サンサーラ本編の1年前。
カミュ氷前提一氷。
◆北風で太陽 後編◆
立ち上がるのにはしばしの時間を要した。
既に、目に映るものすべての輪郭が二重に見えていて、よろめかずに立ち上がる自信はなかった。
だが、こっちだ、早く来い、とボトルとグラスを抱えて宮の薄暗い廊下へ消えた一輝は、氷河とほとんど変わらない量を飲んだはずなのにまるきり何事もなかったような足取りだった。
おかしい。奴の身体は一体どうなっている。
一輝は平気であるのに自分の方はもう立てないと認めるのは癪で、だから、氷河は、軽く呻きながらもどうにか立ち上がってみせた。
ぐるぐると視界は回っているが、まだ己の身体の制御を完全に失っているというほどではない。
水底にいるかのように揺らめく視界は何度瞬きをしてもそのままで、うまく焦点を合わせることは早々に諦め、壁についた手を支えとしながら氷河は一輝の後を追う。
場所を移すというのは、てっきり宮の外へ出ようという意味かと思ったが、一輝は宮の奥手に広がる中庭で待っていた。
折しも季節は真冬だ。
身を切るような冷たさの風が吹き、空気は恐ろしく凍えている。
ただ、何もかもが凍りついているせいで空気中の不純物は少なく、星の光はよく届く。柔らかな白い光が微かに降り注いで、中庭の木々の梢をほのかに照らしているのが美しい。
星空を肴に飲むのはロマンチックと言えなくもないが───そういう甘いムードとは対極の間柄であることは疑いの余地がない。
だいいち、シベリアで育った氷河にはむしろ酔い醒ましにはちょうどいいこの冷気は、一輝にはかなり厳しいのではないだろうか。
氷河の思考が読めたわけでもないだろうに、抱えていたボトルとグラスを地面へと置きながら、やっぱりくそ寒いな、と一輝が悪態をつく。
「風邪を引いてはかなわん。とっとと始めるぞ」
何をだ、と問う間はなかった。
一輝の小宇宙が刹那爆発的に燃焼したからだ。
な、の形に口を開いた氷河は、棒立ちだ。
「遅い!」
その短い一言を言い終えないうちに一輝が放った拳は、氷河の前髪を削ぐように掠め、拳圧で数本の髪が空中へと舞い散った。
「何の真似だ、一輝!」
脊髄反射で防御の姿勢をとりながら、手にしたグラスと一輝とを見比べて氷河は戸惑いに叫ぶ。
「手っ取り早く酔いたいのだろう?『運動』すればすぐだと言っただろう」
いくぞ、と既に一輝は問答無用の構えだ。
いやいやいやいや。
さっきの拳は、氷河が避けなければ軽い脳震盪では済まないような本気拳だった。こんな『運動』はおかしい。お前という男はやることがいつも常識を外れている。
そうしているうちにも一輝は既に二の拳を放っている。それを片腕で受け止めながら、氷河は、くそっと呻いて己も小宇宙を燃やし始めた。
氷河の異論など聞くような男ではないことはわかっている。こうなってはくどくどと御託を並べたって無駄なだけだ。
小宇宙を燃やすために全身を巡りゆく血脈は、氷河の身体の隅々にまできつい酒精を運んでゆく。
視界に映るすべてのものの輪郭はあやしくなっていくばかりだ。
本気で当てるつもりであれ、当てないつもりであれ、対象物に照準が合わないなど危険極まりない。
小宇宙を制御することも難しく、氷河が手にしていたグラスはあっという間に凍りつき、音すら立てずに粉々に砕け散った。
気を抜けば互いに大けがでは済まない。
命を取り合うために対峙したあの日の緊張感と同じものが氷河を包む。
氷河は地面を蹴り、一輝との距離を詰めた。制御のきかない凍気技はひとまず封印だ。一輝の言うように、アルコールを巡らせたいなら身体を動かすのが手っ取り早い。
いつもほどの俊敏さに欠ける氷河の攻撃ではあったが、それでも、一輝は氷河の放った拳を完全に避けきることができずに、く、と数歩後ろへよろめきながら、腕を翳してかろうじて凌いだ。
氷河の視界があやういのと同じように、彼もまた、アルコールの影響が全くないとは言えないのだ、ということは氷河をやや安堵させた。
こいつも人間だったか。
ふ、と笑って氷河は後ろへ跳び退り、だが、その拍子に二歩、三歩、横へとたたらを踏んだのを一輝もまたふっと笑う。
視界がぶれるのも、よろめくのも、酔っぱらいのご愛敬だ。中庭に植えられている木々との距離感も一向に計れず、二人とも、時折、枝で顔を打つ羽目になっては自滅に呻く。
