寒いところで待ちぼうけ

ネタ


お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)

オメガバース設定の学園もの妄想。カノ氷に始まり、ミロ氷を通って、最後はカミュ氷。

特殊な設定のため、社会規範に反する記述も登場しますが、それらの行為を肯定する意図は全くありません。完全なる異世界ファンタジーとしてお読みください。

ミロ(×または+)モブ(女)要素あります。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。


【中盤あらすじ】
 さて、前話までのような流れで初体験を迎えてしまった氷河ですが、その後も、カノンは相変わらず大人の余裕でフォローを入れてくれ、カミュ先生とは、プライベートレッスン時、落ちた消しゴムを同時に取ろうとして手が触れてしまったりだとか、プールサイドで滑りかけたのを抱きとめられたりだとか、中学生ですかってくらいのほほえましいドキドキエピソードはあるものの、でも、そこは概ね、清く正しい教師と生徒の距離を保ったまま進展のない日々を過ごすのです。(ちなみに初体験後数日間は、いつもはブーメランビキニの氷河、フルレングス水着にラッシュガードっていう不自然なほどに全身を隠したまま部活をしていました。カミュ先生がそのことに一切触れないものだから、氷河は、虫に刺されて、とか、日焼けが痛くて、とか用意していたたくさんの言い訳を言わずに済んだのでした。カミュ先生の内心は……概ねご想像のとおりです)
 抑制剤を飲むようになって、氷河の気持ちはかなり楽になるのですが、ただ、残念なことに副作用はやはりあって、発情期と思しきあたりは、薬の作用と体質がせめぎあうのか、ひどく頭痛がするようになるのです。授業どころか、化学準備室にも行けないこともあって、保健室か校務員室で過ごさないといけないのが、近頃の氷河の悩みと言えば悩み。
 そしてもうひとつ、今度は別の問題が起こる。
 進路問題です。
 進学はしたい。けど、先立つものがない。実は、氷河の母は早くに亡くなっていて、氷河は一人暮らしなのです。書類上は、保護者は父親だという形になっているのですが、単に名前貸しだけの父であって、進学費用どころか生活費すら出してもらっていない。書類的には保護者がいることになっているため、この事実は誰も知りません。(カノンは薄々勘付いていますが、彼は、不必要に深く踏み込んでは来ない。頼ればもちろんなんとかしてくれることは氷河の方もわかってはいるんです。カノンの自宅も愛車もどう考えても桁違いのセレブ感でていたし。だけど、金銭的なことを他人に頼ってはいけないという分別は氷河にはちゃんとあるので、抑制剤を手に入れてもらっているほかは、カノンに甘えることは決してしていない)
 担任の教師に、就職か進学か選べ氷河よ、と言われ、悩んだ末、進学費用を貯めるため、アルバイトを始めることにするのです。
 朝は新聞配達、そして部活が終わった後は夜の街へ出て………
 というところから始まる、ミロ氷ターン。担任教師の登場と、まさかのバーテン氷河ぶっこみ。カオスになってまいりました。


◆トキメキ☆聖闘士学園~なんちゃってオメガバ~ ⑥◆


 チリン、とドアベルが鳴って、氷河は、いらっしゃいませ、と音のした方へ顔を傾けた。
 もう少し愛想よくできない?笑顔とか、ほら、あなた顔だけはいいんだから、と女性言葉でしゃべる初老のマスターのいつものお小言が脳裏に浮かんで、遅ればせながら作り笑顔を浮かべようとしたが、扉を開けて入ってきた人物を視認するや否や、氷河の顔は凍り付いた。
 ミロ先生だ。
 ───たぶん。
 担任の顔を、たぶん、としか認識できなかったのは、普段の彼とあまりに雰囲気が違っていたせいだ。
 ネクタイこそ緩めていることが多いものの、普段の彼はたいていきっちりとスーツを纏っていて、女生徒がどれだけきゃあきゃあ騒いでも見向きもせず、いかにも堅物教師、という風情だが、今は、ラフなライダースジャケットに薄い色付きの眼鏡をかけていて、その上、なんだかゴージャスな美女までつれて、夜の街がすごく似合う遊び人って感じだった。
 ええと……先生、だよな?
