寒いところで待ちぼうけ

パラレル:午前時のシンデレラ

氷河女体化シリーズ
設定は同じですがそれぞれのお話は独立しています


◆一輝編◆

 あ、まずい。アレがまた来る。

 氷河は自分の身体に起こり始めた変化をいち早く察して、慌てて両腕を胸の前にやった。
 何度かソレを既に経験している身は、この後何が起こるか誰よりもよく知っていて、早くも恐慌状態に陥る。

 こんな往来の真ん中で。
 よりによってこんな奴と一緒の時に。
 くそっ。最悪だ!

 氷河はチラリと隣を歩く精悍な男の顏を見やる。
 星矢や瞬と一緒に出歩くことはあっても、この男とこんな風に二人で歩くことなどほとんどないというのに、どういう運命のいたずらでか、今日は二人でブラブラと街歩きをしている。
 どちらが誘ったわけでもない。
 ただ、ヤコフに珍しい日本の土産でも、と都心の方角へ向かおうとした氷河と同じ方向へ足を向けた一輝のことを、氷河が珍しく拒絶しなかった、というだけのことだ。
 日本の地理に不案内な己に不安を感じていたせいかもしれないし、有り余る暇を持て余して気まぐれを起こしただけかもしれない。
 二人で歩いている、というよりは、一人と一人が同じ方向へ歩いている、という微妙な距離のまま、だが、それでも道筋のショーウインドーをのぞいては、不愛想に一言、二言、会話を交わす。
 会話が盛り上がって仕方ない、ということはまるでなかったが、それでも険悪な空気はまるでなく、それなりに楽しい(と感じたことに驚きだ!)時間は過ごせていた。

 顏を合わせれば喧嘩ばかり、時には強引な手段で不埒な交わりを強要される、そんな関係の自分達であっても、一歩外に出てみれば、意外と普通の友人同士のような顔を演じられるものなのだな、と不思議に思っていた矢先の、コレだ。

 宵の口とはいえ、街の中はまだ人の波で溢れている。
 だが、たいして他人に注意を払うことなくどんどん通り過ぎてゆく、景色の一部のような多くの人間よりも、氷河は隣を歩くたった一人の男の反応の方が気になった。

 なんだかんだと自分のことを馬鹿にし、そのくせ、氷河が望まない強引なやり方で気まぐれに構ってゆくこの男が自分に起こった変化を知ったら。

 氷河は、早くも屈辱を感じて血が滲むほどギリッと唇を噛んで俯いた。
 そうしている間にも、刻々と自分の身体が変化してゆくのを感じる。シャツの中で氷河の身体は泳ぎ始め、なのに、胸のところだけが窮屈に布地に締め付けられてどうにも苦しい。
 氷河はぎゅっとシャツの胸の部分を手の中に握りしめた。
 だが、その程度の動きはほとんど無駄な抵抗だった。氷河の手の中でシャツのボタンが胸を中心に2つ、3つ、とプツプツとはじけ飛び、前をかき合わせるように必死で掴んでいた指先はみるみるうちに丈の余った袖の中に埋もれてしまう。
 履いていたジーンズの裾がずる、と地面についたのを感じて、慌てて片手をウエストにまわしたが、自分のものとは思えないほど細い腰は少しも布地をそこへは留めておくことができない。非情にも重力に従って、サイズの合わなくなったジーンズは(考えたくはないがその下に穿いているものも)ずり下がってゆき、あっという間に歩くことすらかなわなくなって、氷河は堪らずその場にしゃがみこんだ。

 頼むから、俺のことに構わず、そのまま先へ行ってくれ……!