だが、あまり長い時間をそうしている必要はなかった。
何度目かにふらついて膝をついたのをきっかけに、一輝が自嘲的に笑い出した。ぜ、ぜ、と息をつきながら氷河も苦く笑う。
「動けたもんじゃない」
同感だ。
正直、ぐるぐると目眩がしていて気分は最悪だ。一輝の言うとおり下手に杯を重ねるよりずっと酔いを早める効果はあった。
「まだ必要か?」
一輝が地面に置いていたボトルを氷河の方へと差し出す。
もう一滴だって身体はそれを欲していない。
だが───
氷河は、ああ、と頷いて手を出した。
冗談めいてボトルを振っていた一輝の動きがぴたりと止まる。
必要かと聞いておいて驚くとは───ああ、こいつは俺が白旗を揚げるだろうと高をくくっていたのだ。それに気づけば、もう何が何でも全部飲んでみせずにはいられなくなった。
氷河は、寄越せ、と言ってやや強引に一輝の手からボトルを奪う。
グラスは先ほど割れてしまった。
行儀が悪いと師に叱られそうだが(───ああ、もう叱られることはないのだった)、直接に口をつけて残りの液体をすべて喉奥へと流し込む。
とろりとした液体が通り抜けた喉が焼けたように熱く、目の裏に星が飛ぶ。
身体だけはどうしようもなく不快な酩酊状態に達しつつあるのに、頭の中はまだ正常に動いていて、未だにカミュがまだいるかのように思考してしまう、己の弱さをぐるぐると考えてしまう。それが身体よりよほど苦しい。
ボトルの中身を飲み干したのが先だったのか、立っていられなくなったのが先だったのかはわからない。
気づけば氷河は夜露に濡れる下生えの草の上へ大の字になってのびていた。
視界一杯に広がる星空の隅を切り取るように一輝の顏が逆さまに見える。
後頭部に感じる、地面とは違う温かな感触はどうやら一輝の膝だ。どうなったのかは意識が途切れているためわからないが、多分、こいつのおかげで強かに地面に頭をぶつけずにはすんだのだろう。
すまん、と言おうとしたが、口から漏れたのは呂律の回らない呻き声だけだ。
「とんだ無茶をしたものだ」
夜の冷たい空気を震わせる低い声が星の光とともに降ってきた。
音がはっきりしない酩酊した耳で聞いたせいか、日頃の彼からは想像もつかない、ひどくやさしい声だった。
調子が狂う。
お前に言われたくない、と言ってやるつもりが言えなくなってしまった。
「俺のいないところではこういう無茶はするな」
まるで自分だけが氷河にとって特別であるかのような言い方をされることは気に入らない。
それでも、飲むなら俺もとまとわりついてきた星矢も、夕餉を食べていかないか、と引き止めた紫龍も、心配そうな表情で氷河、あのね、と物言いたげだった瞬も全て振り切ってきたのは、認めたくはないが───ある意味特別だからだ
絶対に不愉快な展開になるとわかっていて、それでも、ここを目指したのは、誰かに心配されるような存在でいたくはないからだ。氷河の意志などろくに確認しもせず己の欲求を押し通す、一輝の強引さに翻弄されているのは、気遣わしげに見守られているよりは案外と気楽で心地よい。
何より───多分一輝は知らない。今日が氷河にとってどういう意味を持つ日であるかを。
一輝の頭越しに見える夜空には相変わらず星が煌めいている。
星の加護を頼りに生きている身だ、天の動きは完璧に頭に入っていて、働きの鈍い頭でも、すっかりと夜半を越えてしまった刻限であることは見て取れる。
ああ、もういつの間にか日が変わっていた。
それを理解すれば、不意に猛烈な吐き気が氷河の臓腑をせり上がってきた。
ぐ、と呻きながら半身を起こし、地面へ向かって腹を折る。
不快過ぎて全身が激しく戦慄いているのに、せり上がった吐き気は胸のあたりでつっかえて、どうすることもできずに氷河は呻き続ける。
四つ這いとなって、ああ、うう、と咆哮じみた声を漏らしている様はさぞかしみっともないことだろう。
一輝の前で無様に膝を突き続けていることに抵抗はあったが、だが、もう己の身体を制御することは完全に不可能だった。
「堪えなくていい。吐けば少し楽になる」
弱音も。
泣き言も。
身体の自由を奪うばかりで何一つ救済をもたらしてはくれない酒精ごと、全部、吐き出してしまえ、と、そう聞こえた。
できない、と氷河は首を振る。
決して堪えているわけではないからだ。
吐き出し方がわからないだけだ。
