寒いところで待ちぼうけ

Ω:その

派生アニメΩ(2012.4~2014.3放映)の世界における推定30代どうしの一輝×氷河
貴氷シリーズとは完全パラレルです。

Ω終わってすぐのころのお話。

性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆酒は情けの露雫 後編◆

「だいたいお前はなあ。」
 と、始まったら後に続くのはたいてい説教だ。
 だから氷河がフォークの切っ先を胸の前でゆらゆら揺らしながらそう切り出した時、「怒っている理由」の続きだ、とすぐにピンときて一輝はそっと目の前の男の表情を窺った。
 昼間、巧みにその話題から逃げ、内側の感情を隠していた瞳は、今は、多分、大量に摂取したアルコールのせいだろう、軽く潤んですっかりとガードを下げている。(ように見える)
「言っておくが俺が無理に呑ませたわけじゃない」
「……?何だ?聞こえなかった、もう一度」
「独り言だ、気にするな。それで俺が何だって?」
 あれだけ自信たっぷりに煽ったのだ、「何だ?」が「なんら?」と舌足らずに発音されたようにしか聞こえなかったからといってすっかり出来上がっていると判断するにはまだ早い。
 それで大真面目にそう聞いてやったと言うのに、氷河ときたら、「ん?お前が何だっけ?」とつい今しがた自分が振った話題がもう怪しいと来た。
 話にならない。
 潮時だな、と苦笑して、一輝は皿を片付ける振りで立ち上がる。(立ち上がった拍子に自分の視界がぐらついて、ああ、俺も相当だったか、と苦笑を重ねることになるのだが)
 一輝は数歩の位置にある冷蔵庫を開いて水を取り出し、氷河のグラスの中身に注ぎ足した。単にアルコールを注ぎ足されたのだと思ったのか、とぽとぽと流れ落ちる透明な液体を見つめる氷河からは抗議はない。
 氷河はグラスを口元に運んだ瞬間少しだけ変な顏をしたが、アルコール成分が薄まって思考が明瞭になったのか、そうだ、お前の話だった、と会話の道筋を思い出して声を上げた。
「お前は生きているのか死んでいるのかわからないところがよくない」
「……はあ……?」
 アルコールの力を借りて、秘密めいた内面のベールがはがれるのかと思いきや、なんのことはない、酔っぱらいの戯言に飛躍しただけだ。まともに相手にするのも馬鹿馬鹿しい、と一輝は鼻で笑ってみせる。
「今は『生きている』ぞ。それすらわからないほど酔っているようだから教えてやるが」
 だが、微酔に機嫌よく弧を描いていた氷河の瞳が、一輝の皮肉な切り返しを受けた瞬間にすっと温度を下げた。
 アルコールの影響下にあるように見えたが、意外と焦点のしっかりと合った透明なブルーが断罪するかのように静かにこちらを見据えたことに、一輝はわけもなく後ろめたさを感じて戸惑う。瞳に張った薄い水の膜がゆらゆらと揺らめく様がぞくぞくするほど淫靡で、後ろめたさと同時に男にある種の熱を熾させ、それがまたさらに後ろめたさとなって自身へ跳ね返る。
 一輝の皮肉を真正面から受け止めた青い瞳は、生きている…?とその意味を咀嚼するように何度か瞬いた。
「生きている、か……なるほど、お前にとってはそうだろう。だが、置いて行かれた方にすればどうだ。いつだって行方知れずで音信不通なら、どうやってお前の生死を知ればいい」
 一輝を静かに見つめていたブルーはいつの間にか、テーブルの上へ乗ったままだった、瞬から預かったという包み(そういえばまだ包装を解いてもいないと一輝は気づく)へと投げられていた。
 ───ああ……なるほど。
 変わらない。この男は、我が弟のことになると本人以上に熱くなる。
 断言したっていい、最後は必ず「もっと会ってやれ。瞬が可哀想だろう」と、そう食って掛かられて辟易させられることになるのだ。
「変わらんな、氷河。いつまでお前はあいつの保護者気取りでいる?今更俺の無法を瞬がどうこう思うものか」
 だから一輝は苛々とグラスの底でテーブルを叩きながら先手必勝、とばかりに会話の道筋を断つ攻勢に出た。氷河は無闇に他人の生き方に口出しをするような男ではないが、こと、「家族」のこととなると見ぬ振りができぬらしく、干渉を嫌う一輝とはそれがいつも喧嘩の種だった。
 が。
 氷河の瞳はゆるゆると一輝の上へ戻り、瞬……?と怪訝な色を見せ、それから、ああ、瞬か、そうだ、瞬だな……と確認するように独りごちた。
 その様子にざわざわと一輝の内側で何かが落ち着かなく揺れた。
 なんだ?瞬の話ではないのか?
 てっきり馴染みの流れになると思っていた一輝は、氷河の反応に拍子抜けをして戸惑った。
 意識的にか無意識的にか、先ほどから氷河の手のひらで冷たい焔がちらちらと燃えていて、弄ぶグラスをパリパリと霜づかせている。

