サンサーラ本編の1年前。
カミュ氷前提一氷。
◆北風で太陽 前編◆
最初にアルコールを口にしたのはいったいどういうシチュエーションだっただろう。
成人のお祝いに初めての酒宴を開いてもらって、ではなかったことは確かだ。(そもそも14、5歳の時から既に一人前となって世界を護ってきた聖闘士の「成人」はいったいいつだ)
酒も煙草も覚えたのは、師を殺して己自身の内側で燃え盛る憎しみを持て余していたデスクィーン島でだ。
あまりよくは覚えてはいないが、筆舌に尽くしがたい破壊衝動に苛まれ、多分、自分自身を壊す目的で最初は口にした。
今はもうあれほどの激しい破壊衝動には悩まされてはいないが、一度身に染みついた慣習はすぐに止められるようなものではない。口にすればその頃の記憶が過ぎってほろ苦くなるくせに、惰性でずるずるとつきあい続ける羽目になっている。
愉快とは言えない過去をふと思い出したのは、ふらりと深夜に獅子宮に現れた氷河が、つきあえよ、と言って、透明な液体の入ったボトルを目の高さに持ち上げて軽く振ったせいだ。
珍しいことが起こったものだ。聖域に雪でも降らそうという魂胆か。
氷河が自発的に目的地としてここ獅子宮を選択したことは過去にほとんどない。
否、多分初めてだ。
先の黄金聖闘士たちがどうだったのかは知らないが、今の聖域では黄金聖闘士同士の十二宮間の行き来はそう珍しいことではない。
それというのも主を持たない宮が未だ多くあるせいだ。こう手薄では自宮だけに篭もってもいられない。皆、宮を一つ任されたというより、聖域全体を護らねばならないという意識でいるせいか、なんとなく日常の行動範囲は無人宮も含めて意外と広い。
だが、氷河に限っては処女宮から下に下りてくることはまずない。厳密に言えば、一輝の不在時にはあるようなのだが、そうでない場合には、例え一輝本人に用があったとしても、瞬に伝言を任せて寄越すのが常だ。
その理由は明確だ。
一輝と二人きりになることを意図的に避けることで、時折結ぶ羽目になる不埒な交わりに対して、俺は断じて本意ではない、という意思表示をし続けているのだ。
それが、どういう風の吹き回しかふらりと下りてきた、それだけで天変地異の前触れであるように思うのに、携えてきたのが酒瓶ときた。
これが星矢なら皆を集めて宴会でも始める気か、とも思えるし、紫龍なら紫龍で、自給自足が高じてついには酒の醸造にまで手を出したか、とも思える。
一輝自身が酒瓶を抱えていたとしても、お前飲んだくれるのもいいかげんにしろよな、と言われて終わりだろう。(実際に「飲んだくれた」と謗られるほど酔った姿を彼らに見せたことは一度もない筈だが、そうしたイメージがついているのは、自分自身の日頃の言動のせいだという自覚もあるからわざわざ否定はしない)
だが、氷河とアルコールというのはまるっきりピンとこない。
必要とあれば酒席につきあうくらいのことはしているが、あくまで「つきあい」の範疇で、少なくとも彼自身に「飲んだくれる」ような自堕落なイメージはない。事実、一輝が知る限り、どれほど悩み、苦しんでいるときでも、氷河が酒や煙草の類に逃げ道を求めたことは一度もない。
貴公子と呼ばれているにしては少々性格に難があるが、だが、母親の影響か師の影響かそのいずれともなのか、氷河にはそういう品行方正さがあった。
だから、彼が軽く掲げて振ったものが、一輝もよく知る銘柄のスピリッツに見えたからといって、「つきあえ」の意味が「酒を酌み交わそう」と誘われたと受け取るにはまだ早い。
女神からどこかにあれを届けるよう頼まれたが面倒がって一輝に代わりに行かせようと思いついたのかもしれないし、もしかしたら、アルコールに見えるあれはグラード財団の英知を結集した秘密兵器で、「つきあえ」というのはその対人実験をさせてくれという意味かもしれない。
あり得そうもないことが二つも同時に起こっては、そんなふうに身構えざるを得ない。
だが、氷河と来たら、一輝がまだ諾とも否とも態度を示していないうちから、主を置いてさっさと獅子宮の奥へと入り込んでゆく。
一輝が拒むことなどないと信じているかのような確かな足取りで。
