寒いところで待ちぼうけ

短編:カノ


カノン×氷河


◆ep2 Who’s a good boy?◆


「そろそろカミュが心配しているんではないのか」
 もう何度目かの問いかけだ。だが、少年の返事は今度も同じ。
「大丈夫ですよ。子どもじゃあるまいし」
 大丈夫ではない。
 子どもではないからこそ大丈夫ではない。
 気のせいか、冷気が漂ってくるように感じられるのは後ろ暗いせいか。……わたしが後ろ暗くなる謂れはないのだが。
 だが、我が愚弟が、同僚の愛弟子の少年を誑かしているとあっては兄としてはどことなく申し訳が立たぬような気持ちになるのは致し方ないというもの。
 当の少年は、まるで自分の家でくつろいでいるかのように『カノン』と戯れて楽しそうだ。
「カノンならきっと遅くなる。こんなところで待っていても退屈なだけだろう」
「本当に気にしないでください。俺なら大丈夫ですから。『カノン』がいるし」
『俺』は大丈夫でもわたしが大丈夫ではない。
 これだけ何度も聞いているのだ、そろそろ察してくれてもいいものを。大丈夫かどうかが聞きたいのではない、とどのつまりは早く出て行ってくれと言いたいのだわたしは。

 サガの眉間の皺は深くなる一方だ。
 こんなことなら教皇の間で執務でもしていた方がマシだった。
 書類を眺めてばかりの日々に倦んでいたサガは、火急の件がないのをいいことに、気分転換のつもりで久しぶりに自宮を護っていた。とは言え、こちらも『守護』などと切迫した事態はそうそう起ころうはずもない太平の時代だ。カノンも任務で不在とあり、要は、数か月ぶりの休暇を一人のんびりと過ごしていた……ところに、この少年の訪問を受けたというわけだ。
 先生のところに来たんです、と言うくせに、「カノンに会ってから、と思って」と宮の奥を窺う少年の声を、いち早く聞きつけていた『カノン』が、すかさず奥の部屋から駆け寄ってきてしまい、「カノン!」と少年は歓声を上げて……ひし、と抱き合った二人(?)を無碍に引き離せるほどサガも冷たくはなかったことが全ての敗因だ。
 しばらく遊べば気が済んで出て行ってくれるはずだと、勢いに押されてついうっかり居住区へ通してしまったのが運のつき、彼の言う「カノンに会ってから」とは犬の方ではなく愚弟の方だと気づいた時にはもう遅かった。
 くだんの通り、カノンは遅くなると何度言っても、大丈夫、待ってます、の繰り返しだ。
『カノン』は少年が長々と構ってくれて嬉しそうだが、サガは少しも嬉しくない。
 少年一人残して、教皇の間へ戻るわけにもいかず、何故か犬と少年と微妙な時間を一緒に過ごす羽目になっている。

 こうなったのも……こうなったのも、ひとえに愚かなる弟のせいだ。まったく腹立たしい、と、サガは心の中でゆるゆると両腕を頭上で交差させる。
 帰ってきたら心の中で、などと穏当なことですませるつもりもない。もう一度スニオン岬で頭を冷やさせるか、さもなくば宇宙の塵としてくれなければ気が済まぬ。
 何を考えているのだあの愚弟ときたら。
 数か月前のことを思い出すだにサガの腹は煮えるばかり。


『若いくせに体力がないな。立てないのか』
『そ、そんなこをと言われても……』
『仕方ないな。ほら』
『……ん……』
『……』
『……』
『……おい、寝るな』
『カノンあったか…い……』
『おい、寝るなというのに。コラ……コラ!』
『……んっ!カノン……駄目、だって……』
『お前が寝るからだ。ほら、上の宮まで行かねばならんのだろうが。早く風呂へ行かねばサガが帰ってくる……どうした、顔が赤いぞ』
『だ、誰のせいだと……ん……ふぁ……カ…ノン、そんなにしたら……また……』
『体力はないくせにこっちはやっぱり若いのだな。これでは上まで行けぬな』
『……カノンはずるい……んっ……ぁ……』

