寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ャッフル・ャッフル

復活設定かつ、中身入れ替わりパラレル
同じ設定でもそれぞれの話は独立しています。
シュラ氷後のカミュ氷フォロー編

性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆カミュ⇔シュラ編 extra◆

 カミュは扉の前で何度か深呼吸を繰り返した。何しろ色々なことが一度に起こりすぎて、さすがのカミュも冷静さを取り戻すのには幾分努力が必要だった。
 十分に間を取って扉を開ければ、キッチンの奥で朝食準備に取り掛かっていた氷河がその気配で振り返った。
 氷河はカミュの顏を見て安堵したように息をつき、それから気遣わしげに眉を寄せた。
「先生……怪我はありませんか?シュラは一体どうしたのですか?」
 シュラ、と発音する時に憤慨した様子を見せる氷河に、カミュは、何でもない、と首を振ってみせた。
「みっともないところを見せたな。シュラは……まあ、悪い夢を見ていたようだ」
 悪い夢を見ているのはわたしの方だ、と思いつつ、自分を見上げる澄んだ青の前には口汚く罵ることも憚られ、微妙に語尾を濁しつつカミュは答えた。
「夢……?寝ぼけて宝瓶宮まで上がってきたのですか?」
「そのようだ。まったく困ったものだ」
「そんな風に見えなかったけれど夢遊病か何かでしょうか?だけど、あんな風にカミュに掴みかかるなんて……なんて危険な人なんだろう」
 実際は掴みかかったのはカミュなわけだが、まあ、氷河にシュラを危険人物だと認識させておくに越したことはないので、カミュは肯定もしない代わりに否定もしなかった。
 氷河は顎に手をやって思案顔でぶつぶつと呟く。
「夢遊病か……何かいい治療法があるといいんだけど……あ!紫龍!紫龍なら、老師から色々聞いて、夢遊病の治療法も知っているかもしれない。俺、シュラの代わりに聞いてあげよう!」
 うん、いい考えだ、というように氷河は頷き、明るい表情で顏を上げた。
 カミュが何も言わないうちに、氷河の中で既にシュラは夢遊病患者で決定してしまい、相談の段取りまでついてしまったようだ。さすがに何かフォローすべきかと口を開きかけたが、頷く氷河の首元の釦が一番上まできっちり止められていることを発見し、開きかけた唇は噛みしめる動きへと変わった。
 氷河はカミュが何度言っても首元の釦を留め忘れるのが常で、それを、世話の焼ける子だ、と苦笑しつつ留めてやるのがカミュ楽しみのひとつでもあるのだ。今日に限って氷河がそれをきちんと留めたわけはなく───つまりは、別人がそれを留めた、のだ。

 卵はオムレツと目玉焼きどっちにしますか、と言いながらフライパンを取り出そうとしていた氷河の腕を、カミュは強く引いて胸に掻き抱いた。
「……っ……?先生……?」
 ガラン、と派手な音を立てて床の上にフライパンが落ちたことに驚いて竦んだ身体を、息が苦しくなるほど強く抱き締められて、氷河は戸惑いに声を上げる。
「まさかお前がこのような時に来るとは思わなかった」
「……すみません。次からはきちんと連絡を、と昨日……」
「違う。お前は連絡なくいつでも来ても良い。ここはお前の居場所だ」
「……は……い……?」
「わたしは……許す自信がない」
「……………あの、先生……?」
 怪訝な声の氷河を腕の中に閉じ込めながら、カミュの思考は苛々と尖るばかり。
 シュラに向けられていた憤りは、やがて、それを許した自分の迂闊さに向かい、そして、次第に氷河へも向かった。

 いくら、外見では判別がつかぬとはいえ。
 気づいてもよいものを。

 あの。融通の利かぬ朴念仁と。
 6年も一緒に過ごしたこのわたしの区別をつけられないとはどういうことだ、氷河……。

 少しばかり鈍感なところが氷河の可愛いところなのだが。
 しかしさすがにこれは気づいて欲しかった。
 意図せずして氷河からの愛情を計る機会を得たものの、結果は惨敗に終わって、憤る気持ちが過ぎ去ってしまえば次には激しい失望がやってきた。
 あの、こと色事にはたいして器用さを発揮していないシュラが自分そっくりに演じ得たとは到底思えぬ。
 少なくとも何かおかしいと感じて欲しかった。「恋人として」もともかく、「師として」もこれではあまりに心配だ。
 氷河は戦いにおいて、わたしの姿を擬態するような敵と出会ったらどうするつもりなのだ。