 長い時間、一輝の存在を忘れたかのように氷河はただ、指先でグラスを遊ばせて黙り込んでいた。
「……………………お前は死んだと思っても戻って来るんだ、いつも」
 長い沈黙の後でポツリと漏らした呟きだ、戻ってきて悪かったな、と茶々を入れるのは、いくらこの空気が落ち着かないもので、酒の勢いがあったとしても飲み込んだ。
 一輝が何も答えないことで、氷河の酔いの回った頭はそこに当の本人がいることを忘れてしまったのかもしれない。それでなくても、日頃からしばしば一輝の存在を忘れて自分の世界に閉じこもることが多い男だ。証拠に青い瞳はグラスを見ているようで焦点はどこか遠くで結ばれている。
「このままではいつか本当に死んだとしても……」
 氷河の手の中で、ピキピキと音を立てて、グラスの中の液体は完全に氷へと変わった。
「───いつまでも諦めきれずに待ってしまいそうだ、お前の帰りを」
 そう言って、氷河はグラスを口元へ運び、それがすっかり凍り付いていることに気づいて自分で少し驚いた。氷の塊と化したグラスを見つめて困ったように手のひらの上で弄ぶ、その指先がほんの少し震えているように見えるのは、自分の凍気にやられたのか、それとも。
 瞬の気持ちを「代弁」したにしては、あまりに───

「氷河」
 一輝の呼びかけに、凍りついたグラスを前に困り切っていた氷河はハッと顏を一輝の方へ跳ね上げた。 一輝の上で瞬時に焦点を結んだ目元にサッと朱が差し、だが、それは何度か忙しく瞬くとすぐにいつもの温度を感じさせない涼やかな瞳へと戻った。
「だから、生きているなら姿をきちんと見せろってことだ。お前のような生死のあやふやな男は特に、だ。どれだけ任務で手が離せなくても、会うための努力を怠るな」
「……瞬に、か」
「ほかに誰がいる。お前の家族は瞬だろう」
 氷河は失っていたガードをすっかり取り戻して、まるで少年期に戻ったかのような繊細で張りつめた空気を纏わせている。
 だが、一度垣間見てしまったものは無にはできない。
 何か名を知らぬ感情が一輝の胸を激しく締め付けていた。

 ───代弁、ではないのか。
 今のは、お前自身が発した言葉か……?

 独り善がりの解釈だ。言葉足らずな氷河が単に主語を忘れただけで、深い意味はないのかもしれない。
 必要以上に感傷的になるのは、酩酊者の陥りがちな罠だ。
 頭ではそうわかっているのに、抱き寄せたい、という衝動が勝手に湧き上がって一輝はそれを抑えるのに苦労した。
 少年期に抱えていた暴力的な性衝動と、それは何かが決定的に違っていた。何が違うのかはわからない。そもそも、起きた衝動を抑えようとしたことすら初めてだ。
 ただ、自分の中にこんな感情があったのかと驚くほど、何か温かでやさしげなものが胸に満ちていて、その扱いに困って一輝の眉間には深い皺が寄る。
 ほんの何分か前までは大盛り上がりとまでは言えなくとも、それなりに楽しく気楽な酒だったはずが、今は危うい均衡で繋がれた緊張感が漂い、気詰まりな沈黙が続く。
 普通は酔いが進めば、緊張感とは無縁になり、もっとぐだぐだするものだが、なぜこんな緊迫した酒になったのかまるでわからない。