 聞き覚えのある声の主に、愚弟が修行でもつけてやってたのか、珍しい取り合わせもあったものだ、と軽い気持ちで聞き流してその扉の前を通り過ぎようとしたのに、サガが通り過ぎる僅かな合間にそれはあっという間に甘い声へと変わり、動揺のあまり冷静な判断力を失ったサガは思わず、おい、お前たちは一体何をしているのだ、とカノンの私室の扉を叩き壊す勢いで開いて中に踏み込んだのだった。
 てっきり愚弟が少年を強引に組み敷いているのだと思っていたのに、予想外に、少年の方がカノンの腹の上に跨っていて、扉を開いたサガと即座に目が合い、互いに驚愕のあまりに声が凍った。どうやらサガの気配に気づいていたらしい愚弟だけが、鷹揚に身を起こして少年の身体を自分の広い背中で隠すようにしながら、顔だけこちらへ傾けた。
「俺への説教なら後で聞く」
 あまりと言えばあまりの状況に気圧されて、思わずサガは今しがた勢いよく開けた扉をもう一度同じ勢いで元の位置へと戻してそのまま外へ出た。
 が。
 最初の衝撃がおさまってしまえば、ふつふつと怒りがわいてきた。
 想像とずいぶん違って一方的な関係ではなかったようだが、だからと言って状況がよくなったわけではない。
 カノン、お前ときたら何ということを。
 その少年をカミュがどれだけ大事にしているか知らないわけではあるまいに。よりによって、カミュに大きな借りがあるはずのお前が。

 ややして乱れた服を隠そうともせずに、「ノックもせずにいきなり開けるとは無粋もいいところだ」と不遜な態度で出てきた愚弟を壁際まで吹っ飛ぶほど殴り飛ばしてやったのは必定というもの。
 派手な音に驚いて慌ててまろび出てきた少年がかばうようにカノンの身体に縋らなかったら、愚弟は異空間へと消えていた。
「カノンは悪くない」と少年が庇うその背で、不貞腐れたように愚弟は「俺が誰と遊ぼうが兄さんには関係ないだろう」とのたもうた。
 遊び?あれが遊びだと?お前を必死に庇う健気な少年を前にしてよくもそんなことを、とさらにまたサガの目が尖る。
 が、サガが何かを言う前に、その当の少年が即座に振り向いて……驚くべきことにカノンを叱った。
「カノン、そんな言い方しちゃだめだ。サガが誤解する」
 呆気にとられたサガの目の前で、14も年下の少年に叱られた愚弟は、と言うと、不貞腐れた顔のまま肩をすくめると、何も言わずに少年の腰を引き寄せて抱き上げ、宮の奥(今度こそ「風呂」か)へ向かって歩きはじめた。
 そして、怒りのあまりにまだものも言えないでいるサガの前を通り過ぎる時だけ、ややバツの悪そうな顔でチラリと視線をこちらへ寄越した。
「カミュに責められたら全部俺のせいだから知らんと言え」
 片腕に腰掛けるように抱かれて、安定を求めてカノンの頭を抱きかかえていた少年が、またそんな言い方をする、とカノンの耳を抓んで叱っている。
 ……どういうことだ。
 自分一人蚊帳の外で一体何が進行しているのだ。
 消えた二人の姿を茫然と見送ったサガの眉間には消しようのない深い皺が刻まれる。
 一体いつからだ。
 教皇の間にいることが多いせいで、まるきり何も気づいていなかった。……が、そういえば、とサガは膝をうつ。
 ここのところやけにカミュの機嫌が悪い。表だって不機嫌を露わにしたりはしていない。だが、どうもサガを見る視線が厳しいような気がしていた。
 カノン同様に、サガ自身もカミュにはとうてい大きな顔ができぬほどの罪悪感を抱える身。師弟を殺し合わせる運命に置いたことをカミュに責められたことは一度もないが、責められなかったからと言って禊が済んだともサガは考えていない。だからカミュの不機嫌を、ようやく責めてくれる気になったか、と甘んじて受け止めていたのだが、もしかしてカミュの眉間の皺の理由は己の過去の過ちではなく、現在進行形の愚弟のとんでもない不埒な行いのせいなのか。
 気づいてしまえば、あれも、これも、と思い当たることがいくらもある。
 何ということだ、とサガは額に手をやって唸った。
 弟がこれほど愚かだとは思いもしなかった。改心をして変わったと思ったのは思い過ごしか、と落胆しさえした。
 だが、サガの苦悩をよそに、以来、すっかり公認とばかりに少年はこの宮へ入り浸り、サガは教皇の間と自宮を往復するたびに気まずい思いをし、何を考えているかさっぱり理解できない愚弟とはどうも関係が不穏に尖ったままだ。


