寒いところで待ちぼうけ

短編:ザク



シベリア修行時代、少年期のアイザック×氷河 「秘密をひとつ」の続き
性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。


◆しのぶれど◆

「先生、おやすみなさい」
 いつものように師の頬におやすみのキスをして、そのお返しに額にキスをもらってから二人は寝室へ向かう。
 伸び上がるようにして師を見上げていたのはもう過去のこと。なにかあると師が二人を同時に抱え上げていた光景も今は見られない。
 それでも、目線がすっかりと近づいた今となっても、おはようやおやすみのキスの習慣はそのままとなっている。
 子どもというものはある日突然少年になり、少年はある日突然に大人になるのではない。
 緩やかに変化しゆく関係の中、もうそんな、幼い習慣はそろそろ不自然になり始めている、ということを誰も彼も気づかないまま、(あるいは気づかぬふりで)日常は流れる。
 
 アイザックと氷河、秘密を共有するようになってしばらく経つ。
 あまり内緒事の得意でない氷河が今回に限って口が堅い。
 氷河の中でも口に出せないほどその秘密は大きいのか、思ったことをそのまま口に出さないだけ彼が大人へと変化しつつあるのか、それとも───ほかに理由があるのか。
 三人でいるときの空気が変わった、とアイザックは感じていた。
 実際に変わっているのか、受け止める自分自身の心のありようが変わってきているのか、少年にはわからない。
 だが、氷河が、あまり師に甘えなくなったように思えてならない。
 師の膝の上を競う年齢はもうとうに卒業してはいたが、氷河はいつまでも甘えたところがあり、せんせい、これ見てください、せんせい、できました、と些細なことを何でもカミュに報告しては、よくできたな、と頭を撫でてもらうのを待っていた節がある。
 アイザックも師の大きな手のひらで撫でられるのは大好きだったが、ただ、それを気恥ずかしい、と感じるような思春期の入り口に足を踏み入れてからは、氷河のようには自ら師にまとわりついたりはしていない。(氷河がまとわりついていれば、師は氷河の後ろで一歩引いているアイザックの頭も同じように撫でるため、現実的には二人揃ってまとわりついていた頃とあまり変化はないわけなのだが)
 いつまでこの『子ども扱い』は続くのだろう、と、撫でられるたびにくすぐったく思っていたものだが、ここのところその頻度が減っているような気がする。
 師は相変わらず、指導は厳しいものの、二人が目標を達成したときには、よし、よくやった、と間髪入れず誉めてはくれているのだが、もうそれだけだ。頭を撫でることまではしない。
 氷河が、すり寄らなくなったせいだ、とアイザックは思う。
 氷河が撫でて欲しそうに、せんせい、と寄るから師は条件反射で腕を伸ばす。一本腕を伸ばせば、もう片方が自然に兄弟子へと伸ばされる。氷河さえ寄っていかなければ、二人を誉める方法として、師は無理に「頭を撫でる」という行為を選択することはない。
 だから───近頃のこの関係性の変化は主に氷河が変わったことでもたらされたのだ、とアイザックは思う。
 師から距離を取るようになった氷河は、だがそのくせ、気づけばいつも師を眺めている。(それに気づくということは、己もまた、それだけ長くの時間を氷河を眺めて過ごしているのだ、ということは少年は気づいていない)
 晴れた空を切り取ったかのような青い瞳は、師の背中を、指先を、胸元で揺れる長い赤毛の先を、近ごろいつもぼんやりと見つめているのだ。氷河自身にその自覚はないのか、アイザックの視線に気づくと、狼狽える風でなく、どうかしたのか、と不思議そうに首を傾げる。
 自覚のない視線の行く先に、思春期の少年の心は乱れ、惑う。
 カミュを見つめて何を思っているのか。
 その答えを自分は知っているような気がするのだが、それを言葉にすれば、危うく保たれている均衡があっという間に崩壊しそうで少し怖く、だが、いっそ全てが崩壊したとしてもはっきりさせてしまいたい、という破壊衝動が湧き上がる。
 日々、天秤のように揺れ動く感情は、右に左に激しく傾き、いつ決壊してもおかしくない。
 