 と、そこまで考えて、カミュはさらに脱力して崩れ落ちそうになった。

 海底で既にお前はその罠に嵌っていたのだったな……。

 既に師は死している、と明白だった時ですら、氷河はカミュの姿をした人間を『カミュ』と呼んで涙したのだ。師がいるはずの宝瓶宮を訪れて、そこに『カミュ』がいたら、まるきり疑いもしないのは必定だ。
 海底での戦いの経緯を聞いた時には、戦士としては弱点になるに違いない情の深さを憂え、同時に、そこまでわたしのことを、とほの昏い悦びを見いだしたものだった。だがしかし───これには参った。

「先生?あの、朝食を……」
 ぎゅうぎゅうと締め付ける腕の輪から苦しそうに顏を上げ、氷河がようやくそう言った。カミュは柔らかな金の髪に手を差し入れて後頭部を押さえつけるようにさらに拘束をする。
「いや、湯を先につかたい」
「あ……それもそうですね。すみません。では、俺が準備してきます」
 氷河がほんの少しだけ緩んだ腕の戒めから逃げるように抜け出て浴室の方へ向かうのを、カミュの緋色の視線が静かに追った。
 目覚めて早々の湯浴みが疑問なく受け入れられるということが、昨夜シュラとの間で起こったことを裏付けたも同然だった。

 簡単に波立ち、激しく渦巻く負の感情を、理性の力だけで凪いでみせるのは容易なことではない。
 きっと今、わたしはとても酷い顏をしているに違いない、とカミュは片手で顏を覆った。

 ややして戻ってきた氷河が、ソファへ脱力するようにもたれて目を閉じているカミュに、先生、と声をかけた時には、だが、どうにかカミュは柔らかな笑みを浮かべてみせることができる程度に己の感情を制御していた。
 責めてはならない。
 氷河はわたしだと思っていたのだから。
 呪文のようにひたすらそう自分に言い聞かせ、笑みを浮かべたまま立ち上がったカミュは、キッチンに戻ろうとする氷河の肩へ手をかけた。
「……?何か?」
「お前も共に」
「えっ」
 責めはしない。
 それでも、清めたい、と思ってしまうカミュの心の動きはごく自然なものだった。例え氷河に触れたのが自分自身の身体でしかなくても。

「あ、でも、」
 いつもであれば、共に湯浴みなど珍しくもないことであるのに、今日に限って氷河は躊躇う様子を見せた。
「どうした。何かあるのか」
「いえ、俺ではなく先生が……いやなのかと……だって昨日は……」
 困ったように俯き、もごもごと何事かつぶやく氷河の声はカミュには既に届いていなかった。
 氷河に拒絶の意志がないならば、ほかのどんな理由も聞く必要はない。問答無用とばかりに、軽々と氷河の膝裏をすくい上げてみせる。
 せ、先生……!と慌てる声を出す氷河の耳元で、「今は『カミュ』と」と甘く囁けば、カミュの唇が触れた氷河の耳が熱くなり、首に回された腕がきゅっと締められた。


 十二宮特有の、石造りの、古いが広さだけは十分にある湯船へとカミュは身を浸す。
 少しぬるめの湯温が心地よい。
 カミュから少し距離を取って、口元まで湯につかってぷくぷくと小さな泡を湯の中に吐いている、氷河の幼い頃そのままの仕草がカミュの感情を緩く解いてゆく。
 氷河、と呼べば、一瞬だけはにかんだ笑いを見せた後は、氷河は誘うカミュの手を素直に取って、湯の中を揺蕩うように傍へ来た。
 均整のとれた美しい身体だ。中性的な容貌にふさわしく細い身体を、伸びやかな筋肉が程良く覆う。滑らかな白い肌は既にうっすら色づき、濡れた髪がうなじに張り付いている。成熟に向かう未完成な肉体だけが持つ、触れるたびに変化してはカミュを艶めかしく誘う美しさがそこにはあった。

