寒いところで待ちぼうけ

ネタ


お話と言えるほど体裁は整っていないネタ集のようなもの
(基本的には雑記です)

聖戦後、カノンのみ生存ルート妄想の断片。1話目と3話目のみで完結予定なし。
カノ氷ベースですが、人によっては行間に他カプを感じることがあるかもしれませんのでご注意ください


◆カノン生存ルート ①◆
 
 もういい加減に休んではいかがですか、と扉の所へ顔をのぞかせた彼の神はそう言った。
 休憩なら先ほど取りました、とカノンはペンを止めて答え、そしてまたすぐに手元へと視線を落としてはペンを走らせる。
 女神神殿への続き間にある教皇執務室。
 彼の目の前には書類が乱雑に積み上げられていて、燭台の揺らめく光を遮って手元をほの暗くさせていた。
 無残に崩れ落ちた十二宮を元の要塞としての機能に戻すには、早急に手配すべきことが山のようにある。
 通常であればその雑務を担う者が何人もいて、教皇の席に座る者が細かな手配までする必要はないのだが、今の聖域にそのような人員の余裕はない。
 カノンは今、聖域の頭脳であり、守護の要であり、雑用係でもあった。そのことをどうこう思う余裕すらないほど、日々、追い立てられるように過ごしている。
 休憩ならば取りました、と言ったものの、彼の言う休憩というのは、ペンを置いて、目頭を人差し指と親指で押さえながら、ほんの数秒、視覚を休ませたことを指したに過ぎない。
 食事くらいは遠い昔に取ったような気もするが、柔らかなベッドとはもう何日も縁がなかった。
 そのことを知っているかのように、女神は困ったように首を傾げ、そうではなくて、と、部屋の中へと足を踏み入れた。
 足音をさせない、優雅な動きでするりと近寄り傍へ立った女神は、カノンがまさに今文字を書き付けている最中の羊皮紙をひらりと取り上げた。
「知っていますか、カノン。人間は眠らないと死ぬのです」
 書いている途中のものを取り上げられたものだから、乾ききっていないインクは滑り落ちるように紙の上を流れて、ああ、ほらみろ、書き直しだ、と一瞬(ほんの、ほんの一瞬だ)、彼女の強引さに苛立った程度には、カノンは睡眠が足りていない。
 不敬な己の心の動きに気づいて、ペンを握りしめたまま困って固まっているカノンに、女神はくすりと笑った。
「酷い顔。お付きの者が怖がるはずです」
「……怖がらせているつもりはないのですが」
「食事を出しても手もつけないでいれば、何か粗相があったのかと心を痛める者もいる、ということです」
 そこで初めて、カノンは傍机の上に乗せられていた多分夕餉だったものの成れの果てに気づいた。いつ置かれたものなのか、そう言えば人の気配がしていたような気もするが、はっきりとは記憶にない。
 すっかり冷めているスープに、乾いたパン、固くなって脂の浮いた肉……萎びてしまう前は美しかったに違いない飾り切りの野菜をあしらったオードブルが添えられているあたり、本来なら、晩餐と呼んでよいほど手がかけられた料理だったのだろう。今は見る影もなく憐れな惨状を晒しているが。
 俺が忙しくしているのは見ればわかるだろうに、こんな大そうな夕餉など用意せずともパンひとつで事が足りたものを、と思ったが、そもそも、普通は食事をとる部屋としては全く相応しくない執務室にまでこうして差し入れてくれた、その気遣いにすら気づいていなかったのだから、パンを出されていたところで「手をつけもしなかった」という結果は同じだ。自分がまったく理不尽に苛立っているのだ、という自覚はあったから、カノンは大人しく、気をつけます、と頭を下げた。
「根を詰めていては倒れます。今日のところはもう終わりにしましょう」
 言われて時計に目をやれば、「今日のところは」どころか、今日と言う日はまだ始まったばかり、つまりは相当な夜更けなのであった。
 もうそんな時間だったか、とさすがにペンを置いて、カノンはハッとした。
「女神、こんな時間に……!」