**
 
「……アイザック、起きてるか?」
 三つ並んだベッドの真ん中で、なかなか寝付けないのか落ち着かなく何度も寝返りを打っていた氷河が、窓際のアイザックを呼んだ。
 入り口側のベッドはまだ主が不在だ。部屋数のない小屋の中で、師といえども、専用の個室などない。幼い頃からそうしているように、三人は同じ部屋で眠る。だが、当分、そのベッドの主はやって来そうにない。弟子たちが眠ってからも師カミュには聖域からの書類仕事が残されているのだ。
 起きてる、と返事をする代わりにアイザックはごろりと氷河の方へ寝返りを打つ。ブランケットの端から零れた氷河の金髪が波のようにシーツの上へうねっている。
 そんな何気ない光景ですら、近ごろは目に毒だ。一度高ぶる熱を共有してしまった雄欲はもう、氷河が男であるということだけでは、簡単には抑えられなくなってしまっている。
 長く一緒に育った氷河に欲情を刺激されてしまう自分を疎ましいと思い、だが、この頃は抵抗してもいっそう意識されるようになるだけだということも知っていて、暗闇の中で己を見つめる薄青の瞳をアイザックはじっと見つめ返した。
「アイザック、何か怒っているのか……?」
 鼻の上までブランケットを引き上げ、青い瞳がそう問う。
 腕を枕にそれを眺めながら、氷河も何かを感じているのだ、と少しドキリとしながらアイザックは言った。
「なぜそう思うんだ?」
「……別に……なんとなくだ」
 問いに対して問いでしか答えないアイザックに、聞いたことを後悔しているかのように氷河の瞳がそっと伏せられる。
 終わってしまった会話に、沈黙がしんと下りた。
 二人で話していれば一晩中だって起きていられて、師に叱られたこともあったというのに。
 そのまま会話を終えてしまうには気まずく、アイザックはブランケットの端から手を出して、それを氷河の方へと伸ばした。
 それに気づいた氷河が、ほっとしたように自分も手を伸ばしてアイザックの指先をそっととる。ぬくぬくとブランケットで温められていた指同士がしっかりと絡められる。
「俺がお前に怒る理由なんかないだろ。それとも何か心当たりがあるのか?」
「……………………ないよ」
「おい、間があったぞ。何やらかしたんだ、言えよ」
 コラ、とおどけてつなぎ合わせた手を軽く振ってやると、氷河の顔がくすぐったそうにほころんで微かな笑い声が漏れた。
「……アイザック」
「なんだ」
「……そっち、行っていいか」
「…………………………狭いだろ」
「すぐ戻る。そのまま眠ったりはしない」
「だめだ。お前そう言って守れた試しないだろ」
 冷たく突き放したアイザックに、絡められていた指先が小さく竦んだ。
 指先に籠められたほんの僅かの感情すら読めるほどに氷河のことなら何でも知り尽くしている。だが、突き放すしかない。今夜は───隣に師がいる。
「…………わかった。……おやすみ」
 指先へ絡んでいた体温がそろそろと去って行く。
「ああ……おやすみ」
 繋がりが切れて、また二人は同時にごろりと天井へと身体を向ける。
 しん、と静まりかえった夜の闇、時折、根雪が屋根から滑り落ちる音がその静寂を破る。薄い壁の向こうでまだ書き物をしている師が書棚との間を行き来する音も時に混じる。

 隣の氷河は長い時間、身じろぎ一つしなかった。
 アイザックがそうでないのと同じく、氷河もまた眠っていないことは部屋に満ちる固い空気が知らせている。
 ひっそりと息を詰めて、何を考えているのか。

