寒いところで待ちぼうけ

短編:カノ


カノン×氷河


◆ep1 Good boy or Bad boy?◆

「カノン、おい、やめろって!くすぐったい、くすぐったいよ!」
 氷河は身をよじって、ぺろぺろと頬を舐めてあらん限りの親愛の情を示しているカノンを抱き留めながら笑い声を上げた。
 氷河が笑ったことに、カノンはますます嬉しそうにちぎれんばかりに尻尾を振って、さらに飛びつくように両の前足を氷河の肩へとかけた。
 立ち上がってしまえば、自分と対して変わらない体躯の大型犬に肩を押されて、氷河はわあ、と声をあげてそのまま後ろへひっくり返ってしまった。
 ドターン、と思ったより大きな音を立てて倒れたことに、押し倒したカノンが、ごめんね、ごめんね、と言いたげに氷河の周りをくるくると回る。しょんぼりと下を向いた尻尾に、氷河は片肘をついて身を起こしながら、反対側の手を伸ばしてカノンの頭を撫でてやる。
「大丈夫。怒ったりはしないよ。お前、ずいぶん大きくなったなあ」
 氷河に頭を撫でられて、カノンの尻尾が地面の上を激しく行ったり来たりした。だが、先ほどの失敗を気にしているのか、どうにか『お座り』の姿勢を保っている。時折、飛びつきたくなる気持ちに腰が浮きかけては座りなおす、を繰り替えし、フライング気味に片足が氷河の太腿へとかけられる。
 氷河はそのカノンの首を抱きしめるようにしながら背中を撫でた。
「お前が外にいるってことは、ご主人様はいないのか?二人とも?」
 氷河が宮の入り口を見上げてそう問えば、そうなんですよ、さみしかったんですよ、と言うようにカノンがわん!と吠えた。
「いつ帰ってくるか聞いている……わけはないか」
 なんだ、いないのかと少しがっかりした声を出した氷河に、カノンは再びわん!と吠えた。

**

 ソレはカノンが石段を上りきる前から目に入っていた。
 宮の入り口に長々と寝そべる、白っぽい毛並みは、『カノン』だ。『カノン』は、どこからか迷い込んできた大型犬だ。犬種は知らない。居ついたときは既に成犬だったが、どう生きてきたのかさほど薄汚れた感じはなく、懐く相手を選んでいるあたりにどこかで飼われていた過去が見え隠れする。飼い主が見つかるまでだ、と渋い顔をするもう一人の宮の主をよそに、気づけば自分と同じ名をつけられてしまっていたのだ。

 最後の数段を上りきると、遠目にまさかな、と懸念していたとおりの光景が広がっていた。寝そべっているのは『カノン』だが、その体躯に護られるように、『名付け親』が身を丸くしていた。日に当たると白金色にも見える長めの『カノン』の毛並みに顔を埋めるようにしたハニーブロンドの少年は目を閉じてすやすやと眠っていた。
『カノン』の方も同じく。
 よりによって宮の入り口で。
 抱き合うように。
 その犬が少年によって『カノン』と名付けられてしまったことは聖域中が知っている。自分が帰還するまでに、一体何人の人間がこの光景を目にして忍び笑いを漏らしただろうかとカノンは唸った。
『保護者』に見つかっていないといいが……と一瞬心配しかけたが、見つかっていれば今もってなお彼がこんなところに留まっているはずはない。おそらく保護者の方も自分同様に任務で不在だったのだろう。別に自分が無理矢理に少年を引き留めているわけではないのに、彼がここへいることを苦虫を噛み潰したような渋い顔で見る保護者の眉間の皺は、カノンとてそう何度も拝みたいものではない。俺は今日もかろうじて命がつながった、とカノンは小さく息を漏らした。
 少年と犬は気持ちよさげに同じタイミングで腹を上下させている。
 いくら今日はいい天気だとはいえ、さすがに冷えるだろうに。どうせなら宮の中で眠ればいいものを。
 というか、どちらも問題ではないのか。
 すぐ隣へ第三者が立っているというのに、すぴすぴと健やかな寝息をたてている。
『戦士』の方も、『番犬』の方も失格だろうが。
 さて、どちらを最初に叱ってやろうか。