 名も知らぬ、行きかう雑踏は、だぶだぶの衣服に埋もれて道端に座り込む金髪の美少女に、じろじろと無遠慮な視線を投げかけてくるが、そんなことは氷河にとってはどうでもよかった。

 アイツにさえ見られなければ。

 だが、意外と神経の濃やかな男は、ほんの数歩先んじただけで、すぐに隣の氷河の気配が途切れたことに気づき、振り向いた。
「おい、どうした……?」
 雑踏の中に、氷河の服を着て、両の膝に顔を埋めている金髪を発見して、一輝は具合でも悪いのか、とやや足早に近寄り、アスファルトに膝をついてその肩に手をかけた。
 が、手をかけたその肩が自分の知る氷河の肩に比べてずっと細く、柔らかな感触を返したことに驚いて、人違いか、と慌てて手を離した。
 ボタンのはじけ飛んだシャツの隙間から、隠しきれずにのぞいている白い二つの丸みからさりげなく目を逸らし、だが、視界に入った何かがチクチクと一輝の記憶を刺激して、思わずもう一度視線を戻す。
 白いまろやかな膨らみの間に揺れる光。
 見まごうことなき、氷河のロザリオ。
「……氷河……?」

 氷河は、肯定も否定もできずに、ただ屈辱に顔を俯かせたまま唇を噛み続けた。

 くそっ。
 笑うなら笑え!

 どうせ俺の意志に関わりなく、俺を勝手にオンナの代用にするお前のことだ、これ幸いと獲物を見つけたような目で俺を見ているに決まっている。
 この後にどんな展開が待っているか想像しただけで吐きそうだった。
 いつも最終的に一輝の思うようにされてしまうとはいえ、男の体であれば、奴の横っ面を張り倒してやることもできる。事実、何度か氷河の反撃によって、一輝はその思いを最後まで遂げることができなかったこともある。
 だが、こんな体では。
 筋肉などまるでついていない柔らかな二の腕や、精いっぱい振り上げたところでヤツの肩にも届かなそうな頼りない足では。
 いいように蹂躙され尽くす、慣れぬ体の自分を思うと吐き気がこみあげてくる。せめて、いざとなったら噛みついてやる、なんだったら、あの忌々しい奴の雄を噛み切ってやってもいい。

 可憐な少女へと変化してしまった外見にそぐわない、不穏なことを氷河が考えていると、何かがふわりと肩に掛けられた。
 なんだ、と視線をやると、一輝のブルゾンが自分の肩に掛けられているのだった。
「……?」
「俺のサイズなら少しは隠れる。」
 ちらりと見上げた先には、ごく真面目な表情をした一輝がいて、氷河は拍子抜けした。
 一輝は笑うでなく、からかうでなく、淡々と氷河の腕を取ってブルゾンの袖に腕を通してやる。

 やめろ、俺に触れるな。

 そう喉元まで出かかっていた声は、彼のあまりに淡々とした態度に音となることはなく、氷河はただ為されるがまま黙って俯いていた。
 氷河の身体を見ない様にと微妙に逸らされた瞳を縁取る漆黒の睫毛は意外と長く、氷河の腕を取る手はまるで壊れ物を扱うかのように優しい。
 自分の知る一輝とあまりにかけ離れたその態度に、氷河は戸惑った。
「おい。」
 何考えてやがる、そうきつく視線で問えば、どうした、と問い返す瞳の色までが柔らかで、氷河はますます困惑する。

 氷河に自分のブルゾンを羽織らせてやった一輝は、あとは自分で、と言うようにその肩を押しやった。
 一輝の意図は読めないが、助かったことは確かなので、素直に頷いて、氷河はブルゾンの前をかきあわせるように握る。その動きに一輝が、違う、横着するな、とジッパーの存在を指し示す。
 ああ、と氷河は膝をついたまま、金具をカチャカチャと探った。
 時は夕闇迫る頃だ。
 手元も見えぬ薄闇の中、慣れぬ他人の洋服、長い袖に隠れた指先、(そして生来の不器用さ)と氷河に不利な条件が重なり、それは音だけはするもののなかなか合わさることはなく、いたずらに時間だけが過ぎ去る。
 あれ、あれ、と焦れば焦るほど、金具は虚しい音を返し、金具に夢中になって俯く氷河の胸元はとても正視に耐えないほど白い肌を薄闇に浮かび上がらせている。
「悪い」