 その判断を迷ったせいで、自分が今、とびっきりの校則違反をやらかしていることを思い出すのはずいぶんと遅れた。
 えっ、俺、もしかしてやばいのでは!?
 アルバイトなど当然禁止の進学校である。
 新聞配達の方が見つかるならともかく、未成年お断りの店で、酔っ払い相手に酒を作っていると知れたら。
 オメガ性であることが知られるよりよほど危機的状況かもしれない、ということに気づいて、氷河は、ぐぅっと呻いたまま固まった。
 いらっしゃいませ、の瞬間に既に、ミロ(仮)とはばっちりと目が合ってしまっていて、自分がこのバーの従業員であることは取り繕いようがなく、どうしよう、どうしようと心臓だけがバクバクと跳ね回る。
 だが、ミロ(仮)は、氷河の顔を正面から見たにも関わらず、特に表情を変えることなく、「二人だけどいいかな」と言った。
 その声がどう考えても、数式を読み上げて、わかるものはいないか、と問うミロそのもので、頭の中の(仮)はあっという間に(絶対)に変わる。
 固まってしまった氷河の代わりに、マスターが、あら、久しぶり、空いてるわよ、どうぞ、と奥のテーブル席へと案内している。
 常連だったのか、と氷河は頭を抱える。
 手っ取り早く学費を稼ぐには時給のいい夜のアルバイトしかない、と、様々な職種を渡り歩き、さんざんセクハラの餌食になった挙句、ようやく、ようやく、氷河に微塵も興味を抱かない、このマスターに拾ってもらえて安堵していたところだったのに。
 ミロ(絶対)が連れの女性の上着を受け取ってやりながら、ちらとカウンターのこちらへ視線を投げて、ずいぶんかわいらしいバーテンを雇ったんだな、とマスターに訊いている。
 だが、それはうちの生徒だ、とは言いださない。
 えー……と。
 どうしたらいいんだ、こういう場合。
 もしかしたら、バーの照明はすごく薄暗いし、俺の方も普段の格好と違っているから、ミロ(絶対)は気づかなかったのかもしれない。
 普段の氷河は、あまり目立たないように長く伸びた前髪を垂らして、それに隠れるように俯いていることが多いし、授業も毎度毎度皆勤賞とは言い難い。担任であっても、ひょっとしたら覚えていないほど、印象は薄い生徒なのかもしれない。
 マスターが、うちはあなたのかわいい顔しか売りがないんだから、とうるさいので、今は細い銀のヘアバンドで前髪を全部上げているし、黒ベストに蝶ネクタイ、という格好は、それなりに夜の空気を纏わせている。それに、まさかこんなところに生徒がいるはずもない、という先入観もあったかもしれない。
 気づかれなかった幸運に安堵して、でも、今日はなるべく薄暗いところにいることにしよう、と氷河はカウンターから一歩離れて、奥のテーブル席をうかがった。
 マスターがアルコールを運んだ二人は、内容は聞こえないものの、それなりに会話が弾んではいるようだった。
 ミロ(絶対)の方はどうかわからないが、女性の方は明らかにミロ(絶対)を好いていて、お持ち帰りされたがっているのが、疎い氷河にもわかるほど、しなだれかかっている。
 教師のプライベートなど生徒が見ることは通常ない。
 ほんの数日前、進路指導室で難しい顔をして、「君は欠課が多いから内申点は望めない。進学したいなら死にもの狂いで勉強をして結果を出せ」と言っていた人物が、ほの暗い明かりの下でアルコールを口にしながら、女性を口説いている姿に、氷河はわけもなくドキドキした。
 ……カミュ先生も、誰かとこういうデート、しているんだろうか。
 抑制剤を使うようになってから比較的授業には出ているため、その頻度は減りはしたが、どれだけ間が空いても、相変わらず、カミュは化学準備室で氷河を待っていて、勉強を見てくれる。
 教科書に視線を落とすカミュの伏せられた睫毛が髪の色と同じに赤くてきれいだなと思ったり、ここ、違っているぞとノートをなぞる指の爪がきれいに整えられていることにドギマギしたり、そういう、おかしな動揺が氷河の中にどんどん増えていくことさえ除けば、全く、全く、何も変わらない。
