アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
◆第一部 04◆
ギ、とスプリングが軋む音がした。
氷河は今夜もまた眠れないでいるのか、とカミュは隣のベッドの気配を窺った。
シャリ、という衣擦れの音と、ため息のような微かな息遣いとが固く張りつめた部屋の空気を震わせている。
肉体的にはベッドに横たわると同時に眠りに落ちてもおかしくないほど疲労しているはずだ。いつもいつも、気を失うほどカミュの拳を受け続けて、背負ってやらねば小屋にも戻れないほどなのだから。にも関わらず、その極限の疲労を取るためにいざベッドへ横たわってみれば、肉体的な疲労を凌駕して、冴え冴えと精神が覚醒をして一向に睡魔が訪れないでいるのだ。
それが手に取るようにわかるのは───カミュも同じだからだ。
疲労はしている。身も心も、かつてなく。
だが、二人が暮らす小屋の空気はあの日からずっと固く強ばっていて、ほんのひとときも心は安まらない。心が安まらないような空間で眠りに落ちることができるはずもない。
わたしは───
わたしは、このままでは氷河を殺してしまう。
アイザックを失ってもう半年以上経つ。
既に黄金聖闘士に就いて長いカミュでも、眠れぬ夜続きに身体がきついと感じるほどだ。
少年の逞しい体つきに変化しつつあるとは言え、まだ、聖衣も得ぬ身の氷河はとうに限界を超えているはずだ。
頭では理解しているのに、それでも、氷河を厳しく鍛えることをカミュは止められない。
氷河が、何の力も持たぬ、ただの少年であれば話はまた違っていた。聖闘士になど到底なれそうにもなく、鍛えることなど無意味に思えるほど、何の才もなければ。
だが、兄弟子を失うという極限状態を経て初めて、氷河はその真価を発揮しようとしていた。
いくら全力ではないとはいえ、黄金聖闘士の拳を何度も受けて立ち上がれるような人間はそういない。最後には結局意識を失って倒れるにしても、それでも、日々、着実に手応えを増していることにカミュは驚くばかりだ。恐らくは氷河は、アイザックという先んずる存在を失ったことで、無意識に自分で定めていた限界を打ち破ったのだ。
彼はもう、聖闘士として申し分のない力をつけている。
本来なら喜ぶべきその確信は、やはりカミュに苦いものを込み上げさせる。
力がどれだけついたとて、氷河は未だ危うさを抱えたままだ。
呆れるほどにタフな一面を見せたかと思えば、形見だと言うロザリオを手に思い詰めた表情でじっと考え込んでいる。カミュも舌を巻くような怜悧さを発揮してみせる反面、あまりに真正直すぎる戦い方は稚拙で未熟だ。
ただでさえ繊細さとは切っても切り離せない少年期の真っ只中、喪失の深手が癒えたはずはなく、不安定に揺れ動き、もがき続けている氷河は全く未完成だと言っていい。
ただ、幼くして黄金聖闘士となったカミュたちも、聖衣を拝命した時点では戦士として完全に成熟していたわけではない。精神的な強さというものは、多くの実戦を経る中で自然と培われていくものでもある。だから、本当なら、聖衣を纏う力を得たならもう、後は自力で這い上がれ、と師の元を旅立たせてやるべきなのだろう。
理解しているにも関わらず、氷河の顏を見れば、経験したことのない激しい感情がぐっと胸に湧き上がって、カミュに冷静な判断をさせないのだ。
己の感情を飼い馴らすことには慣れているはずだった。
お前は冷たい、感情がない、よくそう言われていたが、それはカミュの努力の賜物でそう見えていただけだ。
表情ひとつ動かさないその内面ではいつも、水瓶から迸る水のように豊かな感情が流れていた。だが、聖闘士として生きる上でそれらは枷になることもよく理解していて、だから、できる限り、心が動かされるような状況に己を置かないように努めてきた。
事情を斟酌すれば拳が鈍ると思えば、相手が申し開きの口上を述べる前に任務を遂行し終えるようにしたし、私事においても、情が移るほど誰にも深入りしないし、させては来なかった。物でも切るようにスパスパと関係を断ち切る、そのあまりの迷いなさは冷たくは見えただろうが、迷いが生じる前に切り捨ててしまわねば何も手放せなくなる己の性質を制御する上では必要なことだった。「冷たい」という多くの誤解を生じさせることにはなったが、おかげでこの歳まで危なげなく黄金聖闘士として務め上げて来れたのだ。黄金聖闘士として立ち行かぬことに比べれば、己の人格に対する評がカミュの本質とどれほど乖離していようとたいした問題ではなかった。
弟子を取るのは、だから、カミュ自身が望んだ結果ではない。カミュにその決定権があったなら、絶対に、起居を共にする存在など作らなかった。───情が移るに決まっている。
わかっていて、それでも受けたのは、任務の一環だったからだ。聖域の意志に反する選択はカミュにはない。
愛すべき素直さで師を慕う弟子たちは、案の定、すぐにカミュの人生と不可分の存在となり、彼らが苦境に陥っていれば世界中のどこに居てもすぐさま駆けつけたくなるようないとおしさを感じてしまう己に、やはりこうなったか、と苦笑するしかない日々を過ごし───だが、それは、まだ、笑っていられる程度のものだったのだ。アイザックがいた間は。