 シュラも、この姿を目にしたのだ。

 その事実はカミュの気持ちをざらつかせる。だが、同時に、僅かに、密やかな優越感と同情とがそこに混じった。

 あの堅物のシュラをもってしても。
 この白鳥の化身が発する無自覚の誘惑の前にはひれ伏したのだ。

 仕方ない、と簡単に許してしまえるほどカミュの気持ちは小さくはなかったが、憤りを抱く一方で、そうであろう、わたしの氷河の魅力に抗い切れる者などいるはずがない、となぜか誇らしげな気持ちになるのは腕の中の存在をカミュ自身が育てた自負のせいかもしれない。

 カミュは氷河の身体を背後から抱きしめるように腕を回した。
 むき出しの肩に、唇を押し当て、しっとりと濡れた肌の柔らかさを味わう。唇をずらし、うなじへ、耳へといくつも口づけを落とし、時に食み、時に柔らかく歯をあて。
 たったそれだけのことで、氷河の息があがり、時折、鼻に抜ける吐息に甘い声が混じる。
「カミュ……」
 ひどく切なげな声で呼んで、氷河が背後に首を傾けるのをカミュがその顎に指をかけて助ける。
 そっと触れただけの接吻に、珍しいことに氷河の方から積極的に唇が開かれた。
 だが、カミュはそっと啄み、離れ、また啄む。触れては離れるもどかしい動きに、氷河の顎が追いかけるように持ち上げられる。何度目かの駆け引きの末に、氷河が焦れたように身体を反転させた。カミュの首に手をかけて、裸の胸を触れ合わせ、薄く開いた唇のあわいに見える舌先だけで深い接吻を強請る。

 ……昨夜もそんなふうに誘って見せたのか。

 口づけもその先も全てカミュが教えた。
 二人きりの時には素直に求めよ、と望みもした。だが、今はその覚えの良さが恨めしい。

「カミュ……」
 もう一度、吐息とともに氷河の唇がカミュの名を形づくる。
 淫靡に誘う唇にカミュはそっと己のそれを押し当てた。カミュを待って、既にしどけなく開かれていた柔い唇をちゅ、という濡れた響きとともに吸い上げ、舌先を触れ合わせる。 これ以上は待ちきれない、とばかりに性急に絡みつく温かな舌が、離れようとするたびにもっと、と強請ってカミュを強く煽る。
 飢えた獣のように貪欲に口づけを欲しがる氷河の姿に、さんざん夕べしたに違いあるまいに、そんなにシュラの口づけに魅了されたのか、とせっかく封印しかけた悋気がまたぞろ顏を出してカミュを責め苛んだ。