 解けました、と顔を上げた瞬間に、赤い瞳がすいと逸らされることがあって、そういうときは、自分の気持ちを窘められているようで少し竦む。
 自分とカミュとの間には、教師と生徒、それ以上のものは何一つないのに、カミュにもプライベートな時間は存在して、そして、氷河はそこに一ミリも存在していないのだ、ということに気づけばなんだか胸がきゅうと痛かった。
 思い出したせいか、先生に会いたくなってしまった。毎日会っているのに、と、グラスを磨きながら考えていれば、ぱん、と乾いた破裂音が鳴って、驚いて氷河は顔を跳ね上げた。
 見れば、どうやらミロ(絶対)の頬を叩いたらしい女の人が、財布からお金を取り出して叩きつけるようにテーブルに置いているところだった。
 しゅ、修羅場だ、と氷河は目を白黒させる。
 入ってきたときの上機嫌ぶりが嘘のように、女の人は、すごく乱暴な足取りでかつかつとヒールを響かせてバーの中を横切り、ものも言わずに扉を開けて出て行った。
 見てはいけないものを見てしまった、と氷河は気まずく俯く。
 だって、相手は先生だ。先生っていうのは、生徒の前では、尊敬されるような姿を見せていないといけないわけで。いや、俺は今、生徒とは認識はされていないわけだけど、それにしても、多分、これは、結構、いや、すごく、恥ずかしいというか気まずい状況なのではなかろうか。
 気づかなかったふりをしてやるのが男の情けだと思うが、気づかなかったことにするのが不自然なほど、薄暗い店内は静まり返っている。
 お、音楽のボリュームでもあげる??
 バックヤードに引っ込もうか迷っていたら、ミロ(絶対)ときたら、笑みをたたえて立ち上がり、あろうことか、氷河の前のカウンターのスツールへと腰かけた。
「振られたよ。みっともないところを見られたな」
 そういって、薄い色のついた眼鏡の奥の目が弧を描く。
 氷河の隣でマスターが、そうなるように仕向けておいてよく言うわ、相変わらずね、と言って笑った。
 そんな器用な真似ができるものか、俺は本命には振られ続きだよ、と言ってミロ(絶対)は肩をすくめているが、振られたわりにダメージを受けていないように見えて、氷河はさっきの女の人がすごく気の毒になった。
「振られ男への慰めに一杯、何か作ってくれるかな、かわいい新人さん?」
 切れ長の瞳が氷河へ向けられて、氷河は目を瞬かせた。
 いくら薄暗くてもこれだけ間近で顔を見て本当に本当に気づいていないのか。少なくとも氷河の方は(絶対)が(確信)に変わったが。
 退学になりたいわけではないのに、教師にあるまじき失態に、少し失望して、カミュ先生ならありえないのに、と思ってしまう。
「………オーダーは」
「君に任せる」
 気障な仕草で、スツールの上で足を組む数学教師(確信)になんだか少し鼻白んで、では、と氷河はシェイカーを取り出した。
 ラムと、オレンジ・キュラソー、アブサン系リキュール、クレーム・ド・ノワヨー、砂糖、卵黄を順に入れ、少し緊張しながらシェイカーを振る。しれっと「お任せ」に応えてみせたが、そんな芸当が酒も飲んだことのない氷河にできるわけはなく、マスターが氷河のためにカウンターの裏に貼ってくれているレシピをこっそり見ているのである。レシピを見たって何をどうしていいかわからないものもまだ多いくらいなのだから、取り繕うのも必死だ。
 大きめのカクテルグラスを取り出し、中身を注いで、ミロ(確信)の前へ滑らせると、それなりに様になっているな、と蒼い瞳が細められた。
「………アイ・オープナー…?」
 ミロ(確信)がグラスを口につけて、カクテルの名前を確認するように氷河へ問う。
 氷河は声を出さずに頷いた。
「任せる」と言われて、迷うことなくそれを選んだのは、ひとえに、その名前からだ。