 結局、時計の長針が大きく角度を変えるほどに長い時間をさんざんに迷った末にアイザックはその空気に負けた。
「今日は冷えるな」
 たいして冷えるとも思えない、いつもの気温をそんな風に独り言のように言ってみせると、すぐに隣から、ん、と返事があった。
 アイザックはその氷河へ向かってブランケットの端をほんの少し持ち上げてみせる。
「来いよ。寒くて眠れやしない」
 さっきはだめだと言ったくせに、と拗ねるかと思われた氷河は、何も言わずに起き上がり、もぞもぞとアイザックのベッドへと潜り込んできた。
『寒いから』なんて、見え透いた嘘であることは明白なのに、それでもその言葉を寄る辺として二人は一つのブランケットの下で手を繋ぎ、足を絡め合う。
 ずっと、ずっとそうしてきたのだ。
 初めて会った日から寒い夜、寂しい夜にはいつも。
「……怒っているわけじゃない。本当だ」
 な?と安心させてやるように、氷河の額に自分のそれを軽くぶつける。氷河は返事代わりにアイザックと繋いだ指先に力を込める。
 距離が近づいても、重く切なく疼く胸の痛みは少しも消えない。むしろ氷河の息づかいがすぐ傍に感じられて、ますます息をするのが苦しくなっただけだ。
「氷河」
 声を潜めて呼べば、氷河の瞳がゆるゆるとアイザックの方を向いた。星明かりの下では空の色をしたその青は幾分、海の蒼に近くなる。
「先生が言っていただろう。白鳥座の聖衣のこと」
「……ああ」
「俺たち二人ともが白鳥座の聖闘士になれるわけじゃない」
「…………」
「先生がどうやって選ぶつもりなのかわからないが……俺たちは聖衣を争って戦うことになるかもしれない」
「そんなことは」
「絶対ないとは言い切れないだろ」
「…………」
「馴れ合っていたら、いざっていう時に躊躇するかもしれないだろ。だから今までみたいにあんまりベタベタするのはよくないかと思って……別にお前に何か怒っているわけでも嫌いなわけでもない。俺たちはそろそろ覚悟を決めなきゃいけない時期に来ている」
 半分は氷河を納得させるための言い訳だったが、残り半分は本音だった。
 二人、無邪気に競い合っているうちはよかった。
 だが、聖域から帰ったカミュの憂いを帯びた顔と、時折物思いに沈む様子を見ていれば、この、家族のように温かで幸せな居場所の本来の意味を思い出さずにはいられない。
 戦士となって生きる道へ続いているのだ、この温かな空間は。
 いつか、この場所から旅立つ時が来る。
 護られる側から護る側へ。
 その時、聖衣を纏っているのは俺か、氷河か。旅立った後に、この温かな関係は全て消えてしまうのか。
 まだ来ぬ未来へ思いを馳せれば、胸の疼きが強くなる。
 美しく白銀に輝く白鳥の鎧を纏って正義を体現するのは自分でありたい、と強く望み、だが、それと同じだけ強く、それは氷河であって欲しい、とも願う。
 氷河の長い睫毛が、パシパシと音を立てて忙しなく瞬く。泣くのを堪えているのだ。
 アイザックは氷河の頬に流れている金髪を指で後ろへと流してやる。その動きに、氷河の瞬きはますます早くなる。
「………………まだ……聖衣のことを考えるのは……早いだろ」
 ようよう絞り出された氷河の声は、ずっとこのままでいたい、と駄々をこねているかのようだった。なぜお前は俺が考えないようにしていたことを言葉にしてしまうんだ、という非難すら滲んでいる。
「……そうかもな。ここのところ俺、ちょっと気が急いていたかもしれない」
 あっさりと撤回して、そう言ってやれば、却って氷河は気まずげに、いや、と口ごもり、それから、沈鬱な話題を逸らすように、今日は本当に寒い、と言って、肩にかかっていたブランケットへと首の上の方まで引き上げた。
 そうだな、と言ってアイザックは氷河の身体を引き寄せる。
 寒い、という言葉に呼応して、反射でそうしたくせに、氷河に触れる面積が広くなった瞬間に、ドッと身体全体に熱が回ってくらくらと眩暈が起きる。
 大人へと変化してゆく身体と心、その端境期にあって、自分自身の全てがままならない。
 息ができなくなるほど胸を重く塞いでいるのは将来への不安なのか、狂おしいほどの恋情なのか、それとも、そのどちらともか。
