寒いところで待ちぼうけ

手のひらの

アイザックの事故から聖戦までを原作沿いの流れの中で個人的解釈により大いに捏造
第一部カミュ氷/第二部ミロ氷
初出2011年作品を全面改稿しました



◆第二部 12◆


 朝靄がまだ辺りを包む、湿った山の斜面で、おや、とミロは軽く目を見開いた。
 朝の光をきらきらと反射して、一輪の白い花がミロを待っていた。
「……氷河が来たんだな?」
 ゆっくりと近づいて、墓標の主に問うように、ミロはそう声に出しながら膝を折った。
 可憐な白い花弁は、手折られた時の瑞々しさをそのまま閉じ込めるように凍りついて、その形を留めていた。
 こんな芸当ができるのは、この墓標の主のほかには氷河しかいない。
 一体いつ来たのだろうか。
 今朝より前であったことは確かだ。
 ミロが起き上がった気配にも気づかないほど、彼はまだ淫靡な営みの名残を残したまま眠っていた。
 シベリアへ発つことを決めて、師の墓標に別れを告げに来たのか、それとも、別れを告げたことでシベリアへ発つ決心がついたのか。
 訪れるものがなくとも寂しくないように、わざわざ、永遠に融けぬ氷の柩に花を閉じ込めているあたりに、もう、未練がましく何度もここへ通うような真似はしない、という決意が感じられる。
 ほかの墓標に比べて、やけに石がつるりとしていることに、長いこと少年がそれを磨いていたことが察せられて、その決意はやはり少し切ない。


「なあ、」
 指でミロは、墓標に刻まれた名をなぞる。

 アクエリアス───それは、長らくカミュそのものだった。
 カミュはアクエリアスで、アクエリアスと言えばカミュだ。
 だが───
 宝瓶宮の柱へ氷の花を咲かせた少年の姿がミロの脳裡を過ぎる。
 海界では、師の聖衣を纏った、と聞いた。
 聖衣には意志がある。
 まだ借り物とはいえ、聖衣が纏うことを許した、その意味は存外に大きい。


「俺も氷河が欲しい、と言ったら、お前はどうする?」


 辺りはしんと静まり返り答えるものはない。
 ただ、凍りついた白い花だけがきらきらと光を反射している。

「冗談だ。今のは忘れてくれ」

 ふ、と笑ってミロは拳で軽く墓標を叩き、そして立ち上がる。

 見上げれば雲一つない青空が広がっていた。

**

 天蠍宮に戻れば、宮の入り口の柱のところで憮然とした表情の氷河が立っていた。
「…………別れも言わせてくれない気なのかと」
「すぐには立てないと思ったんだ、姿が見えなかったくらいで拗ねるな」
 そう言って笑うと、氷河は、拗ねたとかそういうわけじゃないから、と頬を赤くした。
「その足でシベリアまで戻れるのか?」
 からかい気味に重ねると、今度こそ真っ赤になって、氷河は、あれくらいのこと全然たいしたことない、と嘯いた。
 最後はほとんど、ミロ、ミロ、とすがりついて哀願していたように思うが、『あれくらい』と言ってのけられる気の強さが可笑しかったが、同時に、安堵もしていた。
 気をつけていたつもりだが、もしかしたら、いくらか自制しそこなって、感情が滲んだ触れ方をしたかもしれない、と懸念していたせいだ。
 たいしたことじゃない、深い意味はない、と切って捨てられた方が気は楽だった。


「あー……、俺、そろそろ、」
 聖衣箱のほかにはたいして持ち物もなく、荷造りらしい荷造りも必要がなかったから、最後に簡単な朝食を囲んだ後はもう何もすることがなくなって、氷河は落ち着かなく視線を彷徨わせた後、そう言って立ち上がった。
「そうだな」
 ミロも立ち上がって、聖衣箱を背負った背を見送るために宮から出る。


「……では、また」
「……………ああ」
 別れの言葉にしては短いやりとりで、氷河はくるりとミロに背を向ける。
 天秤宮へ続く階段を一段、二段とゆっくり下りる背に、あの日の、瀕死の身体を引き摺りながら、宝瓶宮を目指して上る背が重なって、胸にぐっと熱いものが込み上げる。

 君の背を見送るのは、いつも永遠の別れの時だな。
 『また』が訪れることはきっとない。
 君は知らないかもしれないが、長い歴史の聖域の過去において聖戦を越えて生き残った黄金聖闘士は数えるほどしかない。
 黄金聖闘士の半数を欠いていることを思えば、今回は生半可な覚悟では臨めないことは火を見るより明らかだ。