 寝所にて休んでいるべき時間に、まさかわたしのせいで、と慌てて腰を浮かせれば、女神はにっこりと微笑んで、教皇一人働かせているわけにもいきませんもの、と宣った。
 代理の雑用係です、ただの、と否定しておいて、カノンは女神へ首を振った。
「いけません、女神。先の聖戦の傷がまだ癒えぬ御身、軽々に起き上がってはお身体に障ります。すぐにお休みなさいますよう」
「あなたよりは元気ですわ、カノン。傷も全て塞がりました」
「いや、しかし、」
「あなたがきちんと休む気にならない限りわたくしもここを一歩も動く気はありません」
 困り果てて、カノンは少女の姿をした神を見下ろす。
 元々カノンは、それほど勤勉な性質でも、真面目な性質でもない。寝る間も惜しんでこつこつと教皇宮に詰めるような精勤ぶりは本来ならサガの十八番だ。カノンは最前線に立って大技をぶっぱなして一瞬で片をつけた後は、とっとと塒に帰って酒精でも腑に染ませている方がよほど性に合っている。
 だというのに、そのカノンが、こうまで根を詰めざるを得ないのは、聖域に他にそれを担う人間がいないせいだ。先の聖戦で、黄金聖闘士は全て失われた。
 崩壊し、守護する戦士の一人もなく、まるで要塞としての機能を果たしていない聖域に、この尊い神を置かねばならない心許なさと言えば、聖衣もなしに翼竜と戦った時の比ではない。
 聖域を1日も早く正しく機能させなければならない重圧はあまりに大きく、例えようもない焦燥感がカノンを駆り立てる。再建資材の選定から手配、確保した作業員の身元調査に彼らの食糧、寝所調達、世界中の聖闘士を招集しての防衛要員選定……やるべきことは山とあって今は一分も時間が惜しい。(性に合わないだけで、こまごまとした雑事も意外に手際よくこなせてしまうのは、海界をゼロから作り上げた経験が役立っているわけなのである。人生、何がどう幸いするかわかったものではない。経緯を考えれば喜べないものがあるが)
 とはいえ、この神がその見た目にそぐわず、相当に頑固なことも知っている。
 選択肢がないことは明らかだった。
「……では、わたしももう休みますゆえ、どうぞご寝所へお戻りを」
「その気になってくれたようで安心しました」
 嬉しそうに一つ手を叩いて、女神は頷く。
 カノンは散乱していた書類をかき集め、とんとんと端を揃えて片付けに入る素振りを見せた。
 その間、にこにこと女神はカノンの傍へ立ったままだ。
「……あの……女神、お戻りを」
「もちろん戻りますわ。あなたが自宮に戻った後で」
 ウッと思わずカノンの喉が引き攣った。
 ここで椅子に掛けたまま仮眠を取ればそれでいい、と思っていたのだ。女神の姿が見えなくなればあと一つ二つ、片付けてしまっておきたいこともあった。
 双児宮まで戻らなければならないとなると……時間のロスが。
「あの……女神、どうぞお先に。わたしもすぐに出ますゆえ」
「いいえ。あなたが戻るのが先です。お願いですから、カノン教皇?」
 とんでもなく強硬な「お願い」があったものだ。
「代理」です、仕方なしの、とそこだけはこちらも強情に打ち消しながら、カノンはようやく今度こそ本当に観念した。
 おいたをして主人に「ハウス!」と叱られてすごすごと尻尾を丸めて退却するような流れであったが、まああまりそれと変わらない力関係なのだから仕方がない。
 本格的に明かりを消して、執務室に鍵を掛ける間も女神は微笑み絶やさぬまま傍にいる。
 この分では、後でこっそり己が戻ってこないか見張るくらいのこともしそうだ、と、13歳の少女らしいきかん気を見せている女神の姿にカノンは苦笑した。
「では、また明日の朝参ります」
「朝と言わず、昼でも、明後日でも。あなたに身体をこわされて教皇不在となるのは本当に困るのですわ」
「ただの代理の雑用係ごとき、いくらも代わりはあるでしょう」
「……強情ですね」
「恐れながら、女神、あなたも」
「まあ」
 不敬に言い返したカノンの一言を咎めるでなく、むしろ、そのことを楽しげに女神は口元へ手を当てて笑った。
 