 立ち上る白い湯気は氷河の輪郭をおぼろげにさせている。だが、カミュを求めて色づく肌はまるで発光しているかのように艶やかだ。
 波打つ湯の中で合わさる二つの身体の狭間で、湯よりもずっと熱く漲った塊がふと触れ合う。そのことに、深まる口づけに夢中になっていた氷河の身体が小さくピクリと恥じらう動きを見せた。
 カミュは湯の中を泳がせた手のひらで氷河の昂ぶりをそっと包み込む。
「!」
「いけない子だ。昨日あれほどしたというのに、キスだけでもうこんなにしている」
 自分でも知らず、ずいぶんと非難めいた口調になった。
 氷河は恥じらうように逸らした視線を、すぐにまたカミュに戻し、一瞬だけ下に視線をやって、俺だけじゃ、と拗ねたようにカミュの肩へ頭を摺り寄せた。
 久しぶりに触れる氷河の瑞々しい肉体への餓えに、激しく吹き荒れる嫉妬の炎があいまってカミュ自身もすっかりと熱く滾っている。
 だが、さほど差し迫った射精への切迫感はない。切迫感がないことが結局昨夜の交わりを喚起させ───もはや、何もかもがカミュの心を波立たせる。
 カミュは濡れた金の髪が張りつく氷河のうなじへと唇を寄せた。手のひらは包み込んだ昂ぶりをゆっくりと揺さぶりながら、うなじに、耳に、肩に、腕に、といくつもの口づけを落としていく。
 ちゅ、と濡れた音を残して。
 触れるだけで離れて。
 柔く吸い上げて。
 時には甘く歯をあてて。
 ねっとりと舌を這わせて。
 氷河の肌に残る、自分のものではない愛撫の記憶を全て書き換えるかのように、何度も何度もカミュの唇が往復をする。
 氷河の方は、焦らされている、ととったのか、いやいやをするように首を振り、切望感を伝えるかのように腰を揺らめかせた。 肌を辿る唇と舌の動きは止める気配も見せず、カミュは氷河の双丘へ手をかけた。狭間へ指をやり、何度か縁をなぞると、氷河の唇からさらに甘い吐息が漏れた。
 高まった昨夜の記憶のせいなのか、やけに乱れた様子の氷河が、それでも言葉では強請ることができずに、カミュの首筋を食んでその先を必死にせがむ姿が堪らなく愛おしく胸を満たす。柔らかな耳朶を口に含んで何度か名を呼べば、それだけで達してしまいそうな苦痛を堪えるように氷河の顏が歪められた。
 カミュは長い指をつぷりと狭い隘路へ埋める。
「ん、ふぅ……んっ」
 カミュを待つ切なさに震えていた若い肉を割って、僅かな湯とともにカミュの指が秘められた場所へと侵入を果たす。
 と。
 男の指がそれを捉えた。
 くちゅり、と湯の中からでも音が響きそうなほど、粘度を持った蜜が男の指に絡みつく。
 掻き出す動きで指を引き抜けば、透明な湯の中に残滓が白い靄のように広がった。
 カミュは今度こそ全身の血が逆流したのを感じた。
 乱れては凪ぎ、凪いでは乱れていた感情のプールが突然の制御できぬ嵐に見舞われて、凶暴にカミュの裡を暴れ回る。あまりに激しく吹き荒れる嵐はまるで意志を持った生き物のように、出口を求めてカミュの中を傷つけていく。そのあまりの苦しさの前に、嫉妬と言う名の獣をもはや飼い慣らすことを諦め、カミュが理性を放擲しかけたその時。
 せんせい、と氷河が乱れた息のままに呼んだ。
 ハッとその顔を見れば、空の色をした瞳が水の膜を張って揺らめいていた。
 せんせい、ともう一度吐息と共に氷河が舌足らずに発する。
「せんせい……ゆうべ……キライって言って……ごめんなさい……」
 なに、とカミュの眉が顰められる。
「『嫌い』、だと……?」
 まだ激しい嵐を内包しているカミュの声に、氷河の身体が、ピクリと竦む。腕の中で小さく強張った身体に、慌てて、カミュは氷河の濡れた髪を、宥めるように梳いて額に頬に唇を押し当ててみせる。
「氷河は昨日のわたしは嫌いなのか」
「あ…………すみません……昨日は俺、どうかしていました」
「責めているわけではない。……なぜそう思った」
「なぜって……あの、俺が我が儘すぎました。先生は俺の顔も見たくないほどお疲れのようだったのに……」
 氷河の語尾がだんだんと小さくなる。視線を避けるようにカミュの耳元で、ごにょごにょと何ごとか言い訳を繰り返すのを、カミュは額をこつんと触れ合わせて封じた。
「昨日は……わたしもどうかしていたのだ。お前を……傷つけたのなら悪かった。だから、お前が昨日どう思っていたのか、本音が聞きたい」
 至近距離でカミュを見上げる、潤んだ瞳がまた少し拗ねた色を宿す。
「カミュ、昨日はとても意地悪でした」
「ああ」
「……久しぶりに会ったのにあんな冷たい態度はあんまりだと思いました」
「ああ」
「カミュは全然……キ、キスもしてくれないし、」
「ああ」
「……あっアレだって……しなかったし、」
「あ、ああ」
「いくらお疲れでも、モノを扱うみたいに抱かれるのは……嫌でした」
「……そうか」
 氷河に拗ねて責められているにもかかわらず、カミュの口元が次第に綻んでゆく。(途中少し動揺はしたが)
 なぜ笑うのかといっそうカミュを恨めしそうに見上げていた氷河も、やがて、つられたように表情を緩めた。
「でも、今日はいつものカミュだ。だから、キライって言ったのは忘れてください。考えてみれば、俺、カミュに甘えすぎでした。取り消します」
「いや、その必要はない。昨日のわたしのことはできればキライのままでいてくれ。ほかならぬわたしのために」
「……?」
 何か問いたげな唇をカミュは強引に塞ぐ。あ、と発した唇は、だがしかし、すぐにカミュの愛撫のような口づけに応えて。
「もう二度とお前を不安にはさせまい」
 氷河に対して、というより自分に対してそう言えば、水音に反響する声が、どんなカミュでも俺は好きです、と応えた。
 あまりの愛おしさにカミュの全身に熱が回る。
 こうなるともう駄目だった。
 それは妬気に支配されていた時よりもよほど簡単にカミュの強い衝動を誘う。
 カミュは氷河の身体を湯船の縁に押し付け、肩へと両の膝裏を抱え上げた。男の体躯に大きく割り広げられた下肢を、氷河が恥じらう暇もなく、硬く昂ぶった塊で柔く解けた肉を深々と貫く。
「……っああ…っ」
 のけ反った白い喉が苦しげに鳴ったのは最初のうちだけだった。少しく無理な姿勢での強引な交わりも、浮力に助けられ、むしろいつもより深い結合にすぐに氷河の瞳が焦点を失って、蕩けた表情でカミュを誘う。
「……んっ……ぁはっ……カ……ミュ……」
 的確に、弱いところを何度も責め立て、穿つ男の背に、加減することがあたわぬほど強く縋った指によって幾筋もの爪痕が刻まれる。
 小さな痛みも、それほど強く求められているのだと思えば愛おしさを増すばかり。
 狂おしいほどの愛を身の内に感じて、細い腰を揺さぶる動きがいっそう激しくなる。波立つ水音に従って跳ね上げられる氷河のつま先が、時折戦慄いて、その度にカミュを包む若い肉が甘い締め付けを増した。