まさか本気でアルコールを介在に仲を温めようとでもいうつもりなのか。
この状況を素直に、鴨が葱を背負ってやってきた、と受け止められない程度には、氷河が一輝との間に築き続けてきた壁は大きい。
体を重ねることはもう特別なことではなくなりつつあったが、ただ徒に回数を重ねているばかりで、関係が甘く変化したとは到底言えない。
獅子宮の奥につくなり、恨み晴らさでおくべきか、と、あのごついボトルで殴りかかってくる可能性もなくはない。
油断できないな、これは、と、一輝は苦く笑って、氷河の背を追うのだった。
**
封の開いていない酒瓶は一輝を殴るためのものではなく、女神からのお使いごとでもなければ、ましてや秘密兵器でもなかった。
真実、アルコールはアルコールとして摂取するために持参されたものらしい。
差し向かいで酒を酌み交わす、という、一般的な同僚なら折に触れ行っているに違いないコミュニケーションを、今、一輝と氷河は長いつきあいの中で初めて試みようとしているのだった。
藪から棒に何を思いついたのだこいつは、と、警戒心露わに一輝が差し出したグラス2つを黙って受け取った氷河は、ボトルの蓋を開けると透明な液体をそのままグラスに注ごうとし始めた。
待て待て待て。
まさか原液そのままで飲むつもりか、と、慌てて氷河の手首をつかんだ一輝に、氷河は初めてそこに人間がいたことに気づいたかのような驚いた顔をし(グラスまで用意させた人間に対して失礼な奴だ)、掴まれた手首と自分が持っているグラスとに視線を往復させると、ああ、と合点したように手のひらに凍気を集めるとグラスを冷やし始めた。
───違う!
確かによく冷えたグラスで飲む酒はうまいが俺が止めたのはそういう意味じゃない。
少し待っていろ、とため息をついた一輝は、簡易づくりのキッチンへと向かう。
まさか突然酒宴が始まるとは思いもしなかったから、何の用意もない。長期の任務から戻ったばかりで備蓄の食材もあまりなく、調味料程度の寂しい冷蔵庫の中身だ。
氷と炭酸、あとは塩……ライムとまでは言わないがせめてレモンでもあればよかったが、残念ながら少々新鮮さに欠けるオレンジしかない。
萎びたオレンジでも、まあ、ないよりは幾分マシと言うものだろう。
どうせ洒落た雰囲気を出すために使うわけじゃない。あんなもの、何かで緩和しながらでなければ間違いなく悪酔いするに決まっている。
一輝が戻ってくるのを氷河はおとなしく待っていた。
立てた両膝の間に埋まっていた金色の髪が一輝の気配でゆらりと持ち上がる。
どうやら両掌で冷やし続けていたらしい凍り付いた二つのグラスを受け取って、一輝は手際よく塩と輪切りにしたオレンジでグラスの縁を飾り、アルコールを注いで一つを氷河へと滑らせた。
酒を携えてきたからには何かに乾杯でもしたかったのかと思って(そうでなくとも何となく最初の一杯くらいは互いにグラスを合わせるのが最低限の礼儀だろうと思って)、口をつけるタイミングを待った一輝にお構いなしで、氷河ときたら、日照りの砂漠でオアシスに出会った旅人もかくやの勢いでグラスをつかむなりそれをぐいと飲み干した。
───相変わらずこいつの行動が俺には理解できない。
喧嘩を売ろうとしてわざと乾杯を避けたわけではなく、他意はどうやらなかったらしい。
その証拠に、黙って二杯目を作ってやった一輝が、それを氷河の方へ戻す前に自分のグラスの縁と軽くチンと触れ合わせたのを、青い瞳は、それは何の儀式だと言わんばかりの怪訝な色を滲ませた。
……そもそも「乾杯」という発想自体なかったのか。
なのになぜ警戒している男の前でこんなものをいきなりストレートで飲もうと思ったのか、お前の頭の中は大丈夫か、鴨さん、葱さん。
酩酊した人間がどういう状態になるのかくらいは知っているとよいのだが。
「一体どういう風の吹き回しだ」
突然の来訪の理由を知る権利が俺にはあるはずだ、そう思い問うてみたが、グラスの縁を瞬きもせず見つめて氷河は、別に、と呟いた。
「意味はない。…………………ただ、」
そう言うなり氷河は黙り込んだ。