 そう言って一輝の腕が伸びてきて、氷河の手の中で泳いでいた金具を存外に器用な指先で摘んだ。
 何に対する「悪い」なのかと氷河はぼんやりと考えながら顔を上げ、上げたその先に、また微妙に視線を逸らした一輝の姿があって、ああ、と思わず声を上げそうになった。
 もしかして俺に触れることに対する、「悪い」なのか。
 あの一輝が!
 俺の意志などお構いなしに、いつも自分勝手に翻弄してゆく、あの暴君の一輝が俺に触れるだけで「悪い」と!

 氷河が軽い衝撃に我を失っていた頃、一輝の方も動揺で言葉を失っていた。
 金具を合わせて、首元まで一気に引き上げてやろうとしたジッパーが、柔らかな感触を指先にもたらす胸元で止まっている。一輝の厚い胸板ですら覆いつくしてしまえるはずの布地が、局地的に用をなしてない。肩はだらんと落ち、袖は氷河の指先まで覆い、むしろ全体的には相当に余っているにもかかわらず。

 二人の間に、なんとなく沈黙が流れる。

 行き交う雑踏は、道端に座り込んだ二人にやはり特別な関心を向けることはなく、ただ、喧騒だけを二人の耳へ残しては流れてゆく。時が止まっているのは二人の間だけだ。

「俺の……」
 先に口を開いたのは一輝の方だった。
「俺の部屋に来るか?ここからだと城戸邸よりは近い」
 聞きようによっては、ある種の『誘い』にもとれるその言葉は、だが、この特殊な状況においては救いでしかなかった。氷河は黙って頷く。
 一輝も頷き返し、氷河の前にその広い背を向けた。
「……?」
 一輝の行為の意味がわからなかった氷河が黙っていると、一輝は僅かに氷河の方向へ首を傾けて言った。
「乗れ。そのままでは歩けんだろうが」
 再び氷河の中に動揺と衝撃が走る。
「ばっ、な、何言って……!怪我したわけでもあるまいし、自分で歩ける!」
 そう言ってウエストを両手で掴んで、氷河は勢いよく立ち上がった。
 が、すぐに行き詰る。
 踏み出そうとしたその足が、サイズの合わないスニーカーの中で泳いでいる。ええい、こうなりゃ裸足だ、と脱いだものの、ずり落ちるウエストを両手で掴んでいては靴を持つこともままならない。
 困ったように、自分の靴と、一輝の顏を見比べている、その顏だけはいつもの氷河の顏で。
 外見が変わってもお前のバカは変わらんな、と口の中だけで呟いて、一輝はほら、ともう一度背を向けた。
 それでもしばらく、他に道があるはずだ、と突っ立って抵抗する氷河を、一輝はただ黙って待った。

 やがて、氷河がおずおずと靴を履き直し、片手はウエストを押さえたまま、一輝の背に一回り小さくなった身体を預けて来た。片腕を一輝の首に回してぎゅうと身体を密着させる氷河に、堪らず一輝が悲鳴を上げる。
「おい!そこまでくっつくヤツがあるか!もう少し体は離しておけ……!」
「無理だろ……!靴も落ちるし、パンツだって落ちる!」
「その姿で往来で『ぱんつ』とか言うな!」
「俺にえらそうに指図するな!いいからとっとと足を動かせ!」

 互いに、くそっ、と悪態をつきながら、ほとんど駆けるような速足で一輝は自分の家を目指してひたすら足を動かし、氷河は振動でずり落ちていく洋服を必死に押さえたのだった。

