寒いところで待ちぼうけ

パラレル:ャッフル・ャッフル

復活設定かつ、中身入れ替わりパラレル
同じ設定でもそれぞれの話は独立しています。 カミュ氷。

性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆カミュ⇔氷河編◆

 宝瓶宮の朝は早い。
 カミュは朝靄がまだ辺りを白く包み込んでいるうちに目覚めるのが常だ。師より早く起きなければ、と気を張っている愛弟子より僅かに早く起きて、 可愛い寝顔を覗き込むという悪戯をする楽しみがあるからだ。今日もそのつもりで目を開いたカミュは、隣で眠るはずの氷河へ目をやり───しばし言葉を失った。

 隣で眠っていたのは『カミュ』つまり自分自身だった。

 さて、一体、とカミュは顎に手をやって考え込んだ。
 目覚めたつもりでいたが、どうやらまだ夢の中にいるらしい。自分自身を第三者の視点で見る夢というのは、フロイトによればどういう鬱屈の顕れであっただろうか。
 それにしてもリアリティのある夢だ。夢であることを認識して見る夢というのは、珍しくもないが、このように何もかもがクリアな夢というのは初めてだ。
 手に触れる糊のきいたシーツの感触、遠くで鳴く鳥の囀り、窓辺へ置かれた鉢に植わったオリーブの葉の芳香…全てがリアルにカミュの五感を刺激する。
 カミュはもう一度、『自分自身』をまじまじと見下ろした。

 ───口が開いている。

 わたしはいつもこんな無防備な顔で眠るのだろうか。ならば、なおのこと氷河よりは早く目覚めていたいものだ、と緊張感の足らない己を些か戒めつつ、 カミュは薄く開いた口元へと指先を伸ばした。このままでは涎が垂れてしまいそうだ。例え夢の中でも自分自身のその姿を目にするのは耐え難い。 
 カミュが己を叱咤するように顎を持ち上げてやると、その気配で、『わたし』が薄く目を開いた。
「ん…おはようござ…?……??」
 寝ぼけ眼を擦りつつ、きょときょとと瞬きを繰り返す『わたし』の幼い仕草がどうも見覚えがある、と思ったのと、頬にかかっている自分の髪の毛の先が蜂蜜色に輝くブロンドだ、ということに気づいたのは同時だった。
『カミュ』が起き上がって、不思議そうにカミュを見つめ返している。
「……???あれ、なんで俺…??え?鏡?夢?」
 混乱の極み、というその反応にカミュは確信した。
「……お前は『氷河』か?」
『カミュ』が怪訝な顔でこっくりと頷く。カミュは眉間に皺を寄せて唸った。
「やはりな……わたしは『カミュ』だ。」
「え?でも、でも、え?え?え───っ??」

**

 さても異な事が起こるもの。

 些かの混乱と動揺はあったものの、カミュは冷静な分析の末に、一つの結論を叩き出した。
 カミュの体には氷河の魂が、氷河の体にはカミュの魂が。どうやら二人は、身体はそのままに、中身が入れ替わってしまった、らしい。
 だから、今、カミュの目の前で「せんせぇ……」と泣きそうな顔で俯いている赤毛は氷河だというわけだ。
 神と戦い、甦りをも経験した身である。命の再生以上の奇蹟はない。ならば、魂が入れ替わることも、もしやあるのやもしれぬ、と己の戴く、少々いたずらっぽいところのある女神の姿を思い浮かべながらカミュはその事実を受け入れた。
 氷河の方は、夢じゃないですよね、と自分の頬をつねろうとして、果たして『自分の』頬というのはこの場合どちらなのだろうか、と情けない顔で二つの体を交互に見やっている。
 いつもなら、氷河が泣き顔を見せた時点ですかさず抱きしめてやるものだが、カミュの方もそもそもそれが自分自身の体だと思えば、どうにも微妙な気分になり手が伸ばせないでいるのだった。
「いつまでもこうしていても仕方ない。まずは朝食でも作らないか、氷河」
「先生は冷静ですね……」
「案ずるな。一度入れ替わったのであれば二度目もあろう。どうあっても戻らぬとあれば、その時は女神にご相談すればよいことだ」
「……沙織さん…に…」
 なんとなく、そっちの方がややこしくなる気がする、というかそれが元凶の気がしなくもない、と一瞬氷河の頭に疑念がよぎったが、師の手前、不敬な言葉は飲み込んで、そうですね、と頷いてみせた。

 慣れぬ身体を操るのは、サイズの合わない洋服を着ているような違和感が常にあった。使い慣れたキッチンを使うのにも一苦労だ。カミュの方は届くと思っていた調味料類に手が届かず、氷河の方はぶつかるはずのない吊り戸棚に頭をぶつけては呻く。
「せ、先生、すみません…」
 痛い思いをしたのは自分だというのに、氷河は大切な先生の身体に傷をつけた、と涙目で謝る。
 潤んだ緋色の瞳がずいぶん高い位置にあって、そうか、氷河からはわたしはこんな風に見えるのか、とカミュは新鮮な驚きに包まれていた。
 氷河は氷河で、「俺って…なんかずいぶん小さいですね……」などと悔しそうに呟いて背を丸めて項垂れる。
 そんな姿がいじましく、額にキスの一つでも落としてやりたいところだが、やはりこの姿では躊躇われる。(第一、うんと背伸びをしたって氷河の方が屈まない限り額には届かないのだ)
 結局、今日はまだ一度も「氷河」に触れていない。この状態がいつまで続くのか定かではないが、そう長く続いて欲しくはない。スキンシップが多いのは氷河がそれを好きなせいだと思っていたが、どうやらカミュ自身も相当にそれに心の安寧を置いていたのだと、また新しい発見がある。

