転生したカミュの師となる氷河のお話。
◆第三部 ①◆
思えば、自分が「聖闘士」となったのはいつだったのだろう。
師にその資格を与えられたことで聖闘士とはなったが、ただ、永久凍壁に眠っていた聖衣を我が身に纏った、あの時点の氷河はまだ、死んだ母への未練を断ち切れぬ、幼い精神性を抱えた少年でしかなく、胸を張って聖闘士だった、と言うには程遠かった。
自分だけではない、ということは未熟さの言い訳にもならないが、銀河戦争に集められた青銅聖闘士たちも、今にして思えば、全てが全て聖闘士として完成していたわけではなく、畏れ多くもあの女神ですら、あの頃はまだ、神としての威厳や風格よりも、少女の傲慢さが勝っていた。
幼く、未熟だった少年少女たちは、暗黒聖闘士と戦い、白銀聖闘士と戦い……格上の相手との幾多の戦いを通じて、少しずつ真の聖闘士になっていった、と、振り返る今はそう思う。
人間的に成熟しているか否かは聖闘士となるに必要条件ではないのだ。
ならば、何をもって聖闘士とするかは───小宇宙の大きさと、それから、聖衣、なのだろう。
能力的には黄金聖闘士に引けを取らなくなっていたとは言え、実戦のじの字も知らず、カミュよりよほどあどけなさの残るミロがそれでも蠍座となれたのは、聖衣が彼を主と認めたからだ。
意思持つ聖衣は、時に、主を自ら選ぶ。
兄弟子を失ってなお愚かにも母のために力を行使することをやめなかった氷河や、憎しみに蝕まれ、女神と敵対していた一輝を主と認め続けた不思議はあるが───ただ、結果として、二人とも最後は女神の傍で聖戦を戦った。
聖衣には女神にも見えない未来が見えていたのか、魂の正義性を見通す力があるのか、その理屈は氷河にはわからないが、聖衣が纏うことを許さなければ、いくら資格だけ与えても聖闘士とは言えない、それだけは確かだ。
聖衣、か───
シベリアに来てもう一年以上経つ。
ミロと同じく、黄金聖闘士に相応しい天賦の才を備えている弟子を思い、氷河は、は、と深い息をつく。
**
シベリアへ来た、初めての夜。
「ここ、ですか……?」
ちょっとした風ですら軋む、ブリザードなら吹き飛んでしまってもおかしくはないような、粗末なつくりの掘っ建て小屋に初めてたどり着いた時、カミュは戸惑いで何度も目を瞬かせていた。
聖域も時代錯誤な設備しかなかったが、それでも、黙っていても水は出たし、食料も燃料も手配する人間が別にいて、修行以外の雑事に煩わされることはなかった。
だから、隙間から入り込む雪混じりの風で備蓄の芋や水までも凍りついてしまうような、雨風を凌ぐ用途しかないそれが住処となることを、カミュが驚いたのも無理はなかった。
だが、今のカミュに必要なのは、聖闘士としての技巧を磨く訓練などではないのだ。
気を抜けば生き抜くことさえ困難な環境を目指してシベリアまで来たのは、その魂を極限まで鍛え上げるためだ。まさか聖域と同じような、ある意味、「守られた」生活をさせてやるわけにはいかなかった。
「先生はここで聖闘士に……?」
やや緊張した声でそう問うカミュに、氷河は、いや、と首を振った。
同じシベリアではあるが、これは、氷河が育った修行小屋ではない。
シベリアでの拠点として、古巣を選択することを氷河は避けた。
氷河が育った小屋なら、最寄りの村とも日帰りで行き来でき、地下水を汲み上げる設備に薪で沸かす風呂など、過酷な環境なりにもう少し人間らしく暮らせる装備はあるが、ただ、あそこには───寝具も食器もまだ三揃い残ったままだ。
それらを処分できないでいた理由は、初めのうちこそ感傷だったが、年月が経ち、複雑な葛藤や寂しさが緩やかに昇華されつつある今は、捨てることができないほどそれらの物そのものに執着しているとは言い難かった。
だから、この機に処分してしまうこともできなくはなかったが───調度品を全て入れ替えたところで、あの小屋が、氷河にとって懐かしく切ない思い出の場所であることには変わりがない。
記憶を完全に封じることができない以上、どうしたって『カミュ』と最後に過ごした夜のことが過ぎるに決まっている。
そんなところに、日に日に亡き師に似てゆくカミュを招き入れられるわけがない。もう何ものにも動じないだけの覚悟は決めてきたが、だからといって、己の心を揺り動かす可能性があるものの中にわざわざ身を置いておくこともない。
