寒いところで待ちぼうけ

サンサーラ:<外編>


サンサーラ本編より数年前。
2222キリリクより 「一氷はじめて話」というお題でした


◆新しい聖域で ④◆

「……一輝、お前、それは一体どうしたんだ」
「昨日、餌付け中に咬まれた」
「……ヒナ、だろ……?」
「ヒナ、だ」
 頬や腕のいたるところにひっかき傷、唇には咬み痕、腕にはぐるぐる巻きの包帯、の姿の一輝が、今日も食糧を抱えて階段を上って行く姿に、途中の宮の友人たちは、ますます怪訝な顔をしている。どう考えてもヒナというより大型の獣に襲われたような恰好だ。
 この上に一体どんな獣が……?それはどこに棲息を……?
 一輝はそんな友人たちを、それ以上追及したら殺すぞ、とでも言うかのように鋭い睨みで黙らせて足早に宮を抜けて行く。


「そこからこっちに立ち入ったら殺す」
 氷河は静かに怒っていた。
 あんなことぐらいどうってことない、と努めてクールを装いながらも、隠しきれない怒りに声が尖っている。
 一輝を見る瞳が冷たく、凄絶なほどの美貌に拍車をかけている。
「わかった、わかった。近寄らない。今日のところは」
「永遠にだ」
「それは無理だな。近寄らねば抱けない」
「……ッ!そ、そうそう何度も許すと思うな!」
「感じることがわかってよかっただろう、俺相手でも。お前がちゃんと生きてる証拠だ」
「誰が感じてなど!」
「三度も達しておいてよく言う。違うというなら今ここでもう一度確かめるか?」
 コイツ相手に動揺するものか、と、感情を殺そうと耐えていた氷河は、ついに堪えきれず、怒りと羞恥で、真っ赤になって一輝を睨みつけ、足を大きく振り上げると踵を一輝の顔面に叩き込もうと渾身の力をのせた。
 一輝がすんでのところでかわして逃げると、今度はさらに凍気で全身を包まれた。
「おい、それはやめろ。知らないのか。女神の聖闘士は私闘が禁じられてるんだ」
「女神の聖闘士が聞いて呆れる!これが私闘なものか、天誅だ!!!」
 まだまだ怒り足りない風情の氷河を軽くあしらって、一輝はぶら下げてきた食料を掲げて見せる。
「そんなに尖るな。せっかくの食材が凍るだろうが。今日はお前がやるんだ。教えてやるから覚えろ」
「知るか!なんで俺がお前なんかに教わらないといけないんだ!」
 一輝は、わざとらしく大仰に巻いてきた両手の包帯を氷河に見せる。
「お前のせいだ。当分水仕事はできそうにない」
「自業自得だ。バカめ」
「おかげでカノン島にも行かなければいけなくなった。俺がいない間食べるものに困るだろう?」
「誰が困るか!!二度と帰ってくるな!」
「なら、飯はどうする気だ。また食わないつもりか?誰かに泣きつくか?それとも俺の代わりに誰かに気づいてもらうのを待つのか?……おい、いつまで甘えているつもりだ?俺に構われたくないならお前自身が乗り越えろ」
 怒っているのはこちらの方なのに、逆に凄まれて、思わず氷河は黙った。
 一輝の言うことは正し……いかもしれないが、やっていることは正しくない!!
「ふざけるな、一瞬騙されかけたぞ!だからって、別にお前に教わる必要はないんだ、よく考えたら!別のヤツに聞いてもいいんだ、米の炊き方くらいは!」
 ───つまり、米の炊き方から教えなきゃいけないんだな、俺は。
 一輝は、怒る氷河を無視して勝手知ったる宝瓶宮の奥へと入って行く。

**

「ああ!そんなに沸騰させて!違う、バカ!出汁は汁の方を使うんだ、捨てるんじゃないっ!」
 一輝の監督の元でさっきから氷河が包丁をふるっているが、一輝は怒りっぱなし、氷河はふくれっ面、で非常に険悪な雰囲気である。
 氷河はカミュの指導のおかげで基本は一通りできるものの、元々不器用かつ大雑把な性格なので、繊細さを要求される日本料理には苦戦していた。
 半径1m以内に近寄れば包丁を持ったまま激しく氷河が威嚇するので、一輝は手が出せない分、苛々と遠くから逐一口出しをする羽目になっている。
「わかってるから口出しするな!お前、いちいち煩すぎる!だいたい、こういうのは誉めて育てるもんだろう。カ……カミュはもっと教えるの上手だった!」
 最後の一言を放つ瞬間、一瞬、氷河は躊躇したが、コイツに今さら遠慮なんかするもんか、とそのまま勢いで言い放った。
「バカか、お前は。だいたいそいつがお前を甘やかすからこんなことになってるんだろうが」
「先生のことを悪く言うのは許さない。俺が駄目なのは先生のせいじゃない」
「なんだ、駄目なのは認めるのか」
「……駄目じゃない!お前に比べれば俺はずっと立派だ」
 からかえばからかうほどむきになって氷河は怒る。
 だが、怒りでもいい。いっそ、お前を殺す、と憎まれてもいい。
 鎧い固めた心を無表情の下に押し込めて、死者以外はどうでもいい、みたいな貌で生きていられるよりは、ずっとずっとマシというもの。
 一輝は一人、笑みをこぼす。