 どうにか二人で作った食事を取りながら、カミュは氷河に告げた。
「今日は上で執務だ。サガから書庫の整理の手伝いを頼まれているのでな」
「はい。昼には一度戻られますか?」
 いつもの調子で応える氷河にカミュは首を振った。
「違う、行くのは氷河、お前だ」
「えっ?ええっ?」
「今はお前が『カミュ』なのだからな。『氷河』の姿をしたわたしが行くのはおかしかろう」
「……おかしい…です…か?サガにこの状況を説明してみては駄目でしょうか?」
「さて、信じればよいが。弟子を差し向けてまで執務から逃げたと取られるか……信じたならばそのような状態では黄金聖闘士の任には就けぬ、と審問に付されるか……」
 カミュの言に、一理ある、と氷河は戸惑いながら首肯する。
「俺に務まるでしょうか」
「お前はもう何をやらせてもわたしと遜色ないほど成長しているだろう?ただ……」
 共に氷の聖闘士同士。師弟の小宇宙は非常に似通ってはいるが全く同じではない。
「……そうだな、聖衣を纏っていくように」
 聖衣自体が持つ小宇宙が多少の目くらましになるはずだ、とカミュは頷いてみせた。

 七五三さながら、カミュに手伝ってもらいながら、氷河はアクエリアスの黄金聖衣を装着した。カミュ自身の聖衣をカミュの身体が纏っているにも関わらず、心なし、借り物感がつきまとうのは気のせいだろうか。
「黄金聖衣なんて荷が重いです」
 不安そうに俯く赤毛をかき上げてヘッドパーツを付けてやりながらカミュは笑った。
「何を言う。お前は何度も纏ったことがあるだろう」
「夢中でよく覚えていません。普段の俺はあなたに遠く及ばないんですから……俺……何か失敗をしてあなたに恥をかかせてしまうかも」
 氷河の粗忽さに関してはカミュも内心では不安を感じてはいるのだが、それは顔には出さない。(『氷河』の表情筋ときたら、カミュの意志に関わらずずいぶん簡単に変化して、感情を顔に出さない様にするのに相当な苦労をした)
「大丈夫。お前はわたしの誇りだ。ほら、もっと背筋を伸ばして」
『せんせぇ』と眉を下げた表情はとても自分のものとは思えなかったが、それでも、カミュに鼓舞されるように背を叩かれて、よし、と二度三度息を吐いて、凛とした表情を見せた氷河は、幾分「アクエリアス」らしさを身に纏わせて、宝瓶宮を去っていった。

 さて。
 一人残されたカミュは鏡で自分の姿をのぞき込む。美しく澄んだ青い瞳がこちらを見返している。

 わたしの方は、と。

 自分が執務で不在の時に、氷河がどこで過ごしているかは知っている。
 行くか。やめるか。
 なるべくならこの状態であまり会いたくはない。だが、普段と違う行動原理を取るとそこから綻びが生じるのもまた理。氷河にだけ「普段どおり」を強いるのも理不尽と言うものだろう。
 ───気は進まぬが行くか。
 カミュは簡単に身支度を調え(悩んだ末に聖衣はやめた。氷河には悪いが、カミュにはあの聖衣を纏う勇気は……いや、何も言うまい)、宝瓶宮を後にした。

**

「水瓶座アクエリアスのカミュ、只今参上つかまつりました」
 教皇の間から続く執務室へそう声をかけて入室すれば、重厚なデスクに積まれた書類の蔭で、教皇代行として忙しく執務に就いているサガが顔を上げた。だが、黄金聖衣姿の氷河を見るやいなやうんざりした声を出す。
「たかだか書庫の整理にフル装備で来るとは……」
「えっ?」
 どういうことだろう、と怪訝な声を出す氷河を、上げた手のひらで制しておいて、サガは眉間の皺を指先で揉みほぐす。
「いくら気に入らぬ執務とは言え、毎度臨戦態勢で来ずともよいものを」
「……え……?りんせん……?え?」
「よい。お前の嫌味は聞き飽きた。二言目には氷河が、氷河が、と……なるべく早く解放してやるから少しは弟子の育成以外にも尽力してくれないか。お前しか適任がおらぬのだ。仕方がなかろう」
「は、はい。わかりました」
 嫌味ってまさか先生がそんなことは、と思いつつ、慌ててそう返事をすると、立ち上がり、デスクの引き出しから鍵の束を取り出しかけていたサガがピタリと動きを止めた。
「……どうした。何かよほどの事でもあったのか」
「えっ」
 よほどの事と言えば、中身が氷河であること以上の「よほど」などありはしないのだが、サガはまさかもう見抜いたのだろうか、と氷河は緊張して、不審げに眉を寄せる男の顏を見返す。
「お前から『はい』などという物わかりのよい返事が返ってくるとは思わなかった。氷河がいるのだからつまらぬことで呼ぶな、といつもうるさかろう。……それに、ずいぶん雰囲気が柔らかいな、今日は。何かいいことでもあったのか?」

 せ、先生、サガ相手に日頃一体どんな態度を!?