 生徒が目の前にいるのに全く気づかない、腑抜けた担任に、目を開けてよく見ろ(見られても困るけど!)、という、ちょっとした嫌味のつもりで。
 だが、ミロ(確信)はグラスを額へあてて、肩を震わせて笑っている。どこにそこまで受ける要素があったのかわからない。
「………参った、これほど情熱的なのは初めてだ」
 まだ声を震わせているミロがそう言うのを、マスターが困り顔で、だめよ、この子は初心なんだから、と窘めている。
「君の名前を聞いても?」
 名前。
 考えていなかった。とっさに偽名が思い浮かばず、ひ、ひみつです、と氷河は首を振り、ミロがそれをまた笑う。
「もう一杯作ってくれるかな?今度は俺に選ばせてくれ。そうだな……ハンターを。甘口がいい。チェリーをたくさんだ」
 わかりました、と頷いて、氷河はカウンターの下に視線を滑らせる。
 ハンター、ハンター……あった。ウイスキーと、チェリーブランデー、だな。甘口でチェリーブランデー多め。今度はミキシンググラスでステアして、氷河はそれをミロ(確信)の前へ置いた。
 だが、ミロ(確信)はそれをコースターごと氷河の方へ返して、
「これは君に」
 と、片目をつぶる。
「俺に……?」
「そう。君との出会いに、」
 乾杯だ、とミロ(確信)が己のグラスを掲げる。
 びっくりした。
 出会いに乾杯とかいう人を映画以外で初めて見た。
 気障だけど、でも……それを口にして滑稽ではないほど、すべてが洗練されていて、女生徒がきゃあきゃあ騒いでいる理由が、なんとなくわかった気がしたが、問題はそこではない。
 え、俺、もしかして、これを呑めって言われている……??
 マスターに雇われるときに年齢は偽った。
 作ったことはないが酒は好きだ、とも言った。
 だから、困ってマスターを見た氷河に、彼が誤解して、呑んでいいのよ、それも仕事のうちだから、と頷き返されても文句は言えない。
 だが、と、氷河はミロ(確信)をうかがい見た。
 ───もしかして、バレているのだろうか。
 試されているのなら、あまりにも性質が悪い。リキュールをオレンジジュースで割ったような可愛いカクテルならともかく、ウイスキーをブランデーで割る、呑んだことのない氷河ですら躊躇う代物を、生徒に勧める教師がいるか!?
 呑んだ瞬間に退学宣告とか……いやいや、それなら呑ませた方も同罪だ。退学にしたいなら、この場にいるだけで氷河はもうアウトなのだからそこまでする意味がない。
 つまりこれは、純粋に、一緒に呑まないかと誘われているわけで……??
 氷河の様子を肴にカクテルグラスを傾けているミロ(確信……もう、これ、いる?)の唇が、坊やには無理かな、と煽るように歪められている。
 ミロを真面目で爽やかでそこが素敵だと騒いでいる女子たちに、やめとけ、あのひと、手に負えないいけない男だぞ、と明日忠告してやろう、と思いながら、氷河はグラスを口につけ、ぐっと喉に流し込んだ。



 だいじょうぶ?ちゃんと帰れる?タクシーでも呼ぼうか?と心配そうなマスターに、いえ、平気です、と答えて氷河は裏口から外へと出た。
 学業と両立させるため、勤務時間は日付が変わったあたりまで、と決めている。その時間ならぎりぎり電車がまだ動いている。
 走れば間に合う、と数歩駆けて、だが、氷河はすぐにその場にしゃがみこんだ。
 平気です、と言ったものの、酔いはいい加減に全身を回っていて、視界はぐるぐるしている。
 あー……、勢いで馬鹿をした。
 もうすぐテストが近いのに、これでは帰宅したあとで課題なんかこなせない。
 カミュ先生、成績が下がったらきっとがっかりするだろうなあ、と思いながら、ふらふらと立ち上がり、だがすぐに気持ちが悪くなって、氷河は道端に座り込んだ。
 道行く酔っ払いたちが、お嬢ちゃん、送ろうか?と下卑た笑いを向けてくるのに辟易する。
 俺に構うな、と睨みつけたもののどうにも動けない。
「困った坊やだ」