 感情を抑えようとするかのように、握られたり開かれたりしていた氷河の指の間で、ふと、凍り付いてしまったグラスがつるりと不規則に跳ね、手の上から躍り出た。
 落ちる、と反射で一輝は腰を浮かして手を伸ばしたが、同じタイミングで氷河の方も既に椅子を蹴っていた。
 酔いの回った体躯がふたつ同時に同じものを追いかけたのだ、結果的に激しく額同士がぶつかって、ぐあ、とうめき声を上げて二人はもつれるように身体を重ねて床へと身体を打ち付けた。
 受け手を失って床へ落ちてしまったグラスは、ピシ、と嫌な音を立ててひびを生じさせて、呻く二人のそばへとごろごろと転がってくる。 痛みに顔を顰めつつ、追うともなしに転がる物体の行方を目で追っていた二人は、グラスがコツンと手のひらにぶつかって初めて、互いの手が重なっていることに気づいた。
 床についた氷河の手の上へ一輝の手のひらが。
 動きを止めたグラス同様に、二人もまたしばしの沈黙と共に動きを止める。体勢が変わっただけで二人を繋いでいた緊張の糸はまだ切れてはいない。

「…………………一輝。手」
「ああ」
 お前の手をどけてくれなければ動けないと暗に言った氷河に、わかっていると形ばかり返事をして、一輝はだが動かない。
 触れてはっきりとわかる。冷たい指先は確かにそれとわからぬほど僅か震えていた。
 一文字に結ばれた形の良い唇が間近に視界に入り、巡る血脈にたっぷりと含まれたアルコールが、ある種の熱を上げさせようと勢いを増す。
「……一輝」
 怒ったように俯いてはいるが、簡単に払いのける力を持っているくせに氷河の方はピクリとも動かない。これでは一度起きた衝動はどうにも自制しがたかった。
 一輝は氷河の手の上から己のそれをそろそろと離した。
 氷河が緊張を緩ませた瞬間に、一輝は離したばかりの手で柔らかな金いろの髪を引いて上向かせた。青い瞳は、一瞬見開かれて、だが、逸らされることなくじっと一輝を見つめたままだ。
 視線を逸らさぬまま、一輝はじわりと距離を詰める。
 野生動物に近づくときと同じだ。距離感を間違えれば逃げられるか手痛い反撃を食らうかするが、敵意はないことを示せば、運が良ければ触れることを許される。
 鼻先が擦れそうな距離まで詰めても、透明なブルーは微動だにしない。
 互いに目は開いたままで、相手の真意を測るかのような緊張感のままついには唇が触れた。覚悟していた拒絶も反撃も訪れない。
 一度唇を離してそのことを確認すると、後はもう爆発的に上がった熱の制御を失って噛み付くように深く唇を合わせた。

**

 呑みつけない種類だったせいか。
 それとも、一輝の存在を意識しすぎたせいか。
 気づけば限度を超えていたのだろう。
 といっても前後不覚になるほど泥酔しているわけではない。(まあ泥酔者の大半は自分が前後不覚に陥っている自覚などないのだろうが。)意識は明瞭だ、とも思う。
 だが、一輝の戸惑いを見るにつけ、どうやら頭の中で考えたことがいくらか音になってしまっていたようで、 制御できていないあたり、じんわりとアルコールが染み込んだ頭が出す指令が本来の自分のものかどうかは判然としない。
「…………お前、酔ってるな?」
 だから深く合わされる唇に応えた後で、一輝が半信半疑の顏でそう問うた時、思わず氷河は、は、と吹き出した。
 酔っているか、だって?
 酔っているとも。
 アルコール分を摂取してまるでその影響を受けない人間などいない。問題はそれがどの程度なのか、ということだ。
 大人しく口づけに応えたことで、一輝は、氷河が自分の意志を制御できていないほど酔っている、と判断したというわけだ。それほど過去の自分たちは甘いやりとりとは無縁だった。
 今は───
 今も別にそんな甘さは必要とはしていない。
 ただ、ふと込み上げた男の唇の懐かしさに本能に素直に従っただけだ。ふわふわと漂う酩酊感は確かにそれを後押しはしたのだが……酔っているから応えた、とアルコールのせいにして片付けられてしまうのは気に入らない。
 だが、気に入らない、と感じたことそのものがアルコールの影響を受けていない、とも断言する自信もない。だから氷河は目を細めて一輝を煽るように見上げた。
「そう言うお前も酔っている。……だろう?」
 挑発的な物言いではあったが、結局は言い訳を(あるいは退路を)用意したようなものだ。
 大人はいろいろとやっかいだ。少年時代はもっとずっと簡単だった。己が傷つくのも相手が傷つくのも構わずに、常に刹那的に勢いだけで全力で相手に己をぶつけることができた。
 でも、臆病になったように見えるこの変化は嫌いじゃない、と氷河は思う。相手の出方を探ってじりじりと膚が焼け付くようなこの感じは、対峙した時の緊張感にも似ていて、熱く血が滾るような昂揚すら覚える。