嘔気だけは次々に催すがアルコール以外のものを何も収めていない臓腑は上手くそれを排除することもできずに、ただただ氷河に苦痛をもたらすばかりだ。
冷や汗ばかりが氷河のこめかみを流れる。
どうしていいかわからない。
だめだ、もうこれ以上意識を保っていられない、そう思った瞬間に、ふと背中越しの気配が動いた。
氷河の腹に大きな掌底が当てられる。
それを温かいと感じた瞬間、一輝の手のひらはぐっと強い力で氷河の腹腔を押し上げていた。
強烈な圧迫を不意打ちで食らって、往生際悪く腹と胸とを往復していた嘔気は引導を渡される形となって、一気に氷河の喉を、口腔を通り抜け、瞬く間に地面へびしゃりと飛び散った。
朝からアルコール以外のものは何も収めていない。つい今しがた喉を通ったばかりの透明な液体は、まるっきり消化されることはなく再び氷河の喉に焼け付く刺激だけを残して無為に地面へと吸い込まれて消えていく。
は、は、と肩で息をする氷河のこめかみにはまだ冷や汗が流れている。
だが───嘘みたいだ、氷河の意識を奪わんとしていた苦しさは少しだけ消えている。
酩酊状態は続いていて、水底に倒れた自分自身を遠くから見つめているような奇妙な非現実感と不快さで眩暈がしているが、だが、このくらいであればまだ耐えられる。
濃いアルコールの匂いだけは残っているが、吐いた液体は既に土へ消えてしまって跡形もない。
消えてなくなるような、たったこれだけのものを吐いただけのことで。
いつの間にか腹から背へと移動して、残りも全部吐き出せ、と促すかのように往復している一輝の手が温かい。
楽になりたいわけじゃない。
だが───
『俺は』
風にざわめく梢の音がうるさい。
うまく声になったかどうかはわからない。己の耳に届いたのは呻き声だけだったような気もする。
『今日で21歳になった』
多分、己の脳で響いているそれは、呂律のまわらない舌がうまく音にすることはできなかったのだ。
証拠に一輝からは何の反応もない。
聞こえなかったであろうことを安堵して、だから、次は気負いなくさらりと吐けた。
『カミュの生きた歳を越えた』
生き延びていることが辛いわけではない。
今もまだ聖闘士として戦えているのは何ものにも代え難い誇りだ。
なのに、彼のひとの歳を越えてしまった、その事実にまだこんなにも心を掻き乱される。
二十歳と少しで永遠に時を止めたカミュの時間がこの先も動き出すことは決してないが、氷河の上に流れる時間は、刻々と未来へ向かって進み続けている。一分、一秒、日に日に縮まっていくカミュとの距離に感じていた切ない寂しさは、それを追い越してしまった瞬間にもうどうしようもなく爆発した。
まだだ。
まだあと少しだけ、カミュを見上げていたい。
どれほどそう願っていても、時間の進みほど容赦のないものはない。淡々と、それはカミュを過去の時間に置いて来てしまい、氷河の抵抗虚しく、あっという間に彼のひとを「年下の師」へ変えてしまった。
彼のひとの気配の残る宝瓶宮にもシベリアにもとても今夜は居られはしなかった。
一輝はまるで無反応だ。
聞こえていたら、まだそんな女々しいことを、と言うに決まっている。
この男に子どもじみた泣き言を聞かせずに済んだのなら、意味のある言葉を紡げないほどアルコールを浴びた意味はあったのかもしれない。
ろくに嗜み方も知らんバカが無茶をした、せいぜいそう思ってくれていればいい。
がさがさと何かを探るように一輝が氷河の背後で動く。
「吸うか?」
声で振り向けば、どこから取り出したか、半分へしゃげた煙草の箱を一輝がこちらへと差し出していた。
お前じゃあるまいしそんなもの、そう首を振ろうとしたが、だが、刹那、気が変わった。
何も考えずにいられるほど酩酊することは失敗した。
心の裡で、とは言え、酷く取り乱した自分の身体を今夜はとことん苛め抜きたい気分になったのだ。
ああ、と頷いて氷河は、くしゃくしゃに歪んだ開封口から1本、細い紙巻を指先で摘んで取り出した。
撚れた煙草を唇に咥えた瞬間に、間髪入れず一輝がライターを投げて寄越す。
かろうじてキャッチだけはしたものの、数刻前まで意識を手放さんとしていたほどの酔っぱらいである。
親指の腹で金属の蓋を跳ね上げて炎を熾し、唇へ近づけて火をつけようとしたが、指先がひどく震えて、紙巻の先からは一向に煙があがらない。
「貸せ」