 氷河の知るカミュと、サガの言うカミュが同じ人物のこととは思えず、氷河の頭の中は大混乱だ。
 カミュはいつだって女神に忠実で、厳しいけど優しくて、だけど、氷河だけを特別甘やかしたりしない、公正な人で。
 なのに、先ほどからのサガの言い方では、相当傍若無人に振る舞っているように聞こえる。それも氷河のことで、任務を疎かにするほどに、だ。

 カミュが氷河に深い愛情を注いでくれていることは素直に嬉しく、そのことについてはくすぐったいような気恥ずかしいような気持ちになるのだが、それがサガの眉間の皺を増やすほどに暴走しているとは、と鍵の束を手に取ったまま不思議そうにこちらへ視線を寄越す男に申し訳なくて、氷河は赤くなって俯いた。
 その態度をサガが何ととったのか、ギリシャ彫刻のように整った精悍な顔がふわりと緩んだ。
「お前でもそんな表情をすることがあるのだな。嫌味はこれ以上御免被りたいものだが、それでも……幸せならば……わたしも救われる」
 サガは言葉の半分を、表情を隠すようにくるりと背を向けて言い、そのまま先導するように歩き出した。慌てて氷河は小走りになりながら、その後を追う。

 次の間を通り、松明が数本燃された暗い通路を通って、装飾のほとんどない古く重々しい作りの扉の前でサガは立ち止まった。
 サガが鍵の束の中から一本を選び出して錠を開けると、ふわりと、湿っぽく、僅かに黴と埃の混じった古い書庫独特の空気が漂い出てくる。
 わあ、こんな場所があったんですね、という感嘆の言葉をどうにかぐっと氷河は飲み込んで、なるべく訳知り顔に見えるよう努力しながら、サガの後に続いて書庫に足を踏み入れた。

 宝瓶宮にも書庫はあるが、ここはさらに資料的な意味合いの強い蔵書が多いようだ。
 誰が手入れをしているのか、それとも恒常的に手入れをする者がいないのか、宝瓶宮のものに比べるとどことなく雑然としているイメージがある。

 サガはぎっしりと本の詰まった背の高い書架の間を縫って歩き、ようやく、ここだ、と立ち止まった。
「この間から探している書類がなくて手を焼いている。この辺りにあるのは間違いないはずなのだが、いかんせん、この状態なのでな。禁書も多い区画ゆえに誰彼かまわず手伝わせるわけにもゆかぬ」
 なるほど、サガが言うとおり、その区画は雑然とした書庫の中にあって、一段と酷い惨状を晒していた。 書籍には分類タグをつけるのが基本だが、ついていない上に、そもそも平積みされていたり、箱に無造作に投げ込まれていたりと、とてもではないが、これでは資料庫としての用をなしていない。
 難しいことをやれと言われたらどうしよう、とドキドキしていたのだが、これなら宝瓶宮の書庫の整理を共にしている氷河にとっては、どうにかサガに不審がられない程度にこなすことができそうだ。
「では、後はわたしが。目的の書類の名を聞かせていただければ探し出してお持ちしますが」
 なるべく一人になりたくて、そんな風に申し出たにも関わらず、サガは、いや、手伝おう、と(氷河にとって)非情なことを言った。
 ありがたいけど、ありがたくない。
「どうした、本当に今日はお前らしくない。いつもなら『呼びつけたからにはあなたも手伝うのが筋だろう』と手厳しいのだがな。殊勝なことだ」
 サガはくすくすと笑いながら屈みこんで、散乱していた書類を広げ始めた。うっすらと頬を染めて、サガが差し出す書類をその場で分類し直して書棚に収めながら、氷河はおそるおそるサガへ問う。
「あの……『わたし』はそんなにあなたに厳しいだろうか」
「ああ。そうだな……シベリアから呼び戻した時はたいてい不満そうな顔をしていたな、お前は。無表情で感情を隠していたつもりだろうが、声がずいぶんと尖っていた。 だが、あの頃はまだ表向き従順を装っていただけマシだった。女神の福音を受けて後のお前ときたら……」
 サガが氷河をちらりと見やる。
「もはや不機嫌さを隠そうともしていない。わたしはお前を呼ぶたび針の筵だ」
 針の筵、と言う割に、どこかそれを甘受した穏やかな声音でサガは密やかに笑みを浮かべた。
「それは……なんというか……その、申し訳ない。だが、せん……というか、わたし、は、そのう、任務を疎かにする意図はないというか、 もちろん、女神に全てを捧げているのは言うまでもなく、ただ、何というか、あのう……弟子が至らぬゆえに申し訳ない、というか……全ては至らぬ弟子のせいだというか…」
 カミュを擁護するつもりで氷河は必死に言葉を探すのだが、取り繕おうとするあまりに支離滅裂になってしまった。
 サガは次々に氷河へと拾い上げた書籍を渡しながら、怪訝に首を傾けた。
「もちろん、お前がどれほど女神に忠節を尽くしているかは、冥界で共に在ったわたしはよく知っている」
「あ、で、でした、ね……」
「あの時、お前は言っていたな」
「えっ。な、何を」
「自分ほどの幸せな人間はいない、と」
 冥界で?逆賊の汚名を着ようかというその時に?幸せだと?サガの話の行きつく先が読めずに、氷河は手を止めて耳を傾けた。
「最愛の人間に全てを───命すらを───托せたことが至上の喜びであった、と。 氷河の拳が女神を護ることに使われるだけで十分であったのに、再び女神のためにお役に立てることがあるとは、と。 あの時、わたしはお前を僅かに羨んだ。聖闘士にとって、女神以外に命まで託しても悔いはないほどの人間に出会えることは奇跡だからな」

 ───顔が、上げられなかった。上げると間違いなく潤んだ瞳を見られそうだった。

 あの時のカミュの想いに触れることは初めてだ。
 自らの手で女神を護りたかったに違いない。
 それがこの世でたった12人しかいない黄金聖闘士の本来の役割だ。
 それなのに、至らない俺に、全てを託せた、と、それを至上の喜びだと思っていてくれた、とは。

