寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第一部 03◆

「立て、氷河!たったこれしきのことで膝をついてどうする!」
 雪の上へドサリと倒れた氷河へ鋭いカミュの声が飛ぶ。
 師の言う通りだ、立ち上がらなくては、と思うのに身体が言うことをきかない。
 分厚く降り積もった雪は、力を失って倒れた氷河を柔らかく受け止めて血を流させるのを防いではいたが、倒れ伏したままの氷河の身体から体温を刻々と奪っていた。このまま、心地よさすら覚える慣れ親しんだ冷気に包まれて目を閉じるだけでこの苦しみからは解放されるのだ、という悪魔の誘惑が氷河の脳裏を去来する。
 だが、重くなる瞼が完全に閉じきる前に、氷河!と、鋭い叱責が再び師の口から発せられる。
 ハッと目を見開いて、氷河は、疲弊し、酷く震える指先にぐっと力を入れた。
 雪をかき分けるように腕を引き、上体を起こそうとしたが、自分だけ何倍もの重力を受けているかのように体が言うことを聞かない。
 ぐうっと呻いて再び雪の中へ身を沈ませ、荒い息をついていると、いつの間にそばへ来ていたのか、カミュの声が真上から降ってきた。
「もう終わりか、氷河」
 温度の感じられない冷ややかな声だ。
「……いいえ、まだ……やれ……ます……!」
「ならば立て」
 お前が立ち上がるのをのんびり待っていてくれるほど戦場は甘くない、と、もう何度聞いたか知れない厳しい叱咤が重ねられる。
 わかっています、と、再び氷河は腹の中心に力を集め、ぐぐ、と己の体を持ち上げた。
 よろめきふらつく体にどうにか芯を通し、氷河は雪の上へ立ち上がった。
 氷河が構えも十分にできぬうちから既にカミュは対峙するように立ち、その小宇宙は高められる。まだ完全とは言えない小宇宙を、師のものに同調させるように氷河は燃やす。
 だが、師と氷河とでは、そのエネルギーは比べものにならない。一目瞭然のその差に少しも頓着することはなく、カミュはエネルギーの塊となったそれを氷河に向かって放つ。
「……く……うああっ」
 空気を切り裂いて叩きつけられたそれを真正面から受けて、氷河の体が空を舞った。ずしゃ、と再び雪面に叩きつけられて、うう、と氷河は呻く。
「まともに受ける力もないものを、正面から受けるなと何度言えばわかる!もう一度だ!」
 叱咤するカミュの声に、わかっています、ですがもう身体が言うことをききません、という弱音が思わず漏れかけたが、幸いなことにそれを口にする気力ももはや氷河には残されていなかった。
 黄金聖闘士の拳を何度も受け、既に限界を超えていた氷河の意識は次第に遠ざかり、力が足らないなら足らないなりに考えて戦わねば生き残れないのだ、と諭す師の声は遠くおぼろに消えていった。


 ゆらゆらとした振動と心地よい温かさが氷河を包んでいる。
 目を開けて、自分の状況を確認しようとしたが、瞼が鉛のように重く、そうすることは叶わなかった。
 だが、わかる。
 これはカミュの背だ。
 ああ、俺はまた途中で意識を失ってカミュに背負われているのだ、と氷河は気づく。
 近頃では自分の足で小屋まで戻ることの方が珍しい。
 元々、修行は厳しかった。
 他の人間に師事したことがないから、カミュが特別厳しい部類に入るのか、それとも、聖闘士の修行は皆こうであるのかは氷河にはわからないが、あまりのきつさに胃が空っぽになるほど吐くことは日常茶飯事だった。
 だが、それを辛いと感じたことはあまりない。
 氷河には母の遺体を引き揚げるという明確な目的があったし、カミュは厳しくはあったが、強権的に弟子を支配することは一度もなく、訓練を離れた時間は常に氷河たちに寄り添い、理解を示す、温かな師であった。それに何より苦楽を共にするアイザックという存在があった。
 今は───心が折れてしまいそうだ。
 昼夜の別なく行われる修行は、以前の修行はこうなってみると修行と呼べないほど可愛いものであったと思えるほど、その厳しさは増していて、氷河の身体は軋みっぱなしで、胃が空っぽになるほど吐くどころか、空腹は感じるにも関わらず食べる端から吐き気を催すほど身体は悲鳴を上げている。
 だが、そのことは少しも辛くない。むしろ、身体がきつければきついほど、何も考えずにいられてありがたいほどだ。
 辛いのは、変わってしまった関係だ。共に切磋琢磨して氷河を鼓舞し続けたアイザックはもうおらず、厳しくも優しい師の顔からは笑顔が消えた。氷河に幸せな居場所を与えていた三人で過ごした温かな小屋は、二人きりではいつもしんと静まりかえり、その静寂は容赦なく氷河を責め立てる。