もどかしくなったのか、一輝がそう言って氷河から炎を奪った。
そのまま火をつけてくれるのかと唇を突き出してぼうっと待っていれば、顔を近づけてきた一輝は氷河の唇から煙草を奪って己の唇へと挟んだ。
風避けに片手を翳した一輝の顏をオレンジ色の炎が照らしている。
精悍な顔立ちは多分整った部類に入るのだろうが、眉間に残った大きな傷痕ばかりが目に入る。
お前その傷はどうした、と問うたこともあったが、一輝は、忘れた、と言って答えはしなかった。あれほどの傷痕だ、ついた経緯を忘れているはずはない。説明するのが面倒なのか答えたくない何かがあったのか。興味もなかったからそれ以上深追いはしなかった。
やがて、一輝が咥えた紙巻の筒の先から薄く紫煙が立ち上った。
傷跡の残る眉間に皺を寄せながら一輝が深く息を吸い込めば、筒の先がぼうと赤く光を発した。
紫煙を吐き出しながら、一輝が、ほら、とそれを氷河の唇へと戻す。
吸い口が彼の薄い唇の形に凹んでいる。
咥えた瞬間に、どことなく彼の唇の感触を感じてしまったような気がしたのは多分そのせいだ。
その感触を蹴散らすように、氷河は一向に震えの収まらぬ指先で軽く紙巻筒を支えておいて、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
が、吸い込んだかと思うと、気道に、鼻腔に、体験したことがないような酷い刺激を感じて、激しくげほげほとむせ込む羽目になった。
「……お、まえ、よく、こんなまずいもの……!」
喉の粘膜にまとわりつく不味さと不快さは、アルコールの嘔気の比ではない。
傍で煙るのともまた違う。
水底で揺蕩うようだったしゃっきりとしない身体の全細胞を針でつつかれたような気持ち悪さだ。
咳いた拍子に氷河の指先から地面へとこぼれ落ちた煙草を、一輝の指が伸びてきて拾い、己の唇へと挟んでいる。
あんな不味いものを平気で口にしているコイツは絶対どこかいかれている。
横目でその光景を見ながら、肺が上げた悲鳴に、身体を二つに折って、氷河は咳き込み続ける。
異物を排除しようとする防衛反応のせいか、鼻の奥がつんと刺激されて目頭が熱い。
くそ、と呻いて顔を顰めた瞬間に、下まぶたの縁に溜まっていた水が、ぽろりと一粒雫となって頬を掠め落ちた。
一度、形となってしまえばもうだめだった。
後は堰が切れたように瞼の縁から雫がぽろぽろと零れ落ちた。咳の発作がおさまってもなおそれは止まる気配がない。いくつもの透明な玉が流れ落ちた氷河の頬は乾く間もなく濡れ続ける。
「……くそっ、涙が止まらなくなったじゃないか」
「お前がいっぺんに吸い込みすぎるからだ」
唇の端に紙巻を咥えたまま優雅にふかしている一輝の余裕が悔しいが、だが、なんだ、そうか、煙のせいなら仕方ないか、と、涙を止める努力はそれで放棄した。
梢を揺らしていた風が少し強まった。
一輝の唇に挟まれていた煙草はいつの間にか全て灰となって落ちている。
夜露に濡れていたままだった背と濡れた頬に風が当たって妙に冷たい。
さすがにふるりと背が震えた、その時だ。
一輝の腕が背後から回されて、氷河の身体を抱き締めるように交差された。
温かな体躯に不意に包まれたことに戸惑って、な、と微かな声が漏れる。
慣れぬ形の抱擁の意味を困惑しながら探し、ああ、そうか、一輝もそろそろ寒くなったのか、と、どうにか己を納得させた瞬間に、節ばった指が頤にかけられて、気づけば唇が重ねられていた。
驚いて半分開かれたままの氷河の唇を、まだ煙草の香りが残る男のそれが柔くなぞる。いつもなら、キスというよりは愛撫に等しい性急さで、ただ男の熱を煽るように深められる口吻だが、今夜のそれはまるで違う。柔く触れるだけで離れたそれは、だがまたすぐに離れたことを惜しむようにそっと重ね合わされる。
これはいったい何だ。
誰にも慰められたくないからここへ来た。なのに、これでは。
寒いから、酔っているから、で済ませてしまうには、何かが違い過ぎている、背に回された一輝の腕が酷く気になって仕方ない。
そこまで同情されてしまうような醜態を俺が晒したとでも言うのか。
背も、肩も、唇も、腕も。
触れ合っているところが次第に熱を帯びていく。
それを心地よい、と思い、だが、その心地よさが耐え難い。
落ち着かない。
全力で逃げ出したい。