何か言おうとして唇を開き、だがうまく言葉にすることができずに仕方なく開いた唇にアルコールを流し込む、その繰り返しであっという間に二杯目も空だ。
───何があったか知らないがこれで意味なく訪れたと信じ込めるほど鈍感にはできていない。
三杯目は氷河の抗議の視線を無視して炭酸水で割ったものを渡しておいて、酷く今更な問いを一輝は口にした。
「お前はどのくらい呑めるんだ」
「……知るもんか。ウォッカくらいで酔っていたらロシアの子どもは風邪もひけない」
全く参考にならない答えだが、弱いわけではないらしいことだけはわかった。
ただ、早くも三杯目を飲み干して、何かに急き立てられるようにグラスをこちらに寄越して四杯目を強請る氷河は───ああ、俺はこれを知っている。
酒で、煙草で、自分自身を壊したくて壊せなくて満たされず、結局弟らにまで拳を向けさせた暴力衝動をまるで制御できずにもがいていた、あの頃の自分と同じだ。
どう足掻いたところで切り離すことができない、ほかならぬ己自身の心が苦しくて葛藤しているのだ。
だが、解せない。
近頃はすっかりと落ち着いて、危なげなくアクエリアスとして立っているように見えたのに、何故今更こんな自棄を起こしている。
「……やめておけ、お前にそういうのは似合わない」
四杯目のグラスを手渡す代わりに自分自身で飲み干した一輝がそう言えば、氷河は不満げに鼻を鳴らした。
「説教するなら他へ行く」
貸せ、とボトルへと手を伸ばす氷河の腕を一輝は掴む。
「どの宮でだってお前にこんな飲み方を許すものか。……飲むなとは言っていないだろう、ペースを落とせと言っている」
ちまちま飲んでいたって酔えない、と視線を逸らした氷河に、酔いたいのか、と尋ねても答えない。
何故突然に酔いたい気分になったのか。
酔いたいだけなら自宮でひとり呷っていれば邪魔する者はいなかっただろうに。誰かと飲みたい気分だったのだとしても、相手ならいくらでもいる。途中の宮をすべて飛び越えて獅子宮くんだりまで下りてきた理由がわからない。
何なんだお前は、今日はいつもに増して変だ、と一輝はため息をつく。
失敗した、と一輝が感じるのはこういうときだ。
色濃くつきまとう死者の影に苛立つあまりに強引に距離を詰めたのは、多分、性急すぎた。
北風と太陽だ。
感情を押し込めすぎて酷く危うい顔で立っている氷河に、もういない人間など一体何になる、とストレートに踏み込んだ一輝もまた氷河と同じだけ青く未熟だった。
心と身体は切って切り離せるものではない。
喪失の深手を乗り越えて新しく踏み出せと、心が受け入れる前に身体に刻みつけさえすれば何とかなると思っていた。
氷河のようなタイプには、否、殺し合った過去をもつ自分と氷河との関係においては、それは───きっと逆効果だった。
一輝が、後ろを向くな、と言うたびに、氷河は表情を強張らせ、お前の思う通りにはならない、と対抗するようにますます過去へ自分を閉じこめる。
今もそうだ。
何故、急に酔いたい気分になったのか、たったそれだけのことすら氷河は一輝には言おうとしないのだ。
慣れぬ酒に逃げて酔ってしまいたいほど苦しいくせに、お前には決して弱音など吐いてなるものか、と頑なに口を閉ざす姿はなかなかに痛い。
「弟」たちには弱いところを見せようともせず、そして一輝に対しても弱音が吐けないなら、氷河はそれを一人抱え続けるしかない。抱えて平気でいられるようなヤツなら放っておくところだが、そうではないと来ている。
かといって、一度力で押して始まった関係を変えることは難しい。
北風には北風なりに意地もあり、甘く、温かな言葉ひとつで旅人が外套を脱ぎ去ることを理解していても、急に太陽のようになれはしない。仮に一輝が譲歩して氷河にやさしくしてみたところで、氷河がそれを屈辱だと感じるなら逆効果だ。
聖闘士として信頼関係は揺るぎなくあるはずなのに、二人きりになると途端にぎこちなく軋む関係は、アルコールの力を借りてすら気まずい沈黙を生むばかりだ。
一輝は己のグラスの中身を一気に呷った。
ほんの少し流し込んだだけで喉が、胃が焼けるように熱い。これで酔えない人間がいるとは思えない。
