『手のひらの六花』より続く世界。
転生したカミュ8歳が氷河22歳の元へやってくるところから始まります。
現時点までに一氷はできあがり済。(経緯などは番外編などでご確認ください)
◆第一部 ①◆
「水瓶座、アクエリアスの氷河、ただ今参上仕りました」
女神の御前に、黄金聖衣をまとった氷河は静かに膝をつく。女神は、柔らかく微笑んで氷河に顔を上げさせた。
「先の魔族討伐はご苦労でした。いつもあなたにばかりお願いして申し訳ないとは思うのですけれど、ほかに人もいなくて」
「じっと宮に籠っているよりは性に合っているのでお気遣いなく」
女神とその戦士、というよりはずっと近い距離感で、沙織は、みたいですね、と少し笑った。
「でしたら、あなたを宮に留めておかないといけないようなことをお願いしてはいけないかしら」
「……と、言いますと」
「任せたい子がいるのです」
「俺に、ですか」
「ええ、あなたに」
「弟子を、という意味ですか」
「もちろん」
「俺はあまり人を教えるのに向いてないが」
「知っています」
突然に降って湧いた話に困惑し、黄金聖闘士としての顔を忘れ、ただの氷河に戻ってしまった彼に、沙織も慈愛の神から高飛車な我が儘娘の顔に戻って応える。
「いつものように紫龍か瞬では……?二人なら俺よりずっと立派な聖闘士を育て上げられる」
アクエリアスの座を継いで、もう何年にもなる。
聖域は復興のために、聖闘士の候補生を次々に新しく受け入れ、あの、寂しかった十二宮にも活気は戻り始めている。年若い聖闘士のタマゴの多くは養成所で過ごしてはいるが、その中でも特段に素質があると見込まれた者は、黄金聖闘士に師事することを許されている。
黄金聖闘士に、とは言っても、その黄金聖闘士がまだすべて揃ってはいないわけだが。
後進の育成に熱心であった紫龍と瞬が主にそれを担っていて、氷河は打診があるたび、俺には向かないから、とそれを断り続けてきた。
あまりに毎度毎度断るものだから、近頃では打診もなくなってきていた、そんな矢先のことだから、なぜ今更俺に、という氷河の困惑は当然というもの。
だが、氷河の困惑などお構いなし。
沙織は、いいえ、ときっぱりと首を振った。
「今回ばかりはそういうわけにもいかないのです。だって、凍気使いにしか凍気使いは育てられないのですもの」
凍気使い。
沙織の言葉に、氷河の心臓はドッと鳴った。
「凍気使い、なのか」
「ええ。ようやく見つけたのです」
ようやく?と問い返した氷河に、沙織は、ええ、ようやくです、と答えた。
凍気使いをずっと探していたとは初耳だ、俺一人では足らなかったか、とややプライドを刺激されたが、もちろん氷河はそれを口に出すことなく飲み込む。
「それなら俺が妥当だとは思うが……だが……」
強い抵抗感に氷河はすぐには首肯できない。
氷河が今まで弟子を取っていなかった理由はただ一つだ。
表向きには、外向きの任務の方が向いているから、という理由で退けてきたが、本当のところは、自分に新しく師と弟子、という人間関係を築ける気がしなかったからだ。
氷河の中で自分は永遠に「弟子」であり、そして「師」とはカミュただひとりだ。
ここのところ、ようやく穏やかな気持ちで思い出せるようになっていたカミュとの思い出を、ほかのもので上書きしたくはなかった。
青銅聖闘士として過ごした以上の時間を黄金聖闘士として生きていながら、いつまでも「カミュの弟子」のままでい続けたい、と願うのは、もしかしたら甘えであったのかもしれない。
だが、刻々と薄れゆく、かつての黄金聖闘士たちの気配に、せめて心の中でだけはあの頃のままの形を留めていたい、というのは氷河のささやかな抵抗だ。
何より、カミュ以外の人間がアクエリアスとなることは、氷河には想像もできない。
氷河自身がアクエリアスとなることを引き受けたのは、ほかの誰かに任せてしまうくらいなら、という、子どもじみた拘りの結果であったのかもしれない。
新しい姿に活気あふれる聖域は喜ぶべきものだが……それでも、不変を望む氷河の心に比して、どんどんその姿を変えてしまう世界は、どこか寂しさを誘う。