 ゆっくりと石段を下りていた氷河の足は次第にその歩みを遅め、まだ半分も下りぬうちに、やがてピタリと止まる。

 ああ、駄目だ。
 氷河、振り向くな。
 迷いなく立つ俺のままで別れさせてくれ。

 だが、ミロの願い虚しく、氷河は振り向いた。

「ミロ……!」

 大事な大事な聖衣箱を投げ出すように石畳の上へ転がし、氷河が息もつかずにミロのところまで駆け戻ってくる。
 戻るな、という止めたてもできないほど一瞬のうちにミロのところまで駆けてきて息も整わないうちに、氷河は、ミロを真っ直ぐに見上げた。

「俺、あなたのこと、」

 刹那、ミロは氷河の背を掻き抱いて、その唇を塞いだ。
 そうされることを待っていたかのように、すぐに応えて薄く開いた唇に堪らなくなって深く長く口づける。
 ミロの背へ回された氷河の手が、巻き毛へと絡みつく。

 かく、と氷河の膝が力を失ったのを機に、はあっと熱を帯びた吐息で繋がれた唇はようやく離れた。

「すきだ、と思う」

 まだ唇が離れるか離れないかの距離でそう早口で囁いた氷河の瞳は、不定形にもやもやと漂っていた感情が、ようやくはっきりとした形を得た興奮に輝いてすらいた。

 ああ、まいった。
 どうしても、言葉にしてしまうのか、それを。

 少年の真っ直ぐさを甘く見ていた。
 己の中の変化に怖気づいて、答えを曖昧にしたままで逃げるだろうと高をくくっていた俺は、彼が言ったとおり、人生を諦めた愚かな人間なのかもしれない。

「あの、またいつか、会いに来ても……?」

 反応らしい反応を見せず険しい顏を崩さないミロに怯んだか、探るような声は不安げだ。

 どうしようもなく瞳の奥が熱い。
 生まれてこの方、感じたことのない温かなもので満たされ、そして同時に、息ができないほど苦しかった。

 だが、どれだけ苦しくとも、黄金聖闘士であることはミロにはどうあっても譲れない。譲れない、のだ。

 ミロはやさしく氷河の背を抱き直した。

「氷河、俺にもあれが欲しい」
「……えっ……?あれ……?」
「カミュのところに置いて行っただろう。融けない花だ」
 でも、と氷河が怪訝そうにミロの顏を凝視する。
「あれは……弔いの花だ」
「いいんだ。俺も欲しい。綺麗だったから」
 だけど、と、氷河は困っている。
 駄々をこねる幼子のように、欲しい、と重ねれば、しばし逡巡して氷河は、じゃあ、手を出してくれ、と言った。
 こうか、と彼の前へ差し出せば、ミロの手のひらに触れるか触れぬかの位置に氷河の手のひらが重なった。
 まるで発光するかのような青白い焔がゆらり、と揺れ、熱い、と錯覚してしまいそうな痛みにも似た凍気を手のひらの上へ感じる。
 しばらくして、氷河がゆっくりと手を引けば、ミロの手のひらは白いもので覆われていた。
 無数の雪の結晶だ。
 小さな白い六角形の粒は、ミロの手のひらの上で、陽の光を受けてきらきらと輝く。
 美しい花のように。

「ああ、これはいい。気に入った」

 ミロは、反対の手で、まだ凍気の名残が薄く残る氷河の手を取った。
 ミロよりも一回り小さな、だが、長年の研鑚の痕跡が見て取れる、しっかりとした戦士の拳だ。
「ここにカミュは生きている。……カミュに、一秒でも長く、女神を護らせてやってくれ」
 ハッとした表情をしてミロを見上げ、そして氷河は力強く頷いた。


「……ありがとう、ミロ。あなたには感謝してもしきれない」

 今日はえらく殊勝だな、と片頬を歪めるやり方で少しだけ笑って、そして、ミロは彼の肩を押しやった。

 促されるまま歩き出した氷河は、聖衣箱のところで一度だけ名残惜しそうに振り返り、だが、今度こそ本当に聖域の石段を下り始めた。

 どんどんとその背は小さくなっていく。
 もう振り返ることも立ち止まることもない。


 眩しい光の中に消えていく背に、ミロの胸は温かく疼く。

 もし、君が。
 もしも、いつの日にか新しい蠍座に君が出会うことがあるならば。

 刻まれた赤々と燃える心臓を、これが蠍座の魂だ、と、きっと伝えてくれるだろう。


 ミロの手のひらの熱にも融けることなく、小さな白い花はきらきらと光を反射し続けている。
 大切な者の命すら奪った、戦うためのその力は、だがしかし、こうして、女神のためだけに生き、そして死んでいく男の心を温かく慰めている。

 フッと柔らかく微笑んで、ミロはその白い花たちにそっと口づけをした。

 (第二部・Fin) 完結

(2017.10.31~2019.5.3UP)