証拠に、俺にも早く寄越せよ、と一輝に掴まれた腕を振り払おうとしている氷河の瞳の焦点は既に危うくなりかけている。
一輝はその腕をぐいと引いた。
ほとんど無抵抗で倒れ込んできた身体を、そのまま床の上へと押し倒して耳元で囁く。
「この状態で『運動』すればてっとり早く酔えるぞ。どうせこうなるとわかっていてお前も来たんだろう」
こんな言い方をしたいわけじゃない。煽れば煽るほど氷河は頑なになることは知っている。
だが、青白い顔で酒を呷る氷河が何も言えないでいる原因は己にあるのだと思えば、静寂があまりに痛く、何かで壊さずにはいられなかった。
かつて一輝を支配していた破壊衝動は今も不意にこんなふうに口を衝いて出てしまうのだ。過去を克服しろ、と嘯く一輝自身まだ少年時代に負った深傷は癒えきってはいない。
いつもなら、不器用な一輝の煽りをこれまた不器用な氷河が真正面から受け止めて、険悪な空気をどうにも軌道修正できないままなし崩しに組み伏せて後味悪くしてしまうが───今夜は少し勝手が違った。
見た目以上に酔いが回っていたらしく、氷河の反応がえらく鈍い。
突然に視界が回って混乱したのか、どこかに焦点を合わそうとして失敗した惚けた瞳を氷河は何度も瞬かせた。
そして、その瞬きの合間に、気づかぬほど小さな声で、だが、氷河は、ああ、と言って頷いた。
───『ああ』?
ああ、だって?
それは『こうなるとわかっていて来た』に対して、か?
つまりこの鴨は(白鳥は、か?)、自らの意志で葱を背負って来た、と言ったのか?
日頃あれほど不本意だ、と主張しているくせに?
氷河の腕を床の上へ縫い止めたまま一輝は言葉を失った。
固い壁だと思って拳で強く叩いたものが、ただの張りぼてで、肩透かしを食らってつんのめったような。
あまりの戸惑いにどう反応していいかわからない。
落ちた長い沈黙に、酔いが一瞬冷めたのか、ハッと開かれた氷河の瞳は今度は過たず一輝の上で焦点を結んで、違う、今のはそういう意味ではない、と慌てた声を出したがもう遅い。
アルコールが腑に染み渡り理性はその働きを少しずつ放棄しかけていて、正直、思いがけない氷河の一言は雄の衝動に一気に火をつけていたが───それでも、それ以上の衝撃が頭の芯を冷やしていた。
強固な擁壁だと思ったから己の拳が傷つくのも厭わずがむしゃらに打ち破ろうとすることができたのだ、そうでないなら、どうしてそんな真似ができるだろう。
一輝は、ふ、と息を吐いて己の熱を逃し、押さえつけていた氷河の腕を取り、ぐっと力を込めて引っ張り起こした。
既に己の身体を意志で操ることは難しいのか、前後左右にぐらぐらと揺れる細身の身体をソファへもたれさせてやりながら、そんなに慌てなくてもただの冗談だ、と言えば、氷河の瞳が驚いたように見開かれた。
氷河のグラスには炭酸水を、己のグラスにはもう一度アルコールのボトルを傾けて注いで、一輝は、それを一気に喉奥へと流し込んだ。
「……人にはペースを落とせと言っておいて、お前は何なんだ」
半端なアルコールは雄の衝動を煽るだけだからだ。男の機能が使い物にならないほどとっとと酩酊してしまわねば、本能で備わったこの衝動を抑え込むのは難しい。
「俺は自分の限界がどこか知っているからいいんだ」
「……お前は本当に勝手な男だよ」
「まったくだ」
身勝手は承知の上、それでも、死した黄金聖闘士たちの代わりにと沙織に請われて、群れて過ごす居心地悪さと戦いながら己を曲げてまで何年もこの宮に留まっている。
沙織に対してできたことが、氷河に対してできぬはずがない。
ほんの少し、自分が大人になりさえすれば。
「おい」
ソファの背へ身体を預けてずり落ちかかっている氷河へ向かって一輝は短く呼んだ。
「やっぱり、するか、運動。俺も酔いたくなってきた」
ほらきた、と氷河の身体が刹那強ばったのが見て取れる。
あまり過剰に警戒されては「ご期待」に応えたくなって困る。
それはもう、「衝動」と呼ぶほど刹那的なものではなく、もっとずっと心を温かく甘く疼かせる感情に根差す欲求であったが、自覚しないままに苦く笑って、一輝は、場所を移そう、と言って立ち上がった。