じわりと胸が温かく疼くような関係は過去へ全部置いてきた。一輝とは、否、もう誰ともあんな関係は築けはしない。ひとつ年を取った、それだけのことにこんなにも心を掻き乱されてしまう俺にはもう、永遠に無縁のものだ。
「お、れは……!」
「お前を抱きたい、氷河」
ようよう逃れて遅い止めたてをしようとしたというのに、遮るように重ねられた声に氷河は息を呑む。
いいか、と間近で重ねて問う男の頬にはいつもの人を食ったような傲慢な笑みはちらりとも見えない。
いつだって問答無用で、初めての時ですら、お前を抱くぞ、とこちらの意志など構いもしなかったくせに。何故今更そんなことを問うのか。
いいわけあるかこのバカ、と軽くいなせない空気に氷河の背が震える。
「……なぜ、俺なんだ」
そう問うてしまったのは、アルコールのせいで正常な判断能力を失っていたせいとしか思えない。一輝の空気にあてられて思わず問うたが、音となって己の耳に届いた瞬間、我に返って、しまった、という猛烈な後悔が氷河を襲う。
俺はカミュでなければだめなんだと、そう言った氷河に対して、変わらないものはない、と一輝は自信たっぷりに言い切ったが、互いの本音を探るような会話は、以来、交わしてこなかった。
いつまで死者を思ってうじうじしている、と揶揄するかのように一輝が氷河を詰ることはあったが、たいてい不遜な笑み混じりで、だから、好き勝手に氷河の身体を恣にしていることも含めて全部、これは奴の独特の喧嘩の売り方なのだと、そう思えていたのに、こんな、真正面から互いの心に向き合うようなやり方をしては───
だめだ、できない、俺には。
どんな種類のものであれ、新しい関係に自分を置くことは、自分の中の何かをひとつ捨てることだ。
捨てる?何を。捨てていいような軽いものは何も抱えていない。ならば、新しく踏み出すことはできない。できないと知っているのに、こんなふうに向き合っていいものではない。
氷河は一輝の腕から逃げるように身じろぎをした。
今のは聞かなかったことにしてくれ、と、なりふり構わず背を向けようとした時だ、一輝が、あの、馴染みの不遜な笑みをふっと唇の端に上らせた。
「お前なら少々無茶をしても壊れそうにないからな」
「な……?壊れ……?」
まるで玩具の話でもするかのように、そう言ってのけた一輝に氷河は目を瞬かせた。
どこまで無茶ができるかこれから試してみるか、と氷河を煽るように見下ろす瞳はいつもの一輝だ。
あ、ああ、と間の抜けた返事をしてしまったのは、大きく刻まれた眉間の傷痕をぼんやりと見上げながら、何かを壊して後悔したことがあるのだろうか、こいつも、と考えていたせいだ。
喧嘩を誘うように歪められていた一輝の頬が、また一瞬、頷くやつがあるか、バカ、と彼に似つかわしくない甘い笑みを滲ませる。
そのことに動揺して、いや、違う、そうじゃないんだ、と慌てて氷河は言ったが、一輝は、残念だがそう何度も撤回はさせてやらん、と言って立ち上がった。
「歩けるか」
そう言って見下ろす一輝の影が氷河の上へ落ちる。
歩けるわけがない。
酔っているからではない。歩くということは自分の意志で行き先を選択する、ということだからだ。元の木阿弥だ。一瞬の逃げ出す隙を自らふいにしてしまうという痛恨のミスに、氷河は地面から視線を上げられない。
氷河の上へ落ちた影は動かない。
そのことの意味を考えるのが嫌で、いっそもう、いつもみたいに強引にことに及べばいいじゃないか、身体なら貸す、俺の意志なんかどうでもいいだろう、と喚き散らしたくなる。
やがて、ふいと影が動いて、それは氷河の隣へ再び腰を落ち着け直した。
お前は世話が焼ける、そう苦く笑って一輝は一本、煙草を唇に挟んだ。
カチ、という音が暗闇に響いたかと思うと、また苦い香りが夜の空気に漂う。
待つ、つもりなのか。
俺が自分で立ち上がるのを。
今日一番の嫌な汗が背中を流れる。
困る。
無理だ。
どれだけ待たれたって、俺は───
一本、二本……一輝が何本吸ったかはわからない。途中で数すらわからなくなった。
くしゃり、と頼りなく紙が潰れた音で、もう煙草も尽きたのだと知った。
全身は土と同化したかのように凍りついていて、酔いなんかどこかへ行ってしまった。
白旗を揚げて尻尾を巻いて逃げ出せば、多分、今日の一輝なら無理強いはしないだろう。(願望だが)
だが、明日は?明後日は?
