アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました
(改稿前の初出版にご興味がある方はこちらから→
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◆第一部 01◆
頬に小さな白い花が降りてきた。六花だ。
完璧な調和を保った六角形の結晶は、カミュが手にとっても融けることはなく美しいままその姿をとどめている。
外気温があまりにも低すぎるためだ。
ああ、帰って来たな、と思う。
自分の母国も、聖闘士としての本拠地も、ともに温暖な気候であるのに、この暴力的なまでの冷気の中に身を置くと、そこに故郷を感じる。
シベリアで生活している方が長いせいかもしれないし、自分を待っている者がいるせいかもしれない。
何故かはわからぬが、身を刺すような冷気はいつもカミュの心に温かさを呼び起こすのだ。
カミュは、今年、何度目になるかわからない聖域への召還から戻ってきたところだ。
以前は、聖闘士を養成中であるという理由で、年に一度程度、それもよほど他に適材がなかった時にだけしか下されていなかったカミュへの勅命は、ここのところやたらと頻繁になっている。
勅命とあらば、例え弟子を二人だけで残すことになろうとも、即座に駆けつけるのは聖闘士であるカミュには至極当然のことだったが、こうも頻繁にシベリアを離れざるを得ないことが続けば、さすがに辟易もする。
二人ともここのところの成長ぶりは目をみはるほどで、聖闘士になるための修行は仕上げの段階、よりいっそう厳しい研鑽を積まねばならぬというのに、しばしば中断を余儀なくされる上、そうまでして駆けつけたというのに、下される命と言えば、わざわざ黄金聖闘士であるカミュでなくとも足りるような軽易なもの。
教皇は一体何をお考えであるのか。
雑兵たちの間では「教皇は黄金聖闘士たちの忠誠を試している」という噂が流れているというのも耳にしている。
カミュはあまり噂の類は好まない。だから、耳に届いたその噂をいつもならくだらぬことをと一笑に付すところだが、同じ印象をカミュも抱いていたとあってはどうにも看過できぬ。聖域は何かが、カミュの知る、以前の聖域とその姿を異にしているように思えてならない。
残してきた弟子たちが気になるあまりに、いつも、任務を遂行するなり飛ぶようにシベリアへ帰還しているが、一度、ミロあたりとゆっくりと顔を合わせる機会を作るべきなのかもしれない。
黄金聖闘士同士、まさか己の属する聖域への疑念を間違っても口にできるような立場ではないが、言葉にせずとも互いの考えが手に取るようにわかるほどにつきあいは長い。
自らの手で育て上げた少年たちが聖衣に手が届くところまで来ているせいで、必要以上にカミュがナーバスになっている可能性もある。案外、ミロの顔を見れば、自分が複雑に考えすぎていただけのことがわかってすっきりするかもしれない。
お前は考えすぎるからいけないと、彼が笑い飛ばしてでもくれれば、いくらかこの気鬱な心も晴れるだろう、とカミュは息をついた。
考え事をしていたせいか、気づいた時にはもう小屋の姿が雪の中に現れていた。
ほっと安堵して歩みをいっそう早め、だが、戸口が見えるところまで近づいて、カミュは違和感に気づいて足を止めた。
明かりが───灯っていない。
もう日が暮れてしまったというのに、二人はまだ鍛錬から戻っていないのだろうか。
不審に眉を潜めて、急ぎ足で小屋までたどり着き、そしてカミュは小屋の扉を開いた。
遠目に見えていたとおり、小屋の中を照らすはずのどのランプにも火は灯されていない。
それだけではない。
暖炉の炭までもが、触れて確かめるまでもなく、冷え切っているのが見て取れる。