 酔っ払いたちのからかいに、覚えのある声が交じって、え、と氷河はのろのろと顔を上げた。
 二重に輪郭の滲む夜の景色に、まだ店にいたはずのミロがゆっくりと近づいてくるのが見えた。
 あたたかい手が背を撫でて、吐くか?と聞かれたが、びっくりしすぎて吐き気はどこかへいってしまった。
「…………?」
 まだ彼はマスターと話をしていたはずだ。
 たまたま店を出たのか、氷河を追いかけてきたのかわからないが、少し息が切れているところを見れば後者だろうか。
「送ろう。電車か?」
 ミロの言葉に、ハッと氷河は時計を見た。
「終電……!」
 発車までもう数分しかない。こんな千鳥足で間に合うかどうか。
 何線だ、と聞きながら、ミロが膝を折って、乗れ、と氷河に背を向ける。
 えっ、と驚く氷河に、重ねて、いいから乗れ、とミロが声を大きくする。
 いやいや、さっき出会ったばかりの人(まあ、本当は毎日顔を合わせているわけだけど)にそんな、という氷河の戸惑いを置き去りに、ミロが氷河を強引に背の上へ抱え上げる。
 ミロも結構呑んでいたはずなのに、涼しい顔で地下への階段を駆け下りて、氷河が乗るべき車両へと間一髪二人は滑り込んだ。
 氷河をおろしたミロは、間に合ったな、と息をついて笑う。
 自力ではきっと終電を逃してしまっていて途方にくれる羽目になっただろうから(学生だ、タクシーを使えるほど持ち合わせなんかない)、すごく助かったことは確かだが───
「あの、あなたもこっちの方角で……?」
 そう疑問に思うのは当然のことだ。
「いや、俺は違う」
「……っ、すみません、俺、」
 折り返して戻ってももうどの電車も止まる時間になる。恐縮して小さくなった氷河の耳元でミロが囁いた。
「君が泊めてくれるのだろう?」
「……………っ」
 なんてとんでもない教師があったものだろう。俺を生徒だと認識しているなら論外だが、認識していないにしたって、行きずりの人間にこんないけない誘いをするなんて。
 真っ赤になってそっぽを向いた氷河の頬を、冗談だよ、そんな可愛い顔をして煽るものじゃない、と、ミロの指がくすぐるように触れる。
 冗談なのか、と、安堵して、いやいや、冗談にしても今の言い方はまるで口説いているみたいだった、と氷河は怒ったように眉間に皺を寄せた。
 ただ───そうしたやりとりは少し新鮮でドキドキしたのは確かだ。
 冗談としても、こんな言葉遊びや駆け引きをするような関係は初めてだ。好意があるかどうかなど二の次で、目が合ったかと思ったら次の瞬間にはもう押し倒されていた、なんてことは珍しくはない。
 このひと、本当は担任教師なんだけど、というブレーキを差し引いても、アルコールと、少し大人な会話は、経験値の低い氷河の心拍を上げるには十分だった。
 車内は少し混んでいて、電車がカーブに差し掛かるたびに、氷河の身体が周囲の人間へふらふらとぶつかる。
 背の高いミロがかばうように氷河の腰へ腕を回して、平気か?と聞くものだから、却って平気ではなくなった。
 アルコールのせいか、急に上がった心拍のせいか、やたらと身体が熱くて困る。
 だいぶ酔いが回っているようだな、と氷河の赤くなった頬をミロの指が撫でる。
「ああいうときは呑んだぶりをしてこっそり中身を入れ替えるんだ」
「……中身を……?」
「ラベルだけアルコールで中身は水の瓶をいくつか用意しておくとか、な。君を酔わせてみたい奴は山ほどいるだろう。いちいちつきあっていては危ない目にあうぞ」
「こんなふうに……?」
 そうだ、送り狼にも気をつけろ、と笑った拍子にミロの巻き毛が頬に触れて、また、カッと頬は熱くなった。
 様子がおかしい、と気づいたのは、己が下りるべき駅が近づいてきてのことだ。
 なんだか、車内にいる人間の目がちらちらと氷河へ向けられているような気がする。覚えのある、はあはあという興奮した獣の息遣いと、それから、劣情の眼差し。
 ……え、俺……?
