寒いところで待ちぼうけ

短編:その


12345キリリク作品
お題は「カミュ氷に入りこむ隙のない、氷河へ片思いのミロが、真摯なカノンにほだされているうちにいつの間にか両想いの愛あるお話」でした

カミュ氷、ミロ氷前提のカノミロです。閲覧ご注意ください。

◆星のうた ①◆

 無数の星が瞬いている。
 人工的な明かりの少ない聖域ではとりわけ星がよく見える。何光年も離れたところで輝くその光は、冬の澄んだ空気の中を真っ直ぐに進んで地上に降り注ぐ。
 不思議な話だ。
 あれほど美しく明るく輝く星々の光は、この地上に届くまでに何年もの時間の中を旅しているのだ。

 ゆっくりと石造りの階段を上りながらカノンは夜空を見上げた。

 自分の守護星までの距離は34光年。
 今、南東の空に輝いているあの白い光は、自分が生まれるよりも何年も前に生み出された光でしかない。地上にいる限り永遠に、自分達には星々の煌きの残像しか見ることが叶わない。
 それなのに、この聖域では自分たちが一体何者で、何をなすべきかということは、その、幻のような儚い光の残像に左右されているのだ。
 くだらない、とまでは思わない。実際に星の加護を感じたことは何度もあるのだから。
 だが、それでもやはりほんの少し滑稽だ、と思った。
 たった今、この瞬間、あの星の中のどれか一つが輝きを失い、消滅したとしても、自分達がそれを知るのは、ずっとずっと後のことになるのだ。最後の瞬きが地上に届き、人間がその消滅を知った時には、もうそこにはその星があったという痕跡すら残っていないだろう。

「小さいな」

 素直な感想が思わず口をついて出た。
 自分の生きている世界はあまりに小さい。
 この宇宙の神秘に比べれば、あの兄も、この己もどれほどのものだと言うのだろう。
 気づくまでにずいぶんかかった。
 ほんの少し視線を上げて天を見上げればよかっただけだったのに。生まれてからずっと兄の背中しか見えていなかった。それほど自分の世界は閉ざされていたのだ。


 はじまりの時は、サガとカノンとは同じひとつの細胞だった。
 そこには兄も弟も光も影も存在しない。
 サガはカノンであり、カノンはサガであった。
 完全にひとつのもの。

 サガでありカノンであった細胞は、ゆるゆると温かな母の胎内を旅するうちに、二つに分かたれる。
 兄と。
 弟に。


 なぜ、分かたれてしまったのか。
 その先に待つ運命を知っていたら、そして自分たちの意志で選択できたなら、ひとつであり続けたに違いないのに。それが星の宿命だというのなら、双子の星を背負うことはあまりに重い。


 半身を引き裂かれて生まれ落ちた、それだけで十分に心許ないと言うのに、生まれ落ちた先には、一人分の居場所しかなかった。
 元はひとつの細胞だったがゆえに。
 たったひとつの居場所は、カノンが生まれ落ちた瞬間にはもう既に兄のものだった。
 爪の先から髪の毛の先までまるきり同じ遺伝子でできていながら、生まれながらに「余分な存在」

 じわり。

 全てを持っているサガと、何も持たないカノン。
 そばにいてくれる友人も、慕ってくれる後輩たちも、聖衣も、双子座の名もすべてはサガのもの。
 自分にはただ、眩く光る兄の背中だけ。

 じわり。

 サガができることはカノンにもできる。
 でも、認められるのはサガひとり。
 サガは光でカノンは影。
 いつも隣り合わせに存在しながら、永遠に交わらない異質な存在。

 じわり。じわり。

「オレに何かあった時はお前も聖闘士として戦わなければいけないんだぞ。だからお前もきちんとしろ」とサガが説教を垂れる。

 ああ、サガ。
 お前のその清浄で無垢な心に潜む残酷さをお前は気づいていない。
 お前に何かあったら、などと。
 何もなければ?
 あるかどうかわからない出番のために、俺はお前と同じに自分を鍛え、己を律せよと?それとも、俺にお前の死を望めとでも?