 はっきりと色の定まらない、何か切ない感情が少年の内側を溢れんばかりに埋めていて、出口を求めて猛り狂っている。
「氷河……」
 得体の知れないその何かは、熱を与えあうために絡めた足の間で、わかりやすい捌け口を求めて形作り始める。胸のあたりでつっかえていた重いものは、じわりじわりと雄の形をとって熱く漲って、抵抗しがたい切迫感を連れてくる。
 太腿に触れる塊に気づいたか、氷河が困ったように足をもぞもぞと動かしているが、その彼の方も、アイザックに呼応するかのように中心を熱くさせ始めていた。
 アイザックは腕を伸ばし、雄の形に膨らんだ氷河の夜着の前を指の腹でなぞるように往復させた。
「だめだ、アイザック……」
 吐息のような掠れた声が、抵抗と言うにはあまりに弱い止めたてを紡ぐ。
 アイザックが教えてやるまでは、己自身の慰撫の仕方をまるで理解していなかった氷河は、しばらくの間、アイザックの助けを受けながら拙い慰撫に励んでいたが、そのうちにさすがに慣れたのか、一人でそっとベッドを抜け出すようになっていた。
 そのことに気づいていながら───何故かアイザックの奇妙な「手伝い」は続いている。ただし、師の不在時に限って、だが。
 何も気づかぬ振りで、手伝うよ、というアイザックに氷河は、僅かに躊躇いを見せはするものの、もう必要ない、とは言わない。師の不在時に限ってしかアイザックの「手伝い」の申し出がないことに多分気づいているのだろうが、それに対する指摘もない。
 始まりは半ば成り行きで、普通は秘すべき孤独な「生理現象の昇華」をほんの少し共有してしまっただけであったのに、二度目、三度目を重ねてしまううちに、今やそれはすっかりと背徳的な秘め事になってしまっている。
 一人ですべきことを二人でしているだけだ、特段におかしなことではない、と互いに言い聞かせながら、それでも二人とも師の前では固く口を閉ざしているのは、無意識に、この行為が通常よりずいぶんと逸脱していることに気づいているのだ。
 だが、不道徳な行為に耽っているのだという背徳心は、思春期の少年には刺激にはなっても抑制にはならない。それはまるで常習性のある悪い薬のように、とろけるような甘い快楽で身体から思考を奪ってゆく。
 シュ、と微かな衣擦れの音とともに、アイザックの指の腹が氷河の雄を刺激する。氷河は、ふ、と酷く熱を帯びた吐息を漏らして、アイザックの背に縋るように腕を回す。中性的な綺麗な顏をしているくせに、氷河の中にも己と同じ、制御できない男の欲が潜んでいるのが不思議で仕方がない。
「アイザック……だめだって、本当に……」
「だめっていうような状態じゃないぞ」
 夜着の下で、氷河の雄はもうすっかりと育って固い感触を返している。
「仕方ないだろ、だって、ここのところそんな時間なんかなかった……ン!……アイザック……!」
 ぐ、と揉みしだくように手のひらで氷河の雄全体を包んだアイザックを氷河が非難するように見上げ、そして、そしてそのまま青い瞳はドアの方角へと投げられた。
「……わかっているのか……せんせいが……いるんだぞ」
 アイザックの胸へ伏せるように俯いた金髪が首を振ってそう囁く。
 自分自身、師にこの秘め事を知られることは畏れている。なのに、氷河にそのことを拒絶の理由に持ち出されてしまうと、なぜかちくちくと胸に痛みが差すのだ。
「声を出さなけりゃ平気さ」
「だけど……!」
 うだうだと文句は言うくせに本気で逃げない氷河は狡い。
 耐え難い切迫感を伴って込み上げる雄の本能を理性で封じなければならない状況だと理解しているくせに、自分自身ではそれと戦うことを放棄して、アイザックに戦わせようとしているのだ。
 お前って昔からそういうとこあるよな、甘ちゃんもいいとこだ、と呆れながら、だが、雄の欲求と戦うと言う、極めてパーソナルな葛藤すらその行く先をアイザックに委ねてしまう氷河の全幅の信頼につけ込んで、境界をすっかり逸脱させている自分も狡さにおいては負けていない。
 結局、少年期の只中にいる二人はどちらも青い性衝動を制御する術をまだ身に着けていないのだ。意味のない抵抗をしない分だけ、アイザックの方がまだ潔いとも言えた。