氷河とアイザックは困った事も悩み事も喜びも何もかも二人で共有し、互いに互いを支え合っていて、だからカミュは己の立ち位置を常に一歩引いておくことができた。深入りすることなく「師」としてのみ存在できた、とも言える。
だが、一人の師と二人の弟子として、表面的には全く問題なく均衡を保っていた関係は、関係性を支える一角を予定外に突然失ったことで、その形を変えた。
氷河にはカミュしか頼る相手はなく、カミュにももう氷河しか残されていない。
震える体にむち打って、必死に立ち上がろうとしている氷河を抱きしめて、もういい、立ち上がるな、と何度言いかけたかしれない。
立ち上がるな、などとは正気の沙汰ではない。そんな「師」があるものか。
失うくらいならいっそ聖闘士になどせずに永遠にこのままで、という葛藤は、断ち切るどころか、日に日にカミュの中で大きくなるばかりで、師にあるまじき甘い感傷が己の心に起こるのを強引に捻じ伏せんとするカミュの訓練は、反動で、度を越えて厳しくなってしまう。氷河が意識を失うたびに、しまった、と我には返るのだが、同時に、いや、これが敵の前であれば氷河は命を落としていた、と、またすぐに焦燥感に駆られて、立ち上がれ、と叱咤したくなってしまう。
もう立ち上がってくれるな、とも思い、決して倒れるな、とも思い。己の心が二つに裂けたかのような葛藤を制御しかねて、今のままでは、氷河を殺してしまうほど追い詰めてしまいそうなのだった。
これではとても氷河を導くどころではない、と密やかに息を吐いて、カミュは暗闇で静かに目を開いた。
雪が月明かりを反射する微かな光が、薄らぼんやりと部屋を照らしていて、何も見えぬほどの真暗闇というほどではない。
隣のベッドでは、やはりまだ氷河が何度も寝返りを打つ音がしている。
もともと、眠りの浅い子だった。
いや、眠りが浅いというより、単に一人寝が苦手なのだろうか。
人肌が恋しいのか、母を喪った心の傷がいつまでも癒えていないせいか、氷河はカミュの目を盗んでよくアイザックのベッドへ潜り込んでいた。
寝室の扉を開けて、もぬけの殻のベッドと、狭いだろうにぎゅうぎゅうにくっついて眠る少年二人を発見して、またか、という脱力感と共に、幾ばくかの疎外感を覚えたものだ。
氷河が弱音を吐くのは決まってアイザックに対してだけだ。あからさまに泣いた顏をしていても、アイザックと二人、秘密の目配せをし合って、カミュの前では何ごともなかったかのようにふるまう。涙を見せれば「甘い」とカミュが叱咤することを知っているからだ。
師であるカミュと弟子たちの間には見えない一線がくっきりと引かれていて、そして、その一線がカミュを確かな師たらしめていたわけだが、己が望み、己を救うはずのその一線に、一抹の寂しさが過ぎったことは一度や二度ではない。
自分で引いた線を寂しく思うとは全く勝手と言うほかないが、だからと言って、己に甘えられても困る。カミュはあくまで「師」で、厳しさとは切っても切り離せぬ存在だ。
だから氷河のそれを叱りはしない代わりに、カミュはただ、黙認してきた。
彼の置かれた境遇にどれだけ胸を痛めていても、師である以上は甘えを許すわけにはいかないが───気づかぬふりをすることはできる。
だが、今は。
眠れない夜にアイザックが担っていたものは誰が代わるというのか。
『師』では、氷河の弱さをそのまま認めてやるわけにもいかないのだ。
何より───息遣いを肌に感じるほど近づいてしまえば、己の中の何かがたがを失ってしまいそうだ。
わたしは。
わたしは氷河を───
いや、とカミュは顏を顰めて思考を断ち切った。己を翻弄している感情に名を与えてしまえばますます断ち切り難くなって、後戻りがきかなくなることを知っている。これ以上、師弟としての境界を逸脱するわけにはいかないのだ。
ギシギシというベッドの軋みはいつまで立っても止む気配がない。
散々の葛藤と躊躇いの末、意を決してカミュは、半身を起こし、氷河、と声をかけようとした。何もアイザックと同じにベッドに呼んでやる必要はない。目が覚めたついでに温かい飲み物でも、と誘ってやるくらいならば『厳しい師』の許容範囲だ、と己を納得させてのことだ。
が、カミュが突然に起き上がったことに驚いたのか、ビク、と氷河の身体が雷に打たれたかのように固く強ばった。薄暗闇でもはっきりと見てとれたその反応に、喉元まで出かかっていた声をカミュは腹の底まで押し込んだ。
しん、と静寂が落ちる。
あれほどギシギシと鳴っていた氷河のベッドは不自然なほどに静まり返り、息をも詰めてカミュの気配を窺っているのか、呼吸音すら聞こえなくなった。
外気と同じくらい部屋の空気は不自然に凍りついている。
カミュはただ起き上がった、だけだ。
ただそれだけのことに、氷河は身体を強張らせている。
己の尋常ならざる厳しさが、言葉にすることが憚られる後ろ暗い私情から来るものだと見透かされたような気がして、腑が冷えていく。
結局、カミュは長い時間氷の彫像のように半身を起こしたままでいた後に、口を開くことなく再び己のベッドへ静かに身を横たえ直した。
眠りに落ちたわけでもなかろうに、隣のベッドはやけに静かだ。
静寂が苦しい。
ピシ、ピシ、と屋根に積もる雪の重みでしなる柱が鳴らす音に少しだけ慰められ、カミュはゆっくりと目を閉じた。