自分を驚かせようと二人してどこかに隠れているのかとも思ったが(そのような悪戯を喜んでいたのはもっとずっと幼い時分であったのだが)、この厳寒の時期に暖炉まで消えているとは悪戯にしては念が入りすぎている。
朝から一度も戻っていないのだろうか、と、カミュはいぶかしく思いつつ、真っ暗に冷え切った部屋を一つ一つ確認していく。
どこにも弟子達の姿はない。全てのものは冷え冷えと静まりかえっている。
空には星が瞬いて、気温もかなり下がっている。
今までに、帰ってきて二人の姿が見えなかったようなことがあっただろうか。
多分、なかったはずだ、一度も。
カミュの身の裡にじわじわと不安が広がる。
まさか聖衣に届くところまであと少し、の今ごろになって嫌になって逃げ出したということはあるまい。修行漬けの生活が嫌になったにしても、カミュに別れも告げず二人が消えてしまうなどということは絶対にありえない、と、断言できるだけの絆は既にできていた。
───何か、あったのか。
咄嗟に過ぎったのは、教皇がわたしを聖域に呼び戻したのは、このためであったのか、という疑念だ。
シベリアを留守にさせておいて、その間に二人をどこかへ───いや、ばかな。
いくらなんでもあり得ない。
そんなことをする理由がない。
聖域への疑念を胸に帰路に立ったせいか、あまりに畏れ多い疑いを咄嗟に抱いてしまった己を恥じて、カミュは慌てて首を振った。
普通に考えれば師の留守に羽目を外している、と取るところだが。ここのところ目に見えてついた力に二人はたいそう心を躍らせていて、カミュが何度、今日はこれまで、と終了を告げても、まだやらせてください、あと少しだけ、と熱心に食い下がるほどなのだ。カミュがいないからと言って、遊び呆けているということは考えられない。
となると、日が暮れたことにも気づかぬほど、鍛錬に集中しきっているのかもしれない。
それだけならよいが、もしかしたら───わたしがいない時には決して使うな、まだ制御できるほど成熟していない、と禁止した凍気技を試してみている可能性はある。
何か事故でもおきて怪我をして動けなくなっているのでなければよいが。
胸騒ぎを覚えて、カミュは、荷解きもそこそこに、再び雪の中へと足を踏み出した。
「アイザック!!氷河!!」
名を呼びながら、カミュは普段、訓練に使用している領域を声をはりあげて探して歩く。
だが、応える声はなく、二人の姿はおろか、生物の気配すら感じられない夜の氷原が広がるばかりだ。
どれだけ精神を研ぎ澄ませても二人の小宇宙はどこにも感じられない。
このころには、さすがにカミュもおかしい、と焦燥に駆られ始めていた。
いくら何でもこうまで姿が見えないのは変だ。
買い物のために街に出ることくらいはあるが、小屋とその周辺十数キロのみが彼らの生活圏であり、それ以上となると二人には土地勘がないはずだ。
シベリアを離れている間、未熟な少年二人に危険が及ばぬよう、出立前に、自己鍛錬に使う領域周辺の安全確認をカミュは怠ったことがない。見知らぬクレバスはないか、飢えた白熊がさまよっていないか。
今回も、少年たちがカミュの言いつけを守っている限り安全は確保されていたはずで───にもかかわらず、いないということは、きっと、二人はカミュの定めた領域を出たのだ。
いくら黄金聖闘士といえど、小宇宙が感じられぬ以上、視覚に頼って探すしかない。
広い、というにはあまりに広大すぎる大地を当て所なく彷徨い歩くのは困難にすぎる。
だが、困り果てていたのは僅かな時間。そのうちにカミュは、不思議な既視感を覚え始めていた。
前にもわたしはこうして心当たりの何もない雪原で途方に暮れたことがある。あれは───氷河だ。とうに亡くなった母を恋しがってベッドを抜け出した氷河を探して……
ドッとカミュの心臓が嫌な音を立ててその鼓動を早める。