 
 カノンは石段をゆっくりと下りる。
 頭の中が綿でも詰まっているかのようにぼんやり痺れている。肉体的にはたいしたことをしていないはずなのに、教皇宮で過ごすだけで緊張でもしているのか、ひどく肩が凝っていて、コキコキとカノンは首を回した。
 裾捌きの面倒な重い法衣を纏うことは、やはり女神との攻防を経て、免れることを許されたため、カノンは常に雑兵達と同じ軽装でいる。(ちなみに「その衣は鏡の中に兄を見るようでつらいのです。ご容赦を」というカノンの一言が、その攻防の勝敗を分けた。言った己も聞かされた女神も、引き合いに出された兄も等しく皆傷ついたが、それでも、あの尊き衣を纏わねばならぬ居心地の悪さを耐え続けることを思えば、絶対に譲れぬことだった)
 そんななりで教皇の座るべき椅子に座っているのだから滑稽なことこの上ない。
 だが、その滑稽さが、きっと、おめおめと生き残った自分の本質なのだ、とカノンは感じていた。
 
 死にたかった、自分も女神のために死ぬべきだった、とは思っていない。
 死ぬことそのものは目的ではなかった。
 比類無き強さの翼竜を足止めして、彼らの邪魔をさせない、というのが目的だったのだ。そのために命を賭した。聖衣もなき状態で、ほかに方法が見つからなかったからだ。
 そしてそれは確かに成功し───擲ったはずの命は、かろうじて繋ぎ止められた。
 目的を達し、なおかつ生き残ったのだ。
 ならば、喜ばない理由はない。
 
 それでも、カノンの中に湧き上がったのは、喜び、というより、奇妙なおかしみ、それでしかなかった。
 
 双子の弟星はなんとしぶといことか。
 華々しく散ったつもりが、またも生きる定めに紐づけられた。
 格好良く死にたかった、などと、己に陶酔するような年齢ではとうにないが、兄のことを思えば死にきれない己というものの存在が皮肉に思えた。
 
 あなたが教皇に、と女神に言われた瞬間が、その皮肉の最たるものだ。
 何を言われたものか理解ができず、は?と問い返したほど、それはカノンにとって突拍子もない提案だった。
「黄金聖闘士の中から教皇を選ぶことになっています。そしてカノン、黄金聖闘士は今、あなた一人です」
 女神の、言わせないでください、という伏せられた瞳に、ああ、とカノンはかなり遅れて合点した。
 わたしは黄金聖闘士だったのですか、という率直な感想を飲み込んだのは、聞きようによっては皮肉と取られるかもしれない、という判断が即座に働いたせいだ。
「兄の」聖衣を纏った。
 それは、まるで己のために特別に誂えたかのように、カノンの身体にピタリと同調し、力を増幅させた。
 俺もまた双子の星に選ばれた存在なのだな、とごく自然に受け止められるほど、聖衣は彼と一体となって存分にその力を発揮した。
 だが、聖衣を纏う力があることと、黄金聖闘士であることは同義ではない。
 己を指して「黄金聖闘士」と自然に呼んだ女神をただ酷く不思議に思ったのだ。
 黄金聖闘士、というのは、通常、教皇が聖衣を下賜することによってその座に就く。教皇不在であったあの時は、聖衣を下賜する役割は直接に女神が担っていたはずだが、カノンに関して言えばそうした仰々しい儀式などは経ていない。
 
 ここにいるのはわが同士、その名も黄金聖闘士双子座のカノンだけよ。
 
 カノンを黄金聖闘士にしたのは、だから、あの一言だったといっても過言ではない。
 思えば不思議な男だった。
 カノンは前非を悔いたのだと言う女神の言葉を「例え女神が赦しても」と、真っ向から否定してみせたあの男は、考えようによってはとんでもない不敬者だが、だが、彼のその、時に女神の意志以上に揺るぎない正義は確かにカノンを救ったのだ。
 過去のことは全て水に流したとばかりに、聖域中に大歓迎で迎えられていたらどうであっただろう。
 きっと、聖域に立つ居心地の悪さは今の比ではなかったに違いない。
「改心」などと目に見えぬものは証明しようがない。
 一度裏切った人間はその後ずっと疑心暗鬼を生む存在となり続けるものだ。普通であれば長くぐずぐずと後を引いてしまうような性質の悪い遺恨を、あの男は、真紅の衝撃で、全ての蟠りごと消し飛ばしてしまった。
 鮮やかとしか言いようがない。
 自分の拳が、どれほどの救いをカノンに(もしかしたら聖域にも)もたらしたのか彼は知っていただろうか。
 きっと、知らなかっただろう。
 カノンに拳を向けたことなど、彼の聖闘士人生の中でどれほどの意味もなかったのではないか。
 あれは、結果を見越して計算されたものではなかった。にもかかわらず、鮮やかな裁きを見せたまだ若きあの黄金聖闘士は、眩いほどに生まれついての真の黄金聖闘士だった。
 誇りと矜持を芯に持ち、歪むことなく、屈することなく、ただ真っ直ぐに女神の戦士であった彼は、愚かな一人の男を救ったことも知らないまま、激しく輝いて、そして、散ってしまった。
 黄金聖闘士の誰も彼も失われてよい命は一つもなかったが、あれほどのよい戦士がもう二度と女神のために立つことができぬのは……あまりに惜しい。