 女神のことを思えば畏れ多く、なのに、胸が痛く、苦しいほどの切なく甘い気持ちが溢れる。

 サガは黙り込んだ氷河へ気づかず、さらに言葉を続ける。
「同時に、わたしは申し訳なかった。あのような状況でなければ、お前の全ては別の方法で彼に受け継がれ、師弟が揃って女神をお護りすることもできただろう。 わたしの愚かさがその道を絶った……お前は普段わたしの話を聞こうともしないが、今日のお前になら言ってもよかろう。許せ、とは、とうてい言えぬ。 だが……一度はこうせねばならぬと思っていた」

 サガは、そう言って静かに頭を下げた。
 教皇代行として、最高位の法衣を纏った男が。
 年下の同僚相手に。
 背負った罪の重さに耐え兼ねるように深々と。
 
 あ、と不意に氷河の中に衝撃が走った。 
 ───違う。
 先ほどから、カミュの意外な「ふてぶてしい」一面を見たようで、先生ったら、と困った保護者のような気持ちでいた自分が恥ずかしくなった。

 そうじゃない。

 カミュは、きっと、サガにこんな風に頭を下げさせたくなかったのだ。後悔などない、謝るな、と言ったところで贖罪を望まずにはいられぬ男のプライドを守るために。
 あのひとの優しさと言うのは、いつもそんな風に回りくどく表現されるのだ。意外な一面なんかじゃない、これもすべてカミュの……

 なのに俺がそれを無にしてしまった。

 慌てて氷河は頭を上げてください、と言いかけて、すんでのところで堪えて唇を噛んだ。

 それすらも。
 それすらも、この男を傷つける、だろうか。
 男は傷つくのを厭わないだろう。だが、カミュはそれを望んではいないのだ。

 ならば───

 迷った末に氷河は背をすっと伸ばした。
 涙で濡れかけていた睫毛を何度か瞬かせて、わざと大仰なため息をつく。
「つまらぬ過去をうじうじと掘り返している暇があるなら、手を動かしてはくれないか。早く帰ってやらねば、わたしの可愛い氷河が待ちくたびれている。 氷河との時間を邪魔しているのは過去のあなたではなく、今この瞬間のあなたなのだが」
 可愛い、はちょっと言い過ぎただろうか、だが、あなたのことは誰も責めてなどいない、という気持ちがどうか伝わりますように、 と赤くなりかける頬を隠すようにそっぽを向くと、横でサガが、頭を上げた気配がした。
 引き攣れたような衣擦れの音に、何ごとだろうか、と神経を研ぎ澄ませてみれば、どうやらサガは笑っているらしかった。
「お前ときたら……!全く、わたしは謝らせてももらえないのだな。よかろう。同じ轍は踏むまい。お前を早く氷河の元へ帰すために、さっさと済ませてしまおう」
 氷河は長い赤毛に隠れるようにほ、と息をついた。多分、今ので正解、だったはず。

 ───ですよね?先生。

**

 カミュはゆっくりと踏みしめるように石段を下りた。しっかりと足を地につけることを意識していないと、どうにも身体がふわふわする。 これでもだいぶ筋肉がついた方だが、やはり氷河はまだ細い。想像以上に軽い身体を操りながら、カミュは目指す宮へと辿り着いた。
「おや、帰るにはまだ早いだろう?カミュはどうした」
 まだ眠ってでもいたのか、友は大きな欠伸をしながら宮の奥から顔を出した。
 もう日が高く昇っているというのに、お前はだらしないぞ、と言いたいところをカミュはぐっと堪える。
「先生ならサガのところでつまらぬ雑事だ」
 カミュの言葉に、大きく開いていたミロの口が、そのままの形で止まった。
「坊やもずいぶん言うようになったな。口調までカミュに似てしまっては可愛くないぞ」
「お前なぞに可愛がってもらわずとも結構」
「今日はずいぶん言うな。……虫の居所が悪いのか?ああ、カミュに置いて行かれて拗ねているんだな。それで、俺に構って欲しくて来たというわけか?」
 ニヤリと笑って伸ばした指先に柔らかなブロンドを一掬い絡めとるミロの手を、カミュはぴしゃりと叩き落とした。
「やめろ。無闇矢鱈にひょ…俺の身体に触れるな」
 どうもこの友ときたら、無駄なスキンシップが多く、それがカミュの苛立ちの元だ。
 氷河はミロに対して何かと恩義を感じているらしく、カミュ不在の時にはここで過ごすほどに懐いてはいるのだが、 こうしてべたべたと構い倒されているのかと思うと諸手を上げてそれに賛成、とは言い難い。
 事と次第によっては、と、やや不穏に身構え、キッと青い瞳に力をこめるカミュに向かって、ミロはさらに不敵に笑い、宮の奥へ誘うようにくいと頭を傾けた。
「いい瞳だ。それを屈服させるのが最高なんだ。来いよ、今日も思う存分可愛がってやろう。足腰立たなくなるまで、な」
 ニヤリと笑って背中を向け、宮の奥へ進むミロに、カミュは、お前という奴は……!とふるふると拳を震わせる。
 これも良い機会、手の早い友(既にコイツを友と呼べるかどうか疑わしいのだが!)は一度痛い目に逢わせてやらねばならぬ、と早くもカミュは小宇宙を静かに呼び覚ます。