違う、そんなはずはない、という思いと、そうだ、それ以外ではありえない、という確信と。
相反する思いに答えを出すより早くカミュは駆け出していた。
凍り付いた海を目指して。
幽かな月明かり。
凍りついて大氷原と化した海には目印となるものは何もない。
全方位、見渡す限りの氷の平野。
分厚く広がる氷の塊はその下に圧倒的質量を湛えて荒れ狂う冬の海を静かに封印している。
星の出ている夜であったことが幸いした。
そうでなかったら、何の変化もない氷原で方角と距離を測るのはいくらカミュでも難しかっただろう。
記憶を頼りにどれほど走っただろうか。
もどかしさから、永遠に思えるほどの長い時間を駆けたような気がしていたが、カミュの脚力からしてそう長い時間でもなかったかもしれない。
ややして、カミュは己の想像が間違っていなかったことを知る。
遠目にもそれとはっきりわかる。
氷の上にぐったりと倒れている、あれは───
心臓は激しく脈打ち、臓腑を駆けめぐる悪寒は強い吐き気を伴って、カミュの足運びを妨げる。
だが、ほんのひとときも休むことなく一気に駆け寄り、カミュは倒れ伏している少年の前へ膝をつけた。
間違いであってくれ、という願い虚しく、見覚えのあるブロンドが縁取る青白い顔にカミュは息を呑む。
「……ッ!氷河!!」
まるで反応のない力の抜けた身体をカミュは慌てて抱き起こした。
多分、濡れていたと思われる衣服はすっかり凍り付いて、意識のない身体を固く強ばらせている。
「氷河!!」
絶望的な気分となって、白く霜づいている胸元へ耳を押し当てれば、だが、今にも消え入りそうなほど微かではあったが、僅かに鼓動がカミュの耳を打った。
「氷河!しっかりしろ!」
己が纏っていた外套を脱いで氷河の身体をくるみながら、カミュはあたりに目をこらして───そして、さらに声を失う。
氷の海を割って、明らかに人知を超える力で穿たれた穴。そこへ二組の足跡が続いていた。
だが、戻った足跡はどこにもない。
「氷河!アイザックはどうした!」
腕の中に問いながら、だがもう、その瞬間にはカミュは己のすべきことをはっきりと決めていた。
アイザックはまだこの氷の下だ。
この状態の氷河を、あの弟弟子思いの彼が一人にさせるはずはない。ここにアイザックがいないのは戻るに戻れないでいるからだ。
夜のシベリア海に潜ることは自分の命も危険にさらす。しかし、迷っている暇はない。こうしている間にもアイザックは。
「氷河……もう少しがんばるんだ」
そう言って、カミュは高めた己の小宇宙を薄膜のように氷河に纏わせ、己は凍てついた氷の海へと飛び込んだ。
昼でも昏い氷の海は、夜になるといっそうの闇だ。
アイザックの小宇宙が少しでも感じられないかと、カミュは闇をかき分けて必死に深く潜る。
不規則に変わる潮流は時折カミュの身体を押し流そうとし、その上、強い水圧がカミュの全身を押しつぶしにかかって、ほんの僅かも気は抜けない。
水底に氷河の母が眠るという船が幽鬼のように不気味に揺らめいている。
泳ぎ寄り、必死に探索を行うがその姿は見えない。
船がひっかかっている岩肌のさらに奥、海溝の最も奥深いところへまでもカミュは潜っていった。
名前も知らない、淡く発光する生物がふわりふわりとカミュのまわりを漂っている。
月明かりさえも届かない暗闇の中、その天佑のような光を頼りにカミュは、アイザックの痕跡を探して必死に目をこらし続けた。
だが、昏く冷たい海は沈黙を返すだけ。
理性ではわかっている。
人間一人で探索するにはあまりに広大な夜の海を、何の手がかりもなしに探し続けても無駄なことは。
アイザックを探し続けたがために、虫の息の氷河が手遅れになるやもしれぬことも。
それでも、簡単に諦めきれるものではない。
───アイザック……!