同じ理由で、ヤコフに頼ることも避けた。
彼には氷河がシベリアへ戻ったことを知らせていないままだ。
後で知ることになれば、連絡をくれないなんて薄情だ、と彼は怒るかもしれないが、かつての『カミュ』を知っているヤコフに、あまりに容姿がそのままのカミュを引き合わせれば、あれこれ昔語りが始まってしまうことは容易に想像ができる。
氷河が気持ちをかき乱されるだけならまだしも、大事な時期にいるカミュにいらぬ動揺を与えるような真似は師としてできなかった。
ただ、ヤコフを、村人を頼らない生活を選択したことは不便を極めた。
コホーテク村よりさらに北の最果ての地、人里からは完全に隔絶されている。
狩猟者が短い夏の間だけ仮寝に使う粗末な小屋を譲り受けたはいいものの、独立した部屋などなく、ばかりか、勝手場も浴室さえもない、そこで人間が冬を越すことなど想定していない環境はなかなかに凄まじいものだった。
命を繋ぐために、簡易な暖炉だけはさすがに設えたものの、寝食は冷気の這い寄る直床、調理は暖炉の火で行い、水は万年雪を融かして手に入れる、ほとんど野営も同然の暮らし。
そんな何もない空間で、唯一の(否、二つの、か)存在を主張するは聖衣箱のみ。
アクエリアスと───キグナス。
聖域を去る氷河に、沙織が持たせたものだ。
氷河の意志を変えることは難しいと理解していたのだろう。
聖域を離れることは諦め混じりに譲歩した彼女は、だが、アクエリアスの任を解く、とは最後まで決して口にしなかった。
女神の許しがない退任ゆえに盛大な見送りもなく、ほんの数人にだけ別れを告げて、幾年も護り続けてきた宝瓶宮をひっそりと後にしようとしていた氷河に、沙織はアテナ神殿から下りてきて、これを、と侍従に持たせたキグナスの聖衣箱を差し出したのだ。
カミュの守護星となるはずのアクエリアス聖衣は預かる想定でいたものの、まさかキグナス聖衣までを託されるとは夢にも思わず、氷河はハッと顔を上げた。
だが、氷河が何か言うよりも早く、沙織はもう踵を返していた。
それでも、その一瞬で氷河は見た。
神である身でありながら、沙織の頬は人の子と同じに濡れていた。
何年、彼女と共に戦ったことか。
どれだけの戦いを共にくぐり抜けてきたことか。
神とその僕と言うより、畏れ多くも同志のような、強い絆が氷河と彼女の間にもある。
キグナスとして、そしてアクエリアスとして。
彼女を護る過程で、師とも兄弟子とも戦った。
揺らぐことなく女神の聖闘士であり続けられたことは誇りに思い、だが戦いの課程で背負うことになった哀しみや痛みを彼女が氷河と共に背負い続けているのだと知っている。
託された二つの聖衣箱と濡れた頬、それだけで、意図は問わずとも十分に女神の苦しい胸の内は伝わった。
肉体の能力ではなく、小宇宙という魂の真髄で戦う聖闘士は、青銅聖闘士から白銀、あるいは黄金聖闘士に昇格することはあれど、黄金位を極めた人間が青銅位に降格することはあり得ない。
老師やシオンのように第一線を退き、立場を変えることはあっても、黄金聖闘士それ自体の肩書は死すまで、否、死した後も不変だ。(多くの場合は、だから、代替わりすらも
主が死ぬまで起こらないのだ)
本人が望んだとはいえ───そして、元々、「次代のアクエリアスが現れるまで」という異例中の異例の約束で引き受けたとはいえ、アクエリアスからキグナスに、というのは、事情を知らぬ者には懲罰的処遇に見えるだろう。
最後まで女神がアクエリアスの任を解くと認めなかったのは、氷河にその不名誉を与えないためだ。
女神の立場では決して言葉にできぬ苦しい選択を、二つの聖衣を託すことで、氷河自身の意志に委ねてくれた、その信頼が酷く嬉しかった。
氷河の胸を熱くした最高の餞とはなったが、だがしかし、二つの聖衣箱はカミュには少なくない動揺を与えることとなった。
一足先に白羊宮の先まで下りていたカミュは、遅れて石段を下りてきた氷河が背に負う聖衣箱が二つであることに怪訝そうな素振りを見せた。
紅い瞳がゆっくりとアクエリアスと、そしてキグナスへと巡らされ、ややして、ハッと大きく見開かれた瞳が氷河へと戻された。
「……まさか先生、アクエリアスを、」
かつては白鳥座の聖闘士であったと氷河が以前に言ったことを覚えていたのだろう。キグナス聖衣の意味を察してみるみるうちに血の気を失ったカミュは、声を震わせてそれ以上を音にすることができなかった。