 否定しないのか、と一輝は困ったように苦笑して、氷河の服をたくし上げる。
 血脈に巡ったアルコールのせいで火照る肌の上へ一輝が唇を寄せた拍子に、彼の癖のある髪が触れて、くすぐったさで氷河は笑い声を上げて身を捩った。
 酩酊している時は不思議なもので、一度弾みがつくと笑いが止まらなくなる。何でもないような、肌の上へ置かれた指の動きまでが笑いを呼んで、ちょっと待て、と氷河は一輝の頭を押し戻しながらげらげらと笑い始めた。
「ははっ……くっ……ははっ、だ、駄目だ、無理だ。くす、くすぐった過ぎる、あんまり俺に触らないでくれ」
 それは久しぶりに肌を触れ合わせることへの無意識の照れ隠しから起きた笑いの発作であったのかもしれない。が、起因するのが何であれ、笑いが止まらないことには変わりがない。
 触るな、とぐいぐいと一輝を押し戻して笑いながら逃げる氷河を、一輝はこの酔っぱらいが、と呆れた息をひとつ吐いて、慣れた手つきで床へと縫い留めた。
「やめ、ちょっと、やめろって、一輝、あ…あぅ」
 本当にくすぐったいんだ、と潤んだ瞳で腹筋を引き攣らせていた氷河の笑いは、胸の先端を口に含まれたことで途端に甘く変化した。
 治まりきらずに時折戻ってくる笑いも、咎めるようにきつく歯を当てられて、やがてはただの吐息と化す。アルコールで五感は鈍っているはずなのだが、それを凌駕して、久しぶりに他者にもたらされる刺激の心地よさにむしろ全身の感覚は鋭敏になっていた。
 一輝の舌と歯が固く尖った先端を転がすたびに耐えがたい疼きが背を這い、下腹部に向かって血が巡る。
 いつの間にか笑いの発作は去り、吐息に隠しようがないほど快感の色が乗った頃、一輝がついと頭を上げて、ニヤ、と唇の端を上げた。
「やめるか?」
「その手に乗るか。やめて困るのはお前だ」
「煽る余裕はあるんだな」
 お前の方がよほど切羽詰まっているんじゃないのか、と一輝の腕は既に血を集めて固くしこる氷河の下腹部へと伸びた。う、と息を詰めて摩擦の刺激に耐えるうちに、笑いを口元へ貼りつけていた一輝の頭が不意に沈んだ。
 視界からそれが消えたと思うと、熱く濡れた感触に己の雄芯を包まれて、ぶる、と氷河の全身が震えた。
「……っ……ん……ぁはっ」
 ぬめる舌が往復するたびに全身を突き抜けるような疼きが駆け巡り、氷河は思わず一輝の髪を掴んだ。男の頭が上下に律動し、深く沈むたびに足の付け根に髪が当たってやはりくすぐったいような心地はするのだが、今はそれすらも甘い疼きに変わって、氷河をどんどん極みへと押し上げようとする。
 今までの比ではないほど強烈に早まった血流に視界がぐるぐる回って、煽る余裕などあっという間に霧散した。思考はもう完全にどこかへいって、今はただ、快楽を享受するだけの器となって、氷河は熱い吐息を漏らす。
 口淫の唾液で濡れた狭間を追うように一輝の指が双丘の奥へ埋められた。
「……ふ…ああ…っ」
 久方ぶりの押し拡げられる感覚に背がしなり、がくがくと四肢が震え、一輝、と夢中で氷河は一輝の髪に指を絡めて縋る。
「ん……っ…く…ぅっ…」
 情けなく高い声が出なかったのは流石だが、それでも制御を失った喘ぎが低いところから見上げるテーブルに、椅子にこだまして響く。唇を固く結べば息ができない。こっそりと息を吐けば、それは吐息というより切なげな喘ぎとなる。
 声は。
 この声はどうやって殺していただろうか。動きの鈍い頭ではそれがどうしても思い出せない。
 薄い床を通じて階下で人の足音がしている。
 ぼんやりと、そうか、ここは二階だったな、と場違いなことを考えながら、氷河は間断なく襲い来る快楽に身を委ねていた。
「一輝、早く…」
 声に出たのはやはり無意識だ。
 音になって自分の耳に届いて初めて、自分があまりに明け透けな要求を口走ったことに気づいて、流石に一瞬酔いが醒めたが、簡単に動揺を見せるような下手は打たない。