カミュは魂で叫ぶ。
何度も、何度も。
聖域におわす、我らが女神よ。
この美しい地上を護らんとして正義に燃えていた、あの少年にどうか、どうか慈悲を。
だが、祈りは虚しく、夜の海はただただ酷薄だった。
カミュの命をも奪わんと荒れ狂う潮流に、心より先に身体に限界が来た。
神に近い力を持つ黄金聖闘士といえど、肉体は生身の人間なのだ。
頭蓋を締め付ける水圧に視界を奪われどうしようもなくなり、カミュは激しく後ろ髪を引かれながら、海上へ浮上したのだった。
ぜ、ぜ、と全身で荒い息をつきながら、這うようにして氷河のところまで戻れば、青白い顔をした少年の鼓動はますます弱まり始めていた。
決断を迫られていた。
今にも儚くなりかけている氷河を置いてアイザックを探し続けるのか。
アイザックの生還の望みに諦めをつけ、氷河を連れ帰りすぐに蘇生を試みるのか。
アイザックか、氷河。
二人を預かることになって、常にカミュの頭にあった二者択一だ。
白鳥座の聖衣は一つきり。
どちらが選ばれし者となるのか。
どちらを選ぶにせよ、こんなにも重い選択となるはずではなかった。聖衣を纏う姿を、頼もしく、そして、誇らしく見守るはずであったのに。
カミュは天を仰ぎ、そして再び氷河を見下ろした。
鼓動はまた小さくなっていた。
**
気が遠くなりそうなほど、長く、重苦しい家路だった。
結局、残酷な二者択一は、刻々と失われゆく命を前にしては選択の余地はないに等しかった。
我が身を二つに引き裂かれそうな思いで、カミュは、帰ろう、と氷河を抱き上げたのだ。
小屋の戸口にたどりついたときには、氷河だけではなく、カミュの濡れた体もすっかりシベリアのすさまじい冷気に凍り付いていた。
カミュはそのまま雪も払わずに、浴室へ直行した。
蛇口をひねり、勢いよく水を出す。氷河を抱きかかえたまま、凍り付いた衣服ごと冷たいシャワーの下へ自らの体をおいた。
低体温症を起こしている場合、慌てて温めては却って細胞を損なってしまい危険なのだ。
カミュは慎重に、流れ落ちる水で、凍りついた衣服をゆっくりと融かしていく。普段であれば身を切られるように冷たいと感じる水も、氷点下の海へ潜った後の体には、心地よい温さをもたらした。
長い時間をかけて、カミュは凍り付いた衣服や髪を融かし、自分と氷河の濡れた衣服をすべて取り去った。
どのくらいの時間をあそこにいたのか、氷河の身体は芯まで凍り付いているかのようだ。
弱い鼓動が微かに聞こえているため、どうにか生きてはいると知れるが、それさえなければ死人でもまだ温かいのではないかと思えるほど、冷たい身体をしている。
カミュは丁寧に氷河の体から水滴を拭い去り、乾いた洋服を着せると毛布でくるんでやり、自分も手早く着替えをすませると、氷河を抱いて浴室を出た。
氷河を抱いたまま、ソファへと体を沈め、天を仰ぐ。
カミュの指先が、ひっきりなしに震えている。
寒さからではない。
あまりに重大で、あまりに取り返しのつかない事態を、心が受け入れかねていた。
氷河は母に会いに行こうとしたのだ。
そしておそらくアイザックはそれを手伝ったか……いや、彼の性格ならそれはない。氷河を止めようとしたのかもしれない。いずれにせよ、二人飛び込んだはずが一人しか戻らなかった。
なぜ、そんな事態になったのか。
なぜ、よりによってカミュの不在時に。
───不在時だから、だ。
わたしの、せいだ。
考えれば考えるほど全てはそこへ帰結する。
氷河が師の不在時にそんな行動に出たのは、カミュがいれば絶対に許可されない行為だからだ。