 カノンは聖衣の爪先で、おい駄犬、と白金色の尻尾を蹴った。
 ぅわふっと間抜けな息を漏らして『カノン』が飛び起き、『カノン』が飛び起きたことで腹の上へ乗せていた少年の頭が石畳の上へ落ちかけるのを、咄嗟に膝を折ったカノンが差し出した掌がしっかりと受け止めて防いだ。
 柔らかな衝撃しかなかったはずだが、さすがにその動きで少年はうーん、と目を開いた。
 ご主人様お帰りなさい!と慌てて取り繕って尻尾を振っている『カノン』の横で、寝ぼけ眼の少年が、光を反射させる聖衣を眩しそうに目を眇めて見上げる。
「あ、カノンだ」
 なぜ宮の中で待たない、とか、人の気配で起きないとは何事だ、とか、そもそも寝るな、とか、色々言いたいことは山ほどあったが、寝ぼけていても──そして『兄の』黄金聖衣を纏っていたにもかかわらず──過たず『カノン』と呼ばれたことで、それらの言葉は全てあっという間に霧散した。
 甘く緩みそうになる頬に、どうにか年長者としての威厳を留めて、カノンは少年の身体をゆっくりと起こしてやる。
「こんなところで寝ては風邪をひく」
「『カノン』がぬくいから平気だ」
「だが……」
「大丈夫だ。ブリザードだったらちゃんと俺だって気をつけるから」
 お前の基準はどこかおかしい、と呆れつつ、カノンが宮の中へと誘うように首を傾けると、それでも少年は嬉しそうに笑ってカノンの後をついてきた。その後ろへはさらに『カノン』が尻尾を振って。