だが、氷河とて永遠にアクエリアスでいられるわけではない。
今はまだ全盛を誇る力も、時と共にやがては衰え、そして命も尽きる。
次代を養成せねばならない時に来ているのは理解できる。
でも、まだ───もう少しだけ、カミュと二人の時間の余韻に浸っていたいというのは許されないのだろうか。
あれから8年。他人はもしかしたらそれを、余韻と呼ぶには長い時間だと感じるかもしれないが、氷河には、新しい師弟関係を築く一歩を踏み出すには十分時間が経ったとはまだ言い切れないのだ。
氷河の長い逡巡と葛藤に、待っていても、氷河が自ら踏み出せるものではないと知っているのか、沙織は、氷河が答えを出すことを待たずに、こちらへおいでなさい、と玉座の背後へ向かって呼びかけた。
待て、俺はまだ引き受けるとは、という氷河の止めたては、呑んだ息によって喉奥に消えた。
子どもが、立っていた。
肩のところで切りそろえられた鮮やかな赤毛と、それを映したかのような紅い瞳。
姿勢よく、凛とした立ち姿はどこか懐かしさを呼ぶ。
「………カミュ……」
違う、これはカミュではない。
カミュではありえないのに、それでも、咄嗟にその名を呼んでしまったほどにはよく似ている。
沙織が玉座を滑るように下りて、その子どもの傍へと近寄る。
「あなたの名を、氷河に」
促されて、子どもは礼儀正しく頭を下げ、氷河の目を真っ直ぐに見た。
「はじめまして。カミュといいます」
氷河はもう一度息を呑む。
この事態の説明を求めて、氷河は己の神を見やったが、沙織ときたら、こういう時に限って「神」の顔はおくびにも出さずに、不思議でしょう?こんな偶然ってあるのですね、などといっそ無邪気にすら見える表情でにっこりと笑ったのみだ。
悪戯にしては手が込んでいる上に性質が悪い。
だが、冗談ではないのだとしたら。
氷河は、まじまじと目の前に立つ子どもを凝視した。
カミュであるはずはない。彼はもういないのだから。───己がこの手で命を奪った。
はじめまして、と言った。
そう、初めて会うのだ、この子とは。
だいいち、氷河はカミュの幼い頃を知らない。だから、似ているかどうかなど、判別はできない。氷河の知るカミュとはまるきり体格も年齢も違う。
それでも、氷河を不思議そうに見つめ返すその瞳はカミュそのものだ。
「氷河、さっきも言いましたけれどこの子は凍気使いなのです。あなたに預けたいのですがいいかしら」
沙織の声が何故か遠く聞こえる。
俺が、この子を育てる?
凍気使いとして───?
駄目だ、俺にはできない。
まだ「カミュ」以外を宝瓶宮に受けいれる心の準備ができていない。「師弟」のような深い関わりを他者と持つのはもう───
「氷河?」
氷河の意志を問いながら、多分、彼女の中ではもう答えは決まっている。
お嬢さんも人が悪い。
問答無用で命じてくれれば腹も括れるというものだが、最後の最後のところは氷河に決めさせるのだ。
やさしいようでいて、多分、誰よりも氷河を甘やかしてはいない。
(そういうところはどこか師にも似ている)
結局、氷河は逡巡の果てに、頷いた。
「俺でいいのかはわからないがやってみよう」
謙遜ではない。本心だ。
自分が師のように誰かを導くことができるような立派な存在である自信などないのだから。
沙織は、そう言ってくれると思っていました、と笑って、カミュの背を氷河の方へ押しやった。
緊張した面持ちで、沙織に背を押された子は、ゆっくりと氷河の元へ歩み寄ってくる。
跪いたまま、それを迎え、氷河は間近で彼の顏を見た。
間違えようがないほど違う外見をしているのに、やはり似ている。
師の幼い頃はこうであったに違いないと確信できるほどに、表情も仕草も記憶の中の師と同じだ。
とても現実のこととは信じられぬ思いで、言葉を失い凝視することしかできぬ氷河に、カミュは戸惑っているようだ。
「あの……よろしくお願いします」
おそるおそる、頭を下げてくる、肩に流れる赤毛の柔らかな感触までが氷河の指先に呼び覚まされて、氷河はもう声も出せない。
声を失って、ただただ茫然とカミュを見つめる氷河に困惑して、カミュが女神を振り返った。