 抑制剤はきちんと忘れることなく飲んでいる。今日もバイトの前にしっかり飲んだ。飲み始めてからこんな眼差しで見られたことは一度もない。
 なのに、どうしてまた今、と、と氷河の身が強張る。
 氷河の背後に立っていた男が、すりすりと身を寄せてきて、あ、と喉から引き攣れた声がこぼれた。
 氷河の声に誘発されたようにさらに不快な熱を押し付けてくる男と、氷河との間に、ぐっと逞しい体躯が割り入れられる。顔を上げれば、窓に映ったミロの唇が、心配するな、と動くのが見えた。
 ドキリとして心拍があがり、だが、ああ、そうか、と氷河は気づいた。
 抑制剤は飲んでいるが……摂取したアルコールか、この心臓の高鳴りがその効果を薄めてしまったのだ、きっと。
 体温が急上昇するこの感じは、以前経験したヒートにとても似ている。
 解放された、と思った己の第二性を、意識せざるをえない状況は恐ろしい。なにしろ、どうにもならなくなる狂おしい衝動と、それを楽にさせる方法をもう知ってしまった。この場で一番信用ならないのは、自分自身の身体だった。
 下りるべき駅へ着いて、転がり出るようにホームに下り立って、氷河は、はっはっ、と激しく肩で息をした。理性が保てなくて気が狂いそうだったヒートとは全然違っていたが、やはりいくらかオメガのフェロモンが放出されているのか、同じ駅で降りた乗客が、まだ、氷河をじろじろと見ているのがわかる。
 ミロが、「つけられて家を知られるといけない。少しそこで休もう」とホームのベンチを指し示したので、氷河は素直に頷いてそこへ座った。
 ホームの自動販売機で水を買ったミロが、ほら、と投げて寄越すのを受け止めて、氷河は喉を潤す。
「……俺、」
「……君は、」
 誰もいなくなって、しんと静まりかえったホームで、二人は同時に声を発した。あ、と怯んで声を飲み込んだ氷河を見て、ミロは言葉を続ける。
「君は、オメガなのだな」
 やっぱり、隠しようもなく、あのはしたない匂いを俺はまき散らしていたのだ、と知れて、氷河は羞恥でいたたまれなくなった。
「………………抑制剤を、飲んでいたのに、」
 そうか、どうりで全然わからなかった、とミロが呟く。
 その横顔に、氷河は、そしてあなたはアルファなんだな、と胸の内で言葉にしてみる。抑制剤を飲んでいる間は、氷河自身、周囲の人間の性属性が全く分からなくなる。だが、今、彼から仄かに漂う香りは、紛れもなく、アルファだけが誘因することができる、あの特有の甘い熱を氷河の内側へ育てようとしていた。
 駅員が改札を半分閉めて、早く外へ、と視線で二人を促している。
 立てるか、と差し出されたミロの手を取るのを氷河は躊躇った。触れて大丈夫か自分に自信がない。このひとを欲しくなってしまったらすごく困る。
 ふるふると首を振った氷河に、そうか、とミロが頷いて、半歩先に立って歩きだしてしまったので、やっぱり手を取ればよかった、と思わず惜しい気持ちになってしまい、俺、何を考えたんだ、と慌てて氷河はそれを打ち消すように目を瞬かせた。
 一人で暮らすアパートまでの道を、二人は無言で歩いてゆく。
 ここだから、と氷河が足を止めれば、ミロは、ああ、と頷いた。
 鍵を取り出しながら、氷河はまた、ドキドキと頬を熱くする。「君が泊めてくれるのだろう?」と言った言葉が脳裏でぐるぐる回っている。
 送ってもらって、終電がないとわかっているのにじゃあさよなら、は礼を失しているのではないだろうか。
 でも、オメガと知られた後で、泊まりますか、と聞くのはなんだか誘っているようだ。
 だいいち、先生だ。ミロは気づいていないけれど。担任教師と、なんて……いやいや、何を俺はどうにかなる前提で考えているんだ、普通に、普通、に、つまり、始発までの居場所にどうぞ、という泊まりますか、であって、泊まったからといって何かあると思うのはおかしなことで。
 でも、だけど、だって、とそれでもぐずぐず迷っているのは、多分、もう少し、このままでいたい、と思ってしまっているせいだ。いけないことなのに。
 ぐるぐる回る思考に答えはでなくて、慣れた自宅だというのに、氷河は動揺で二度も鍵を取り落とした。
 三度目の正直も手が滑ってしまって、見かねたミロが苦笑しながら鍵を拾って、鍵穴へと差し込んだ。
「そんなに緊張されると却っていけない気持ちになる」
 間近で鼓膜を震わせた低音に、氷河の背はぞくぞくと疼いて震える。
「まともな大人でいられるうちに、俺は帰るよ」
 えっと振り向いたときには、ミロはもう背を向けたところだった。
 ミロ、と、今夜彼が口にしてもいないその名を思わず呼べば、彼はゆっくりと半身、振り返って、ニヤリと笑った。
「………アイ・オープナー、調べてみるといい。……おやすみ」
 ミロが開けてくれた扉の内側へ氷河はへたりと座り込む。
 教師と生徒だけの狭い世界で生きている。
 誰が誰に告白したの、誰と誰がつきあってるの、生徒だってそれなりに恋愛は盛り上がっているものだが。そして生徒にとって教師なんか、学校の設備の一部みたいなものでしかなかったのだが。
 教師って………………大人のひと、だったんだ。
 それでもって、大人って、大人って…………
 日ごろ耳にしている恋愛話がまるでおままごとみたいだ。
 ……何を、調べてみろって言っていたっけ……??