 リビングの隅へと設えられている『カノン』のスペースに収まった犬を横目で見ながら、カノンはミルクたっぷりの温かいコーヒーを少年の──氷河のために入れてやる。
 氷河は両手でそれを受け取り、一口二口、口に含んで身体を温めた後、何かを思いついた顔で、カップをテーブルの上へと乗せると膝で『カノン』の方へとにじりよった。
「カノン、コイツすごいんだ」
 そう言うと、氷河は自分のデイパックを引き寄せるとガサゴソ言わせてそこから何やら取り出した。
 手に持っているのは……煮干しである。
 カノンの、何だそれはという疑問の視線に気づいたのだろう。氷河が、パッケージをこちらへ向けて傾ける。
「大丈夫、今日はちゃんと犬用だ」
 前に人間用の菓子を与えてサガに怒られたことを気にしているのだろう。だが、カノンが問いたいのはそういうことではない。(煮干しというのはそもそも読んで字のごとく、煮て、干してあるのだろうから、人間の手が介在しているのは明らかで、だというのに『犬用』だと堂々と謳うパッケージの矛盾をもっと問い詰めたい気もするのだがそこはこの際置いておく)
「なぜお前はそんなもの持ち歩いている」
「持ち歩いているわけがない。カノンに会いに来ようと思ってたから持ってきた」
 ……今の『カノン』はどっちだ。犬か。俺か。犬か。犬だな。犬だ。
 別にどちらを指して言ったのであっても結果としては同じことなのだが、どうも幼いころから誰かさんとまとめて一セット扱いにされることが多かったせいか、些細なこともつい自分に向けられた言葉なのかそうでないのか確認してしまう癖がついている。
 自嘲的に首を振ったカノンを不思議そうな顔で見つめて、本当にすごいから見ててくれ、と言って、氷河は『カノン』へ向き直った。
「カノン、come!」
 氷河が呼べば、煮干しの匂いに既に臨戦態勢だった『カノン』はすぐに氷河の傍へとやってきた。
 氷河は『カノン』が飛びつく前に、片手を止めたてするようにあげて、「stay!sit!」と次々とコマンドを発する。この宮へ常駐しているわけではないのに、躾はほとんどこの少年が施したのだ。宮の主よりも、シベリアでは犬ぞりを操っていたから、という少年の方によく懐いているのはそのせいだ。
 氷河の前でお行儀よくお座りをしている『カノン』は、だが常態だ。取り立てて見せてもらわなくてもソイツが結構賢いことは知っているぞ、とカノンが興味なさげにコーヒーのカップを傾けるのを、氷河がチラリと悪戯っぽく見た。
 そして、人間の数千倍は鋭いという鼻の頭へ、うまくバランスを取って煮干しを一匹そうっと乗せる。
「カノン、wait!……食べたら駄目だからな」
 そう言って、氷河は少し後ずさる。
 可哀相に、大好物を鼻先へ乗せられても、『カノン』は健気にご主人様の方をじっと見つめている。なるべく視界に煮干しを入れない様に目を逸らしている様が何とも言えず憐れだ。
「な?すごいだろ!普通の犬だと我慢がきかなくて絶対食べてしまうのに!」
 得意げに振り返る氷河の横で、座った『カノン』の口の端から堪えきれずに涎がたらり。
 だが、ふるふると震えながら、鼻先に美味い匂いをぶら下げたままがんばって動きを止めている。氷河は再び『カノン』へ向き直り、じっとその瞳を見つめる。
「まだだぞ……まだ……まだ……」
 そう言いながらも、『カノン』のつぶらな瞳が氷河の指示を待って凝視しているのに、氷河の方もプレッシャーを受けている。どっちがお預けをくらっているのかわからない緊張感がそこへ張り詰める。
『カノン』の方はまだどうにか頑張れそうだったが、結局は氷河の我慢の限界が先に来た。
 息を止めていたのか、ぷはっと小さく吹き出すともう無理!と笑って、「OK」と氷河は頷く。
『カノン』は鼻先を軽く振って、煮干しを空に舞わせると、パクッとそれを飲みこんだ。その間わずか0.2秒。氷河が「オーケイ」の「イ」の字を発声したのと、『カノン』の喉がゴクンと鳴ったのはほぼ同時だった。
 氷河が満面の笑みで『カノン』の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。
「yes!カノン、good boy!good!」
 んー、お前はなんていいこなんだ、と白金色の毛並みにちゅっちゅっと口づけを繰り返している氷河の姿に、カノンの方は微妙な気持ちになる。
「……いいかげん、その名では呼ぶな」
「え?だってもうカノン馴染んでいるじゃないか。あっちょっとカノン、やめろってそんなとこ舐めんなっ……。あっ、あはっくすぐったいって。……んっ……んんっ……」
 だからそういうのをやめろというのに。
 この間サガが誤解して、昼間っから何を不埒な、と激怒されたばかりだぞ、俺は。(あながち誤解ではない時があるものだから、大人しく言われるがままとしておいたが)
 コラ、めっ!と『カノン』を威嚇して定位置へ下がらせ、まだ笑みを残して自分のカップのところへ戻ってきた氷河に、カノンはため息をつく。
「だいたい、なぜそんな名をつけた。紛らわしいにもほどがある。ここで飼うならややこしくなることが目に見えていただろうに」
「だって、毛並みがあなたの髪の色にそっくりだ。目の色だって」
「ならば『サガ』でもよかっただろうに。それなら俺だって楽しめた」
『サガ』に今のお預けを食らわせるのを想像したらおかしくなってカノンは僅かに肩を揺らした。
 いいアイデアだ。
 兄は隙などなく完璧すぎるところがあるから、彼にこそ、こういうバカげた遊戯が必要であるのだ。犬に我が名をつける、というお遊びを許す余裕ができれば、きっと、あの眉間の皺も少しは減るに違いない。
「今からでも『サガ』と呼ぶか。しばらく呼べばそいつも馴染むだろう」
「……だめだ。『サガ』じゃ意味ない。『カノン』がいい」