 頭の痛いことだ、とサガは深いため息をついて、再び視線を少年へとやった。

 少年───氷河は、『カノン』に新しい技を覚えさせているところのようだ。ビニールのボールを転がしては「bring!」と持って来させようとしている。
 元々が賢い犬なのだろう。氷河がやり方を何度か教えてやると、『カノン』はすぐに覚えて、口にくわえたボールを氷河のところまで運べるようになった。
 氷河は何度もgood boy!と『カノン』の頭を撫でてやっている。氷河が喜ぶことがよほど嬉しいのか、『カノン』の尻尾は千切れんばかりに振られている。

 再びサガはため息をついた。何度ため息を零しても足らないくらいだ。いっそこの賢い犬が己の弟であった方がよほどマシだった。

「カノンのどこをそんなに気に入ったのだ」
 サガの呟きのような問いかけに、氷河の視線が不思議そうにこちらへと向いた。
 そうだ。
 迂闊にもカミュの愛弟子へ手を出したカノンの愚行はもう筆舌に尽くしがたいが、そもそも、だ。なぜこの少年は我が愚弟をそんなに気に入ってるのであろうか。

「?だってこんなに可愛い……?」
 長い毛並みを撫で擦りながら答える氷河に、サガは、ああ、と呻いた。カノン違いだ。
「違う、そちらではない。愚弟の方だ。……紛らわしい。そもそも何故その犬をカノンと名づけた。愚弟がよくもそのような戯れを許しているものだ」
 飼い馴らされ、牙を抜かれたように見えても、本質的には野心に燃え、神に仇なした尊大さを失ったわけではない。いくらなんでも犬扱いを、格下の青銅聖闘士相手にカノンが許しているのがどうにも解せない。

 氷河はそのサガの疑問に、しばらくの沈黙を返した。
 ゆっくりと『カノン』の白金色の毛を撫でて、頬を寄せる。

「ぐてい」
「……『ぐてい』……?」
「サガはどうしてカノンを愚弟って呼ぶんですか?」
「なに?」
「カノンは愚かではないです。あなたも知っていると思うけど」
 サガの質問には答えずに、唐突に始まった別の話題の意図がわからず、サガは眉を顰めた。
 カノンが愚かか愚かではないか、という議論は今ここで氷河としても仕方ない。だから、やや投げやりな口調でサガは答えた。
「そんなことはどうでもいい。身内のことを呼ぶ時に使う表現だ。そこに特別な意味はない」
 サガの当たり障りのない答えに、氷河は納得がいかなそうに首をひねる。
「だけどカノンはあなたのことを愚兄とは一度だって呼ばないけど」
 虚を突かれて、サガの言葉が詰まった。
 それは……それは、カノンがそんな高尚な言葉遣いをしないせいだ。その……はずだ。
 だが、何となく居心地は悪い。そんな指摘をされたのは初めてだ。