 真に聖闘士になるべきはアイザックだった。
 氷河のよき理解者であり、同時に、兄でも、友でもあったアイザックは、その師に似て誰よりやさしく強かった。
 考えまいとしても、後悔と罪悪感が後から後からわき上がる。
 カミュだってきっとアイザックが聖闘士になることを信じていたはずだ。
 それなのに、崇高な師は、氷河の愚かさまでも全て背負うと宣言し、氷河は悔いて詫びることも許されなかった。
 この酷く辛い訓練は、愚かな過ちを犯した者への懲罰なのだと思おうとした時もあったが、まともに最後まで立っていられない氷河を師がそのまま雪原へ捨て置くことはなく、気づけばいつもやさしい背の上だ。懲罰だと思うこともできない。
 眉間に深い皺を刻んでいることが多くなったカミュの、変わらないやさしさが氷河には堪らなく切なくて苦しい。

 カミュのことは大好きだった。
 師として、というよりもっとずっと近い距離感で(いうなれば家族のような)親しみと愛情を抱いていて、そしてそのことを隠したことはない。
 カミュが聖域から戻った時には、お帰りなさい、と素直に飛びつきもしたし、もっと幼かった頃は師の膝の上へ乗りたがってアイザックと喧嘩もした。喧嘩の時の氷河の言い分はいつも決まっていた。
「お前はいいよ、少なくとも1年は先生を独り占めできたんだから」
 口を尖らせて、だから俺が先、と拗ねれば、アイザックも負けずに、「お前の方がよっぽど先生に甘えているんだから1年分のハンデはもう消化して済んでる!」と顔を赤くさせたものだった。
 膝の上に乗っていない方だってどうせわたしの背へ抱きついてくるのだから、どちらが先でも同じではないのか、と困惑気味に、だが、カミュは笑っていた。あまり見せない、そのやさしげな笑い顔がよく見えるから、師の膝の上が二人とも好きなのだとも知らずに。
 その喧嘩は結局、アイザックが、「氷河が先でいいよ」と譲ることを覚えるまで続き、大人びた表情でそんなことを言われてしまえば、一人、喜々として師の膝の上にいるのが恥ずかしく、俺だって後でいい、と氷河は赤い顔をして膝の上から滑り下り、やっぱりそれをカミュは笑っていた。
 今は競う相手もなく、師を独り占めだ。
 皮肉なことに、あれほど氷河が羨ましがった「1年分のハンデ」が埋められるほど、二人きりで過ごしている。
 直接師の拳を受ける機会も格段に増えた。
 かつて競ったその位置を思う存分享受できるというのに、枷を負った今はそこに感じるのは喜びよりも重圧や罪の意識ばかりだ。
  
 苦しい。───寂しい。


「……せんせい」

 もう自分で歩けます、と言おうとして氷河は声をあげたつもりだったが、抱えた苦しさに存外に弱々しく掠れた音となったそれは、日が暮れて強まり始めた風の音にかき消された。
 もう一度、せんせい、と呼ぼうとして、だが、氷河は躊躇いの末にそれを飲み込んだ。
 カミュはきっとまだ、背の氷河が意識を取り戻したことに気づいていない。
 小屋に戻れば、あの、否応なくしんと突き刺さる静寂が待っている。
 もう少しだけ、幾重にも折り重ねられる苦しさに疲弊して道を失ってしまいそうな弱い心を、師の広い背中に委ねていたかった。