代わりに氷河は、ああ、返上してきた、と短く言葉を継いでみせたが、カミュはほとんど悲鳴のような引き攣れた声を漏らすと、「あなたは今もまだアクエリアスです!」と激しく首を振った。
「それは君が決めることではない」
「わたしではありません。聖衣が……水瓶座の聖衣は、主はあなただとまだ……」
それを指摘されると痛い。
氷河に今この瞬間も纏われたいと強く欲している水瓶座聖衣の想いは氷河もひしひしと感じている。
アクエリアスだけでなく、聖域中の聖衣が氷河が去ることを引き留めるかのように強く共鳴していて、それらを振り切って十二宮に背を向けるのは、正直、酷く苦しい。
だが、それで揺らぐような覚悟なら最初から師より受け継いだ大事な聖衣を返上などしていない。
「聖衣に認められることは誉れではあるが……だが、わたしがアクエリアスを名乗ることはもうない」
なんとなく、聖衣に聞こえぬよう(何年も氷河の命を護り続けてくれたことを思えば、聖衣の意思に沿わぬ選択をしたことは、やはり後ろめたいものだ)少し声を落として氷河がそう諭すように告げると、カミュは蒼白な顔のまま、震える声で、わたしのせいですね、と言った。
「……わたしが未熟なせいで十二宮を離れざるを得なくなったから、それで、」
それは全く違う、と、今度は氷河が大きく首を振る。
「以前にも言ったと思うが、わたしは一時預かりの身だった。いつかこうすると決めていた。それがたまたま十二宮を離れるタイミングと重なっただけだ」
ですが、と、血の色を失って白くなってしまったカミュの唇が戦慄く。
カミュが強い動揺を見せれば見せるほど、だがしかし、氷河の心の裡に、これでよかったのだ、という想いが広がってゆく。
カミュがこのところ不調続きなのは、己の存在のせいではないか、と。
師カミュを喪って長い時が過ぎていてさえ、氷河には『水瓶座』は自分のものと言うよりも、やはり
師の守護星座だ。
アクエリアスを名乗るとき、そこには誇りとともに少しばかりの葛藤はどうしても過ぎる。
ならば、氷河がアクエリアスでい続ける限り、カミュがアクエリアスを目指すことに心理的障壁を覚えていても不思議はない。
何の屈託もなく天蠍宮の主となれたミロとはそこが決定的に違っている。
もっと早く気づいて然るべきだったのに、氷河の、シベリアでの修行を避けたのと同じ甘さがその目を曇らせてしまっていたのだ。
「君のせいではない」
ほんとうに、と、と強く念押しをすると、長い間青白い顔で俯いていたカミュは、やがて、氷河の決断に最上級の敬意を表すかのように跪き、深く頭を垂れた。
「……誓って長くアクエリアスを空席にしてはおきません」
まだ固く強張ってはいたが、氷河の覚悟に応えるかのようにそうはっきりと告げる聡い弟子に頼もしさを覚え、そうだな、きっとすぐにここに戻ってくることになる、と氷河は頷いたのだった。
師も。
弟子も。
並々ならぬ覚悟で向かったシベリアだ。
シベリアに行きさえすれば聖闘士になれるとまでは考えていなかったが、きっとうまくいくはずと何故だか確信だけはあったし、実際、確かに全てが順調だった。
強引な形ではあったが、アクエリアスを空席としたことはやはり相当に彼には(良い意味での)重圧となったか、シベリアの過酷な環境下に身を置いていくらもしないうちに、あれほど不安定だったカミュの凍気はみるみるうちに安定し、ばかりか、一気にその才能を開花させた。
水を得た魚のように、自在に凍気を操り、万物の命を奪うブリザードを味方に燃やされる小宇宙は今や氷河のそれと比べても遜色はないほどに成長した。
かつて、「カミュは黙っていてもすぐに黄金聖闘士になれる」などと言って一輝に酷く呆れられたものだが、こうして聖域での停滞が嘘のように飛躍的な成長を遂げる姿を見せられると、あながち間違いでもなかった、と思わされる。
思えばミロもそうだった。
黄金聖闘士に師事していたわけでもないのに、何がきっかけになったか知らぬが、まさに、覚醒とも言える勢いで急激な成長を見せた。
亡き師をはじめとした先代の黄金聖闘士たちに至っては、まだほんの子どもの時分のうちから既に黄金聖闘士であったと聞いた。
