかき上げる長い指に鳴る胸の疼きへととって替わり、そうかと思えば、憂いを帯びて寄せられる眉根に罪の意識が引き寄せられる。
 閉じられた空間で、氷河の感情の全てはカミュの一挙手一投足に左右されていた。
 些細なことで簡単に波立ってしまうそれを持て余し、心を平らかにせねばと焦れば焦るほど、内側に秘めきれなくなったそれらの感情は、震える指先だとか、頬に上る熱だとか、荒く乱れる呼吸となって外へと零れ落ちることとなった。
 これではカミュにおかしく思われると、そのたびに拙い取り繕いをしてはみたが、あまりうまくいったとは言えなかった。
 脈略もなく天候の話をし始めたり、何度も拭いて済んだグラスをもう一度磨きはじめたり、酷く不器用に振る舞う氷河を、カミュはいつも変わらず静かに見つめていて、そして、そのことがいっそう氷河の動揺を誘うのだった。
 氷河がもう少しだけ状況を客観視できるほど冷静であったなら、あるいは、物事の本質を見極められるほど経験豊かな大人であったなら。
 氷河がそっと盗み見るよりずっと長い時間をカミュの瞳が己を見つめていることも、内面の葛藤と戦いでもしているかのように常にきつくその拳が握られていることも、きっと気づいたに違いないが、哀しいかな、今はただ、己の混沌とした感情に翻弄される、不安定な少年でしかなかった。

 早く、この雪が止めばいい。
 余計なことを何も考えなくてすむように身体を酷使してしまいたい。

 結局、氷河にできたのは、そんな逃避じみたことを願うのみだ。

 願いが通じたか否かは定かではないが、どことなく、風の音が弱まり始めたように聞こえて、そのことに救いを感じていた、そんな時にその訪問者はあった。


 初めは風の音だと思った。
 ごうごうとうねる風は、強くなったり弱くなったりを繰り返しながら、ひっきりなしに、小屋全体をガタガタ揺らしていたからだ。
 訪問者があるには遅い、夜半の出来事だったせいもある。
 会話はほとんどなかったが、そろそろ寝室に向かう時間が近づいているという暗黙の諒解が二人の間には流れていて、カミュは暖炉の火の始末をするのに立ち上がろうとしていたし、氷河は、例によって取り繕いのために読むふりだけはしていた書物の山をひとつひとつ書棚に戻しているところだった。
 小刻みにガタガタ揺れている小屋に、トン、と響いた乾いた音が誰かが戸を叩いたものだったとわかったのは、だから、カミュが暖炉の前で動きを止め、小さな緊張と警戒を漲らせて戸口へと向かったせいだ。
 こんな嵐の夜更けに一体誰が、という驚きと、風の音と区別のつかないような微かな音を師は一体どうやって聞き分けたのか、という驚きが同時に起こって、氷河は目を丸くした。
 外気温との差に重い抵抗を返す扉をカミュが慎重に開いている。
 途端にごうっと音を立てて吹いた風と共に雪が舞い込んできて、氷河の身体は冷気に包まれた。
 訪問者を追い返すにしろ、招き入れるにしろ、すぐに扉を閉めねば小屋の中は戸外同様に氷点下になってしまうというのに、どうしたことかカミュは開いた扉をそのままにして真っ直ぐに立っている。
 吹き込んだ嵐は戸口から徐々に木の床を白く染めてゆき、ついには氷河の足下にまで到達した。
「せんせい……?」
 会話を交わしている気配すらもなく、不審に思って師を呼んでみたが、風の音に声はかき消されてしまったのか、カミュの背は微動だにしない。
 その背に隠れて外の景色は見えない。
 だが、開放された扉から吹き込んでくる雪がカミュの身体をあっという間に覆っていくのだけは見て取れる。
「せんせい」
 このままではカミュも自分も凍え死んでしまう、と氷河は師の元へと歩み寄った。
 近寄ってみても、カミュの向こう側、開かれた扉の外に広がる雪景色には誰の姿もない。訪問者だと思ったのは気のせいで、やはり風の音を聞き違えたのだろうかと、師を見上げれば、カミュはその誰もいない雪の空間を険しい表情で見つめていた。
「……誰か、来たのですか?」
 師の固い表情に気後れしながら、おそるおそる問うた氷河の声が今度は届いたのだろう、カミュは我に返ったかのように瞬きをし、そして振り返った。
 その拍子に、背で隠れていた師の手元が氷河の視界に入る。
 手ぶらで戸口へ向かったはずのカミュの手には白いものが握られていた。