 この身は徒に存えているというのに、な。

 ふ、と息をついて、カノンは石段を踏みしめていた足を止めた。
 まだ双魚宮を少し過ぎたばかり。双児宮はまだずっと先だ。
 この先、あの男の守護した宮も含め、いくつもの無人宮を通過せねばならないのだということに今更ながらに気づいてしまったのだ。
 教皇宮を離れて少しだけ軽くなった背に再び重いものが圧し掛かる。
 双児宮へ戻る以外の選択肢もないではなかったのだ、本当は。
 教皇宮には、教皇が休むための私室が用意されていて、女神は初めのうちは、そこを使うようにとカノンに勧めていた。
 だが、カノンにそれはできなかった。
 代理であって真の教皇ではないから、という理由からではない。
 そこは、カノンが踏み込むにはまだあまりに兄の気配が色濃く残りすぎていた。
 法衣を辞去した時に女神に聞かせた建前のような「兄を思い出してつらい」などというセンチメンタルな感情を持っているわけではない。
 兄のことなら、四六時中思い出している。否、その存在はもうカノンとは不可分なのだ。この世に生を受けた時から。自分と同じ遺伝子がこの世に存在すること───したことは、カノンにとっては特別な意識なく常に自分と共にある。
 ただ、同じ遺伝子を持っていて、双子にしかない不思議なシンパシーで繋がれた存在ではあったとしても、完全に別の人間ではある。
 だから、カノンがそこへ踏み込むのを躊躇うのは、単に、故人のプライバシーを配慮してのことだ。
 13年間を兄が偽りのままに過ごした私室は 、まだ、主の気配を濃厚に留めていたのだ。
 と、言っても生活感あふれるままに乱雑に放置されていたわけではない。兄の性格そのままに几帳面に整えられた私室は、だが、あまりに整いすぎていた。まるで、死を前にした者が終い支度でもしたかのように、整然と。
 これは、己の命がそこで終わることを予感していた者の部屋だ、と、女神に促されて私室を覗き込んだカノンは絶句した。
 この部屋を最後に出る時、兄は、既に覚悟を決めていたのだろうか。
 十二宮を上る青銅聖闘士たちに救いを感じただろうか。
 見るのではなかった、と思った。
 この部屋には兄の葛藤がまだ詰まっている。
 きっとサガは誰にも知られたくないのではないか。特に弟である自分には。
 いつも半歩ばかり先んずる存在であった彼が、己が陥った悪の道から逃れようと、もがき苦しんだ痕跡をカノンに見られることは、きっとプライドが良しとしないだろうと思った。
 死者に傷つくようなプライドがあるかはわからないが、相手が物言わぬ死者だからこそ、踏みにじれない尊厳というものはある。
 だからカノンは、女神に、双児宮の方が落ち着きますので、と言って、その部屋を使うのを辞去したのだ。兄の私物はそのうちに片付けておきますので、と言えば、女神はそれ以上を勧めることはなかったから、もしや何かを察したのかも知れぬ。
 それに、実際に双児宮で過ごすのはカノンにはいくらか気楽だった。
 13年間を主が不在だったため、生活感が残っていない分、生々しさはない。
 加えて、兄から聖域を放逐されるまでの間、カノン自身が過ごしていた宮である分、馴染みもある。
 己の守護宮か、と言われれば、少し返答に詰まる。
 それでも、今は双児宮がカノンの帰る場所である。サガがいれば多少はその心持ちも変わっただろうが、今は───サガを筆頭に黄金聖闘士は誰一人いない。
 双児宮どころか、白羊宮から双魚宮にいたるまで、それは全部カノン一人が守護する範囲となっているわけだ。
 黄金聖闘士に匹敵する力を持ちながら、宮の守護者となれないことに鬱屈したこともあったというのに、一度に十二宮全部、とは、我ながら、人生の振り幅が大きすぎてやっぱりそれは少し滑稽だ。
 