**

 自分の暮らすマンションの、馴染んだ扉を開けて飛び込めば、まだ靴も脱がぬうちから、一輝は脱力したようにへなへなとその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
 一輝にしてみればたいした運動量ではなかったはずなのに、何故かその額には汗が滲み、運動など少しもしていない氷河の方もこめかみに金髪を汗で張りつかせている。
「おい……」
「聞くな!俺が訊きたいくらいなんだ!」
 なぜお前はそんな姿になったんだという至極もっともな一輝の疑問を、一言も音にさせることなく氷河はそれを封じた。
 苛立ちに荒げた声が、自分の声にしてはずいぶん高いことがまた氷河の神経をささくれ立たせる。

「……ほっとけば日付が変わる頃に元に戻る」
 ようやく、原因ではなく、解決法(?ずいぶん消極的解決法だが)の方だけどうにか告げて、氷河は後はもう一言だってしゃべるもんか、と唇をきっと結んだ。

 しばらく、玄関先で黙りこんだ二人だったが、一輝が、とりあえず上がれ、としぐさで氷河を誘った。だが、氷河は唇を結んだまま首を左右に振った。前回、ここを訪れた時に受けた仕打ちを忘れてなどいない。
 男の時ならいざ知らず、この身体であんな辱めに耐えるくらいなら今すぐ往来に飛び出した方がマシだ、と警戒心をあらわにして、壁に背を押し付けるように身を引く。
 氷河の、手負いの獣のような、いつもにましてきつい瞳の色に、一輝はため息をついた。
 大きな男物の洋服に包まれた身体は隠しようもなくまろやかなラインを醸し出していて、それなのに、その顏ときたら、まるきり氷河そのものだった。
 強いて言えば、きっと結ばれた唇がいつもより肉感的で艶めかしい。
 こうしてみれば、氷河の相貌はつくづく中性的なのだ。
 男の体がついていれば、どこぞの国の王子様。
 女の体がついていれば、どこぞの国の王女様。ただしこちらは少々おてんばの。

 自分の身体がどう変化したのか知らないわけでもあるまいに、そのしぐさはまるきり男のもので、威嚇するようにこちらを射抜く瞳の下で、その両脚は、男がするように無防備に開かれて投げ出されたままだ。
 座り込んだことで油断して手を離しているが、ブルゾンの裾からは細い脚へと続く白くまろやかな体のラインが顏をのぞかせていて、男物の洋服を着ていることが却って氷河を官能的に彩っていた。

「おい、脱げ」

 一輝の声に、途端に氷河の顏が強張り、身体を壁の中に隠そうとでもするかのようにさらに背を壁に押し付けて、ギュッと目を閉じた。一輝が拳を突き出すと、その拳圧を感じて、触れてもいない氷河の肩がビクッと跳ねる。

 噛んでやる。俺に指一本触れたら絶対に噛み千切ってやる。

 そう心の裡で悪態をつきながら、おそるおそる目を開くと、目の前に突きだされた拳の中に握られた、小さなボタンが3つ。
「……?」
「お前のシャツのだ。拾っといた。つけてやるから貸せ。3つも留め具を失ったんじゃ帰り道が困るだろうが」
 はじけ飛んだボタンの行き先まで神経が回っていなかった氷河は、一輝がそれをいつの間に拾っていたのかと驚き、だが、やはり一輝の申し出をけんもほろろに拒絶した。
「そのくらい自分でする。針と糸だけ貸せ」
「お前がやったんじゃ朝までかかったって1つだってつけられるもんか。俺の方がまだマシだ」
 何だと、といきり立ちながら、だが、脳裏に自分の裁縫能力がどの程度だったか去来したのだろう、氷河は、しばらくうろうろと視線を彷徨わせ、最終的に、ふん、と返事のような返事でないような息を漏らすと、やにわにその場でブルゾンを脱ぎ捨てた。
 当然のことながら下着などで包まれていないたわわな果実が、その下のシャツの合わせ目からふるんとのぞきかけ、一輝は氷河の腕を掴んで止める。
「………ここでは脱ぐな。バスルームを使え」
「その手には乗らん。ここからは一歩も動かん」
 お前はどこまでバカなんだ、と脱力した一輝は、それ以上の議論を諦め、氷河の強情さにこの場を譲った後は自分の方がその場を去ることで妥協した。