 ミロは薄暗い石造りの回廊を抜けて、居住スペースへとカミュを促す。
 何度も訪れたことがあるのでカミュは知っている。その先は寝室だ。
 そらきた、と身を固くして立ち止まったカミュの背を押して、ミロはだが、さらにその奥、天蠍宮の裏手に設けられた小さな中庭へと進み出た。

 カミュは怪訝な顔でミロの方を見やる。
 ミロは、ぐるぐると腕や首を回して、中庭へと立った。
「……ミロ、一体何を、」
「何してる。ぼうっとしてると、こちらから行くぞ」
 ミロはカミュの戸惑いを顧みることなく、寝起きとは思えない軽やかさで地面を蹴って、カミュの胸元へと拳を突き入れた。
 事情が呑み込めなかったものの、咄嗟にその拳を避けたカミュに、ミロの眉が僅かな驚きに形を変えた。
「だいぶ俺の速さに慣れてきたようだな。だが、まだだ」
 振り向きざまに遠心力を利用した鋭い蹴りを繰り出すミロの動きはだが、カミュにとっては予想されたもの。片手でその足を受け止め、だが、少年の細い体ではその衝撃に耐えかねて、そのまま後ろへと吹っ飛んだ。
「ははは。避けて油断したんだろう。反応したところは褒めてやってもいい」
 腰に手をやって見下ろすミロに、カミュはようやく理解が追いついてきた。
「俺は……おま……あなたにこうして手合せを頼んでいたのだな?」
「何を今更。いつものことだろう。カミュの見ている景色を見たい、といつも君は言っているじゃないか」
 氷河がそんなことを?とカミュは驚く。
 その上、その答えはカミュをさらに混乱に陥れた。
「そんなこと……わ…が師に頼めばいいものを……俺はなぜ……あなたなんかに頼んだんだろう。それも、師に内緒にしておくなんて……」
「なんか、とは失礼な奴だな、君は。きっかけも覚えてないのか?ほら、無駄口を叩いてないでいくぞ」
 少し身体を動かしたことですっかり熱くなったミロは、好戦的に瞳を光らせて、おしゃべりは終わりだ、とばかりにまた地面を蹴る。
 ふわりと風のように躱したカミュの口元へは次第に柔らかな笑みが浮かび始める。
 そういえば、こんなふうにミロと拳を合わせるのはずいぶんと久しぶりだ。
 ───まあよい。疑問は後だ。
 意識を集中させていないと本当に怪我をしかねない。手ごわい相手だということは誰よりもよく知っている。
 まるで子どもの頃に戻ったようで、カミュの心も熱く踊った。

 数刻の後、はあはあと息を上げるミロとカミュの姿があった。
 カミュの拳は触れる寸前で止められてはいたが、ミロの鳩尾を的確に捉えていた。ミロは荒い息をつきながらチラリとそれを見下ろし、僅かに唸った後、肩の力を抜いて、ふっと頬を緩めた。
「……参った!……約束通り、俺の負けだ、坊や」
 正確に言えば、ミロの拳はカミュの(というか氷河の)身体に何度もヒットし、カミュの拳はたった今、初めて一撃を入れられたにすぎない。
 だが、ミロがそう言うからには一撃を入れたら、という約束になっていたのだろう。  黄金聖闘士であるミロが、青銅聖闘士とはいえ、歴戦を潜り抜けた氷河に与えたハンディにしては甘いような気がしたが、今までその一撃がなされていなかったことを思えば、ミロの方もどうやら相当に本気で相手にしていたことが知れた。
「来い。仕方がない、約束のものをやろう」
 約束のもの。
 ───どうやら何か物を賭けていたようだ。
 神聖なる女神の聖闘士が、鍛錬の場に賭を持ち出すとは、とミロの奔放さに一言言いたいところだったが、敢えてそこは目をつぶり、宮の中へと誘うミロの背にカミュは黙って従う。

 ミロはちょっとの間、どこかへ消え、またすぐに戻ってきて、手に持っていたものを無造作にカミュの方へと投げた。
「ほら。持って帰れ」
 ボールでも投げたのかと何気なく伸ばした手の先に、透明なものがキラリと光り、硝子か?と慌ててカミュは伸ばした片手に反対の手を添えた。壊れ物を扱うように衝撃を吸収して柔らかく受け、おそるおそる両手を広げたその先にあったのはやはり透明の塊。
 だが、受けたカミュの両の手のひらが───痛いほどに冷たい。
「これは…………氷、か……?」
 怪訝な色が混ざったことに気づいたのだろう、ミロが、おいおい、君ってやつは、と呆れた声を出した。
「本当に忘れてしまっているのか?あんなに熱心に見つめて、くださいくださいと強請ったじゃないか。 俺はカミュに頼めと言ったのに、君が『カミュの初めて』がいい、と我が儘を言うから条件をつけてやったんじゃないか」
 あ、とカミュの記憶が不意に揺り動かされた。

