寒いところで待ちぼうけ

短編:その


『星の詩』のおまけ作品
カノミロの裏側にあるカミュ氷


◆罪と罰 ⑤◆

 すうすうと寝息をたてて隣で眠る氷河の頬をカミュは撫でる。
 淡い色の髪を後ろへ流すように梳いてやっても、氷河は目を覚まさない。無防備に、カミュにすべてを預けきって眠る横顔が愛おしく、いつも堪らない気持ちにさせられる。
 本当に、どこへもやらないでいてやれたらどんなにかいいだろう。
 だが、白鳥は所詮は渡り鳥。
 その翼を手折ってひとところにとどめておくことは、カミュにはできない。
 氷河のこととなると我を失う、と両隣の宮の住人から常に呆れられていて、そのたびにそんなことはない、と否定しているのだが、あながち間違いとは言えない。
 翼を手折らないだけの良識を持っているだけで、そうしてしまいたい、という強い嫉妬心は常にカミュの深い愛情とともに存在しているのだ。
 だが、飛べなくなった白鳥はもはや白鳥と呼べるだろうか。カミュが愛する純白の水鳥は、自由に、あの瞳の色と同じ色の空を飛んでこそ美しいのだ。


 罪悪感に身を縮ませている氷河にそれを指摘することは、責めているように聞こえるだろうと気遣われ、言うことはできなかったが、問題は、感じたか否かではなく、氷河の無防備さの方だった。
 氷河は多分カノンを許すだろう。
 そしてまた何の警戒もなく、今まで通り懐いてみせるに違いない。
 何しろ、カノンにあんなことをされた直後ですら、カミュ以外の人間(シュラだから良かったようなものの……)を頼ってしまう警戒心のなさだ。
 そこが氷河の可愛いところではあるが、カミュにとっては気が気ではない。
 氷河を変えるのは多分無理だ。クールたれ、というカミュの教育の賜物と人見知りする性質ゆえに、初対面の相手に対してはどうにか一線を引いているものの、本来は自分の感情に素直で、その上、少々甘ったれ気質だ。ちょっと慣れてくると、最初のクールさなどどこへ行ったかわからぬほどの距離感で誰彼かまわず懐いてしまう。
 かといって、自分のところにだけとどめておくこともできないのなら、カミュにできることといえば、飛び立つ前の空に、彼を害する者が潜んでいないか、せいぜい目を光らせておくことだけ。

 氷河が眠っているうちに、と、カミュは今一度、その頬を優しく撫で、気怠い身体をゆっくりと起こした。

**


 カミュはひとつ、またひとつと石造りの階段を下りて行く。
 聖衣姿で下りるつもりだったが、直前で弟子達二人の可愛い顔が目に浮かび、それはやめておいた。最初から喧嘩腰で行けば、またあの子たちを哀しませる。


 途中、天蠍宮に寄ったが無人だった。
 二人同時に話ができれば早いと思っていたのだが、出かけているのであれば仕方ない。
 ミロはミロで後で釘を刺しておこう。
 カノンと違って、長い付き合いが災いしてか、カミュの言うことなど少しも堪えない奴なのが頭が痛い。しかも、一時期、後見人として世話になったという負い目もあって、氷河がミロに懐いていても感謝こそすれ文句を言える立場ではないのがつらいところだ。
 今のところ氷河の方はその気はなさそうだが、それでもやはり二人の間でかわされる視線に、平常心ではいられない瞬間があることは確かだった。



 双児宮に着くと、カミュの気配に気づいたのか、声をかける前に精悍な顔つきの美丈夫が出てきた。
「サガ。すまないが、カノンはいるだろうか」
 挨拶もそこそこに目的を告げると、サガは少し驚いたように目を瞠った。
「いや……せっかくここまで下りてきたのに悪いが、今少し出ている。多分、そう時間を置かず戻ってくるはずだから、奥で待つといい」
 カミュは逡巡した後、ではそうさせてもらおう、とサガの案内で宮の奥へと足を踏み入れた。