 返事をしないサガから氷河は再び視線をカノンへ向けた。氷河が胡坐をかいて坐る膝の上へカノンは顎を乗せて、ひとつ欠伸をする。氷河が、なんだ、お前もう眠いのか、と笑って背を撫でる。

 しばらくカノンを撫でていた氷河がまた独り言のように言った。
「あなた達は俺の知る『兄弟』とずいぶん違う」
 終わったのかと思った会話が続いていたことにサガはやや驚く。カミュもマイペースな奴だが、その弟子も種類は違えどずいぶんマイペースだ。

 そのマイペースな少年の知る兄弟っていうのはまさかあれだろうか、とサガはうんざりと鼻の頭に皺を寄せた。
 冥界だろうが海底だろうが異次元だろうが神々の地だろうがなんの情報もないのに弟さえいればどこへでも駆けつける、常識破りのあの男とその弟のことを言ってるのか。
 あんなものと比べられても困る。
 あれを世界のスタンダードだと思っているならその考えをこそ改めるべきだ。どちらかというとわたし達兄弟の方がまだスタンダードに近かろう。

 ……本当にそうだろうか。
 兄に悪の道への誘惑を囁いた弟と、己の中の暗黒面には目を背け、ただ一人の弟を出ることの叶わぬ水牢へ閉じ込めた兄と。
 同じ日に生まれておりながら、片方しか存在することを認められなかった兄弟は、本当に「普通」と言えるだろうか。

 サガの頭の中にもう一組の「兄弟」の姿が去来する。サガが憧れてやまぬ、だからこそ嫉妬と羨望とありったけの負の感情を背負うきっかけとなった黄金聖闘士の兄弟こそが、真に健全な兄弟の姿であるような気がした。いまだにそこはサガが触れることを躊躇う傷口だ。

「……どう違うように見える」
 そうサガが問うと、氷河はうーん、と困ったように瞳をくるくるさせた。明確な答えを持たないあたり、深い意図があって指摘しているわけではないようだ。
 だが、もしかしたら、そういう単純な印象こそが真理をついているのかもしれなかった。
「うまく言えません。でも、二人とも、顔を合わせるたびにわざわざ険しい顏になっちゃうのが見ていてとても可笑しい」
 氷河は本当に声を立てて笑った。
「わざわざ険しい顏に……?そう見えるか」
「少なくともカノンはそうです。あなたは違いますか?」

 違うかどうかは……わからぬ。
 たった今、初めてそれを意識した。
 だが……確かにそうなのかもしれぬ。

 まだ二人が揃って聖域に居た15歳のあの頃。
 カノンはサガを怒らせてばかりいた。今となっては、そうやってサガの関心を引くことでしか存在を証明できなかったのだとわかる。だが、その時は清く正しくあらんとする己と正反対の行動ばかりとる弟が腹立たしくて仕方がなかった。細胞の一つ一つまで同じ遺伝子でできた人間同士。弟の至らなさは全て鏡像のように己の中にある弱さなのだと本能的に知っていた。だから、自己を戒めるのと同義でカノンを叱っていた。少年時代のサガは自他分離ができていない人間だったのだ。
 加えて、くだんの黄金聖闘士の兄弟の存在だ。
 アイオリアはあんなに小さくとも立派に黄金聖闘士として務めているというのにお前ときたら、と、今思えば、意志に関わらずスペアとしての生き方を強制された弟に言うにはあまりに酷な言葉でカノンを責めた。
 カノンは顔色を失って、「兄さんが感じてるアイオロスへの劣等感を俺のせいにするな」とこちらも容赦ない言葉で切り返した。
 結局、溝が深くなる一方の兄弟の関係は、サガが弟をスニオン岬へ追いやったことで、13年もの長きに渡り断絶した。
 断絶した関係が、再び繋がるよすがを得たのは、互いに悔やんでも悔やみきれぬ大きな過ちを胸に抱えて立った聖戦において、だった。
 だが、兄弟は互いに異なる立場で闘い、そして、そのまま語り合うこともなく再び永別した。