 カミュの裡を暴れまわっていた獣は、その場所をさらに強い感情にとってかわられてふてくされたように隅で目を閉じている。だが、存在を誇示するように時折片目を開いてあざ笑うかのようにカミュを見る。
 ───お前の思うようにはさせぬ。わたしはお前を氷河を傷つけることには使わぬ。

 カミュ、と濡れた声が呼ぶたびに、その思いは強くなった。

**

 さて、とカミュは眠る氷河の頬をなでた。
 湯あたりにくたりと伸びた躰を寝室に運んで仰いでやっているうちに、氷河の方からもう一度、と求められ、寝室でも再び交わり───さんざん「アレ」をよがって泣いた氷河は当分起きないだろう。
 さすがのカミュも少々気怠さを覚えるほどに濃密に二人は愛を交わした。

 だが、カミュはその気怠い躯を操って、糊の利いたシャツに腕を通しながら立ち上がった。つい先ほどまで甘い饗宴の中にいたと思えぬほど、几帳面に首もとまでボタンを留め、部屋を後にする。

 ………おや。

 その気配に僅かにカミュは驚いて顔を上げた。急ぎ足で宮の入り口まで向かえば、その人物はちょうど石段の最上段に足をかけたところだった。

「兄」を探すつもりだったが「弟」の方がやってきた。この際「弟」でも………いや、むしろ「弟」の方が適任か。

「カノン」
 声をかければ、考え事をしていたのか、やや反応が遅れて長い白金色の髪が揺れた。
「……俺を出迎えとは珍しいな、カミュ」
「心外な。わたしを避けているのはあなただ。わたしが不在の時を狙ってしか行き来せぬだろう」
 男は肯定も否定もしなかった。精悍な顔をほんの少し歪めたのが笑っているようにも困っているようにも見え、その不思議な表情が彼を子どものように見せていた。
 カミュは返事を聞く代わりに尋ねる。
「任務にでも呼ばれたのか」
 男の肩が震えたように揺れ、今度ははっきりと声が笑いを帯びる。
「こんな長い石段を意味なく上るほど暇に見えてるのか?」
 自嘲したように見せかけて、その実、カミュの問いには何も答えていない巧みなはぐらかしは、十二宮を護る、十三人目の聖闘士としての彼の微妙な立ち位置のせいなのだろう。 海将軍としての顔も持つ彼が、単なる「兄の代理」としてだけ存在しているのではないことなど、とうに皆承知だというのに、それでもこの男は頑なに己の立ち位置を崩そうとしない。