 勧められるままに、ソファへと腰掛けると、サガはその向かいへとゆっくりと座り、不思議そうな声を出した。
「よくわたしだとわかったな」
「……どういう意味だ?」
「近頃ではわたしがここへいることは珍しいだろう。さっきは、実のところカノンのふりをして出迎えたつもりだった。カノンは……何かしでかしたな?カミュが多分来るだろうから、自分が不在の時に来たら足止めしておいてくれと頼まれた」
 では、カノンの方もカミュと話をするつもりはあるということだ。
 少なくともこの不在は逃げたわけではないらしい。
 それさえわかれば、目的は半分達したようなものだ。カミュは、ソファへ深く腰を落ち着け直した。

 カミュは、カノンが何をしたのか、ということには言及せずに(この上兄弟げんかまで始まったら、この複雑に絡まり合った糸はどうしようもない)、サガに向かって苦笑いをしてみせた。
「あなたにはカノンのふりなど無理だ。あなた達双子は、自分達が思っているほど似ていない」
 どうみても瓜二つの外見を持つ自分達のことを似ていない、と言われてサガは眉を顰める。
「……似ていないか?自分でも鏡を見ているのではないかというくらいにそっくりだと思うのだが」
 サガの反応がおかしくてカミュは忍び笑いを漏らす。
 似ていない、と言われて不本意そうな表情を見せる方がサガ。
 逆に、少し安堵したような表情を見せる方がカノン。
 咄嗟に見せる僅かな表情ですら、この双子は全然違う。
「あなた達は、同じなのは外見だけで、あとはまるきり違う。多分、うちの氷河ですらはっきりと見分けることができる」
「外見が同じなら普通は見分けがつかないもんだろう。ミロはいつもわたしのことをカノンと間違うぞ」
 カミュはまた笑ってサガを見た。
「サガ。あなたほどの人が気づかないとは。ミロは、『時々』間違うわけではないのだろう。『いつも』間違うというのがどういう意味か……」

 サガは、眉間の皺を深めてカミュの言葉に思考を巡らせる。

 確かに、100%の確率で間違う、というのは少々不自然な気はする。
 とするとアレは故意なのか。
 でも、なんのためだ。
 なぜ、常にわたしをカノンと呼ぶ。

 ますますわけがわからない、という顔をしてサガはカミュを見返した。
 カミュは、まだわからない?と片眉をあげて応える。
「サガ。あなたはカノンと間違われることをどう思っている?」

 別に何とも思わない。
 いや、むしろ『カノン』と呼ばれることはサガの中に安堵と喜びをもたらす。
 なぜなら、それは長らく秘匿されていたカノンの存在が公然の事実になったことの証明にほかならないわけだから。
 そうか……だが、カノンの方は。
『サガ』と呼ばれるのは、おそらく、何らかの痛みを伴うものであるに違いないのだ。

 だから、ミロは常にサガをカノンと呼ぶのか。

 しかし、当然の疑問がサガの頭に浮かぶ。
「だが……見分けているのなら、きちんとそれぞれ名を呼べばすむことだ。カノンをわたしと間違わないなら、それでよかろう。わざわざ、わたしをカノンと呼ぶ意味などないと思うが。やはり時々見分けがつかない瞬間があるのでは……?」
 見分けがつかないから面倒でまとめてカノンと呼ぶことにした、というのはあの年少の聖闘士ならありうる話だと思った。
 だが、カミュはやはり首を振って否定する。
「アレの考えていることはわたしにはよくわからないが……見分けがついていないということはないはずだ。あなたのことをサガと呼ばないのは、あなたがカノンと呼ばれるのを喜んでいることを知っているのか……いや、多分、アイツなりの照れかな」

 あなた達を確実に見分けているのを隠したい。
 だが、カノンを傷つけない方法で。

 ……だからあなたをカノンと呼ぶ。


「……素直じゃないな」
「意外と濃やかな男なんだ、アレでも」
 ミロがそう説明したわけではないだろうに、それに気づくカミュもまた濃やかな感性を持っている。幼い頃から、それこそ双子のように一緒にいた二人は、言葉にせずとも互いの考えていることがわかっているのだろう。

 我が弟は存外に愛されているのだな、とどこかそれは当然のこと(だってわたしの弟だ)と言わんばかりの口調でサガが呟き、カミュが、いや、誰もそこまでは言ってない……と言いかけた時、入り口のところへもう一人の美丈夫が顔を出した。