 じわり。じわり。じわり。

 傷ついてひび割れた心の隙間から、ゆっくりと闇が侵食してくる。

 サガ。
 この世の何より愛しくてこの世の何より憎い、俺の半身。
 俺がお前のところまで行けないのなら、お前が俺のところまで堕ちろ。
 そうすれば、俺たちはまたひとつだ。


 カノンの形をした闇が、サガの耳元で唆す。

 お前の力で世界を手に入れろ。
 お前の力は即ち俺の力。
 俺の力が神の領域だと、ほかならぬお前自身の手で証明して見せろ。

 怒りに震えるサガの瞳の奥で、カノンには馴染みの黒い影がちらついている。
 望んでいた光景であるはずなのに、それは少しもカノンを満ち足りた気分にはさせない。

 空虚だ。

 兄を堕としても。
 神をも誑かしても。
 まだ何か足らない。
 カノンの世界は空虚なまま。

 それなのに、カノンが投げ込んだ小石は、水面に細波を起こし、細波は岸に向かうにつれ周囲の波を引き込み大きなうねりとなり、気づいた時には荒れ狂う奔流となって、全てを飲み込んで行った。
 それは、カノン自身をも。


 崩壊する海底神殿。
 傷ついた身体を激流が飲み込み、圧倒的な水量で牙を剥く海流に翻弄されながら、カノンの意識はふわふわと無我の境を揺蕩う。

 愛を。
 与えられて初めてそれを持っていなかったことに気づいた。


 全てが終わった今ならわかる。
 世界など。
 自分を拒絶した世界を本気で手に入れたかったわけではないのだと。

 俺はただ、お前は生きていてよいのだと。
 俺が俺でいられる、確固たる居場所、ただそれだけを望んでいただけなのだ、と。

 ほかならぬ、己が葬り去ろうとした女神そのひとからその望みを叶えられて、生まれて初めて、カノンの世界に穏やかな光が満ち溢れる。


 だが、全ては遅すぎた。

 己の未熟さが引き起こした結末は、あまりに多く失われた命だった。

 サガまでが。


『俺に何かあったら』

 望んでいない。
 俺は決して兄にとって代わりたかったわけではなかった。
 神の領域までの強さを誇る兄に『何か』などあるはずもなかった。
 だから俺は兄に甘えて(今ならそれが甘えだったとわかる)好き勝手に生きられた。

 なぜだ。
 なぜ、こんなことに。

 ただ、己という存在意義を確かめたかっただけだったのに。

 己の愚かさが引き起こしたあまりに大きな罪に、十数年ぶりに踏みしめる聖域の地がぐらぐらと揺れる。

 狂おしいほど押し寄せる罪の意識。
 死して詫びることもかなわない。
『俺に何かあったらお前が代わりに』
 兄の言葉がカノンを呪縛している。

 せめて断罪を、とそれを求めて女神の下へ参じたが、彼のひとは、慈愛に満ちた眼差しで「よく来てくれました」と、労わるようにそっとその手をとった。

 あまりにその手が温かく、だから、カノンの心は逆に軋んだ。
 この手をずっと求めて醜く足掻いていたはずなのに、手に入った今は、その温かさが苦しいとは。
 何という皮肉。

 だが、赦しが苦痛だなどと考えることすら畏れ多く、ならば、断罪されない苦痛を一生引き受けることが贖いへの道なのだと、そう覚悟を決めた時───


 不思議な邂逅だった。
 最初の閃光を受けた時は、確かに本気の殺意を感じた。
 聖域中の意志だという、その衝撃をどこか甘美な心持で受け止めた。
 赦されることが苦痛で、断罪されることに安らぐ、とは、結局自分は、甘えているのだと思ったが、断罪されて初めて聖域の地を踏みしめる足に感覚が戻った。

 聖域にいる間中感じていた、居てはいけない場所に立っている心許なさが初めて消える。

 だから、あの耐え難い苦痛をもたらす甘美な衝撃を最後まで受け止める覚悟はあった。むしろ、それを望んですらいた。
 だが、彼は最後のひとつを撃たなかった。
 確かに、最初は殺意があったのに。
 ほんのわずかな時間に彼は翻意し、自分を殺すことをやめたのだ。