 それが。
 何の運命のいたずらか。
 再びの生を与えられ、こうして聖域に戻ってきた兄弟は……
 最後にまともに言葉を交わし合った時のような多感な15歳の少年ではなく、思慮も分別も十分に備わっている28歳となっていたのだった。

 のんびりと、共に平和のひと時を過ごす中で嫌でも気づかされる。
 13年間の空白はあまりに大きい。
 兄弟の間で、この13年間について話題に上ったことはまだない。
 それはどちらにとっても、あまりに傷が深いゆえに。
 空白の13年間を棚上げしたまま、28歳の精神で、15歳から止まったままの兄弟の関係性の中に身を置くこととなった二人は複雑に……捩れた。

 自分が大人へと成長したように、弟もまた成長しているのだとわかってはいる。
 だが、サガの中のカノンは、まだあの日のままだ。生意気に肩をそびやかせ、サガの言うことを碌に聞きもせず、気づけば勝手に宮を抜け出していなくなる、『兄の手を焼かせる弟』だ。
『過程』を見ていないことが、こんなにも違和感があるものだとは思いもしなかった。
 サガの知らない思慮と落ち着きを見せるカノンはまるで他人のようだ。
 どう……接するべきなのか。
 すべてをなかったことにして、仲の良い兄と弟として?
 兄弟であることを忘れてただの同僚として?
 空白の時を意識すればするほど、ぎくしゃくと交わす言葉が上滑りをする。

 戸惑うサガ同様に、カノンも、きっと13年ぶりに兄と暮らすことになって、どういう態度を取ればいいのかわかりかねているのだろう。
 時に任務を疎かにしてみせたり、人を食った態度を取ったり、というのは、氷河の言うように(本人が意識しているかどうかはわからぬが)、どこか計算された『問題行動』なのかもしれない。(手を抜く部分を選んでいる節がそう言えばある)
 15歳で途切れた時間を、もう一度繋ぎなおすために、もしや我ら兄弟は無意識に別れた時点の関係性に立ち戻って、そこからやり直しをしようとしているのか。わざわざ不必要に互いに険しい顔をしてみせてまで。なんと……迂遠な。

「……大人とは……困った生き物だな」
 素直に、悪かった、と頭を下げられぬ。
 心の底では互いを認めていながらも、過去の関係性が邪魔をして裏腹な態度で本音を隠す。
 本当に困ったものだ、とサガは自嘲的に唇の端をあげて頬に落ちる髪をかき上げた。

「困った生き物じゃない大人もいますよ。カミュ先生とか」
 氷河の答えはずいぶん手厳しい。本人になんの意図もなく、素直ににこにこと言ってのけるあたりが余計にサガには痛い。
「そうか……カミュは困った大人ではない、か」
 正直、かなり大人げなくサガに八つ当たりの視線をくれる困った大人の筆頭だという気もしているが、サガにしてみればカミュもまだ少年期からほんの少し出ただけの若造だ。それより8年も長く生きている己は一体何をしているというのだろう。
 氷河は『カノン』の首をぎゅっと抱きしめながら嬉しそうに頷く。
「はい!先生は完璧なんです!先生に師事できて俺は本当に幸せです」
「本当に幸せ、か」

 遠い昔。
 まだ、聖闘士のせの字も知らず、カノンはカノンとして、サガはサガとして同等に生きていた幼き日に。
 二人でいることの幸せを全身で分かち合っていた、確かにそんな温かい日があったような気がするのに。
 カノンのおねしょを、自分がしたのだ、とサガがかばったことも。
 泣かされて帰ったサガの代わりにカノンが飛び出していったことも。

 一体、あの日々はどこへ消えてしまったのか。
 いつから兄弟の愛情表現は複雑に捩れてしまったのか。

 今も……カノンが弟で良かったと思っていることに違いはない。
 双子座の聖衣に身を包んで任務に赴くカノンを見るにつけ、心の中を温かい感情がいっぱいに満ちるというのに。
 カノンがもし、『不肖の弟』を過度に演出してみせているとしたら、それはきっとわたしのせいだ。
 口を開けば、報告が雑だ、だの、この程度の任務に何をそんなに時間をかけている、だの言ってしまうわたしの。
 