 封筒だ。
 ───封蝋に刻まれている印は聖域の……

 ハッと氷河は顔を跳ね上げて師を見上げた。
 一瞬だけ氷河の視線を受け止めて、カミュはふいと戸外へと視線を移し、強風に煽られてバタバタと大きな音を立てている木戸の取っ手を掴むために体半分を雪の中に乗り出して、そしてゆっくりと扉を閉めた。

 再び外の世界と隔絶されて、小屋の中には静寂が戻る。

 扉を閉めたカミュは氷河へ背を向けたままの姿勢で動きを止めた。
 氷河の方も、吹き込んだ雪に凍りついたかのように動けない。

 やって来たのは聖域からの使者だ。

 初めてのことではない。
 召喚の度に、それは訪れた。
 外界と隔絶された小屋、どんな種類の訪問者でも珍しく、二人の弟子たちは玄関をノックする者がある度に心を躍らせたものだが、聖域からの使者だけは別だ。
 聖域はいつも、一時的にとはいえ二人から師を奪って行く存在だった。
 幼いながらに己たちの依るべき聖域をそんな風に思うことは許されないと理解していたから、氷河もアイザックも一度も口には出さなかったが、使者の訪問を受ける度に恨めしく思う気持ちが起きたものだ。

 見慣れた刻印に条件反射のように瞬時に冷えた心臓は、だがしかし、以前とはもっとずっと違う意味合いでじわじわと氷のように冷たくなった。

 前回、使者がやってきたのはあの時だ。
 三人で過ごした最後の日。
 またなのか、と珍しく薄らと感情を滲ませて使者から召喚状を受け取った師は、二人を残して慌ただしく出かけていって、そして戻った時にはアイザックは───

 記憶の刃がもたらす痛みに無抵抗で身を任せ、だが、ぼんやりとした意識だけは相変わらずカミュのことを考えていた。

 二人きりとなって、初めての召喚だ、これは。

 あれほど頻繁だった召喚はアイザックを失って以降、どういうわけかプツリと途絶えていた。
 傷が癒える猶予を与えでもするかのように、雪は世界から二人を隔絶し、そしてその内側では時が止まっていた。
 だが、カミュは黄金聖闘士だ。
 いつまでも、雪が強固に張り巡らした結界の内側に籠っていることは許されない。
 嵐の中を縫ってまで訪れたということは、よほどの重要事か、火急の案件か。いずれにしても、結界の外側で確実に時は流れていて、聖域はその時間の流れにカミュを取り戻そうとしているのだ。

 召喚なのですね。

 そう言って、出立の準備の手伝いをするのが、己が取るべき行動だとは知っている。だが、言葉は凍り付いてしまったかのようにどうしても音にならない。

 かつては、召喚状が届けばカミュは迷うことなく弟子たちの前ですぐに開封をし、困った、お前たちまた自主練習だ、とため息をつきながら、二人の手伝いの元で出立の準備を整えたものだが、こちらに背を向けたままのカミュは微動だにせず、指先で封筒を弄ぶようにして、じっと聖域の刻印を見つめているのみだ。


 どのくらいの時間がたったのか。
 気づけば、吹き込んで床を白く染めていた雪はすっかりと融けてしまっていた。
 じっと考え込むように封筒を見つめていたカミュが、観念したかのように、ふ、と小さな息をひとつ吐いた。

「聖域からだ」

 わかりきった事実を、確認するかのようにそう呟いた師の伏せた横顔に、長い髪が作る暗い陰が落ちている。それどころではないというのに、陰が落ちた横顔があまりに涼やかに整っていて、なんてきれいなひとなのだろう、と、たった今そのことに気づいたかのような疼きが胸に生まれて、氷河を戸惑わせる。


