寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました


◆第一部 02◆


 氷河が目を覚ましたのは7日目の朝だった。
 いや、覚醒自体は多分もう少し早かった。が、起こった出来事を事実だと受け入れるのに、眠り続けていたのと同じだけの時間を要したのだろう。
 泣き腫らした酷い顔つきで、だが、ようやく起き上がる気になった氷河が無言で寝室を出てきたのを、カミュもまた無言で迎え、そして、無言のままで師弟は食卓を囲んだ。
 言葉足らずになりがちなカミュの、氷河の心を代弁して、この小屋の中を爽やかな明るさに保っていたのはいつだってアイザックだった。この気詰まりな空気を和らげてくれるアイザックはもういない。
 カチャカチャとスプーンが皿にあたる無機質な音だけが響いている。

 言葉のない食事はひどく味気なく、そして、あっという間に終わってしまった。
 カミュは最後の咀嚼を終えた氷河に向かって、ようやく初めて声をかけた。
「氷河」
 柔らかく名を呼んだだけであるというのに、氷河の肩がビクリと竦む。
 話し合わねばならぬことは山ほどあるはずだが、既に身を竦ませている氷河の様子にカミュの心も重くなる。この辛く厳しい現実から逃避していたいのは何も氷河だけではない。カミュとてそれは同じなのだ。
 名を呼んだきり言葉が続かず、しばしカミュは逡巡して、そしてどうにか覚悟を決めて口を開いた。
「……お前は聖闘士になりたいか」
 ほかのどの言葉は飲み込んだとしても、それを確認することだけは避けては通れぬ問題だった。
 母の遺体を引き揚げたいから聖闘士に、と言った氷河だ。
 死者を弔いたいがために、大事な者をさらに喪うことになったこの虚しさに、何も感じないでいられるはずはない。聖闘士なんか、と気持ちが折れていても不思議はない。
 ただ、氷河がここで折れてしまうなら、アイザックはあまりに不憫だ。
 弟弟子を思って己の危険を厭わず助けたに違いないアイザックの行為が無駄になることは、彼を育てたカミュにとっても耐えがたい。

 氷河は青い顔で俯いている。
 震える拳はもう用の済んだはずのスプーンの柄を固く握り、空になったスープ皿の底に答えでも書いてあるのかと思うほど青い瞳は瞬きもせずにそれを見つめている。
 葛藤しているのか、それとも答えは決まっているのに言葉にするのが怖いのか。
 長い時間をカミュは待った。
 やがて、覚悟を決めたかのように氷河はひとつ息を吐き、吐いた息と一緒に押し出すかのように一息に言った。
「……なりたいです、もしも許されるのなら」
 決して折れてくれるなと願っていたにも関わらず、その答えがカミュの心にもたらしたものは、氷河が折れなかったことへの安堵にしては、苦く、重かった。
 そのことに気づいてカミュは戸惑う。

 覚悟ができていないのは、氷河ではなく、わたしの方か……

 氷河を聖闘士にしたい、という思いと同じだけ強く、たった一人残った愛弟子を失うくらいなら戦いから遠ざけておきたい、という、あるまじき葛藤がカミュの中にあるのだった。
 アイザックを失ったこの期に及んで(いや、それともだからこそ、か)迷いを抱えた己の心が苦々しく、だがしかし、師としてはそれを氷河に微塵も気取らせるわけにはいかなかった。

 ことさら渋面を作って、カミュは淡々と頷いてみせる。
「ならばもうアイザックのことは考えてはならない」
 およそ不可能とも思えるカミュの宣告に氷河は、そんな、と目を見開いた。
「でも、アイザックは……!聖闘士となれたはずのアイザックを俺が……俺のせいで……」
「責任は全てわたしにある。お前のせいではない」
「違います、先生は何も悪くない、責任なら俺が、」
「うぬぼれるな!」
 突然のカミュの鋭い声に氷河の全身が雷に打たれたかのように硬直した。
 だが、痛々しいほど蒼白になった氷河よりカミュの方がよほど己の声に驚いていた。