 するり、とアイザックの指がウエストの部分から布地を押し下げるように侵入し、氷河の昂りを直接包んでも、あ、という息を呑む乾いた音を喉から迸らせただけで、氷河はやはり強くは抵抗しなかった。
 ふ、ふ、と、アイザックの手のひらの慰撫と同じリズムで氷河の呼吸が乱れて、きつく閉じられた眦に薄らと涙が滲む。
 このままではあっという間だな、と思ったそのとき、薄い壁一枚隔てた向こう側から、ギギ、と椅子を引く音が響いて、思わず、二人の肩が、ビクリと大きく跳ねた。
 アイザックも、そしてほとんど極まんとして意識を明け渡しかけていた氷河も、耳をそばだてて隣室の動向をうかがう。
 師が全ての作業を終えて寝室へ来るのなら、手元に置いていたコーヒーカップを洗う音がまずするはずだ。
 が、足音は、キシキシと書棚の前へ移動した後は、また、ギ、という音とともに椅子の位置へと戻る。
 息を顰めていた二人は、同時に、はーっ、と深く息を吐いた。
 微妙で、そしてとても気まずい沈黙が二人の間に流れる。
 限界まで上昇していた熱に一気に冷水を浴びせられて、幾分、血色の悪くなった顔を上げて、氷河が口ごもる。
「……俺……やっぱり今日は無理だ」
「こんな状態なのにか?」
 アイザックの手のひらに包んだ氷河の昂りはまだ熱く反ったままだ。濡れた鈴口を親指の腹で撫ぜると、氷河は、ふぁっと途端に情けない声を出して顏を赤くした。
「だけどせんせいが……ぅあっ……んっ……!」
「当分来ないって」
「でも……っ……んぁっ」
「カミュ先生だって男だ、バレたところで咎めたりはしないだろ」
 言いながら、そんなわけあるか、と自分自身に突っ込んでしまうようなあからさまな嘘だ。
 一人で隠れてしていてもカミュは何も言わないに違いないが、二人のこの秘された行為を知ったらさすがに黙って見逃すとは到底思えなかった。
 アイザックもカミュに知られたくないのは同じであるのに、なのになぜ、こんなにも意地になってしまうのか。
 カミュを敬愛している。あのすばらしく完璧で美しいひとはアイザックの生きる道筋のすべてだ。
 氷河にとってもそれは同じはずだ。だから、氷河がカミュのことをやたらと気にかけていても、自分がそうであるのと同じにそこにやましい意味などないはずなのに、それでも、何故かそのことが酷くアイザックの心を掻き乱して、氷河の中から自分以外の全てを追い出してしまわなければならないような妬気に似た何かが湧き上がる。
 どうしていいかわからない、もやもやとしたその苦しい感情は、多分、理性を簡単に奪う、この淫らな熱のせいだ。
 さっさと吐き出さないと、いつまでも胸が重くて苦しいばかりだ。
 アイザックは、氷河を愛撫する反対の手で己の昂りを取り出した。
 氷河と同じに熱く反った雄を氷河のそれにぴたりと合わせ、手のひらで包む。
 固く張りつめた二つの昂りはアイザックの手のひらだけでは収まりきれない。
 お前も、と手を引いて促すと、諦めたのか、それともその先にある甘い極みの期待感に理性は簡単に捻じ伏せられてしまったのか、氷河は素直に誘導に従って、アイザックの手に自分の手のひらを重ねた。
 重ねた手のひらの中に包まれた二つの雄はそれぞれの熱でもって、互いを刺激しあう。
 既に一度限界近くまで高まっていた氷河は、快楽に己を明け渡すのも早かった。あ、あ、と唇が戦慄くように震えて、甘く緩んだ瞳は虚空を彷徨う。
「お前の……熱いな。どくどくいってる」
「ア、アイザックのは……濡……れてる……あっ…」
「それはお前もだろ。ほら」
 ブランケットで作られた二人の身体の形のドームの中に、潜めた声がこもる。
 激しい息づかいと、衣擦れの音、くちゅくちゅという濡れた粘膜が立てる音が混じり合い、上がった体温と湿り気に閉ざされた、秘密の空間は濃密な牡の匂いで満ちる。
「……アイザック、俺、もう……っ……」
 氷河の限界が近い。
 アイザックの手のひらに重ねた氷河の手に、もっと早く、と強請るように力が込められる。
「待てよ。俺がまだだ」
 本当はまだだ、と言えるほど余裕があるわけではない。
 ほんの少し力を込めて律動を早めてやれば、あっという間に極みを迎えられそうな、甘ったるい疼きがさっきから何度もアイザックの背を駆けている。
 師に気づかれるリスクを考えれば、疼きに身をまかせてさっさと放出を終えるべきだ。
 それなのに、二人で共有しているこの熱を少しでも長く感じていたいと、込み上げる放精感に抵抗してみたくなるのだ。
「アイザック……っ……うっ……ぁはっ」
「こえ……だすなって……」
 無理だ、と口を閉じる代わりに、目をきつく閉じた氷河の眦に涙が滲む。
 昼間は強気な拳でアイザックを煽ることもある氷河は、今はアイザックに懇願することも厭わない。
 アイザックの背が快感に震える。
 声を堪えて震わせている唇に触れたくて仕方がない。
 なぜそんな風に思うのか、答えは届きそうで届かない。
 これは、ただ、持て余す青い性を宥めるだけの行為だ。そうだろう、そう思え、俺、と強く叱咤していなければ、甘く優しく胸が疼くのを止められない。