 氷は氷だがこれは───特別な氷だ。

 まだ、カミュが黄金聖闘士になりたての頃。
 フリージングコフィンを習得して、得意になって、融けない氷だ、とミロに作ってやった。 日に当たっても、どんな衝撃にも融けない氷をミロは面白がって持って帰って───
「まだ、持っていたとは……」
 感嘆したように言うのをミロは怪訝がって首をひねった。
「こないだ見せてやったばかりだろう?ほかならぬ君の頼みだから譲ってやるが俺だって手放すのは惜しい」
 友の思わぬ告白に、この男にそんな一面があったとは、とカミュは驚く。
 しかし、ミロはいたずらっぽくそれを鮮やかなウインクで返した。
「新しいペーパーウエイトを買わないとな。これと同じくらいのちょうどいい重さのがあればいいが」
 ああ、実用の意味での重宝か、と拍子抜けしたものの、なんとなく、久しぶりに遠い日の思い出に触れたばかりのせいか、友のそんな彼らしい一面に、だからこそ長い間つきあってきたのだった、とカミュは小さく笑った。
「先生が……きっとあなたに、新しいペーパーウエイトを作ってくれると思いますよ」
そう言うと、ミロは肩を震わせて大笑いした。
「だめじゃないか。先生じゃなくて、俺があなたに作ってみせますよ、と言わなければ。それとも坊やの力はまだそこまで足らないのか?カミュに内緒で練習ならしているのだろう?」
「……そう、でした。……あの、これはやっぱりまだ俺は受け取れない。預かっていてください。代わりのものを俺が、あなたに用意する日まで」

 それはそう遠くない未来に。
 我が愛弟子が、きっと、アクエリアスを継ぐ者として。

 カミュの手から再びその氷塊を受け取ったミロは、目を細めてそれを眺め、楽しみにしている、と笑った。

**

 会いたい。先生に。今すぐ。

 石段を下りる氷河の足が逸ってもつれる。
 カミュの身体を借りて、カミュの視点で見た世界が氷河の足を急がせる。
 目に見える柔らかな微笑だけが優しさではない。時に、眉間に皺よせて傍若無人に振る舞い、敬遠されてみせる、とてもわかりにくいあのひとの優しさを思うと胸の深いところがじんわりと疼く。
 氷河に対しても、めったなことじゃ甘い顏を見せたりはしない。でも、どれだけ大切にされているかは、痛いほど知っている。
 ずっとずっと知っていたけど、でも、俺が知っていると思っていた以上に先生は───
「おや。カミュ、今朝咲いた薔薇の花を今……」
 呼び止めるアフロディーテの声も氷河の耳には入らない。


 カミュはキッチンで鍋をかき回しながらステンレスのつるりとした鏡面に己の姿を映す。
 すっきりと涼しげな瞳に、きかん気な口元。
 二人きりの時には、幼い頃そのままの甘えん坊の顏を見せているが、知らぬ間にずいぶんと逞しく成長したようだ。
 師の域に達し、それを越えてもなお、まだ己を師と仰ぐあの健気な魂は、いつもいつも教えた以上のことをやろうとしてのける。
 だからこそ、お前のためなら、わたしは何度だって命を与えてやれる。


 バタバタと乱れた足音と共に氷河が飛び込んでくる。
「先生……!」
 何をそんなに慌てて、と普段のカミュなら言うところだ。だが、込み上げる愛おしさに任せて、ただ、柔らかく笑んで振り返った。  姿は自分の形をしているが、魂は確かに氷河だ。今、『氷河』を抱き締めたくて仕方がなかった。
「カミュ先生!」
 自分を呼ぶように広げた腕に誘われて、氷河はほとんど条件反射でいつものように胸の中に飛び込んだ。何年も会っていなかった恋人同士もかくや、という勢いで。
 だが、身長もウエイトも何もかも勝る青年の身体が勢いよく飛びついて、まだ未成熟な少年の身体はさすがにそれを受け止め損ね、結果、二人は勢いよく床へ転がり、強かに互いの額をぶつけあった。アクエリアスのヘッドパーツが勢いでカラコロと転がる。
「……っ……く…っ…!」
「…っ……たたっ…す、すみません、俺、」
 痛みのあまり潤んだ薄青の瞳がカミュを見上げて慌てて体を起こす。

 薄青の瞳が。カミュを見上げて。

「おや」
「あれっ……?」
 二人同時にそのことに気づいて、パチパチと瞬きを繰り返す。

 カミュの体にカミュの魂。氷河の体に氷河の魂。

 紛れもなく、本来のあるべき姿だ。
 まさかそんな単純なことで?と思うのだが、どうやら今の衝撃で二人の身体は元に戻ったらしい。
「……えーっ……なんっ……?え、えー……っ??」
 このままだったらどうしようと、気をもんだ分だけ、あっけない幕切れに拍子抜けしたように氷河は脱力した。
 カミュはしばらく、取り戻した自分の身体の感覚を確かめるようにした後、おもむろに氷河へ言った。
「ふむ。……氷河、少し我慢しなさい」
「はい?」
 言うやいなや、カミュは氷河の頬を挟んで額を寄せ……力の限りそれを自分の額とぶつけた。
「………っ!~~~~~っせ、せんせぇっひろいれす……」
 てっきりこれはキスをされるのだと思って目を閉じたというのに、瞼の裏に星が飛ぶほどの衝撃が来て思わず舌を噛んでしまった氷河は、痛みのあまりろれつが回らなくなって涙目でカミュを見上げた。
「うむ。毎回コレで簡単に入れ替わるというわけではないらしいな。こういうことがしょっちゅうあっては困るからな」
「そうならそうと先に言ってください……」
 恨めしそうに頬を膨らます氷河の頭をカミュは撫でた。そしてもう一度氷河の頬を挟んで引き寄せる。
 やや警戒して身を竦めている赤くなった額に、すまぬ、と笑ってキスを落とし、今度こそ本当に唇へと触れる。