困ったように笑いながら、沙織は二人に近づき、氷河、と青年の肩を叩く。
ハッと氷河は我に返る。
困惑して己を見つめ返す小さな瞳に気づいて、氷河は慌てて立ち上がり、こちらこそよろしく、と、早口で告げた。
あたふたと踵を返しながら、では預かります、と沙織に短く告げて数歩歩いて、氷河は、早急すぎた切り返しに、カミュがついてこれていないことに気づいた。カミュは、自分がどうすべきか判じかねてまだ女神の傍へ立ったままだ。
しまった、と、ぎくしゃくとまた数歩戻って、カミュの前に立ち、氷河はしばし考えた。
こういう時、何と言うものだろう。
着いてきなさい、では、いきなりえらそうではないだろうか。おいで、では、猫の仔でも呼んでいるかのようだ。
我が師はどうしていただろうか。
氷河と最初に出会った日の我が師は───
記憶を探り、そして、氷河は迷いながらカミュに向かって手を差し出した。
差し出された手と氷河の顏を見比べるように何度か見つめて、やがて、カミュはおずおずとその手を取る。
カミュの手が氷河に触れた瞬間、氷河は、あ、と声を漏らして、天を仰いだ。
揺り動かされた感情が涙となって、今頃になって瞼の裏を熱くしていた。
彼の手は、ひんやりと少し冷たかった。かつて幼い氷河の手を取った師がそうであったように。
宝瓶宮までの短い道程を、手をつないで下りる。互いに口はきかない。
唇を固く結んでいる幼い新弟子の緊張を和らげてやるような余裕は氷河にもなかった。
カミュと出会ってからの日々が次々に甦ってきて、氷河の心を過去へ引き戻す。
雪の中を、カミュに手を引かれて歩いて辿り着いた小屋でアイザックと出会った。
それからは何をするのにも三人で。
寝ても醒めても訓練ばかり。よく叱られて泣いたし、身体がきつくて何度も吐いた。
だけど、あの日々が、今の氷河の全てを作ったのだ。
今もまだ、それは氷河と共にある。
もう一度、あの日々を……?
今度は俺が師となって、このカミュと共に……?
「ここが宝瓶宮だ。わたしの守護する宮になる」
宝瓶宮に辿りついて、氷河は初めて声を出した。
はい、と返事をしたカミュの声はずいぶん固い。もしかしたら不安を感じているのかもしれない。初めて師と出会った氷河がそうであったように。
さすがに年長者らしく打ち解けるための配慮をしてみせようと、氷河は彼の前へ視線を合わせるように膝をついた。
「自己紹介がまだだった。わたしは氷河と言う。……今はアクエリアスの聖闘士だ」
「はい。氷河先生、よろしくお願いします」
せんせい、と呼ばれて、氷河はややたじろいだ。
先生、か。
この俺が?
「『先生』はいらない。氷河、と呼んでいい───いや、悪い。今のはナシだ。氷河とは呼んではいけない。ただ、『先生』とのみ呼んでくれ」
それに気づいたのは、全く、奇蹟的に気が利いていたというほかはない。
先生と呼ばれるにふさわしい人間だとは思わなかったが、だが、今はまだ、子ども特有のハイトーンボイスのカミュが、いずれ成長し、あの懐かしい低音で『氷河』と呼ぶようになることを想像して、体が震えた。
動揺しない自信はない。
師として彼の前に立つのであれば、自分の感情を乱すものは排除しておくに越したことはない。
カミュは氷河の言いつけに、素直に、わかりました、と頷いた。
「君はいくつになる」
「もうすぐ8歳になります」
「もうすぐ?いつだ」
「はい、来月に誕生日を迎えます。2月7日です」
問い返した時からもう氷河の心臓は煩く鳴っていた。カミュの返事が全て聞き取れないうちに、氷河は思わず、カミュの小さな体を引き寄せて抱きしめていた。
カミュだ、あなたは。
二つまでなら偶然だ。だがこれだけ重なるとそれはもう必然だ。
俺が抱いているのは、きっと、カミュの魂だ。
漏れそうになる嗚咽を、氷河は必死で噛み殺す。
願っても叶わないと思っていた。
もういない人だと知っている。
なのに、街に出ればよく似た赤毛に目を奪われ、氷河、と呼ばれた気がしてはハッと振り返ることをやめられない。