 カミュはそれ以上何も言わずにゆっくりと部屋の中へと戻り、封筒をダイニングテーブルの上へと乗せ、それから、まだ戸口のところで立ち尽くしていた氷河を振り返った。

「すっかり冷えてしまったな。もう遅いし、早く休むといい」

 まるで何ごともなかったかのような、あまりに日常通りの師の言葉の意味がすぐにはわからず、氷河は瞬きをした。
 カミュが促すように、氷河、ともう一度呼んだことで、師は一人になりたいのだ、という理解が遅れてやってきて、氷河は慌てて無音で頷いた。

 ぎこちない動きで師の横をようよう通り抜け、おやすみなさいと声をかけることもせず、氷河は寝室へと飛び込んだ。
 カミュからもまた、声をかけられることはなかった。

 後ろ手に扉を閉めて、氷河は力を失ったかのようにその場に座り込む。
 今頃カミュは、封筒の中身を読んでいるのだろうか。
 永遠にこの生活が続くと錯誤していたわけではなかったが、それでも、自分が考えていたよりずっと早く開いてしまった結界の風穴から吹き込む嵐に、身体は内奥から凍り付いていくような心地がして、全身が酷く震えていた。

**

 窓の外の嵐は夜が更けるにつれて勢いを弱め始め、次第に馴染みの、凍り付くような静寂へと変わりつつあった。
 長い嵐は消え去ろうとしていた。
 明日は久しぶりの修行日和になるだろう。そのことを理由にカミュがこの地に留まりはしないだろうか、と諦め悪く期待をしてしまったり、いや、一人でも留守を預かれるということをカミュにしっかり見せなければ、と心を奮い立たせてみたり、ベッドへ横たわっていても心は千々に乱れて一向に睡魔は訪れない。

 氷河はごろりと寝返りを打った。
 壁際のベッドはもう何ヶ月も使われていない。いつ、どのタイミングで掛け替えたものか、シーツはぴしりと整っていて皺ひとつない。
 整え直したのはカミュだろう。
 まだ濃厚に気配が残っていたに違いないベッドのシーツを掛け替えた師の心中を思えば胸が痛くて息苦しい。
 己の心を破壊するその息苦しさから逃れるために、身体を反転させて扉の方を向けば、今度はカミュのベッドが目に入る。
 まだカミュは隣の部屋にいて、こちらもベッドは空だ。同じ空のベッドで、同じように几帳面に整えられているというのに、毎日そこに身体を横たえる人間がいるというだけで、その人の体温が感じられるようで寂しさは感じない。
 だが、明日にはもう、その温かな気配も失われる。
 不安のような、寂しさのような、苦しさのような、それでいて、安堵のような、泣き出したいほどのわけのわからない感情がぐるぐると渦巻き、堪らない気持ちになって、氷河はシーツを頭の上まで引っ張り上げ、そして、伏せた顏をぐっとベッドに押し付けた。
 師はいつ戻ってくるのだろうか。
 戻ってきたとして、再びまたすぐに聖域に召喚されることになるのは目に見えている。カミュの本来の居場所はここではない。いつか本当の別れはやってくる。

 いつか───いつだ?
 俺は、聖闘士にどれだけ近づいたのだろうか。

 聖闘士を目指すための修業生活であるのに、不思議と、そのことに思いを致すのをずっと忘れていた。
 水底に沈む母の船がチラと脳裡を掠める。
 酷く痛みを伴わねば思い出すこともできないが、それでも、あの船を引き揚げたい、という思いは今もまだ失われていない。
 ただ、冷静な判断をさせないほど氷河を支配していた、これ以上冷たい海に母を置いてはおけない、1日も早く聖闘士にならなければ、という抵抗しがたい焦燥は、今はさほど感じていなかった。
 ばかりか、胸がつぶれそうなほどの苦しさと切なさと切っても切れぬ空間で酷く疲弊しているくせに、この生活をまだもう少し続けていたい、という思いが何故か湧き上がってくるのだ。
 1日でも早く聖闘士に、なのか、少しでも長くこのままで、なのか。
 どちらの思いも氷河の中にあって、いずれも切り捨てることはできないように思えた。

 廊下からは時折、古い小屋の床が軋むような音がしている。カミュが出立の準備を整えるために、忙しく歩き回っているのだろう。
 伏せた身体とシーツとの間で、肌身離さず持ち歩くロザリオの装飾鎖が、迷う氷河を責めるように小さな痛みを与えている。
 ぎゅ、とロザリオを握りしめ、氷河は息を吐いた。