 聞こえていないことを祈って今更ながらにさり気なく唇を噛んだが、火照る耳へ、男の、「まだだ」という欲情を色濃く乗せた囁きが届いて、羞恥よりもぞわ、という背の疼きが勝つ。
「……っ……いいから…こいよ…ッ」
「きついのはお前だぞ」
「…俺がいいと言っているッ…っふ……っ」
 一輝の指が深く侵入するたびに、喉をのけぞらせて氷河は喘ぐ。長らく他者を受け入れていなかった身体は、まるで初めての時の様に頑なに他者の侵入を拒む。拒むくせに同じ身体は男の指とそれがもたらす甘い疼きをまだ覚えていて勝手に氷河を高めてゆくのだ。
 結局、長くじわじわと喘がされる羞恥ともどかしさに耐え切れず、もういい、と氷河は一輝を押しのけて身体を起こした。
 ずる、と引き抜かれる指にも拾ってしまう快感に、んん、と目を閉じて耐えて、氷河は一輝と身体を反転させた。
 何もこの男にばかり主導権を握らせてやる必要はないのだ、と男を見下ろして氷河は、は、と息を整えた。
 そして一輝のジーンズの前を寛げると、固く勃ち上がった屹立へ片手を添えると躊躇いなく腰を落とす。待て、という苦笑混じりの男の制止もお構いなしだ。
「…ん…っ…ぅあっ…」
 きつい、と一輝が指摘した通り、その質量を自らの意志で受け入れるには、相当な努力が必要だった。こめかみに汗が浮かび、身体の戦慄きに従って首元でしゃらしゃらと北十字を象ったペンダントの鎖が揺れる。
 言いだしたら聞かない強情っぱりなのだ。好きにしろ、と成り行きにまかせていた一輝は、途中で動けなくなった氷河が苦しげに息を吐いたところで、ゆっくりと身体を起こした。
「いつも強気でいる癖にお前は詰めが甘い」
 男の声が愛しげに柔らかく揺れたのを、圧迫感に耐えている氷河は気づかない。
「力を抜け」
「抜いている……ッ」
 仕方のない奴、とため息をついた一輝の手のひらが、氷河の雄を包んで上下に揺すった。くちゅくちゅと水音をたてて刺激されれば、あ、あ、とひとつ律動するごとにじわりと四肢から力が抜けてゆく。
 氷河は身体の支えを求めて一輝の首に腕を回した。
 肌の触れる面積が大きくなって、互いの体温が伝わるのが心地よくてまた少し頭の芯が蕩ける。あの頃も、行為自体は苦手だったが、人肌の温かさは好きだった。
「一輝…」
 間近にせまった唇に再び深く口づける。
 どちらのものともつかぬアルコールの含まれた呼気が混じり合い、心地よく酩酊している身体にさらに酔いを呼ぶ。
 絡めた舌先が先刻まで飲んでいたものと同じ味をしていて、まだ差し向かいで酌みあわせているような錯覚に陥り、それが面白くて氷河は何度も唇を開いてそれを求める。
「…ん……」
 しばらくそのまま互いの口腔を貪った後、一輝が、少し堪えろよ、と言ったかと思うと氷河の腰をぐっと掴んだ。
「ア、ア…ッ」
 強烈な圧迫感に喉を引き攣らせて氷河はのけぞり、だが、ようやく男の全てを飲み込んで、はあっはあっと息を乱しながらも、薄く瞳を開いて、はは、と笑ってみせた。
 身の裡に収めた一輝の熱がどくどくと脈打っている。
 動くぞ、と耳元で囁いた男の声にももう余裕はまるでない。氷河の返事を聞くこともせず、腰を突き上げ、氷河を揺さぶる男の熱を、氷河はただ甘受していた。
 ああ、生きている、と。
 懐かしい感覚が呼び起こされて、そうだった、と氷河は思い出す。
 それは、「生死のあやふやな」世界に生きていた少年たちにとっては、生きていることを実感するための行為だった。青い性衝動を発散させるため、というより、もっとずっと切実な衝動がそこにはあった。
 今は───今も同じだ。
 もう、制御できぬ性衝動に翻弄されていた少年ではない。
 それでも触れたい、と思うのは───
 氷河は薄く目を開いた。
 微かに眉根に皺寄せて、快楽の波を逃している男の額に汗が光っている。