「?なぜだ」
 サガだと駄目で自分の名ならいいというのは、つまり、俺なら虚仮にしてもいいというわけか?
 お前のような半端者は犬畜生と同じ名で十分と?
 やや思考が不穏に尖るのは、まだ彼の中に残る自罰感情の顕れだ。贖罪はすんだ、と全てを忘れて能天気に暮らせるほどには、まだ誰の傷も癒えていない。
 目の前の少年の片目の上に残った白い傷痕がちくちくとカノンを責める。
 だが、荒れたカノンの心とは裏腹に、氷河は、なぜってそれは……ともごもごと呟くと、みるみる間にうなじを朱で染めて、カノンの方を恥ずかしそうにチラリと見た。
 ああ、そうだった。
 責められている、と感じるのは己の心の弱さゆえ。
 その傷痕はカノンを責めているのではなく、彼が自分自身を責めた結果であるのだ。
 泣き言を言うでなく、恨みがましい目を見せるでなく、自分をそんな過酷な環境に追い込んだ全てを赦し、ただ、自分自身をのみ責め続けている少年の姿は、長ずるまで己の生まれた星回りを恨んで不貞腐れ、挙句の果てに取り返しのつかぬ罪を犯したカノンにはあまりに眩しく、そして自分と対極にあるからこそ、その真っ直ぐさに惹かれずにはいられない。
 そんな氷河が、『カノン』でないとだめだと言うからには……
「そんなに俺のことが好きか?呼んでも呼んでも飽き足らないほどに?」
「!じ、自意識過剰だな、あなたは……!」
「過剰?だが、間違ってはいない。だろう?」
 からかうように笑われたなら、もっと盛大に言い返したであろう少年の反応は、ごくごく真面目な顔で事実確認をするようにそう言われて、頬を紅潮させながらツンと顏を背けるにとどまった。
「残念だな。少ししか当たっていない」
 少しは当たっているんだな、とカノンは笑った。
「ではほかにどんな理由がある?俺の名を犬に向かって呼ぶという失礼極まりない行為の理由を俺は聞く権利があると思うが」
「……あるかもしれないけど、でも、内緒だ」
 耳まで赤く染まってしまった氷河はカノンから視線を逸らしたままそう言った。
 そんな反応を返すからには悪い理由であるはずがない。
 それさえわかれば、細かいことは別に知る必要はない。
 カノンは深く追求することなく、立ち上がった。
 リビングの扉のところまで行くとそれを開いて、『カノン』を呼ぶ。
「カノン、get out」
 低く有無を言わせない口調の命令に、氷河の方を名残惜しそうにチラリと見ながらも『カノン』はしぶしぶ、の体で扉から外へと出て行く。
「何で追い出すんだ。まだ遊びたかったのに」
「犬に見せてやるには惜しい」
 パタン、と扉を閉めたカノンが床の上へと直接座り込んでいた氷河の前へ膝をつく。
「……急に、なんだ」
 自分の上へ落ちる影へ氷河が戸惑ったように視線を彷徨わせた。
「お前があんまり可愛く誘うからだ」
「さ、誘っているわけでは、」
「ないと言えるか?どうせそのつもりで待っていたんだろう?」
 カノンの手が氷河の頤にかけられる。圧し掛かるように体重をかけられ、後ろへも横へも逃れることができなくなった氷河の手が、カノンの胸を押し返した。
「ま、待て」
 身をかがめるカノンの影がさらに濃く氷河の上へ落ちる。
「待てって……カノン……カノン!……カ、カノン、wait!」
 ほとんど唇が触れる瞬間、氷河の口から、聞いたことのあるような単語が飛び出し、思わずカノンの動きが止まる。
「……神をも誑かした男を犬扱いか?」
「犬より悪い。犬はそんな風に自分をわざと悪く見せたりなんかしない」
 カノンの眉がピクリと動く。
「なんだって……?」
「何でもない」
「俺が犬以下だと?」
「……自分の胸に聞いてみればいい」
 カノンが触れる直前で止めた薄い唇をぎゅっと結んでみせる少年は、説明などしてくれるつもりは毛頭ないらしい。
 だが……ふいと視線を逸らす、まだ柔らかな頬にあどけなさの残る少年はたった今、核心を突く指摘をした、ようだ。
 僅かにカノンの心のどこかが騒いでいる。意図して露悪的に振る舞ったことはない。だが、氷河の言葉が胸に痛いということは、どこかで思い当たる節があるということだ。
 俺は偽悪者ぶっているのか?
 なんのために。
「俺を買いかぶりすぎているようだな。サガのイメージを引きずっているのだろうが、あいにくとお前が思っているほど俺はいい人間ではない。毎回、どんなふうに泣かされているのか、覚えていないわけではあるまい」
 そう言って、カノンは閉じられていた氷河の膝を割り開くように逞しく筋肉のついた大腿をさしいれた。氷河はあっと息を呑んで僅かに頬を紅潮させたが、床へ縫い留められるように押し倒されたまま、ふるふると首を振る。
「でも、あなたは自分で言うほどには悪い人間でもない」
「だからそれはお前の勝手な買いかぶりと、」
「だって、ちゃんと『待て』だってできるじゃないか」
「……な……に…?」
 あまりに突飛に飛躍した論理について行けず、カノンの思考がフリーズする。だが、氷河は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているカノンに笑って手を伸ばし、その頭をよしよし、と撫でた。
「あなたは俺が待てって言えばちゃんと止まってくれる」
 短い説明は説明にもなっていない。
 ますます理解に苦しんで眉を顰めるカノンの髪を、氷河は『カノン』にしたようにgood boy と繰り返しながら撫ぜつづけた。
「……あくまで犬扱いする気か」
 そしてお前が考える良い子かどうかの基準は『待て』ができるかどうかか、と唸るカノンの下で、氷河は重ねてあははと笑った。
 どうにも調子を狂わされる。
 海将軍で黄金聖闘士でもあるカノンを、まるでよく飼い馴らされた犬のように扱うのは、世界広しと言えどこの少年だけだ。