ここのところ口にしなくなっていたから、すっかりとカミュは失念していたが、彼はそもそも、母の遺体を引き揚げたいがために聖闘士を目指していたのだ。氷河の成長ぶりはカミュですら目を瞠るほどだった。己の力に氷河自身も手応えを感じていたのだろう。あの分厚い氷を割ることができるまでになったかどうか、試してみたい誘惑に抗えなかったに違いない。氷河を注意深く観察していれば、師の留守にそうした行動に出るかもしれないと、容易に思い至ってしかるべきだったのに、全くもって油断をしていたというほかはない。いや───これは油断などという言葉で片付けられない。
わたしが、この事態を招く原因を作ったのだ。
初めて会った日に遺体を引き揚げたいから聖闘士に、と言った氷河を「甘い」「そんなことでは死ぬな」と一刀両断に伏したカミュだが、だがしかし、私的な目的で聖闘士を目指すこと自体を一度も禁じはしなかった。
なぜか。
アイザックがいたからだ。
幼いながら彼は既に小宇宙に目覚め、その上、正義の戦士となるにふさわしい清く正しい魂を持っていた。
白鳥座はおそらく彼で決まりだ。ほかに凍気使いにふさわしい聖衣がなければ、聖闘士を目指す目的の是非を問うまでもなく、氷河は戦いに赴くことにはならないだろう。女神の加護ある聖衣を纏わないならば、望みどおり母の菩提を弔って過ごしたところで誰に非難されるものでもない。
明確にそうと思考した自覚はない。二人を育てている間のカミュは、少なくとも表層的には二人を同等に聖闘士にせんと務める師であった。その、つもりであった。
だがしかし。
それに似た甘い考えが、わたしの意識の、知覚していない部分のどこかに潜んではいなかったか。目の前で母を喪った氷河を不憫だと思う気持ちが、どこかに。
あるいは。
氷河の、母への思いを軽視していたのかもしれない。
地上のために、と正義に燃えているアイザックと過ごすうちに氷河の心は変化するに違いない。今は母を恋しがる幼子でしかなくとも、聖闘士を目指す過程のうちに、亡き母のことは忘れ、地上を護りたいという熱い思いがきっと生まれる、と。
母を忘れてしまうが聞いて呆れる。
忘れないようにし向けていたのはカミュ自身ではないか。
カミュは、氷河を鼓舞するためにしばしば彼の亡き母への思いを利用したのだ。
「この程度でへこたれるな。母に会いたくないのか」と。
なんと愚かな過ちを。
甘い、と断じながら、氷河の未練を断つこともせず、あまつさえそれを利用するなど。
氷河を甘いと断じた、カミュ自身の中に同じ甘さが存在していたのだ。
中途半端に抑圧し、中途半端に煽ったカミュの矛盾した姿勢が、氷河に「師の留守にこっそり亡き母に会いに行く」という行動をとらせてしまったに違いなかった。
カミュも、氷河も、全く意図していなかったとはいえ、それが引き起こした結果はあまりに重大だ。
自らの犯した過ちの結果にカミュの身も心も凍り付く。
愚かな過ちへの断罪だと言うのならわたしにのみ罰を与えてくれればよいものを。なぜ、氷河の甘さの、そしてわたしの過ちのつけは、何の落ち度もなかったアイザックが背負うことになってしまった。
あまりの無慈悲に、カミュの心はかつてなく激しく軋んで壊れそうに悲鳴を上げている。
氷河の体は相変わらず冷たいままだったが、カミュの小宇宙によっていくらか精気を取り戻したのか弱々しかった鼓動は、少しずつ本来の強さに戻りかけている。
濡れた前髪の先から滴が落ちて氷河の頬を濡らしている。その滴をカミュは親指の腹でぬぐい、急激に温めすぎないように細心の注意を払いながら、暖炉に小さく火を灯した。
この上、氷河の命が失われるようなことになれば、女神をお護りすることなく、わたしの心は砕けてしまうだろう、とカミュは思った。
**
一晩のカミュの献身のかいあってか、夜が明けるころに、氷河の頬に少し赤みが戻ってきた。
完全に安心することはできないが、最も危険なところは脱したようだ。
昨夜から満足に呼吸をすることも忘れていたカミュにもようやく少し落ち着きが戻る。