 喪わずに済んだ。今回のところは。

 長いこと生死不明で、現れたと思ったらすぐに死ぬ。死んだくせに戻ってくる。戻って来ても別れの挨拶もせずにまた消える。お前は本当にろくな男じゃない。
 だが───死ぬな。俺の……俺たちの知らないところでは決して。

**

 ほんの少しだけ水平線の彼方へ顔をのぞかせた陽が、舗装されていない道路を割って伸びている草の上に乗った朝露をキラキラと光らせている。
 小さな透明の玉が無数に道の両端を飾っている様はなかなか綺麗だ、と一輝は思った。
 氷河もこの場にいれば、水の玉を氷の花に変えて、さらに幻想的な花畑となっただろうに。起きる気配がなかったから置いてきたのが惜しい。
 まだ朝は早い。
 街は既に目覚めて活気づき始めてはいたが、ひとたび住宅街へ入ればまだ眠っている住人も多い時間帯だ。己のアパートメントまで辿り着いた一輝は、足音が響かないように慎重に外階段を上っていく。

 氷河は一体どこまで覚えているだろうか。
 濃密に交わったからと言ってそれが醒めた後も継続するとは限らないのがアルコールの怖いところで、暗い酒場で口説き落としたはずが翌朝には全部なかったことになっていた、などという話はたいして珍しくもないものだ。
 一輝の記憶は明瞭で、欠けた部分はないように思うのだが、ただし、己が「昨夜の記憶」と信じているものが「酔いの回った頭で見た夢」なのだと断言されればちと自信はなくなる程度には互いに呑んでいた、と思う。(昨夜の氷河は現実と捉えるよりは、夢だと捉えた方がまだ真実味があるような気もしている。)
 さて、どうでるか、と一輝は錆びたドアノブを掴んだまま一瞬動きを止めた。が、躊躇ったのは一瞬だけ。ままよ、と掴んだノブを一輝はくるりと回す。
 ギ、と、どれだけ努力しても音を鳴らさずに開けることが不可能な古い扉を開けば、既に目覚めていたのか、それとも今の音で目を覚ましたのか、ベッドの上で俯せていた金色の頭がゆるゆると持ち上がって、青い瞳がこちらへと投げられた。
 底まで見通せそうな澄んだブルーの癖に、以前よりずっと感情を隠すのがうまくなった瞳は、内側に内包しているものをちらりとも覗かせない。
「…………」
「…………」
 相手の出方を窺って、先に視線を逸らしたら負け、の見つめ合い(睨み合い?)が無音で続く。
 とてもひとつベッドで共に眠った者同士とは思えない距離感だ。
「起きていたのか」
 どう転ぶにしろこのままずっと無言でいるわけにもいかない、そう思って、一輝は扉を後ろ手に閉めながら口を開いた。
 氷河の瞳が我に返ったかのようにひとつ瞬く。
「……帰って来るとは思わなかったな。またお前は旅立ったのかと」
 氷河の言葉には一輝を責める色は微塵もなかった。ただ、心から、一輝が戻って来たことを驚いた、独り言じみた呟きだった。
 それで一輝は気づいた。
 初めてだ。
 あんな風に触れ合った後で共に朝を迎えるのは。
 一輝が、あるいは氷河が、翌朝の相手の顔を見ることを避けていた。いや、割合で言えば、酷く疲労して立てないでいた氷河よりも一輝の方が先に姿を消すことは多かった。
 氷河に対してのみならず、別れの言葉ひとつ交わさずにいつの間にか姿を消しているのは一輝の常態でもあったから、それを特別なことと感じたことはなかった。
 だが───