 カノンは、氷河の顔の横へと肘をついて、その身体を閉じ込めた。逃げ道などないほどに腕と体躯で押さえつけ、再び身を沈めて唇を触れあわそうとするも、やはり氷河の制止が入る。
「カノーン!いいこは『ヨシ』って言われてないのに動いちゃだめだって」
 完全にその声は笑い混じりだ。
「俺は『いいこ』とやらになったつもりはない」
「つもりはなくてもそうなんだから仕方ない」
 氷河はすっかり『カノン』と同じようにカノンの頭をなで回して遊んでいる。本気で犬扱いだ。
 歳の近いものに、あるいは対等な力関係のものに、このような振る舞いをされたならプライドが許すはずもないが、カノンからしてみればひよこも同然のずいぶん年下の少年にいいようにされているのは、幾分くすぐったいような甘い痺れを生みこそすれ、本気で厭うような種類のものではない。
 そもそも『いいこ』だなどと生まれてこの方誰にも言われたこともない。それは常にサガのための言葉だったからだ。
 まだ子どもと言って差し支えない少年の思いついたこの遊戯は、幼年期を理不尽に奪われて過ごしたカノンにはずいぶん新鮮に映った。

「いいだろう。それほど俺を犬としておきたいなら」
 唇を触れる寸前の距離のままで、そう囁けば、吐息がかかって、氷河はくすぐったそうに身を捩った。
「近いよ、カノン」
「キスのお預け食らってる最中だからな」
 紙一枚分ほどしか隔てられていない距離で空気を震わせる艶のある低音に、くすくすと笑っていた氷河の視線が落ち着きなく左右に振れた。
「……近いって」
「犬よりは賢いところを見せてやらねばならんからな。奴は鼻先の獲物を我慢しただろう。同じ条件にせねばフェアではない」
「……カノン、怒ったのか……?」
 調子に乗りすぎただろうかと、氷河はおそるおそるカノンを見上げた。距離が近すぎて表情が読めない。
「いや、怒ってはいないな」
 口を開くたびにやはり吐息がかかり、氷河は逃れようと身をよじり、だが、カノンの腕がそれを阻む。
 困り切って眉を下げて、氷河は黙り込んでしまった。
 静寂があたりを包む。
 扉の外で行ったり来たりしている、カシカシという音は、閉め出された『カノン』の爪が床へ当たる音だろう。
「氷河」
 しばらくの静寂の後に名を呼べば、カノンの体躯の下で細い身体がびくりと震えた。
「俺はいつまでこの姿勢でいればいい。早く次のコマンドをくれないと」
「……っ」
 氷河の淡い色の睫毛が何度も瞬いて震えた。
「俺は何時間だって待てるが……さて。サガがそろそろ帰って来ないとも限らんが……」
 氷河の頬がこれ以上ないほど赤くなる。
 次のコマンドなど、それこそ『get out』だろうが『house』だろうがいくらでもあるのに、氷河の頭の中には『待て』の後は『ヨシ』しかないのだろう。自分で自分の首を絞めたことに気づいて今更後悔しているようだ。
「どうした。早く」
 この少年がこういうプレッシャーに弱いことは先ほど『カノン』で証明済みだ。故意に熱い吐息を吹きかけながら苛々とした声を出してみせると小さな声で反応があった。
「……ヨ、ヨシ」
「シ」の発音はさせなかった。
 息を奪うような激しい口づけで、お預けを食らったことへの抗議としてみせる。
 カノンの半分しか生きていない少年が、巧みに蠢く愛技を受け止めきれるはずもない。すぐに甘い喘ぎをもらして、カノンの髪へすがりつくように指を絡める。
 震えて逃げる舌を捉えて、ちゅく、と緩く扱いてやれば、その動きに何かを喚起したのだろう、カノンの腕の中におさまった身体がじわりと熱を上げた。
 思う存分甘い唇をむさぼって解放してやった時には、氷河の眦にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「次はどうしたらいい、ご主人様」
 呑みこみきれなかった唾液が伝う喉元からうなじへ耳へと犬のように舐め上げながら問うても、『ご主人様』の息は乱れるばかり。
 赤く染まった耳朶を口に含んで、その柔らかな感触を確かめるように唇と舌で弄ぶ。カノンの髪に絡められた氷河の指が物言いたげに動く。
 カノンはふ、と笑うと耳朶を口に含んだまま主へ許しを乞う。
「ご主人様、『悪い男』になる許可を」
「……あ……」
「それともこのまま『いいこ』でお預けを?」
「……っ」
「早く」
「……っ……ヨ、」
「シ」の音は再び唇の間へと消えた。


(fin)

(2014.9.19UP)