氷河の容態が落ち着いているのを確認し、カミュはそっと外へ出た。
一睡もせずに小宇宙を燃やし続けた身ではあったが、不思議と何の疲労も感じてはいなかった。
夜も明けきらぬうちにカミュは小屋を離れ、再度、昨日氷河を見つけた場所へ向かう。
雲に覆われているとはいえ、それでも太陽が昇り始めるといくらかは明るく、あたりの様子がよく確認できた。
だが、日の下で見ても絶望感は増すのみ。
やはりどこにも何も痕跡らしきものは残っていない。
「アイザック……!」
それでも、カミュは名前を呼び、もう一度凍てた氷の海へと飛び込んだ。日の光の元であってもなお昏い海溝深くへも、氷山の分厚い氷の下へも。
一晩経っている。
黄金聖闘士でもこの氷の海の中で一晩を耐えきれるものはない。
頭のどこかでは冷静にそれを知っていて、だから、カミュが今探しているのは、アイザックではなく、「かつてアイザックであったもの」に他ならないわけだが、それでも、返事がないことを知っていながら、名を呼び続けるのを止められない。
かけがえのない、存在だった。
白鳥座が彼のものになったかどうかは今となってはもうわからない。
だが、どんな守護星座であれ、彼が星に導かれた戦士となることはカミュの中でほとんど確信だったといっていい。
年齢以上に聡い少年だった。
雄々しく強く、それでいて、心はまっすぐでやさしくて。
きっと、よい聖闘士になれた。
青銅と言わず、彼ならばあるいはもしかしたら───
何度目かの潜水のあと、ようやくカミュは重い身体を氷の上へ引き上げた。
「……っ」
あとからあとから、激流のように押し寄せる罪悪感と喪失感に、咆哮にも似た嗚咽が漏れる。
わたしに似てきた、と、どこか面映ゆいような心地で見つめることが多くなっていた一番弟子を、わたしは、今日、わたし自身の過ちで失った。
たぶん、きっと、永遠に。
**
人生においてこれ以上取り乱すことはもうないだろうと思えるほど、激しい感情にしばらく身を任せたあと、カミュは疲弊した心身にむち打って、冷静な師としての顔を取り戻して立ち上がった。
哀しみに打ちひしがれてのみもいられない。
あまりにも愚かな師ではあるが、それでもまだ───わたしは師である、のだ。
生き残ったもう一つの命によって。
重い足を運んでカミュが小屋まで戻れば、驚いたことに扉が開いていた。
扉から数歩離れたところで雪に埋もれている金の髪を見つけて、カミュは心臓をつかまれたような衝撃を受けた。
当分目を覚まさぬかに見えた氷河は意識を取り戻し、あろうことか、あの身体で外に出てきたのだ。
「氷河!」
カミュは鋭く叫んで駆け寄り、あわてて氷河の身体を抱き起す。
雪に濡れた青白い顔が力なくカミュの方へ向けられる。
「せ…んせい……?」
「まだ寝ていなくてはだめだ、氷河」
「…………せんせ……い、アイザックは……」
瞳が既に潤んでいる氷河は気づいているのだ。アイザックの気配がどこにもないことに。
双子でもかくやというほど、べったりと寝食を共にしてきた二人だ。彼の姿が見えない、それだけで異常な事態を察したに違いない。
真実を告げるのは酷だったが、どう取り繕おうとこの不在は隠しようがない。だから、カミュは、ただ静かに頭を振った。
「………うそだ……」
「残念だがもう彼は戻らない」
「うそだ……うそだうそだうそだ!そんな……いやだあああ!!アイザック!アイザック……!」
感情の制御を失って、暴れだした氷河をカミュはきつく抱き留めた。
放して、放してください、探しにいかないと、と雪の中を駆け出そうとするのを身を呈して止めて、カミュはだめだ、とまたも首を振る。
氷河がとめどなく流す涙がカミュの胸を濡らす。
氷河が流す涙はそのままカミュの涙だ。
苦しい。
いったいこの世にこれほどの責め苦があろうかというほどの苦しさでカミュの端正な顔が歪む。