 驚きを隠せなかった。
 なんと柔軟な心の持ち主だろう。激しい殺意を抱くほど激昂していながら、相手の覚悟を知るや、すぐにその殺意を抑えられるとは。
 その恬淡とした潔さは、カノンにとってあまりに眩しかった。
 眩い光はサガにも似て、しかし、サガよりも屈託がないぶんその光は爽やかな温かさをもたらした。
 陰のない真っ直ぐな瞳。
 自分と対極にあるその瞳に、カノンは確かに救われた。
 あの断罪は、女神のためでも、彼のためでも、死者のためでもなく、ただ、カノンの心の救済のためだけにあった。
 本人は意図していたかどうかはわからない。訊いてもきっと答えないだろう。
「救済?知るか。腹が立ったから撃った。気が変わったからやめた。それだけだ」
 多分、興味なさそうにそう言葉を投げて終わりだ。
 だが、カノンにはその距離が心地いい。

 だからこそ、こうして何度も会いに来るのだ。



 カノンの足がちょうど最後の石段を蹴って目的地に到達する。

 さて、俺の救い主はどこにいるのか。カノンの気配に気づいていないはずはないのに、宮の主は姿を現さない。
 今朝から氷河が聖域に来ている。
 師弟の間に入れなくて、拗ねているに違いない宮の主を探して、カノンは勝手知ったる宮の奥まで進み、気配を頼りに中庭で主を発見した。

 空気は刺すように冷たいというのに、寒いのが苦手なこの男が大の字に地面に寝転がって、目を閉じている。
 への字に結んだ唇はやはり予想通りほんの少し拗ねていた。
 わかりやすい奴だ。
 自分は、敬愛する女神ではなく、崇高な兄でもなく、子どものようにここでつむじを曲げているこの男に救われたのだと思うと、おかしくなってカノンは笑った。

 起きろ、とミロの腹のあたりをつま先で蹴る。
「カノンか。…氷河が夜這いに来たのかと思った」
 言葉とは裏腹に、本当に氷河が来ると期待していたわけではなさそうだ。声まで拗ねている。
「氷河ではなくて悪かったが、夜這いには来たぞ」
 カノンが蹴った腹の先がくくっと揺れ、それで彼が微かに笑ったのがわかった。跪いて、ミロの肩に手をやると氷のように冷え切っている。
 ずいぶん長いことこうしていたようだ。
「いつまでこんなところに寝ているつもりだ。いくらお前がバカでも風邪をひく」
「それはいいな。氷河に看病してもらう口実もできる」
「カミュが手放すものか。どうせ俺にお鉢が回ってくるに決まってる。手間をかけさせるな」
「お前の看病じゃおもしろくもなんともない。こっちからお断りだ」
 ミロがようやく目を開いた。
 開くや否や目ざとくカノンの手の中にある琥珀色のボトルを見つける。
「『夜這い』じゃなかったのか」
「酔わせて襲う算段だ」
 ミロは肩を震わせて笑った。
「ずいぶん陳腐な手をつかって口説くんだな。今時、小娘でもそんな手にひっかかるもんか」
「氷河一人口説き落とせてないお前が言えた義理か?」
 ミロが笑いを引っ込め、カノンの瞳を見返した。
 マリンブルーの瞳が瞬きもせず静かに掬い見る様は、さながら肉食獣が獲物に飛びかかるタイミングを計っているかのようだ。
「口説き落とせてないのはお前も同じだろう」
 だが、今夜の獣は思いのほか深手を負っているらしい。反撃がずいぶんおとなしい。
 だからカノンはさらなる反撃はせず、ミロの言葉をただ肩をすくめて受け流した。
「おい、中に入らないか。口説くにしてもここでは寒い」
「寒さに負けるようじゃお前の想いとやらもたいしたことないな」
 そう言いながらも、本当は自分も寒かったのだろう。ミロは立ち上がり、カノンの手の中からボトルを奪って宮の中へと歩いて行く。
 光に透かすようにラベルを見ながら口笛を吹いている。
 カノンを振り返ることもない。
 苦笑いを抑えて、カノンもその背を追って歩いた。