 まだ頬に笑みを張り付かせたまま、カノンは、用がないなら通らせてもらうぞ、とカミュの横を通り過ぎようとした。
 カミュは咄嗟にその腕を掴む。
「……女神に忠節な水瓶座の聖闘士としては、この俺は宮を通す信用に足らないというわけか?」
 不穏な言葉とは裏腹にカノンはどこか楽しげだ。まるでカミュがそんな風に絡むのを待って挑発したようですらあった。だが、あいにくと今のカミュにはそんな挑発に乗ってやるような余裕はない。
 炎の色を宿しているくせに何故か常に涼やかな印象を持つ瞳で男の挑発を受け流し、掴んでいた腕を静かに放す。
 動く自由を与えられたにも関わらず、男は、宮の主の許可を待って一歩も動かずに、微かに伏せられた緋色の睫毛を見下ろした。

 カミュの指先が苛々と、己の腕をとんとんと叩く。男はただ黙ってカミュの言葉を待つ。
 しばしの逡巡の後に、やがて、カミュは顔を上げた。
「双子座の聖闘士は精神を操る技を持っているだろう」
「………藪から棒にどうした」
「どの程度操れる。意図した行動を取らせたり、特定の幻覚を見せるのは可能なのか」
 カノンの形のよい眉が顰められ、それからすぐにハッと軽い息を吐いて肯定とも否定ともつかぬシニカルな笑いを頬に張り付かせた。 つくづく不思議な男だ。同じ笑い一つとっても、子どものように見える時もあれば、今のように実際の年齢よりずっと老成しているように見える時もある。
 カノンは答えなかったが、カミュはだが、返事を期待していたわけではなかった。彼の兄がその技をしばしば操って、十三年間もの間、聖域を騙しおおせていたことは今更確認するまでもない事実だ。 カノンの笑いにシニカルな色が滲んだのは周知の事実を何を今更、という意味であったのか、それとも兄ができることは自分も全てできると思われている(事実そうなのだろうが)ことにまたか、という想いを抱いたのか。
 答えを期待せぬ問いを発したのは単に会話の端緒とするためだ。本題は、
「できるのだな。ならば、特定の時間の記憶を消すことは可能か?」
 本題は───こちらだ。
 片頬を歪めていたカノンは、カミュの言葉に、唸るような低い音を発した後、サガもかくや、というほどの深い縦皺を眉間に刻んだ。
「なぜそんなことを聞く」
「記憶を消してもらいたい人物がいるからだ」
 自明の理だろう、とでも言いたげに即答する年下の黄金聖闘士をカノンはまじまじと見返した。
「正気か?」
「もちろん」
「理由は、」
「言えぬ」
 話にならない、というようにカノンは首を振った。
 カミュは続けて、「頼む」と呟くように言った。それがプライドの高い男の精一杯の譲歩なのだとは知れたが、カノンはもう一度首を振る。
「俺をやっかいごとに巻き込むな。だいたいそう都合のよい技など持ち合わせてはおらん。どうしても、というなら兄に頼め」
 言うだけ言って、カミュの返事を聞かずにカノンはくるりと踵を返した。
 そのまま今にも双魚宮に続く石段の方へと去っていこうとする背中へ、カミュが鋭い声を投げる。
「カノン!」
 次の言葉を投げるのは、「頼む」と頭を下げるよりもずっとカミュには困難だった。男の傷を抉ると知っていて発する言葉はカミュにとっても痛い。
 だが、カノンは既に歩き出している。猶予はない。
「カノン!アイザックは元気にしているか?」
 案の定、取り付く島なし、だったはずの男はピタリと歩みを止めた。
 ゆっくりと振り向く、整った横顔が薄く笑みを湛えていたからといって男が傷ついていないわけではないことは知っている。
「……脅しか、カミュ?」
「なぜ『脅し』だと思う?わたしはただ、わが愛弟子の近況を尋ねようとしただけだ」
 深海のごとく深い碧の瞳の凝視を反らさず見つめ続けることはカミュには相当な努力を要した。しばし、静かに対峙し合った二人の男は、視線だけで互いの意志をねじ伏せようとしているかのようだ。