 自分でもめったに使わない簡易裁縫セットを取って引き返してみれば、ボタンのとれたシャツを脱いだ氷河はその上に一輝のブルゾンを羽織りなおしてはいた。バカではあるが最低限の常識はあったらしい。(しかしジッパーは結局胸元半分までしか上がってない。)
 廊下に投げられた氷河のシャツを、一輝はその場に座り込んで小さなボタンを糸で止めてやる。洋服に着られているような格好の氷河は壁に背をつけたまま、片膝を立てて、ぼんやりとそれを眺める。
 武骨な男の手が小さな針を忙しなく動かしている様はどこか滑稽で笑いを誘ったが、ボタンがみるみる間に布地へと縫いとめられていく様に笑いは感嘆へと変わる。
「お前、意外と器用なんだな」
 思わず漏れた素直な賞賛の言葉に一輝は片頬を歪めた。
「こんなもの、必要とあれば猫でもできる。できないお前が猫以下なんだ」
 素直に褒められておけばいいものを、微妙に氷河が鼻白むような言い回しでしか反応できない一輝の方も氷河同様に人との距離を測るのが苦手なのだ。
 火と氷。
 似た者同士でありながら対極にいる二人は、傷つけ合わずに近づく方法を知らない。───今はまだ。

「俺は瞬を育てたからな。たいていの家事はこなせる」
 それにしたって褒められておいて今の返しはさすがにあんまりだったか、と、気まずく落ちた沈黙に被せるように一輝は口早にそう重ねた。既につむじを曲げかけていた氷河も、その言葉に、ああ、と表情を和らげた。
 二つしか歳が離れていない弟を『育てた』と言い切るほどに、彼は兄であるというよりも父であり母であったのだ。
「お前が育てたわりには瞬はよく育ってる」
 一言余計だ、と眉間にしわ寄せ、だが、先に余計な一言を言ったのは自分か、と一輝はふっと息を吐いてそれを受け流した。
 喧嘩を売りたいような、売られたいような。
 なぜ、顔を合わせると互いにそんな気分になるのか二人にはわからない。
 ただわかることは───どうも今日は勝手が違う、ことだけだ。いつもと違う姿に、振り上げた拳の行く先を失うような。少しも乗ってこない男に肩透かしを食うような。

 どうにもこうにも間の持たない沈黙の気まずさを破って、一輝はボタンのつけ終わったシャツを氷河に放ってやる。片手でそれを受け止めた氷河は、迷ったすえに、サンキュ、と俯いたまま小さく言った。

 そのまま、廊下の端と端の壁にもたれた二人の間に再び沈黙が落ちる。
 氷河には一輝が何を考えているのかまるで読めない。てっきり、いつもの流れになるとばかり思っていたのに、と、別にそれを望んでいたわけでもないのに、ずいぶんな拍子抜けをした。
 前髪に隠れるようにして、チラリと一輝の動向を窺う。
 男は腕を組んで、片膝をつき、壁にもたれるようにして目を閉じている。
 女の体でそれを見ると、いつもより幾分高いところにある頭の位置だとか、己の今の体にはどこを探してもついていない筋肉だとかに、嫉妬のような羨望のような複雑な感情が湧いた。
 己の身体を包み込んでいるブルゾンがずいぶんだぶついていることにも戸惑う。
 アイツの体躯はこんなに逞しかっただろうか。
 自分も遜色ないつもりだったのに、やはり一歳の歳の差は大きいのか、と普段なら絶対に認めないに違いない男との差を思い、慌てて、それを打ち消すかのように氷河は首を振った。
 動いた拍子にブルゾンから微かな男の残り香が香って、どく、と氷河の胸が鳴った。
 甘い感情などでは断じてない。
 だが、刹那、汗ばんだ身体を一定のリズムで揺さぶって、荒く息を吐く男の姿が想起されて熱が上がったのは確かだ。望んでいない。望んでいないのに、ただ、なぜか。