 氷河は膝で部屋の書棚へにじり寄り、このアルバイトを始めるにあたって購入した「カクテルの種類」という本を取り出す。
 アイ、アイ、と、五十音順で並んでいるそれは、比較的、最初のページに現れた。
 アイ・オープナー カクテル言葉「運命の出会い」
 なんだよ、これ、と、真っ赤に茹ってしまった氷河は、耐えきれずに本を抱えたまま突っ伏したのだった。



 翌日。
 結局、もんもんとして一睡もできなかった氷河は、一睡もしなかったわりに課題も白紙のままで登校した。
 どんな顔をして担任に会えばいいのかわからない。
 ホームルームだろうと数学の時間だろうと放課後の部活動だろうと、いつだって生徒の輪の中にいる人気者のミロが、集団から少し孤立している氷河と個人的に口をきくことはまれだ。もしかしたら、進路指導以外では一度も口をきいたことがなかったかもしれない。確信をもってそうとわからないほど、担任教師など、まったく興味の埒外だったのだ。
 いつもどおり長い前髪に隠れるように俯いていた氷河は、始業のチャイムとともに教室に入ってきたミロの姿に、ドキリとして思わず視線を逸らし、そしておそるおそる教壇へ視線を戻した。
 シックなダークスーツにネクタイ。暑いのか、上着はなしでベストのみ、シャツの袖はまくっている。授業用なのか、眼鏡はシンプルな縁なしで。
 帰りはすごく遅くなったに違いないのに目の下にくまがあるでなく、かなりの量口にしていたアルコールの影響が残っているわけでもなく。
 夜の街とは全然違う姿を見ているうちに、いや、やっぱり昨日のあれは、ミロ先生ではなかったのでは……?と自信がなくなってくる。
 双子の兄弟でもいるのだろうか。カノンとサガだって、並んでいても、そうと知らなければ、誰も双子だと気づかないほど纏う雰囲気は違っている。
 よく似た別人だったのだな、と、一限が終わるころには氷河はもうそう結論づけていた。最後列で気配を消している生徒になんか興味もないのか、ミロがこちらに、ちらりとも視線を投げることもなかったためだ。
 ミロが教科書を開いて、生徒たちに問題を指示して、「ラスト5分だ。チャイムが鳴るまでには解けよ」と覗き込むように席の間を歩き回って、問題に正解をしたものには、その場でノートに〇を入れている、
 やがて、ミロは、氷河のあたりへも近づいてきた。
 そのころにはもうすっかりと昨夜の出来事を忘れかけ、日常に戻っていた氷河は、だから彼が採点しやすいように、ノートを机の端へ寄せて、窓の外へ視線を投げてぼうっとしていた。
 カノンが箒で校門前を掃いているのが見え、あ、カノンだ、と思った瞬間に、ふ、と氷河の上へ影が落ちた。
「何をよそ見している。『運命の出会い』でも落ちていたか」
 耳元の低い声に、ぶわ、と全身に熱が回る。
 ………ッ!?
 な、あれはやっぱり……!?
 俺だと、わ、わかっ………て……?ど、どこから?え、まさか、最初から……!?
 耳を押さえて真っ赤になった氷河に、不良数学教師の瞳がいたずらっぽく弧を描き、正解だ、とノートに〇をつけた。
 ハンター カクテル言葉「予期せぬ出来事」
 そういえば、そうとも書いてあったな、と氷河は茫然とノートに大きく描かれた〇を見つめるのだった。