「……わたしは、どこか歪んだままなのだな」
 寂しそうに睫毛を伏せてしまったサガに、氷河はふるふると首を振った。
「カノンも悪いと思う。素直に『いいこ』するの、恥ずかしがってるんだ、あのひと。困った人ですよね、大人なのに」
 そう言って氷河は何故か自分もはにかんだように笑った。
 そして、優しく撫でられて膝の上で気持ちよさげに目を閉じていたカノンの顏を両手で挟んでサガの方へ向けた。

「だから、コイツは『カノン』です」
 サガは一瞬、何がどう『だから』なのか会話の道筋を失ったが、そう言えば、何故犬の名を『カノン』にしたのか問うていたのだった。問うたのがあまりに前のこと過ぎて、すっかり忘れていたのだが、氷河の中ではまだ会話はそこから少しも進んでいなかったらしい。その事実にサガは少々たじろいだ。
 だが、氷河はサガの様子にまるで頓着せず、自分のペースのまま話を続けていく。
「これであなたも『カノン』を好きなだけ褒め放題ですよ。ほら」
 こんなふうに、と氷河はカノンにまたボールを持ってこさせた。そして、「good boy!」と何度も頭を撫でて頬ずりをする。

 ……。
 ……。
 ……それを、わたしに、やれ、と?
『カノンはいいこだ』と頬ずりをしてみせろ、と?

 氷河は満面の笑みで、ピンク色のビニールのボールを、はい、とサガへ手渡す。隣でカノンが、おっ?お兄さんが今度は投げてくれるんです?という期待に満ちた顔で黒目がちのつぶらな瞳をキラキラさせる。

 プレッシャーをダブルで受けて、サガは心底困り果てた。カノンがフライング気味に、サガの手の中のボール目がけていざり寄る。
 催促するように、ちょん、とサガの膝をつつく肉球の温かさに負けて、仕方ない、とサガは部屋の隅へボールを転がしてやった。遊んだ、というより遠ざけたつもりだったのだが、カノンは大喜びでボールに飛びついてあっという間にサガの元へ咥えて戻った。
 竜巻でも起きるのではないかという勢いで尻尾を振り、褒めてくれ、と言わんばかりに頭を差し出す。
 氷河が、ほら!早く!と小声で促す。声が笑っているのがどうもおもしろくないのだが、犬相手に意地を張っていると思われるのも癪だ、という思いもあり、サガはおずおずと柔らかな毛並みに手のひらを乗せた。
「……good boy……カノン」
 わん!とカノンは誇らしげに胸を張る。


 ………………いや。


 なぜわたしは犬相手にこんなことを。
 少年の論理の飛躍に思わず乗ってしまったが、犬は犬だ。弟ではない。いくらこいつを褒めたところで自分と弟との関係が向上したりはしない。

 怒ってでもいるかのような気難しい顏をして黙り込んだサガにも氷河が気圧された様子はなく、カノンがもう一回、って言ってますよ、とにこにこと見守る。笑顔があるかないかの差だけで押しが強いところは(そして空気を読まないところも)師弟そっくりだ。

 氷河が言うように、サガの膝のあたりに温かい塊がぴたりと寄り添い、もっと、と期待に満ちた瞳で見上げている。日頃あまり構わない方の主人が関心を向けたことが嬉しいのだ。その濡れたような黒目を見つめていると、サガの中に堪えきれないおかしさが湧いてきた。
 思わず、ふはっと息を吐いて笑いを漏らす。