 氷河の気持ちがどうあれ、カミュが発つことはもう決まっているのだ。考えるだけ無駄だ、と、捨て鉢な気分で軋む床の音を氷河はただ聞いていた。

 

 流石に少し微睡んだのか、それとも、あまりに深く自己の内面に潜り込んでいたのか、ふと耳を澄ましてみればいつの間にかカミュの足音は止んでいた。
 
 そのことに気づくと同時に、寝室の扉がキィと錆びた音を鳴らして開き、シーツの下で氷河はハッと身を固くした。
 廊下から冷たい空気が流れ込んでくるのが、シーツごしにも感じられる。
 キィともう一度蝶番を震わせて閉まった扉によってそれは遮断され、部屋には再び静寂がもたらされた。
 氷河は息を殺して気配を窺う。
 身体全部が心臓になったかのようにドクドクと脈打っていて、指先が自分の身体ではないかのように酷く震えている。
 召喚に動揺して眠れないのだということは知られたくはなかった。
 だから、氷河は指先をシーツに押し付けるようにして震えを止め、身を固くして眠ったふりをし続けた。

 やがて、ギシ、と床が軋む音がした。
 ギシ、ギシ、と枕元を回り込むようにして、それは窓際へと移動した。金具がシャラ、と揺れた音で、半端に開いていた(氷河の仕業だ)カーテンがきっちりと閉じ直されたことがわかる。
 中途半端な己の所作を咎められたように感じて、氷河の頬は熱くなる。

 カーテンを引いたきりカミュの足音は止まったままだ。
 なぜ動かないのか、何をしているのか気になって顏を上げて確かめてみたくて堪らないが、だからと言って、今更、起き上がるわけにもいかず、氷河はじっと息を潜める。

「氷河」

 静寂を破ったのはカミュの声だ。
 驚いて氷河はビクリと身体を竦ませた。
 呼ばれたのは己の名だということを理解するには時間がかかった。
 独り言、だろうか。
 だが、氷河が眠っていること前提の、思わず漏れた呟きにしては、あまりに確りとした声だった。

 しばし迷い、そして氷河は、おそるおそるシーツを指の先で持ち上げた。
 新鮮な冷たい空気がさあっと流れ込み、氷河の肺を満たす。
 そろそろと身を起こしながら視線を上げれば、鮮やかな赤毛が縁取る、白皙の顏は真っ直ぐに氷河に向けられていた。雲の切れ間からのぞく月光が雪に反射する、カーテン越しの仄かな光の元ですら、目を惹く美しい緋色の瞳が静かに氷河を見つめているのがはっきりと見えた。
 氷河が眠っていなかったことなど委細承知で、そんな風に顏を出すのを待っていた、そんな瞳だ。

 あ、と思わず声を漏らし、慌てて姿勢を正しながら、すみません、と言おうとしたものの、半端な閉め方をしたカーテンを、なのか、眠ったふりをしていたことを、なのか、よくわからなくなって、もたもたと声はもつれて中途で立ち消えた。

「氷河」

 もう一度呼んだ師の声に、咎める響きはまるでない。
 少し固さを含んだ、だがやさしく空気を震わせる低音のその先はもう聞かなくてもわかる。
 愚図愚図と自分の心に訣別もつけられていないくせに、分別のあるような顏で、はい、などと神妙に頷いてしまう自分はまるで見知らぬ他人のようだ。

「わたしは聖域に戻らねばならない」

 戻る、という響きに、今日一番、心臓が跳ねた。
 まるでシベリアから完全に去るかのような言い方だ。
 そんなはずはない。俺はまだ聖闘士ではない。だから、まだ、だ。師はきっとまたこの地へ戻るはずだ。