 やがて、年上の男は、ふーっと深く長いため息で、その緊張を解いてみせた。
「お前はむやみやたらと私怨で動く人間ではないと思っていたが、こうまでなりふり構わぬとはよほどのことがあったらしいな。 お前の望みを聞いてやるわけにはいかんが……相談くらいには乗ってやらんこともない。一体、誰の記憶を消してほしいと思っている?」
 戦闘後の疲労感を感じながら、カミュも腰に片手をやってふっと息を吐いて緊張を解く。
 そしてゆるゆると顔を上げて視線を石段の下へと投げた。カミュの立っている位置からは全体は見えない。 だが、磨羯宮の屋根の先端部分は意図せずともごく自然に視界へ入った。当然だ。宝瓶宮に暮らす以上、それを目に入れずに生きていくことは困難だ。
 カミュの視線を追って、十二宮を見下ろすように視線を巡らせているカノンへと、カミュは振り返った。高く上り始めた日の光がハレーションを起こして、互いの姿は一瞬白く消えた。
「…………わたしだ、カノン」
 カノンが片手を目の上に翳して、応えるようにカミュを見た時には、カミュは既に視線を逸らした後だった。
「昨日からこちらのわたしの記憶を消してもらいたい。………あなたにならわかるだろう。嫉妬にまみれて過ごす苦しさを。その感情がどんなに制御が難しいかを」
 カミュの声が苦しそうに揺れる。
 例え一瞬であっても、嫉妬のあまりに己を失いかけたことはカミュにとっては耐え難いことだった。
 あの時、氷河がせんせい、と呼ばなければ………わたしは一体氷河をどうしていただろうか。
 己の中に、制御不能な凶暴な獣が眠っていたことはカミュを少なからず動揺させた。
 過去、何度もその獣に心を奪われた人間が犯す過ちを目の当たりにしてきた。目の前に立つこの男もその一人だ。自分だけは違う、感情のすべてを理性で制御してきた、という自負は一瞬で崩れ去った。
 制御してきたのではない、ただ、制御できる程度の感情しか知らなかっただけだ。人間には誰しも過ちを犯す弱さが隠されている。

 深く思考に沈むカミュの耳に男の声が届く。
「カミュ」
 顏を上げ、男の表情を確認することはできなかった。カミュが男の右の拳がひらりと動いたのを視認した時には既にもう白い閃光を身に浴びていた。


**

 ───今日は変な日だ。
 穏やかに別れを告げて、自宮の中へ戻って行く艶やかな緋色の髪を見送って、カノンは苦笑した。
 黄金聖闘士の記憶を──それも立て続けに二人分も──操作したと知ったら兄は卒倒するだろうか。
 例えどんな脅しを受けたとしても聞くつもりはなかった。
 誰かの記憶を消せ、などと頼まれていたならば。
 だが、隣り合う宮の主同士、打ち合わせでもしていたかのように同じように「己の」記憶を、と言うのには、おや、と気まぐれに心が動いた。
 きっと偶然ではない。二人の間で何かあったと見るのが自然なのだろう。
 何か、がどういう類のものだったのかには興味はない。
 そもそも、全ての記憶ならともかく、特定の記憶だけを消すなどと、そんな都合のいい話は───あるはずがない。精神を操ったり幻覚を見せたりするのとは根本的に原理が違う。
 あるなら俺がとっくに使っているさ、消したい過去は何しろ山ほどある、とカノンは自嘲的に笑った。
 カノンがしたのは強い自己暗示のための手助けにすぎない。二人がすっきりした顔をしていたのは、結局のところ、自分自身の強い意志の賜物だ。
 忘れたい、忘れなければ、と強く念じるほどの何を、一体二人はしでかしたのやら。
 再びカノンは肩をすくめて笑い、今度こそ教皇宮を目指して双魚宮への石段へと足をかけた。


 聖域にこれで平穏は戻った。

 かに見えたが。

 シュラもカミュもすっかりと忘れていたのだった。
 アフロディーテの存在を……。

 今日も聖域では水瓶師弟は暑苦しいほどに仲睦まじく、シュラとアフロディーテの間にはわけのわからない微妙な空気が流れている。

(fin)

(2013.5.26~6.16UP)