 女の体になると思考までが女性のようになってしまうのだろうか。
 だとしたら、この感情は俺自身のものじゃない。
 だから、自分をそっと大切に扱ってくれる男の手が心地よかったとか、喧嘩腰じゃない男はずいぶん優しく見えたとか、そんなものはきっと、本来の自分の身体に戻ったら消えてしまう泡沫の想いでしかないのだろう。

 きっと。

**

 氷河は左手首に緩くぶら下がっていた時計を確認した。もうすぐ針がO時を指す。
 今までの経験から言うなれば、そろそろ元の体に戻れるはずだった。
 そして、その予想通り、長針と単針がまっすぐに重なった瞬間、氷河の身に突然に起こったソレは、起こった時同様に突然に終わりを告げる。
 胸のあたりの布地をきつく押し上げていた頂はすこしずつなだらかな丘陵に変化し、最後は、ぴったり元通りの平野に戻る。
 服の中で泳いでいた身体が、ゆっくりと伸びやかに筋肉をまとってゆく。

 完全に元の氷河に戻ってから、氷河は羽織っていたブルゾンを脱ぎ、自分のシャツへと袖を通した。
 一輝が留めたボタンは不都合なくきちんとボタンホールにおさまった。感心はしたものの、男と同等の体躯を取り戻した今は(戻ってみれば確かに『同等』だった。俺は断じてヤツには劣ってない。)、やはりなぜかそれを素直に言葉にする気にはなれず、氷河は乱暴にブルゾンを一輝の方へ放った。
「世話になった」
 そっけなくそれだけ言って、逃げるように背を向けてドアに手をかけた氷河の手の上に、自分の手のひらを重ねるように置いた一輝は、ぐっと力を込めて彼がドアノブを回すのを拒む。
「もう電車は動いていない」
「……歩いて帰るさ」
「何十キロあるかわかっているのか。それに……礼はなしか?」
 礼なら今言った、と言おうとした氷河のおとがいに一輝の指がかけられ、あ、と思った時には強く唇を押しつけられていた。
 やめろ、という声をも飲み込むように熱く舌が絡められる。やはりこちらの意志を少しも確認するそぶりさえみせない強引な男の体躯を、氷河は跳ね除けるように押し戻した。

 唇をぬぐって、きっと睨み付ける氷河に、一輝は満足げに笑った。
「やっと『氷河』だな」
 なに、と不審げに眉を寄せる氷河の腕を強い力で掴んで、一輝はその身体を廊下の冷たい床の上に引き倒した。
 ぐるりと視界が回って、一瞬、一輝の姿を見失って、抵抗する腕の行き先を探している氷河のシャツに手をかけると、強引にそれを左右に割り開いた。先ほど自分がつけてやったばかりのボタンの糸がプツプツと切れて、小さな物体は空を舞う。
「───っ!?お、お前何考えてんだ、自分でつけておいてっ……!?」
「心配するな、後でまたつけてやろう」
「二度と世話にはなるかっ!」
 激しく暴れまわる身体を押さえ込みながら、一輝はニヤリと獲物を追い詰める瞳で笑う。この野郎、と睨み返しながら、氷河はどこか安堵していた。
 押さえつけられた肩が激しく痛んだが、あんな、砂糖菓子のようにふわふわした居心地の悪い空間よりはずっといい。

 氷河が、一輝の腹を膝で跳ね飛ばしてみせれば、一輝は僅かに眉を歪めながらも、ますます高揚した雄の顏を見せた。
「始発までたっぷり時間はある。思う存分、礼をさせてやろう」
 非力な女の姿の時には欠片も見せなかった肉食獣の笑みに、氷河も片頬を歪めて笑ってみせる。
「やれるもんならやってみればいい」

 組み敷かれておきながらなお強気に返す言葉を、お前ときたら、とくすりと笑った男の瞳には、だがしかし、砂糖菓子の甘さが隠しきれず滲んでいた。

(fin)
(2012.8.15UP)