 そうか、初めてなのか。

 どういう距離感で接すべきか迷うのも当然だ。

 笑いを浮かべようとして失敗したままの苦虫を噛み潰したような表情で、一輝は手に抱えていた包みを目の高さへ持ち上げてみせた。
「マーケットへ行っていた。朝飯を食うだろう?」
 氷河は一瞬、虚をつかれた顏をし、それから遅れて、朝飯……?と戸惑うように問い返しながら、最終的に、腹は減っている、と頷いて、気だるげに上体をベッドの上へと起こした。
 一糸纏わぬ裸体を飾るロザリオの鎖が、彼の動きに従ってシャラと柔らかな音を立てたことに、昨夜の営みが思い起こされて思わず一輝は視線を逸らした。
 欲情を刺激されるのとは違う。(皆無とも言えないが)何も纏わぬ肌を正視するのが恥ずかしい、といった初々しさなど端から持ち合わせていない。
 なんというか、ただ───照れくさい。氷河とこんな風に同じ朝を迎えたことが。いっそ昔のように喧嘩を売って訣別したくて仕方がない。
 胸の内側を、名をつけられそうにないものがもやもやと漂っている。
 恋とか愛とか甘ったるいものとはまるで違う。だが、少なくとも、怒りや憎しみといった負の感情ではないことは確かだ。
 頑なに孤独を貫く魂をじんわりと温かく包むような。
 昔はそうした、やさしげな感情を惰弱と恥じて無理に排除しようとしていたきらいがある。何しろその甘さのせいでひとつの命が喪われたのだ。強情にそうした感情が己の中に起こるのを避けてきた。
 だが、これだけ頑なに避けて来たと言うのに、己の中から温かな感情を全て排除することは結局できないでいるのだ。
 ならば、その、名を知らないほの温かい感情を受け入れて、うまく付き合う術を見つけるべき時がきているのだろうか。
 だが、この居たたまれず、気恥ずかしい空間を一体どうやってやり過ごせばいい。普通はどうするべきだ。
 己の中に起こった変化を戸惑って、一輝は声を失って立ち尽くす。
 同じ照れくささを氷河も感じたのだろうか。身を起こした氷河は、一輝の方へ視線をやらないまま、
「シャワーを借りるぞ」
 そう言って、返事も聞かずに、シャラリとロザリオの鎖を鳴らして一輝の横を通り抜けていく。
 どこまで覚えているのか、何を考えているのか、まるで読ませない鉄壁の防御だ。ただ、金色の髪からちらりとのぞく耳が夕陽のごとく朱に染まっている以外は。
 その詰めの甘さがまたどうしようもなく胸を揺るがしたが、追いかけて彼の真意を確かめるような愚は起こさない。多分、自分の表情のどこかにも彼と同じ動揺が貼りついているはずだ。

**

 朝食の間中、昨夜の饒舌が嘘のように二人は言葉少なだった。
 話すべきことは無限にある気がした。だが、何一つ言葉が出てこない。
 濡れ髪をそのままで無造作に首にタオルをかけている氷河の髪の先から時折落ちる滴の音と、食器同士が触れ合う音だけがやけに大きく響く。
 意を決して口を開いてみても、そういう時に限って同じタイミングで相手も口を開いていて「……なんだ」「別に」という情緒も何もないやりとりで会話が途切れてしまう。
 もともと大して口数の多くない二人だ。共に居ても、会話がないことなど珍しくもない。それでも、この状態はどうしようもなく気詰まりだった。
 氷河の髪の先から落ちる雫が気になって仕方がない。だらしがない、貸せ、とタオルを奪って髪を掻き混ぜてしまいたいのだが、少しでも触れてしまえば───昨夜の余韻が暴力的な勢いでもって呼び戻されるのが目に見えている。
 どうなろうと知るものか、もう一度衝動に身を任せてしまえばいい、という破滅願望もないではなかったが、それを行動に移すにはもう大人の分別がつきすぎていた。
 結局、会話がないものだから、食事、というより、もはやほとんど単なる栄養供給のための皿と口との手の往復作業はやけにあっさりとその任務を終えた。せっかく一輝が早朝のマーケットまで出向いて見繕ってきた新鮮なフルーツの味も何が何だかわからないままだ。