 氷河は揺れる背の上で、こっそりとカミュの髪へ鼻先を埋めた。
 だが、小屋に戻るまでの間の、そのほんの僅かの甘えも許さぬ、とばかりに、刹那、もう何度も氷河を悩ませているあの日のフラッシュバックが今再び彼を襲った。
「……っ」
 心臓は壊れそうなほど脈打ち、呼吸は知らず大きく乱れ、冷たい汗が背を伝い下りる。カミュの温かさに触れていなければ、叫び声を上げてのたうち狂っていたかもしれないほど、一息に蘇った嵐を、氷河は歯を食いしばって耐える。

 荒れ狂う海流に飲み込まれてからは意識はほとんどなく、だから蘇るのはいつも決まって断片的なものでしかないが、断片的ではあっても、一つ一つの刃は氷河の息の根など簡単に止めてしまいそうなほどに酷く鋭い。氷河を救い出したアイザックの腕の微かな感触、目が覚めて一人きりで小屋にいることを発見した時の恐怖、蒼白の顔で一人戻ってきたカミュを見た時の絶望と哀しみ……次々に襲い来る記憶は、たった今それが起こったかのように氷河を激しく揺さぶり血を流させる。

 だが、荒ぶる嵐のような記憶の奔流は次々に氷河を痛めつけるだけ痛めつけておいて、いつもその最後になると突然にその暴虐的な勢いを失うのだ。

 頬に落ちた涙の温かさと、潮の味の残る唇の感触。

 フラッシュバックの最後に訪れる、密やかで、どこか甘いその記憶は、何度考えても、夢の中の出来事だったのか現実に起こったことだったのか、氷河にはわからない。身体は確かにそれを記憶しているような心地がしているのに、理性が、それを現実だとは認めていない。カミュとそんな風に触れ合ったことなど一度もない。成長した近頃では頬へのおやすみのキスすら交わさなくなっていた。何より、師が、涙を見せるほど感情を乱すとは思えない。
 だから、これは、次々に襲い来る記憶に壊れそうな心が防衛反応に見せた幻影なのだ、多分、というところに結論は落ち着いている。だとしても、なぜよりによってそんな幻影を、と、自分の深層心理に思いを馳せるだに羞恥で身体が火照る心地がするが、それでも、まるで現実味のないその記憶は、氷河の救い手となるのだ、いつも。

 今もまた、心を苛む嵐を捻じ伏せるように呼び覚まされた温かな記憶に助けられ、氷河は自分を取り戻した。
 感情の制御を失ってしまわなかったことを安堵し、ほっと息をついた時、氷河を背負ったカミュが不意に足を止めた。
 落ち着きかけていた氷河の鼓動は再びドッと跳ね上がる。
 突然に乱れた息づかいを気づかれてしまったのか、背を振り返る仕草を見せたカミュに、氷河は狼狽えた。
 もう下ります、と言おうか。たった今、目が覚めたかのような顏をして。
 だが、今の顏をカミュに見られたくなかった。何しろほんの先刻まで、彼の唇の感触を思い出していたのだ。後ろめたさで心臓は早鐘を打っていて、身体はおかしいほどに火照っている。自分の分までも重い荷を背負わせてしまった師に抱くにはあまりに浅ましく、あまりに禁忌な、説明のつかないこの思いを何と言い訳するというのか。

 氷河の動揺を気づいてか気づかずか、だが、カミュは最後まで振り返ることはなかった。
 迷うように動きを止め、代わりに師は、氷河をもう一度しっかりと抱え直し、再び雪の中へと足を踏み出した。

 動揺を見咎められなかった安堵より、そのやさしい仕草に息苦しいほど胸が切なく疼いて、氷河は零れそうになる涙を堪えて唇を噛んだ。

 風の音がうねりを増す。
 さく、さく、と根雪を踏みしめる、カミュのブーツの音が静かに雪原へと響き続けていた。