何年もの過酷な訓練を経てようようその力を得られる青銅聖闘士とは違い、神にも近しい存在である黄金聖闘士は、そうなるべくして生まれついていて、何かをきっかけにその魂が覚醒する、そうした類の特別さを持っているのかもしれない。
沙織に是非にと乞われて十二宮を護ることになった氷河たちは皆、青銅聖闘士を経て黄金聖闘士となったから、そのあたりの「正解」はわからない。
ただ、カミュがアクエリアスの
守護の下に生まれたことは、初めて出会った日から疑いようはなかったから、シベリアの暮らしに馴染むとともにその真価を発揮しつつあることは、氷河には驚きというよりはやはり安堵をもたらした。
選ばれし人間だけが到達できる強大な小宇宙の片鱗をカミュに感じて、待ち望んでいたその成長に氷河が昂揚していたのは───だが、しばしの間。
数か月。
半年……そして、ついには、一年。
カミュはどんどんその力を増してきているが一向に修行生活は終わりが見えない。
水瓶座の聖衣が───聖衣が頑としてカミュを主と認めないからだ。
アクエリアスは、だから、未だ氷河だ。
長くその身に纏っていた氷河がそう感じるだけでなく、実際に、カミュが聖衣に触れようとするとまるで本当の無機物にでもなったかのごとく沈黙してしまう。
強引に装着することもできなくもないが、単なる黄金の鎧としてでは、本来、聖衣が持つ加護のほんの僅かも発揮されず、枷になるだけだろう。
全くもって想定していなかった事態だった。
聖衣がカミュを拒むなどとは。
聖闘士となるには未熟だからだ、と言われれば確かにその通りではある。
戦い方は稚拙で、精神的にも少年期の繊細さからは脱し切れていない。師として、彼に教えておきたいことはまだいくらでもあるが、だが、戦士としての未熟さだけが理由なら、ミロとてそれは同じだったはずだ。
白鳥座聖衣を初めて纏った日の氷河に今のカミュが劣っているとも全く思えない。
神のごとき強靭な肉体と完璧な心を持たぬ限り纏うことを許さぬ、といった潔癖さはそもそも水瓶座聖衣にはないはずで、およそ完璧とはほど遠い氷河が長年纏えていたことがその最たる証だ。青銅聖闘士であった氷河の身を護るために、自らの意思で遠く離れた異界にまで飛んできたことさえあった。
だから、カミュをこうまで聖衣が拒む理由が氷河にはわからない。
一度、主を得た聖衣は、その主が命を失うか、正義を失わない限り、他の主を認めないものなのだろうか。主が何人もいていいものではないことは理解できるが、死なない限り、次代に継げないほど主従関係が厳重なのはあまりに不合理だ。
同じ力を持ち、同じ守護星の元に生まれたサガとカノンは、どうだったのだろうか。
氷河は、サガの死後に双子座を纏ったカノンしか知らないが、悪の道に堕ちることがなければ、双子座聖衣は二人を同時に主と認めていただろうか。
もし。
もしも、例え同等の力を持っていても同時に二人は双子座の聖闘士たり得なかったのだとしたら。
氷河が生きているうちにカミュにアクエリアスを継がせることは、思いのほか容易ではないのかもしれない。
その答えは聖衣にしかわからない。
正解がわからない以上、聖衣が認めざるを得ないほどカミュが成長を見せるまで鍛え続けるしか氷河にできることはないのだ。
**
氷河は暖炉の炎を見つめ、何度目か知れぬため息を深く吐く。
小屋の中には今は氷河ひとりだ。
カミュはまだ戻らない。
彼は、クレバスに落ちたのだ。落としたのは氷河だが。
完全に安全な聖域ではここからここまでが訓練の時間、といった区切りがあったが、シベリアでは、一歩小屋を出ると全てが鍛錬のようなもので、近頃はその鍛錬も不意打ちや騙し討ちのような、実戦を強く意識した形での戦い方を教えるものに変わっている。
清廉潔白、正義を体現する聖闘士の戦い方や精神性は、その高潔さが時に弱点にもなり得ることを氷河は自らの経験上痛いほど知っている。
邪な目的で世界の支配をもくろむような輩は、手段など選ばない。
いとしい者に姿形を偽り、味方同士が戦うように仕向けさせ、人の心をもってしては時に考えも及ばぬような汚い手を使って、聖闘士から戦う力を奪うのだ。
氷河が思いつく程度の「汚い手」などたかが知れているが、それでも、そうしたことが起こると知っているのと知らないのでは大きな隔たりがある。