「……カミュ」

 カミュが来ることを予想して、足止めまで頼んでいたくせに、顔を見た瞬間に色々と後ろめたいことが思い浮かんだのだろう、カノンは扉の所でやや顔色を失って立ち止まった。
 わたしを見ても怯まないのがサガ。
 気まずそうに瞳を揺らすのがカノン。
 カミュはまた心の中で双子の差異を確認しながら、柔らかく微笑んだ。
「邪魔をしている」
「サガと話か。外そうか」
 まるでそうであってくれ、というかのように往生際悪く言うカノンの声の揺らぎに気づかなかったのか、カミュではなくサガが引導を渡した。
「いや、お前に話だそうだ。お前も話があるのだろう?わたしが外すとしよう」
 サガは今しがたのカミュとのやりとりの余韻に、相好を崩したまま立ち上がる。カミュはそのサガに向かって、そっと人差し指を唇にあてて見せた。
 今の話はカノンには言うな、という意味だ。
 サガはチラリとカミュを見て、わかっているさ、というように微笑んだ。
 ……本当にわかっているといいが。
 どうも、わたしが氷河のこととなると判断力が鈍るのと同様に、彼の男も弟のこととなるといつもの冷静さを欠くようだから、嬉しそうに実は……とつい言ってしまいそうで怖い。
 カノンに知られたら最後、ミロはサガを二度とカノンと呼ばないばかりか、今度はカノンをサガ、サガと連呼してみせるに違いない。
 さすがに、ミロからサガ、サガと連呼されたら堪えるに違いないとやや同情的な気持ちになったところで、扉が締まり、サガの背はその向こうへ消えた。


 カノンと二人取り残され、沈黙がおりる。


「立っていないで座ればいい」
 宮の主でないカミュの方が椅子を勧め、カノンはそうだな、と観念して今しがたサガが座っていたところへ同じように腰掛けた。
 ちょっと見には、人物が入れ替わったとわからないほど全く同じ光景がカミュの前へ広がる。

 話がある、と言って来たのに、何も言わないカミュに対して、カノンの方も話とはなんだ、とは問わず、互いに視線を交錯させたまま時が過ぎる。
 視線を逸らすことなく、カミュの紅い瞳の凝視を受け止めていたカノンが、なるほど、話がある、のではなく、俺の弁明を聞きに来た、のだな、と気づくまでその沈黙は続いた。
 カノンは小さく息を吐くと、カミュに向かって深々と頭を下げた。
「氷河には悪いことをした。……コレを」
 カノンが手に持っていた(多分それを買いに街に出ていた)、可愛らしく包装された包みをカミュの方へ差し出す。
 カミュはカノンに視線を定めたまま、そちらには目もくれない。
 カノンは再び頭を下げた。
「物でごまかそう、というつもりはない。ただ……ここの菓子が好きだと聞いたのでな。わたしからだと言う必要はない」
 なるほど。
 ミロの入れ知恵だな。
 ほかに、氷河が食べ物に釣られるのを知っているヤツなどいない。
 カミュは黙ってそれを受け取ったが、カノンに定めた視線はピクリとも動かさなかった。
 気のせいか、宮が寒々とした冷気に覆われているようだ。


「カノン……氷河はわたしのところへすぐ来なかった」
 長い沈黙の後に、ようやくカミュは口を開いた。
 カミュが言った意味がわからず、カノンが眉間の皺を深めて問うような視線を向けた。
「氷河はな、何があったか悟らせないためにわたしに会うのを拒んだ」
 その説明はカノンを戸惑わせた。
 カミュの名を呼んでいたから、てっきりあの後すぐにカミュに泣きついたとばかり思っていた。
 だが、そういえば、すぐに泣きついたにしてはカミュが下りてくるのがずいぶん遅かったと、今さらながらにカノンは思い至った。
「そういうことになるとは思わなかった。悪かった」
「なぜかわかるか」
「……」
「アイザックと……」
 突然に、無関係の名が出て、カノンの眉根がますます不審げに歪められる。
「アイザックと氷河は、わたしたち二人の関係が悪くなってはいけないと、どうも相当に気を使っているようだ。氷河は……だから、あなたのことをかばった。もう少しあの子が嘘がうまかったら、わたしは永遠に何も知らぬままだっただろう」
「……それは……そう、だったのか……。お前の弟子は、お前に似て聡いのだな。そうとは気づかず、本当にすまなかった。直接謝りたいところだが、わたしはもう会わない方がいいだろう」
「いや、そうではない。……すまない、あなたに謝らせたいわけではない。本当のところは、今日はわたしはあなたに詫びに来たのだ」
 お前が?俺に?(とてもそういう態度には見えないが?)