**

「……食えなくはなかったな。出来上がりを見た時はコレはダメだと思ったが……」
 険悪な雰囲気のまま、氷河がどうにか作り上げた料理を平らげて、ソファでくつろぎながら一輝は言った。
 氷河は一輝から相当に距離を取って座っている。
 凍傷の痛みで箸が持てないからお前が食わせてくれ、と一輝は言ったのだが、氷河は黙って一輝の右手に、包帯でスプーンを結わえつけた。
 一輝が抗議すると、スプーンを持たせてもらえるだけでありがたいと思え、犬のように床で食うか、と氷河が冷たく言うので仕方なくそれで全部食べた。

 きちんと完食した一輝に、氷河はどうだ、という顔をして言った。
「見ろ、俺だってやればできる。もうお前の世話にはならん。二度と来るな」
 いや、『やればできる』というには相当に怪しかった、と思ったが、氷河が認めようが認めまいが、ここへ来ることをやめるつもりはなかったので、一輝はただ黙って頷いた。
 氷河はそれを、それみたことか、俺の料理が意外に上手だったから言い返せないのだな、ととったようで、一矢報いたような気分になったようだ。
 溜飲が下がったのか少し上機嫌になって、一輝に説教を始める。
「お前みたいな大馬鹿野郎に忠告してくれるような親切な人間は誰もいないだろうから、俺が言ってやる。お前は黄金聖闘士失格だ。宮を放棄してフラフラと……それに、ほら、そうやって箸も持てないような怪我まで。どうするんだ、それ。カノン島に行く理由、女神に何て言うつもりだ」
「怪我はお前のせいだろうが。正直に氷河にやられた、って言うさ。どのみちお前以外に凍気使いはいない」
「ふざけるな!俺の名を出したらほんとに殺す!原因を作ったのはお前だろうが!……だいたい……お前、それ……」
 氷河は改めて一輝をまじまじと見た。
 凍傷だけじゃない、頬のひっかき傷は痛々しくみみず腫れになっているし、唇の咬み痕は、食事のときに相当つらそうだった。服で隠れて見えないが腕や背中には爪痕が無数についているはずだ……そこまで考えて、昨夜の自分の痴態を思い出し、怒りと羞恥が再び込み上げてきて氷河は赤くなって俯いた。
 俯いて、しかし、自分には怪我ひとつないことにも気づく。行為が強引だった割には、多分、さほどに乱暴に扱われていたわけではない。
 だからと言って許すつもりは毛頭ないが。
 氷河は俯いて、一輝と目を合わせないまま問う。
「……ああいうことしたかったんだったら……もっとチャンスはあっただろう。どうして俺がもっと弱っている時にしなかったんだ。そうすれば怪我もせずにすんだ」
「バカだな、氷河。『ヘンゼルとグレーテル』を知らんのか。おいしくなるのを待っていたに決まってるだろうが」
「……そんなくだらない理由か。救いようのないバカはお前だ。怪我をさせたことは俺は謝らんぞ。むしろ、お前が俺に謝れ」
「謝ったら許すのか」
「許すわけないだろう」
「ならば、謝らん。俺は後悔してない」
「……しろよ、後悔!!!最低だな、お前!!」
「痛いのは構わんが、とはいえ、さすがに骨は折れたな。次はご忠告に従って弱った時を狙うことにするさ」
「次はないし、もう二度と弱らない」
「それは結構な心がけだが、カノン島行きも毎度となるとつらいものがあるな」
「次はないって今言った!!いいかげん本業に集中しろよ、お前というヤツは!!」
「俺にとってはお前の方が大事だからな」
 殴り合いの喧嘩のような言葉の応酬の中、不意に真剣な声音で、そう告げられて、氷河は言葉の接ぎ穂を失う。

 沈黙がおりる。

「氷河、」
「言うな」
「俺は」
「言うな!!」
「俺はお前を」
「言うなと言っている!!……俺はお前に応えられない。この先も、絶対に、だ」
「……俺は諦めんぞ。何しろ『生きている』からな。たっぷり時間はある」
 一輝は、静かに氷河に近づいた。
 氷河は自分の髪に隠れるように俯いている。

 一輝は反撃がないことを確認するようにゆっくりと氷河の前に跪いて、その手を取った。
 手を振りほどいて拒絶しようとするのを押しとどめて、ゆっくりと指を開かせ、それを自分の心臓の上へ導く。

 氷河の手のひらに、どくどくと音を立てて流れる血脈と鼓動が伝わる。一輝に触れているところから、じんわりと温かさが手のひらに伝わってくる。
 長い時間、そのまま黙って命をじっと手のひらで受けとめていたが、氷河は、泣き出しそうに顔を歪め、絞り出すような声で言った。


「こんなことをしても無駄だ。生きているお前より、もういないカミュの方がいいんだ、俺は。絶対に変わらない」
「強情だな。だが、悪いことは言わん。俺にしておけ、氷河。なにしろ不死鳥だ、死なないことにかけては誰にも引けを取らん」
 一輝の言葉で、一人遺された寂しさが逆にぐっと胸へせり上げ、だが、息をついてその苦しさを逃して、氷河はバカじゃないのか、と冷たい瞳で一輝をみやった。
「今は、レオだろ。もうお前は不死鳥じゃない」
 そうだった、と苦笑して、一輝は氷河の背へ腕を回して、自分の胸へ氷河の頭を押し付けるように抱いた。
「そして、お前がアクエリアスだ。───変わらないものはない」

 温かい胸で鳴る鼓動を耳にすれば、二度と一輝には触れさせない、と思っていたにもかかわらず、氷河の視界はじわりとやさしく滲んで消えた。


(fin)

(2012.1.27~1.30UP)