なにしろ───あいにくと俺達は生きている。
今日逃げ出せば居心地の悪さと戦うのが明日になるだけだ。
だから嫌なんだ、こいつとは。氷河の意志に関わらず、勝手に先へ先へと氷河を連れて行ってしまう。
だが、それをわかっていてここへ来た俺は……俺、は……。
くそっと短く吠えて、氷河はすっくと立ち上がった。完全に酔いは醒めたと思っていたが、立ち上がった拍子に地面が波打つのを感じてそうではないことを知る。
「腹をくくった!無茶したいなら好きにしろ!」
酔いを自覚したのに任せて自棄気味にそう宣言してみると、地面のあたりで、ふはっと笑い声が漏れた。
そんな誘い文句があるか、バカ、と、肩を震わせている一輝に、俺が誘いたかったわけじゃない、そう瞬時に頭に血が上る。
「ただし条件がある」
条件を付するなど傲慢もいいところだ。
己の身体にそれほどの価値があるとは全く思っていない。
だがまるで自分が望んでそうしているかのように思われたくはなく、頭に上った血が勝手にそう言わせていた。
一輝は、ほう、なんだ、と言ってゆらりと立ち上がる。
距離が近くなったことに動揺して視線を彷徨わせながら、氷河は頭の中を慌てて探した。
言ったもののあてがあったわけじゃない。
条件なんか無限にある気もするし、いっそ何もかもがどうでもいい気もしている。
だが、確かなことはひとつだけある。
「……俺の心に何かを期待するのはやめてくれ。今後も、ずっとだ。……お前に嘘をつきたくないんだ」
笑うでなく、嗤うでなく、冷たい風に吹かれたまま隣で氷河を待っていた男に突きつけるには、例え半ば照れ隠しだったとしても、あまりに冷たい言葉だ。
それでも、いい加減な関係を築いていい奴だとは思えないから、はっきりさせておかないわけにはいかなかった。
氷河にとって生きることは聖闘士であることと同義だ。そして、聖闘士であることとカミュの存在は不可分だ。どれほど歳を重ねたとしても、身体が一輝の体温を覚えたとしても、心の中からその存在が消えることはきっとない。
それを知っていて黙っていることも、消えたふりをしてみせることもできなかった。
一輝は、肩を揺らして笑って、氷河の髪をくしゃりと乱雑に撫でた。
「その正直さはお前の欠点だな。もう少し狡く生きて、俺のことくらい利用してみろ」
「俺は、真面目に……!」
「わかっている。だが、そう深刻になるな」
一輝は肩をすくめ、そして、先立つように背を向けて歩き出した。
「抱えていたいなら、何もかも好きなだけ抱えていればいい。お前は聖闘士だ、少々抱える荷が増えたところでつぶれたりはしない」
そうだろう、と振り返った片頬が笑っている。
そう、なのだろうか。
忘れなくとも、新しく踏み出すことができる、と?
だが、踏み出したことで、抱えていたものを手から零してしまったら?二度と帰らない大切なものを失うのだとしたら?
踏み出すことは簡単なことではない。
一輝は数歩先で足を止めて、半身振り返って氷河を待っている。
だから何で待つんだ、と理不尽な苛立ちが湧き上がる。
腹をくくった、という、酔いにまかせた宣告が今更ながらに悔やまれるが、だが、言ったのは己だ。男に二言はない。
ままよ、と氷河は一歩踏み出した。
(fin)