 これを代わりにしろ、とはこの少年は……

 珍しくサガが肩を震わせるほど笑っているのを、薄青の瞳が怪訝に見つめる。

 ……カノン、お前、14も年下の恋人(認めたわけではないがそうなのだろう)に本当に犬と同じに扱われてるぞ。

 脱力するほどの事実に、深刻に刻んでいたサガの眉間の皺も柔らかく解けていく。
 犬に同じ名をつけるという感覚はサガには理解できないが、内省に沈んで考えすぎるあまりに複雑に捩れた兄弟の間には、このくらい突拍子もない風穴が空いたくらいでちょうどいいのかもしれない。
 まだまだ嘴の黄色いヒヨコのくせに、時折保護者のように叱ってみせるこの少年を、カノンが好きに許しているわけがなんとなくわかった気がした。

「何かおかしかったですか?」
「いや。なんでもない。……ボールが好きなのか?」
 後半の問いかけはカノンに対してだ。サガの手の中の球体に鼻先を押し付けている姿がいじましく、ほら、ともう一度サガは部屋の隅へ放ってやる。ボールと同じ、跳ねるような軌跡を描いて白金色の美しい毛並みが飛んでいき、またサガの元へ戻ってくる。
「good boyカノン」
 二度目は自然に声が出た。

 サガの前で三度目を待つカノンの耳がピクリと外側に動いた。同時に、氷河の方も、あ、と顔を上げる。
「カノンだ!帰ってきた!」
 宮へ戻った気配をいち早く察したのだろう。既に扉の所へ飛びついているカノンの後を追うように氷河が立ち上がる。

 扉を開いた弟は、大型犬の熱烈歓迎ぶりを慣れた様子で受け止め、次に少年に、来ていたのか、と柔らかい声を出し、それから最後に兄の存在に気づいた。
 自分と同じ顔へと視線を注いだ弟は、兄がそこにいるとは思いもしていなかったようで、一瞬、浮かべるべき表情を迷う間が空いた。
 その表情が、いずれの色にも染まらぬうちにサガは口を開く。
「任務、ご苦労だった」
「あ?ああ……」
 任務から帰還した労をねぎらっただけで、カノンは不審げな声を出した。たったそれだけのやりとりもしてこなかった証だ。
 ボールを取ってくるから褒める。
 任務を全うしたら労をねぎらう。
 簡単な話だ。
 過去の関係性との葛藤だとか照れだとか、今更言葉にせずとも、という思いだとか、何も難しいことはそこにはない。
 なのに、それが難しいのは自分たちが双子という特殊な関係性を付与されているからだ。
 己と同一の細胞を持つ弟を褒めるのは自己を褒めたも同じだ。自分という人間を過大評価しすぎて陥った過ちはサガの消えない汚点だ。二度とあの過ちを繰り返さないために、己という人間の小ささを───ひいてはカノンという人間の小ささを───忘れぬよう自戒し続けて───自分を厳しく律した男は同時に弟をも厳しく律しようとした。

 だが。

 わたしはわたし。
 カノンはわたしではない。

 もう───わたしは自他分離のできていなかった少年ではない。

「カノン、お前がいてくれてわたしは仕事がやりやすい。持つべきものはできた弟、だな」
「…………帰るなり嫌味か」
「いや。いつか言いたかった。お前と共に在れてよかった。───さあ、この宮の主人が帰ってきた。わたしは仕事に戻るとしよう」
 サガはゆっくりと立ち上がって、まだどう反応すべきか困っているカノンの傍を通り過ぎる。
 二人と一匹を残して扉を閉めようとして、はたと気が変わり、サガは振り向いた。
「カノン」
「……なんだ」
「お前じゃない。そっちだ」
 カノンの足の周りをくるくると歩き回っている『カノン』に向かってサガは手を差し出した。
「たまにはわたしと来い。カノンを少し休ませてやろう」
 人間の言葉を解するわけではあるまいに、雰囲気で察したのか賢い犬は、うぉん!と一声吼えて、サガに寄り添うようにピタリと横に歩み寄った。
「よーし、いいこだ、カノン。お前は本当に賢いな」
 白金色の毛並みを大きな手のひらで撫で、満足気な笑みを見せたサガは今度こそ扉を閉めた。
 閉める間際、弟のポカンと開いた口が見え、くつくつと声を噛み殺してサガは笑う。
 ───肩の力を抜いて、負った荷をひとつ下ろしてみれば、これほど楽しい遊戯はない。弟と同じ名の犬だって?『これでカノンを褒め放題』だって?
「あの顔を見たか?わたしとは到底似ても似つかぬ間抜けな顔をしていたぞ。なあ、カノン?」
 笑って揺れるプラチナブロンドの横で、名を呼ばれた『カノン』の尻尾が嬉しげに振られた。