理性では過去のことと割り切り、だが感情は今もまだ、会いたい、と願わずにはいられない、大切なひとだ。
どんな形でもいい。例え幻影でも亡霊でも、夢でだって。もう一度だけ、姿を見ることを許されるなら、と願っては諦めてきたものが、今ここにある。
強い力で突然に抱きしめられ、カミュは激しく困惑した。
聖衣が当たって少し痛い。
でも、『先生』の体が震えているから、拒絶するのも悪い気がして、カミュは黙ってその抱擁を受ける。
ちょっと変な師匠に当たっちゃったのかな、と思いつつも、大人のくせに子どものようにカミュにすがっていることがなんだか痛々しくて、おずおずと腕をまわし、カミュは少し聖衣姿の背を撫でてみた。
先生にこんなことをしたら失礼だろうか、と思いながら。
カミュの腕の動きに、氷河は少しハッとしたようだ。
カミュから離れ、顔を隠すように背けた。
でも、カミュは見た。長い睫毛が濡れている。
「先生……?」
「すまない。……君にとてもよく似た人を知っていてね。……少し思い出した」
「俺に似た人ですか」
その人は先生の何だったんですか、とは訊けなかった。濡れた睫毛がそれを拒絶していた。
「君はとてもいい聖闘士になれる。わたしが保証しよう」
「まだ、俺の何も知らないのに断言していいんですか」
「ああ。これは絶対だ。きっとすぐにわたしを超えて行けるだろう」
「先生、『絶対』などと軽々しく言ってはいけないと思います」
言って、しまった、とカミュは思った。
まだ物心つくかつかぬかの年齢であるというのに、カミュは論理立てて思考するのが好きで、どんな些細なことひとつ、理に合わないものを受け入れるのをよしとしない。冷静に思考して、おかしい、と感じるものについてははっきりとそれは間違っていると指摘せずにはおれず、しばしば周囲の人間に「かわいげがない」とか「融通が利かない」「子どものくせに生意気だ」、と厭われる原因にもなっていた。
そのこと自体は別にいい。間違ったことを自ら正せもしない人間に何と言われようと気にはならない。
だが、これから師事することになる氷河に、初対面でいきなり疎まれてもいいかと言えばそれはまた別の問題だ。
何しろそこはまだ子どもだ。
深く関わりのない人間に己の信条を曲げてまでやたらと媚びへつらうような真似はしないが、だからと言って、身近な人間に「かわいくない」と言われては気落ちしてしまうほどには、まだ、己自身の性質を割りきれていない。
生意気だと思われてしまっただろうか、と少々落ち込んだカミュをよそに、だが、氷河はなぜか、嬉しそうな顔をしてカミュの頭を撫でた。
「カミュの言うとおりだ。わたしはこんな師匠だからな。わたしが間違っていると思ったら、遠慮なく叱ってくれ、今みたいに」
「そんな、叱ったつもりでは……」
嫌われてしまったわけではなさそうだが、これはこれでなんだかがっかりだ、と結局カミュは気落ちした。
黄金聖闘士だっていうからどんなすごい人かと思ったのに、なんだか想像と全然違う。
女神がカミュを訪ねてやってきた時は、ああ、やっと自分の居場所が見つかった、というひどく安心した気持ちになった。
最強と言われる黄金聖闘士の元で指導が受けられるのだと聞いて心が躍った。
教皇の間で初めて氷河を見た時は、聖衣から青い燐気が立ち上っていて、その圧倒的な威厳に畏怖で総毛だった。
背を雷で撃たれたような衝撃が走り、このひとだ、と思った。
知らぬうちに身についていた凍気を操る力は、このひとに会うためにカミュに与えられたものだったのだ、と。
でも───違ったみたいだ。
今、目の前にいるこの人は、なんだかとても頼りなく見える。
今まで誰も弟子を取っていなかったらしいのが何よりの証拠だ。
失望感を顔に出さないようにするのは、やや努力を要したが、あまり努力する意味もなかったかもしれない。
カミュの気落ちに氷河が気づいた様子は全くなく、さあ、と彼は立ち上がってカミュに笑いかけた。
「案内しよう。今日はまずここに慣れるといい。訓練は明日から始める」
このひと大丈夫なのかなあ、という不安を拭いきれないまま、はい、とカミュは殊勝に頷いたのだった。