小屋の中まで抱いて戻っても、氷河の心の昂りはおさまらず、その体は激しく震え、涙はとどまることを知らない。
「俺のせいです。俺がバカだった……俺はアイザックに助けられた……アイザックは俺を……俺のせいで……」
カミュは氷河の体を腕の中に柔らかく包み、あやすように後ろ髪を撫でながら、その譫言のような懺悔の言葉を聞いていた。
氷河が己を責めれば責めるほど、背負わずに済んだはずの罪を氷河に背負わせてしまったことへの悔恨がカミュの心にも圧し掛かる。
自分自身を責める氷河の言葉は、そっくりそのままカミュの心に刃となって突き刺さり続ける。何度も。何度も。
だが、カミュは最終的には自らの心の中で吹き荒れる嵐を押し殺して、努めて冷静な声で、冷淡とも思えるほどの割り切りぶりを氷河に見せなければなかなかった。
「氷河……落ち着きなさい」
「俺、探しにいかないと……」
「無茶を言うな。わたしがさんざん探して見つからなかったのだぞ」
「でも……アイザックが……」
「お前が探しに戻ったところで無駄死にになるだけだ。せっかくアイザックが助けてくれた命をお前は無駄に捨てるのか?」
「……だけど、俺のせいで……!」
「お前のせいではない。責任があるとしたら、すべて師であるこのわたしにあるのだ」
「違います。俺が……ああ、それなのに、どうしてアイザックが……どうして……!」
「お前の未熟さも含めてすべてわたしの責任だ」
「いやだ、いやだ、どうしてこんなことに……!いっそ俺が死ねばよかったのに……どうしてこんな……!」
カミュの言葉が届いているのかいないのか、氷河の感情の爆発は激しさを増す一方だ。
感情の制御を失うあまりに、は、は、と早いリズムで痙攣したような呼吸が続き、自分の意志と関係なく四肢が大きく震えているにも関わらず、なおも泣き叫び、己を責める言葉を吐き続ける氷河に耐えかねて、カミュは、頼むからそれ以上はもう何も言うな、と、苦しげに開かれた薄い唇を己の唇で柔らかく塞いだ。
しばらくは触れた唇のあわいから、喉奥から絞り出すような引きつれた氷河の叫びが漏れていたが、やがてそれも、頬に落ちるカミュの涙に驚いたのか、少しずつ小さくなり、そして、消えた。
長い静寂だった。
暖炉で火が爆ぜる音だけがしている。
なぜ、衝動的にとはいえ、そんな触れ方をしてしまったのか。
当然ながら初めてのことだ、氷河にそんなふうに触れるのは。
特別な意味はない。
暴れる氷河を押さえるのに両手が塞がっていて、だが───氷河の唇から漏れる責め立てが耐え難いほどカミュには苦しく、ほかに逃れる方法を見つけられなかった、だけだ。
だが、意図していなかったとはいえ、カミュの心に血を流させていた痛みは、唇に触れている熱に、ほんの僅か和らいだ。
氷河の命はカミュには唯一の救いだ。
己の過ちを贖う機会はまだ残されている。
失われた命の重さに感じている苦しさの分だけその思いは増し、もう決してこの熱を手放しはしない、という想いが強くカミュの内側で存在を主張する。あまりにも激しく苦しいその感情を何と呼ぶのかカミュは知らない。ただ、生き残った命の温かさを狂おしいほどに感じていた。
カミュが抱いた腕の輪の中で、昂る感情をいくらか静めたかと思うと、再び身体が限界を迎えたのか、やがて、氷河は、くたりと頽れるように意識を失った。
柔らかく抱き留めて深く息をつき、カミュは氷河を抱え上げて寝室へ向かう。
寝室の扉を開けばすぐに、主を失ってしまったベッドが目に入り、またもカミュの中に痛いほどの苦しさが戻ってきた。
だが、どうにかそれを制御して、カミュは氷河をベッドへ横たえる。
規則的な寝息が聞こえているのを確認して、カミュはベッドサイドへ椅子をひいて腰掛け、そして腕を組んで己も酷く重い瞼を閉じた。