 カミュは全身に漲らせていた緊張感をふっと解いた。
 救いを求めるように、少し困った顔でカノンを見る様は、いつもの大人びた表情ではなく、初めて年相応に幼く見え、何故だかそれが微笑ましかった。
「弟子二人にそんな風に気遣われてわたしは堪えた。二人が変に気をまわしてしまったのはカノン、あなたのせいではない。あの子達はとてもわたしのことを慕ってくれているのだ。だから、わたしの態度の方に問題があったのだと思う。申し訳なかった」
 カミュに深々と頭を下げられて、カノンは逆に居心地が悪くなる。
「謝るな。元凶は俺にある。アイザックの師であるお前が俺を赦せない気持ちだったとしても無理はない」
「違う、カノン。アイザックのことはわたしに責任がある」
 カミュは異論は認めない、というふうにカノンが口を開くのを遮る。
「アイザックはわたしが護りきれなかった命だ。わたしの指導の未熟さをすべてあの子へ背負わせる形になってしまった。あの子を失った時、わたしは何度も何度も氷の海に潜って祈った。神よ、あの子を返してくれるなら、わたしの全てをなげうっても構いません、と。どうか、わたしの至らなさを、あの幼き命へ背負わせるようなことにだけは、と……だから、どんな形であれ、願いを叶えられたわたしは感謝こそすれ、あなたを恨むような気持ちなど抱きようがないのだ」

 いつかミロが言っていた。
 カミュは気にしてはいない、と。

 気にしていないばかりか、自分を責めていたとは。
 ああ……
 成熟しているように見えてもお前はまだ20歳。どれだけ苦しんだことか。

 だが、それなら、なおのことカノンは自分の罪の大きさを感じずにはいられない。

「カミュ、ならば、なおさら俺はお前に詫びねばならん。アイザックは……ずっとお前の元へ帰りたがっていた。己の身勝手で俺がそれを断ち切らせてしまった」
 カミュはしばらくカノンの言葉をゆっくりと噛みしめていた。拳を何度か握ったり開いたりして、己の中の思いと向き合っていたが、やがて顏を上げて真っ直ぐにカノンを見た。
「いや、それでもやはりわたしはあなたに感謝している」
 決然とそう言う、その瞳は色こそ違えど、ミロのものと似て、潔い美しさに満ちていて。
 ああ、お前達には本当に敵わない。
 それだからこそ、お前達は7歳という幼い時分から黄金聖闘士たり得たのだろう。
 俺が黄金聖闘士でなかったのは、単に双子の宿命のためだけではあるまい。俺自身にもやはり原因があったのだ。

 カノンが伏せた睫毛に翳りを見たカミュは、柔らかく笑って付け加える。
「わたしがあなたに感じているのは嫉妬だ。アイザックがことのほかあなたに懐いているので……それで」

 だから、あなたのことを責める者はどこにもいない、責められるべきはこのわたしだ、と言おうとして、カミュは途中で言葉を切った。
 視線を下げているカノンの表情に色濃く表れている昏い影。

 ああ、もしかしてあなたも氷河と同じなのか。
 気にするな、怒ってない、もう許す、お前は悪くない、どんな言葉も、深く刻まれた罪悪感を拭い去ることはできず、その罪と釣り合う罰を得るまでは、自己を責め続けることをやめられない。


 ───そうか。
 あなたは、故意にあの痕を残したのだな。

 ミロを手に入れる過程での戯れとしてなされた行為のその裏に、巧妙に隠されたもうひとつの意味。

 あれは、やはりカミュに対しての『さあ、怒れ』というメッセージだったのだ。

 あなたはずっと我ら師弟に詫びたかったのだろう。
 断罪される機会をずっと欲していたのだ。
 氷河を通して、あんな形でしか断罪を乞うことができないとは、あなたはなんと屈折しているのだろう。
 だが、あなたをそんなふうにさせたのはこの聖域で、自分はその聖域の一員なのだ。