 よく考えたら、今日はじめてのキスだ。傍にいて、おはようのキスもしなかったのは初めてのことかもしれない。宥めるために触れるだけのつもりだった口づけは、次第に思いを確かめ合うように深くなっていく。
「……すまぬ」
 舌の上へ感じた錆びた鉄の味に、カミュの二度目の謝罪は気まずげな色を帯びた。
 熱っぽい吐息の間で、先生のせいで噛みました、と少々恨めし気に答えた声に、二人、顔を見合わせ、それからくすくすと笑い始めた。笑いながら、氷河はとん、とカミュの胸へ頭を預ける。
「大好きです、カミュ」
 痛い思いをさせたばかりだというのに、自分にそう言う氷河がいとおしくなってカミュは強く抱き締める。
「そんなことを言うために、あんなに慌てていたのか?お前の気持ちはもう知っている」
「でも、すごく言いたい気分でした」
「ふふ、わたしもだよ。氷河、お前を愛している」
 この世の何ものにも代えがたいほど。
 いつもなら頬を染めて俯く氷河だが、今日はしっかりとカミュを見つめ返した。
「はい。知っています」

**

「んっ……カミュ、あっ……」
 氷河が懇願するようにカミュを見上げる。
 乱れたシーツの上へ投げ出された四肢が戦慄き、時折、何かを耐えるように指先がシーツを掴む。カミュは舌と指でその身体を隅々までひらいてゆく。
 傷だらけの身体だ。痛々しいほどに。
 左胸の裂傷は致命傷に近かったことだろう。
 脇腹に咲いた真紅の華は紛れもない致命傷だったはずだが、むしろ、それをあの男に撃たせたことを誇ってもいい。
 瞼の上の小さな傷痕は、傷の小ささの割に存在を主張しているのはその意味に込められた重さのせいか。
 カミュの知らない傷も無数にある。
 それほど多くの闘いを、歯が抜け替わるときにすら痛がって泣いていた、あの子が。
 カミュは愛撫に耐えて震える身体をシーツの海へ裏返した。日に焼けてない背は眩しいほどに白く、滑らかな肌はきめ細やかで瑞々しい。
 背中に傷が少ないこと。それは我が愛弟子が、自分の教えを忠実に守った証。
 畏れるな、怯むな、女神の聖闘士は決して敵に背を向けてはならない、と。
 この、細い身体はただ、ひたすらに前へ進んだはずだ。不器用な愛弟子は、進むことで傷ついたこともあったはずだが、それでも。
 カミュはその白い背にゆっくりと舌を這わせる。
 背骨に沿ってうなじまで稜線を辿ると、氷河の躰がピクピクと震えた。傷のない滑らかな肌が愛おしく、跳ねる躰を押さえつけて、何度も愛撫する。
「やぁっ……カミュ、それ、や…」
「なぜ?」
「だって…ぁあっ……」
 金の髪を振り乱して氷河はカミュの舌が触れるたびに甘い声を上げて背をのけぞらせる。
「ふふ、氷河は背中も感じるのだな」
「……ふぁっ、や、あぁ、せんせ…い…」
 氷河が潤んだ瞳で振り返る。
 房事には師弟関係を持ち込むまい、と名前で呼ぶよう氷河には求めているのだが、甘え、媚びる時には何故かいつも『先生』と呼ぶ癖が出る。そう呼ばれると、とても悪いことをしている気分になるのだが、とカミュは苦笑し、耳元で「『カミュ』だろう」と窘める。
「あっ、カ…ミュ、も…う、俺」
 律儀にカミュと言い換えて、氷河は上体を捩った。シーツとの間で擦れて透明な蜜を垂らす昂ぶりは限界を伝えるかのようにひくつく。 それでも、その先の求めを口にするのを恥じて、氷河は目元を朱に染める。
 氷河は、身を起こし、同じように身を起こしてベッドの上へと腰掛けたカミュの昂ぶりをそっと手で触れた。欲しい、と言葉では強請れない。代わりに仕草で強請る。
 師弟関係でありながら愛を交わす、という、背徳とも言える行為ゆえに、カミュはいつも氷河の方が求めるまで先を進めようとはしない。強権を笠に着て無理を強いてはいないかと気遣うゆえのことだが、それが氷河にはもどかしく、そして恥ずかしくてたまらない。
 カミュが氷河に全てを与えたように、氷河も全てをカミュに捧げたい、のに。
 氷河は困ったように眉を下げ、一度カミュをチラリと見上げた後で、カミュの足の間に跪いて頭を沈め、その昂ぶりをそっと口に含んだ。
 口いっぱいに頬張った熱塊に舌を押し付け、裏筋を舐め上げ、くびれを唇で柔く挟む。
 夢中になって己を穿つ欲望を育てようと、淫らな動きに揺れている金の髪にカミュの指が挿し入れられる。濡れた粘膜がもたらす快楽の波をやり過ごすように、カミュの眉根が時折きつく歪むとともに、氷河の髪を梳く指先が押し付けるような動きに変わる。カミュが感じていることが嬉しく、氷河の躰の中心にもますます熱が熾きる。
 四つ這いになった氷河の腰が、無意識に揺れ始めるのを契機に、カミュは氷河の顎へ手をやって行為を止めた。名残惜しそうに離れる唇から銀糸がつ、とカミュの昂ぶりとを繋ぐ。
 カミュを見上げる瞳が期待で潤んでいる。
「自分で挿れられるか?」
 羞恥を誘うカミュの問いに頬を染めた氷河は、だが、小さく頷いておずおずとカミュの首へと手を回した。
 カミュはその腰を掴んで止める。
「……?」
「今日はこちらで」
 カミュに向かい合うように腰を落とそうとしていた氷河の躰をくるりと裏返し、背中へとカミュは唇を触れた。
「お前の背中も愛してやろう」
「でも…」
 氷河の腰に手を添えて、カミュは、おいで、とひどく甘い声で呼ぶ。耳元へ囁かれる甘い低音に誘われて、氷河はおずおずとカミュの昂ぶりに手を添えて、疼く腰を落としてゆく。
「……あ、あ…あ……っ!」
 唾液で濡れた楔が双丘の奥へゆっくりと飲み込まれてゆき、氷河の背がしなやかにのけ反る。カミュが緩くその腰を揺すると、喘ぎは艶を増して空気を震わせた。
「自分で動いてごらん」
 ここまで自発性を求められては却って意地悪な遊戯のようだ。だが、その困った愛戯すら疼く身体は甘い官能へ変えてゆく。氷河はゆっくりと腰を揺らし、カミュは目の前で、ゆらゆらと上下に揺れる白い背へ再び舌を這わせる。
「……あ…ン……っ」
「感じるのだな。わたしをきつく締め付けてくる」
「や……カ……ミュッ」
 普段あまり触れられることのない背の薄い皮膚を熱く濡れた舌が往復することに氷河の躰は敏感にびくびくと跳ねる。ともすればそちらに気を取られて動きが止まる腰を、そのたびにカミュが跳ねあげて促す。半端な刺激に、気も狂わんばかりに悶えて髪を振り乱す氷河を背後から抱き締めて、前へ手をやって、カミュは赤く尖った胸の蕾を指先で挟んで嬲る。
「……っ……んあっ…ッ……んっ…っ」
 氷河の内腿が震えて、瑞々しい肌がじわりと桜色に染まり、振り乱す金の髪から雫が落ちた。時折、助けを求めるように身を捩ってカミュを見上げる薄青の瞳はとろんと焦点を失って、後ろへまわした指先がカミュの髪を引いて、懇願めいた訴えを伝える。
 カミュが氷河の腰を揺すって敏感な部分を突き上げてやると、悲鳴のような嬌声が漏れた。だが、一瞬で止んだその突き上げに、氷河は首を振って、自ら腰を押し付けて強請る。
「ん……ん…カミュ…!」
 もっと、と音のない唇が動く。カミュはうなじを強く吸い上げた。傷のない背へカミュの所有の徴がいくつも咲いてゆく。粘膜どうしのこすれ合う湿った音の合間に、苦しげに喘ぐ氷河の吐息が混ざる。
 ひくひくとカミュを包む熱い肉が引き攣れたように蠕動し、奥へと誘う動きにカミュも思わず、くっと息を吐いた。
 氷河はもはや吐精の欲に支配されて、はしたなく腰を揺さぶることが止められない。背を這いまわる舌が生む甘い痺れにすっかりと隷属された身体が切なく震え、カミュ、と呼ぶ声はもはや非難めいてもいた。
 その切羽詰まった響きに誘われてカミュも堪らず激しく腰を突き上げる。
「あ、あー……っ」
 待ちかねていた動きに戦慄く唇からひどく切ない声が漏れ、カミュの腕に小さく爪が立てられる。カミュは氷河の両膝を抱え上げてその身体を持ち上げた。ずる、と楔が抜ける寸前まで引いて、また、深々と落とす。自重で深くなる結合にぬめる襞がカミュにきつく絡みつく。
「あ……っ……も、やあっ……せんせ……!」
 緩やかな動きから、突然に弱いところを激しく攻めたてられ、身も世もなく悶え狂って氷河は白い蜜を散らした。その強く引き絞るような締め付けにカミュもまた。