 己の弱さに感じる苛立ちを氷河にぶつけてどうする。

 ひとつ、ふたつと息を吐いて感情を平坦にし、カミュは努めて柔らかな、だが、師としての厳かさを保った声を出した。
「責任などと口にできるのは、荷を負うのにふさわしき実力を備えたものだけだ。聖闘士でもないお前に、どれほどの荷が負えるというのか。師であるこの私を差し置いて、どんな責任がとれるというのか、答えてみよ、氷河」
 カミュの言葉に、氷河は、それは、と口を開いたきり言葉を失った。顔色はもはや蒼白を通り越して紙のように白くなっている。
「お前の行動も、アイザックのことも、全てはわたしの管理下で起こったことだ。わたしのみが負わねばならん荷だ」
 氷河はそれでもまだ、頷くことができずに唇を震わせている。柔らかく整った容貌からは想像がつかないほど、言い出したら聞かない強情さを持っているのだ。
 カミュはさらに表情を緩めて少しだけぎこちない笑みを(果たしてそれが笑みに見えたかどうかは疑問だが)浮かべてみせた。
「氷河……わたしは弟子に自分の荷を負わせてしまうような傲慢な師だろうか」
「!……いいえ!」
 その荷がカミュのものであるのか、氷河のものであるのかを議論していたというのに、いつのまにかカミュが負うべき荷であることは決定事項になってしまっている巧妙な論理のすり替えに気づくことなく、氷河は慌てて首を振る。
「では、師として命ずる。無用に自分を責めるような真似をしてはならない。責めても彼は帰らない。己の弱さを自覚したのなら、過去は忘れて強くあることだ。それが……アイザックのためだ」
 氷河を諭しているようでいて、それはすべて己自身へ言い聞かせている言葉だ。
 素っ気ない言葉と少ない表情のせいで誤解されがちだが、聖闘士の中でもカミュは情の篤い部類に入る。長く共に暮らしたアイザックのことを忘れるのがどれほど困難なのかは、氷河よりよほどカミュの方が理解しているくらいだが、それでも、氷河と一緒になって己を責めて泣き暮らせない立場にあるという、強い自覚がカミュにそう言わせていた。

 はい、とようやく従順に頷いた氷河の膝にポタポタと滴が落ちる。
 理性では理解したものの、感情がついてゆかないのだろう。
 声を殺して肩を震わせている氷河を見守るのがつらく、カミュはそっと視線を窓の外へやった。
 外はいつもと変わらぬ白銀の世界だ。
 温かくカミュを迎えていた雪の世界が、今は酷く冷たく見える。この酷薄で容赦のない自然を、なぜ、今までわたしは温かいと感じることができたのだろう。
 温度のない雪も氷も命を奪うばかりの無機物だというのに。
 白く霞む視界に誘発されるように、ふと、氷の海に沈む死の船のイメージがカミュの頭をよぎる。

 氷河は、まだ、母を諦めていないだろうか。

 これほどの苦しさを乗り越えて、それでもまだ聖闘士を目指すと言った氷河は原動力をどこへ置いたのか。
 カミュはそれを聞かなかった。
 今、カミュが禁じれば、氷河はもう二度と氷の海に潜るような真似はしないだろう。だが、氷河の心の中に母を追い求める気持ちが残っていれば意味がない。禁じれば禁じるほど、追い求める気持ちが強くなってしまう可能性も否めない。
 小宇宙という、目に見えぬ力を拠り所に戦う聖闘士は、肉体や技術よりも、もっとずっとその心の在り様に力を左右される。正義のため、地上のため、という、込み上げる強い思いは、時に肉体の限界を凌駕して奇蹟さえ起こしてしまう力にもなるが、その逆もまた然り。私的なことに心を囚われていては、格下の相手にすら簡単に足元を掬われてしまう。
 聖闘士を変わらず目指すと言うのなら、氷河に未練を断ち切らせるのが不可欠になるわけだが、だがしかし、心の在り様を変えさせるのはある意味、氷河を第七感に目覚めさせるより難しいと言わざるを得ない。
 カミュが己自身の迷いを断ち切るための孤独な戦いをしているのと同様に、氷河が自分で乗り越えねばならぬ問題なのだ、これは。

 どうか、克服してくれ、とカミュは強く願う。
 死者への未練を抱えたまま氷河が聖闘士になり、やがては戦地に立つようになるなど、考えただけで、全身の血が凍りつくような心地がする。あの喪失感を二度耐える自信はない。アイザックがいたなら、甘さを捨てきれずに命を落としてしまうなら、氷河がそこまでの人間だっただけのこと、と割り切れていたかもしれないが、喪失の傷を抱えた今は、そう簡単に割り切れるものではないと知ってしまった。

 氷河も、そしてカミュも、断ち切り難い致命的な弱さを抱えている。ずっと、抱えていた、ということをアイザックは気づかせてくれたのだ。