 皮肉に口元を歪め、カノンは再び石段を下り始める。
 無人の宮が続きはするが、もう一度上へ戻るくらいなら双児宮へさっさと下りてしまった方がいい。
 だが、せっかく覚悟を決めて足を進め始めたというのに、いくらも下りないうちに、カノンの行く手を阻むかのように突然に目の前に人影が現れた。
 カノン、と呼んだその影は、「こんな遅くまで働いていたんですか」と驚きの声を上げた。
 だが驚いたのはカノンも同じだ。まさか無人のはずの十二宮で人に会うとは思いもしなかったから完全に不意打ちだ。
 それが、カノンの知る少年だと気づくのがあと数秒でも遅れていたら、咄嗟に構えたカノンの拳によって彼は銀河の星屑となって消え去っていた。
「なぜお前がここにいる」
 厳しい口調のカノンの問いに、少年は少し言葉を詰まらせた。そして、ひどいな、と俯いた。
「……あなたがここにいろって言ったんだが」
「俺が?」
 言ったか?
 ここは……辺りを見渡して、ようやくカノンは気づく。
 宝瓶宮だ、ここは。
 それでこの少年がここにいる理由は合点したが、だが、自分がそうしろと言った記憶はさっぱりだ。
 最後にこの少年に会ったのはいつだったか。
 カノン、何か手伝いを、と入れ代わり立ち代わり色んな人間がまとわりつく声を聞いたような気はする。
 頼める段階になれば嫌でも押し付けてやるのだからそう急くな、とかなり冷たくあしらったような気も。
 それから───ああ、そうか。
「そんなに何かしたいなら師の宮の守護くらいしたらどうだ。聖域の守護が足りなくていけない」と。
 最後までまとわりついていた少年を、とにかく遠ざけておく口実が欲しくて、確かに俺がそう言ったのだ。
 あれは今日のことだったか、昨日だったか。それよりずっと前か。
 少年は律儀にここでじっと過ごしていたのだ。
 ───己が師を手にかけた場所で、ひとり。
 
「それは……悪かったな、氷河」
 いくら何でも無神経すぎた、と咄嗟にそう言ったが、氷河は、自分が言ったことを忘れていたことに対しての「悪かった」だと取ったようだ。思い出したならいい、と肩をすくめて言った。
 そうじゃない、と説明するのも気詰まりな誤解だ。
 仕方なく、ここは大人の処世術、もっともらしい曖昧な笑みを浮かべて、カノンは氷河の頭へ手のひらを乗せた。
「あー……いてくれて助かった。守護が一人でもいれば俺の負担が違う」
 氷河は一瞬、幼子にするように頭を撫でられたことを驚いて目を丸くしていたが、すぐに、それならよかった、とぎこちなく笑った。
「双児宮まで戻るつもりなのですか?こんな時間に?」
「ほかに居場所もないのでな」
「せっかく教皇宮があるのに」
「教皇なら、な」
「?教皇でしょう?」
「一時しのぎの代理でしかない」
「……教皇を名乗りたくない、というのはただのあなたの我が儘だ」
「そうだ。我が儘なんだ、俺は。だから教皇にはふさわしくない」
 氷河は少し目をつり上がらせて、それからすぐにふっとため息をついた。
「……沙織さんが困るわけだ」
「困らせているのはお前も一緒だろう」
「俺は別に困らせてはいない」
 ほう、とカノンは宝瓶宮を見上げてみせた。
「ならば明日から正式に水瓶座を継いでもらおう」
「なっ!?……俺では力不足だ。冗談はよしてくれ」
「だがほかに成り手がいない。お前ならもう何度もアクエリアス聖衣を纏ったという実績がある」
「黄金聖闘士は聖衣が纏えさえすればいいというものではない!悪に屈しない強い心と惑わされぬ思慮深さを持ち、ふさわしい品格がある人物でなければ、そう簡単には……」
「全くその通りだ、氷河。教皇ならなおさらのこと。ほかに成り手がいない、と言う理由で、一度悪に堕ちた人間が務めるようなものではない。そうだな?」
「……ッ!」
 うかうかとカノンの手のひらで転がされたことにようやく気づいて、ビスクドールのように整った容貌が悔しげに歪んだのを、カノンは子どもだな、と笑った。
 氷河は子どもだが、大人げなく、少年を言い負かしてしまった己もまだ子どもだ。
 
 子どもは早く寝ろ、と手を振って、カノンは背を向けた。
「カノン!」
 石段を下りていく背へ、氷河が叫ぶ。
「あなたは、あなたが思っているよりずっと、ちゃんと教皇にふさわしいと思いますよ!」
 眼前に広がる無人の宮へ視線をやりながらカノンは苦い笑いを浮かべた。
 これほどあからさまな嘘も珍しい。
 俺が海底で何をしたか、彼は身をもって知っているはずだが。
 カノンはほんの少しだけ顔を傾けて彼を振り返った。
 
 少年の左目に巻かれたままの包帯が、夜目にも鮮やかに白く、カノンの目を刺した。