小屋にいる間以外はどの瞬間も油断するな、例えわたしに対しても、と常日頃言い含めておいたのだが、故意に劣勢を装いながら、新雪に覆われて大地との境目を失っていたクレバスに誘導した氷河の策にまんまと嵌り、とどめの凍気を放たんと踏み敷いた彼の足元は脆くも崩れ去り、カミュは深い奈落へと転じる羽目になったのだ。
相手が氷河でなければ、シベリアにも慣れたカミュがクレバスの存在を見落とすはずもないが、まさか師が、落ちれば死を覚悟せねばならぬ裂け目に向かって、カミュの凍気に押されるふりでわざと下がっているとは思いもしなかったのだろう。氷河を信頼するあまりに、足元への注意が散漫になってしまったことは想像に難くない。
短く息を呑んだ音ごとクレバスはカミュを深く飲み込み、一人地上に残された氷河は、漆黒の裂け目に向かって、自力で戻れ、と言い置いて先に小屋に戻ったのだった。
例え底の見えぬ深さへ落ちたのだとしても、今のカミュの力であれば、深刻な事態に陥っているはずはないのだが。
───それにしては少し遅い。
怪我は恐らくは心配いらない。
まだ大人になりきらぬ肉体とはいえ、何年も聖闘士になるべく鍛えぬかれた身体はそう簡単に壊れたりはしない。
どれほど不意打ちだったとて、一切の受け身も取らずに無防備に落ちるほど未熟ではなく、多少の傷なら、この極寒だ。傷口から噴き出す血潮すらも凍りついてしまうから致命的な失血は起こることはない。
───と、何度も自分に言い聞かせるように確認してしまうのは、聖衣なしの生身では、万一は起こりうるとわかっているからだ。
握りしめた氷河の拳が微かに震える。
小宇宙への目覚めも、第7感への導きも、絶対零度への覚醒も、すべては生きるや死ぬやの瀬戸際から生まれるのだと経験から知っている。
シベリアに来たのはそれらを目指して極限まで魂を追い込むためだ。
理屈では飲み込んでいるものの、加減を誤って、いつか彼を殺してしまうのでは、という恐怖は今もまだ氷河とともにある。
自分自身の修行生活も常に生死と紙一重ではあった。
カミュは本当に厳しい師だった。
血反吐を吐いても倒れることは許されず、何度生死の縁をさ迷ったかしれない。
だが、あの厳しさは、もしかしたら課された弟子よりも、課した師の方に相当な痛みを与えていたのかもしれないと、同じ状況に置かれてみると思い知らされる。
師は、血を吐いて雪の中に蹲る弟子をどんな想いで、立て、と叱咤し続けたのだろう。
立てぬのならお前はここまでよ、と、雪の中に放って去るとき、朦朧とする意識で這うように戻った弟子たちを小屋の前で待っていたとき、師の拳は、今の氷河と同じに震えていただろうか。
もしかしたら。
そういう瞬間もあったのかもしれない。
否、あったのだろう。
氷河やアイザックをしばしば膝に乗せて温めてくれたようなやさしい師だったから。
あの頃は自分の命を繋ぐことに精いっぱいで、戻った瞬間に師がどんな表情をしていたのかまるで覚えていないことが切なく、苦しい。
師の表情を見上げるような余裕があったところで、氷河やアイザックに何かを感づかせるような師ではなかったかもしれないが。
カミュの戻りを祈るような気持ちで待つ身となった今は、「戻りが遅い」と叱咤した師の瞳に堪えようのない安堵が滲んでいたのではないかと思えて、今さらどうにもならない甘苦しさで胸が疼いて堪らなくなるのだ。
は、ともう一度深くため息を吐いて、氷河は震えている拳を反対の手で押さえた。
聖域では気を逸らせる存在があったが、ここではその恐怖には自分自身で向き合うしかない。
今はただ、カミュを信じろ。
我が師が、未熟な俺を、それでも信じて女神を託してくれたように。
自分自身に言い聞かせるようにそう何度も胸の裡で言葉にしてみることで、氷河を飲み込まんとしていた恐怖は小さくなり、やがて、拳の震えは止まった。
ふーっと重く張りつめていた空気を緩ませると、それを待っていたかのようにゆらりと空気が揺らいで、カミュの小宇宙が遠く燃え立つ気配が届く。
氷河の信頼に応えるその小宇宙に安堵して、氷河は凍えて戻る愛弟子のために薪を追加しておこうと立ち上がった。
裏手に積んである薪を取るために小屋を出る瞬間、ちらりとアクエリアのス聖衣箱へ視線をやれば、鈍く光る金の箱は、空気を震わせる若い黄金の小宇宙にも反応することなく、今日もまた静かに佇んでいた。