「……サガはどうしたんだ。お前は一体何の話をサガとしていたんだ」
 氷河と二人取り残されて、ようやく我に返ったカノンは聖衣を箱へと収納しながら、眉間に深い皺を寄せて振り返る。
 氷河は首を傾げて記憶を探る。
「何の話って……『カノン』を『カノン』という名にした理由とか?サガは、一人で勝手に難しい顏したり笑い出したりして変だったけど。俺は別に何も変なこと言っていない」
『カノン』を『カノン』にした理由というのはもしかしてアレか。俺にできないことを犬にならできるとかいう……多分、サガは誤解した。氷河の意図は多分もう少し二人の甘やかな関係に根差すところにある。氷河が意図した以上の意味を、勝手に深読みして………それで、あの歯の浮くような台詞を。あの兄なら陥りそうな誤解だ。
 俺ももういい歳だ。別にわざわざ言葉に出さずとも兄の気持ちなど先刻承知だというのに。というかむしろ言葉にしてくれるな。恥ずかしすぎて死ぬかと思ったぞ!

 カノンが頭を抱えて低く唸った横で氷河が、さっそくカノンの背中に抱き締めるようにのしかかる。
「こら、やめろ。帰ったばかりだ。少しは休ませろ」
「ちぇ。『カノン』だったらどんな時でも嫌がらないのに」
「だったら犬を相手にしろ」
「だって『カノン』はサガがつれていってしまった」
「だったらカミュにしろ」
「何言ってんだ、カミュは先生だぞ。こんなことできるわけないがないだろ」
「俺はそのカミュよりも年上だぞ。師に払うのと同じくらい敬意を払ってもいいはずだ」
「払ってるったら。なあ……サガ、『この宮の主人』って言ったな。……嬉しかった?」
「……そういうことをいちいち言葉に出すからお前は子どもだというんだ」
「嬉しかったんだな」
「怒るぞ」
「照れてる?カノン」
「別に嬉しくもないし照れてもいない。あれは言葉のあやだ。そこに特別な意味はない」
 なんだかサガもさっき同じ言いまわしを使っていたな、と氷河はカノンの背中で笑った。


 笑うだけ笑って背中から下りた氷河の腕を引いて、カノンは膝の上へ座らせた。帰るなり乱されていた気分がようやく落ち着いて、さて、と膝に抱き上げた薄い身体に腕を回して、うなじへと唇を押し当てる。軽く吸えばすぐに薄赤く色づく。
 そういえば!とハニーブロンドが跳ねてくるりとカノンを見上げる。
「『カノン』がまた新しい技覚えたんだ!アイツ本当に賢い」
 せっかくの甘い空気をそんな色気も何もない会話で遮る少年のマイペースにはもう慣れた。慣れていないサガはさぞかし今日は思考を引っ掻き回されただろう。
「では、俺も『カノン』に負けないように新しいことをしてやろう」
「あ、新しいって……」
「大丈夫。うんと優しくしてやろう。何しろ今日の俺は機嫌がいい」
「やっぱり嬉しかったんだな、カノン」
「……………少し黙れ」
 余計なことを言う唇を封じて、カノンは腕の中の身体をゆっくりと抱き締めなおした。


(fin)

(2013.5.12UP)