 食事が終わっていくらもたたぬうちに氷河は窓から差し込む陽の高さを目で測ると、さて、とぎこちなく立ち上がった。
 俺はもう行く、とデイパックを肩へ担ぎ上げた氷河は、うまかったぞ、と一宿一飯の礼にしてはやけに淡白な賛詞だけ残して、一輝へと背を向けた。
 おい、と一輝は反射で呼びとめる。
 もう行ってしまうのか。こんな中途半端な状態で。
 短い発声にそんな不満が乗ったに違いなかった。
 まだ濡れ髪の貴公子は扉のところで半身だけ振り返って、少し怒ったように片眉を上げた。
「みろ、置いて行かれるのは寂しいんだ、お前だって」
「なん……だって?」
「別れの挨拶をするだけ俺はマシだと思わないか?」
 一輝はぽかんと口を開き、やがてくつくつと笑い出した。
 意趣返しか。
 ──いや、氷河という男はこういう形で意趣返しをするような器用さは持ち合わせていない。(はずだ。少なくとも一輝が知る限りは。)となると、居たたまれぬ空間からの遁走の言い訳としてそれを持ち出した?どちらでもいい、どちらでもいいから、
「寂しい───と、認めればお前を引き留められるのか?」
 言い終える前には既に背を抱き寄せていた。あと少しで何かが劇的に転換しそうな予感に、別れ難い、という気持ちが強く湧き上がって、そのまま強く掻き抱く。
「……引き留めたいのか?それは虫が良すぎる」
「違いない」
 自分は会話も交わさずに消えるのだ。氷河の冷静な指摘に何ひとつ反論はできない。
 言葉では認めておいて、だが、一輝は強引に氷河の顎へ手をかけた。青い瞳はやはり閉じられずに開かれたままだ。
 酔いはもう醒めている。今度こそ拒絶を覚悟して重ねた唇に、だがしかし氷河の唇は応えて薄く開かれる。
 ほんのりとアルコールが香る。でも少しだけだ。
 記憶があるかどうかはもうどうでもいい。今この瞬間、拒絶していないことが答えだ。
 深まる口づけは愛撫の色を増し、強く抱いた腰を男の腕が弄る。だが、は、と息継ぎに唇が離れた瞬間に、乱れた息の氷河の拳は、調子に乗るな、と一輝の腹にめりこんだ。
 ノーガードでこれはきつい。
 けほ、と咳いた一輝の胸を押して、氷河は距離を取る。数度の深呼吸で息を整え、濡れた唇をぐいと拳で拭って、氷河は扉を開けた。
 さあっと目の眩むような日の光が射し込んで、一輝はあまりの眩しさに一瞬、氷河の姿を見失った。
「見送りはいらない。…………次はお前が来い。ウォッカでも用意しておこう」
 涼やかな声が光の向こうから届き、届いたかと思うと、一輝の返答を待ちもせずに扉はパタリと閉じられた。
 氷河!と声を上げて、一輝は扉を肩で押して外へ出ようとした。
 が、足が一歩も動かない。
 なんだ?と視線を下へやれば、きらきらと光る氷の輪が一輝の両足を拘束するように取り巻いていた。
 呆れた。見送りはいらない、が徹底している。
 額に手をやって、一輝は深く息をついた。爆発的に上がった熱は空に浮いたまま───

 「次」だって?
 次がある、のか。

 まだ、部屋の中は他者がいた気配が濃厚に残っていて、そのことが却って取り残された寂寥感を呼ぶ。訊きたいこと、確かめたいことは山ほどあるのに、全ては不完全燃焼のままだ。
 だが恨み節をぶつけられるような立場ではない。氷河の指摘通り、全部それはいつもの己がしている行動だ。

 ふと、テーブルの上へ乗ったままだった包みが目に入った。
 そういえば、弟は氷河に何を預けて寄越したのだろう。
 ふ、と小宇宙を燃焼させれば、氷の輪はパリパリと音を立てて崩れ、床の上へと氷礫となってバラバラと落ちた。自由を取り戻した両足の感覚を確かめながら、テーブルに近づいて、一輝はそれを手に取る。
 受け取った瞬間にも感じたがやけに軽い。耳元で振ってみてもカサとも音がしない。
 不審に思いながら包みを開いて───予想だにしない中身に一輝は声を失った。

 空っぽだった。
 中身は何も入っていない。念のため包み紙の裏まで調べたがメッセージの一つもナシ。

 どういうことだ、と不審に首を傾げていた一輝はやがて、崩れ落ちるように身体を折って笑い始めた。

 参った、俺の完敗だ!

 さて、どちらの仕業だろう。
 瞬から、という氷河の言葉を信じるなら弟の無言の抗議だろうか。
「中身は自分で取りに来てね、兄さん」?
 いや、弟がそんなことにために氷河を使い走りにするだろうか。空気を運ばせて地球を半周させるような真似を?
 となると氷河の入れ知恵か───あるいは、瞬から、というあの言葉自体が嘘か?
 地球をわざわざ半分回るための言い訳を奴が欲していたのだろうか。

 いずれにしても、これでは会いにいかないわけにはいかなくなった。真相を解かないことには気になって仕方がない。

 弟のところへ?
 それとも、変わらぬ、そして変わった、あの涼やかな瞳のところへ?
 どちらでもいい。会いに行くための言い訳ならできた。

「完敗だ」
 もう一度声に出して清々しく笑って、一輝は扉を開けて外へと出た。
 もちろんもう氷河の姿はない。
 だが、道端の草の上へ乗っていた朝露が、氷河の歩いた軌跡に沿って、丸い玉のまま凍り付いている。
 想像したとおりそれは、やはり白い花のようでとても美しかった。

(fin)

(2014.11.19~12.14up)