 隠しようがなく狼狽えた氷河に、感情を全く見せていなかったカミュの表情が微かに歪んだ。一瞬、何かもの言いたげな様子を見せた師は、それを言葉にする代わりに視線を横へと滑らせた。
 視線の先にあるのは使われなくなって久しいベッドだ。
 無機質で冷たいシーツの白にカミュの瞳がより一層苦しげに細められる。
 その光景を痛いと感じた、その刹那、カミュの瞳がこちらへと動き、目が合ったかと思うと、氷河の身体は強い力でカミュの腕に引き寄せられていた。
 不意の出来事への驚きと、己をかき抱く腕のあまりの強さに、不肖の弟子への怒りがついに爆発したのかと氷河は息を呑んで身を強張らせた。
 だがそれも一瞬だ。何が起こったのか理解しないでいるうちに、抱き寄せたのと同じくらい突然にカミュは氷河を解放し、その肩を強く押しやった。

「……明朝早くに発つ。見送りはいらない」

 混乱が混乱のまま渦巻いてざわざわしている空気を全く頓着することなく視線を逸らして去ろうとするカミュの腕を、氷河は咄嗟に掴んだ。
 カミュは動きを止めて氷河を見た。いつも通りの理知的な光を湛えた目元には少しだけ驚きが滲んでいる。

 驚いているのは氷河も同じだ。
 師の腕を掴んで止める、など、あまりに不躾で非礼な行為だ。すぐに掴んだ腕を放すべきであるにも関わらず思考はまったく働いていない。頭の中は真っ白だ。自分が何をしたのか、何がしたいのか、氷河にはわからない。

 ただ、咄嗟に、嫌だ、と思ったのだ。
 去ろうとするカミュを、心が勝手に止めた。
 向けられたのが例え激しい怒りだったとしても構わない、カミュとの繋がりを切りたくない、と、頭ではなく、心がそう告げていた。

 己を引き止めた氷河の手をカミュはじっと見つめている。
 自分で引き止めたくせに氷河はどうすればいいのかわからない。
 何かを言わなければいけない、縋ったこの手の理由を説明せねばならない、と、真っ白になった頭の中に焦りばかりが去来する。

 やがてカミュが、己を掴む氷河の手をゆっくりと開かせた。
 いやです、と言うかのように首を振って抵抗した氷河に少しだけ笑って、自由になったその腕で、カミュはやさしく氷河の背を抱き寄せた。
 先ほどのような息が止まるような苦しい抱擁ではなく、氷河を宥めるかのような温かな抱擁だ。
 不躾な引き止めを拒絶されなかった安堵で氷河の緊張は緩み、一度緩んでしまえば、もう歯止めはきかなかった。あの日からずっと氷河を縛り付けていた重いものがじわじわと解け始め、涙腺までもが緩む。
 やさしく、温かな気持ちがカミュから流れ込むのを感じるのに、痛いほど胸を締め付ける疼きが、抑えても抑えても身体の内奥から次々に湧き上がって、氷河から呼吸を奪う。頭の中も心の中も身体の細胞の一つ一つに至るまで、全てがカミュの存在を意識していて、あまりにも強いその感情が苦しくて苦しくて堪らず、涙が次々に零れる。
 苦しさから逃れようと縋るようにカミュの背へ腕を回せば、一瞬の間の後に、カミュの唇が氷河の前髪越しの額にそっと押し当てられた。
 あ、と背を貫いたのは驚きと言うよりは甘い痺れのような官能だ。
 カミュが触れたところ全てが熱を帯びたかのように疼き始め、そのことに戸惑いと羞恥を感じて氷河は視線を狼狽えさせる。
 カミュの手が、氷河の前髪をかき上げて、二度目の唇は肌へと直接触れた。
 輪郭をなぞるように下りてきた手は頬をやさしく包み込み、親指の腹は濡れた頬を拭うように往復している。
 互いの瞬きが起こす風さえ感じるほどの距離で、微かな吐息が混じり合う。
 自分の中で起きている恥ずかしい疼きを知られてはならない、と思う一方で、このままカミュに自分の全てを明け渡してしまいたい、という抑えがたい衝動が身体の中心から湧き上がる。

「せんせい」

 そう、呼ぼうとした。

 言葉を発してしまえば終わりだと互いにわかっているかのような、この危うい沈黙を破って、後に何と続けるつもりだったのか。
 何度考えても思い出せない。
 だが、意味なく口を開いたのでも、何かを口にしようとしていたのでも、結局は同じだった。
 たった四音を発声しきらぬうちに、氷河の唇から零れる全てを封じるかのようにカミュの唇が柔らかく重ねられていた。