 熱く火照った氷河の背にぴたりとカミュは裸の胸を合わせて、結合を解かないまま甘美な余韻に気怠く浸る。互いの心音と呼吸は同じリズムを刻み、触れ合う肌は同じ熱を伝え、カミュと氷河との境界は曖昧に融け合う。
 今日の椿事は、身体も魂も一つになって、境界を失ったがゆえの出来事だったのだろうかと、そんな気さえするほどに、あまりに濃密に混じり合い、心を交わしあって、二人は魂の奥深くで繋がる。

「カミュ、好きです」
 カミュの胸に包まれて、人肌の心地よさに早くも夢うつつの氷河がとろんとした声で呟く。知っているとも、とカミュは柔らかな金糸に唇を押し当てる。
「せんせい……」
 今度は『先生』と氷河が呼び換える。どうした、と抱く腕に力を込めるカミュは『恋人』の声のまま応えて。

 いつの日か、あなたと肩を並べたい、です。
 あなたが「全てを託せたことが至上の喜び」と言ってくれた俺はまだまだ、本当はあなたに遠く及ばないけれど。
 あなたにただ、すべてを導いてもらうのではなく。
 少しは、ほんの少しくらいは、あなたを驚かせて、見直してもらえる日が来ることを。

 あの日、あの時、生が途切れたままであれば永遠に『師弟』のままで終わっていた二人だが、こうして女神の福音に生を繋いだ今、『師弟』から緩やかに関係は変化して。
 いつか。
 いつか、肩を並べて共に傍に在れるように、と。
 時には、あなたのことを俺が支えることもできるように。

 今はまだ、その想いはまだ夢でしかなく、氷河は口にすることはできない。

『先生』と呼んだきり黙り込んで、すうすうという寝息を立てはじめた氷河に、カミュはおや、と苦笑する。
 だが、穏やかなその寝息に誘われて、カミュもまたとろとろと幸せな微睡に引きこまれて行く。

 融け合うように、ひとつになって。

 幸せな微睡に赤と金の髪が二人を包むように広がっていた。

(fin)

(2013パラ銀15にて発行されたカミュ氷アンソロthe absoluteより再録)