 ならば。
 わたしがあなたにできることは。


「……カノン、1週間ほどあなたの時間をいただきたい」
 カミュは静かにカノンの方へ手のひらを差し出す。

 カミュの言葉の意味を問わず、俺を赦すのか、本当にそれでいいのか、と、やはり不本意そうな声を出したカノンは、だが、差し出された手を拒否するようなことはせず、諦めたようにそれを握り返した。


「……っ!?」

 手のひらに焼け付くような激痛を感じて、カノンは目を見開く。
 カノンが差し出した手は、カミュの掌に触れているところから、次々に酷薄な凍気に包まれてあっという間に白く霜づいていった。
 容赦ない凍気は、冷たい、という感覚も、痛い、という感覚も通り越して、熱いと皮膚に錯覚を起こさせた。

「過去のことではわたしはあなたを責める理由はないが、氷河に手を出した代償だけはきっちり払ってもらおう。カノン島で頭を冷やしてくるがいい」

 不意の出来事に驚きながらも、氷の彫像のように美しく凍りついて激痛を伝える腕を不思議そうに見つめている目の前のカノンは、カミュのその言葉に、やはりどこか安堵したような表情を見せた。


 本当は、命のやり取りをさせられる羽目になった氷河かアイザックにこうされたかったのかもしれない。
 凍気使いの氷河なら、あんなふうに追い込めば、力で劣るあなたにも裁きたり得るふさわしいダメージを与えられると考えたかもしれないが、残念ながら思惑通りに氷河は動かなかった。
 だが、あの子にそこまでさせるのは酷というもの。あなたをカノン島送りにした後で悩むのは氷河の方なのだから。
 あなたが、我ら師弟からの断罪を望むならば、その責は常にわたしが背負おう。


 カノンはまだ自分の腕を矯めつ眇めつ見つめている。
「あまり動かさない方がいい。カノン島へ行くまでに指の一本でも欠けたら事だ」
「氷河を泣かせた代償が腕一本でいいとは……お前にしては生ぬるいように思うがいいのか」

 やはり、そこへ氷河を泣かせたこと以上の贖罪を乗せたがっているカノンの言葉には、カミュは答えず、静かに息を吐いた。

「カノン、それで、ミロは手に入ったのか?」
 気づいていたのか、とカノンは苦笑しながらこめかみをもむ。
「アレが、簡単に御せるようなタマだと思うか?」
 だが、わたしの氷河を泣かせたからには、せめてミロの気を逸らす役にくらいは立ってくれないと困るのだが……と呟いて、カミュはカノンの腕を指差した。
「ミロが氷河に手を出すようなことがあったら、次は片腕だけでは済まない」
「……今、ミロは俺のものではないと言っただろう」
「それはわたしの知ったことではない。死にたくなくば、きちんと目を光らせておくことだな」

 それができるなら、とっくにやってる、とカノンは溜息をついた。
 ミロがどんな方法で氷河を手に入れることを思いついたか、コイツが知ったら……。

 背筋の凍る思いでもう一度ため息をつき、ふと、カノンは顔を上げた。
「おい……俺がカノン島に行っている間にミロが氷河を構ったらどうする」
「当然、あなたの責任だ」
 そんな無茶な。
 ミロといい、カミュといい……
 前言撤回。
 黄金聖闘士、(兄を含めて)変人ばかりだ。俺はまともだから黄金聖闘士にはなれそうにない。
 カノンは首を振って笑った。
「せいぜい氷河を大事に隠しておくんだな」
「それができるなら、とっくにそうしている」
 今しがたのカノンの愚痴と全く同じセリフで応えたカミュに、二人の視線が絡まりあい、やがて、どちらからともなく笑い始めた。

 過去から現在へと複雑に絡まり合っていた感情は、少しずつ穏やかにほどけて行く。
 お互いに、一度には過去をなかったことにはできないだろう。だが、一つ何かを乗り越えて、克服する道標に光が射し始めた。

 カミュがもう一度、反対の手を差し出す。
 カノンは一瞬の躊躇の後、それを取った。
 今度は、激痛が走ることはなく、ほんのり冷たい指先は柔らかくカノンの手を握りしめた。

(fin)
(2012.6.22~7.21UP)