 互いに首筋に顔を埋め、は、は、という濡れた吐息が混じり合う。
「……っ……ック……も、俺……っ」
「ああ……俺も……っ」
 互いに腰を押しつけ合うように、極限まで高まった熱を二人は同時に吐き出した。
 生温かい欲望の証が雄を包んでいた手を濡らし、混じり合ってとろりと流れ落ちる。
「やば、ちょ、氷河、シーツが濡れる濡れる!ティッシュかタオル……!」
「ふぁ……?」
「バカ、惚けてる場合じゃないって」
「そんなこと言われたって、どこだよ……」
「いいから、早く!」
 倦怠感と放出の余韻に浸る間もなく、二つの身体がシーツの下でドタバタと事後処理に慌てふためく。
 その小さな騒乱が腰のあたりにまとわりつく余韻を蹴散らすが、それがアイザックには救いだ。
 余韻に浸れば、せっかく放出して追い出した甘い疼きがまたすぐ胸の中に戻ってきてしまうことは経験上知っている。


 しばらく暗がりでわたわたと身づくろいしながら、ベッドを整え直したアイザックは窓辺へ近寄って薄くガラス窓を開いた。
「少し開けておくぞ」
 部屋の中に籠る湿った牡の匂いは、さすがにこのままにはしておけない。
 自分のベッドへ戻った氷河もそれはわかっているのか、ん、と短い了承が返ってきた。

 ほんの数センチ開いただけで、窓からは、凍てついた空気がさあっと部屋の中へ流れ込む。急激に上昇した熱で火照った身体には心地いいが、数分もこのまま放置すれば寝具が霜づき始めるほどの冷気だ。いくらシベリアの夜でも寝具が凍りついていればカミュは不審に思うだろう。
 部屋の中の温度がすっかり下がりきったのを契機に、アイザックは窓を閉めて己のベッドへ戻った。
 汗ばんだ身体が一気に冷えたせいか、酷く寒い。
 ブランケットを肩まで引っ張り上げても歯の根が合わないほど震えている。氷河もそれは同じようで、隣のベッドがもぞもぞと動いている。
「……冷えたな」
「仕方ないだろ」
「責めたわけじゃないって。…………なあ、そっち行っていいか」
 お前なあ、とアイザックは思わず目を剥いた。
 せっかく俺の理性が少しは自分の務めを果たせそうになったというのに、全部台無しにして振り出しに戻すとはどういう了見だ。
 呆れたのが伝わったのか、氷河は慌てて首を振って、「大丈夫、少し温まったらすぐ戻る。そこで眠ったりはしない」と言ったが、その、絶対に守られないという確証がある言い訳ならさっき聞いて済んでいる。
 断る、と言おうとしたが、アイザックが何か言うより早く、氷河は、ちょっとだけだ、と勝手にアイザックのベッドへと滑り込んできた。問答無用だ。狡いにもほどがある。
 だがやはり人肌の温かさには代えがたく、ため息をついてアイザックはベッドの隅へ寄って氷河のために空間を作ってやった。
 冷えた手足を再び絡めあわせれば、そりゃそうだ、というか、しまった、というか、ほかほかと身体が温まるにつれて、放精後の気怠い身体は猛烈な眠気を連れて来た。
 なあ、と口を開いた氷河の声も夢の世界へ旅立つ寸前だ。
「……俺はお前とは戦わないからな」
 ああ、まだそれを気にしていたのか、とアイザックは少し驚きながら、お前が決められることじゃないだろう、と言ったが、氷河からはただ寝息が返ってきただけだ。

 ───みろ、やっぱりこうなった。

 ベッドに戻してやろうにも、自分の眠気ももう限界だ。
 氷河の寝息に誘われるようにアイザックの瞼も次第に重くなってゆく。

 お前とは戦わない、か。

 本当にそうだといい。
 例え聖衣を得るために必要な通過儀礼だとしても、この温かな体温をほんの僅かも思い出さずに氷河に本気の拳を向けることは自分にはできないに違いない。

 本格的に眠りに落ちてしまったのか、金色の前髪がかかった氷河の瞼が時折ピクピクと小さく動いている。
 鍛えることのできないその薄い皮膚は、氷河の、あの信じられないくらい透明で美しい青い瞳を守っている。
 少しだけ迷ってアイザックは、幸せそうに閉じられた氷河の瞼へ己の唇をそっと触れさせた。それは積もりたての新雪のように繊細で柔らかく、アイザックの胸はまたきゅうと苦しく締め付けられた。

(fin)
(2018.2.12UP)