寒いところで待ちぼうけ

treasure

ねむたい宇宙ソラの睡さまからのいただきもの
※睡さまのお取り扱いカプはカノミロですので、リンク先へ跳ぶ場合はご承知おきください。

<睡様による注意書き>
ミロ氷。聖戦後全員復活設定。シリアスに始まり暖かく終わる。
カノンとカミュが出張っており、さっぱりとしたカノミロ要素が含まれます。
カノンのM度がある意味振り切れ最大値。
行間には色々織り込んだつもり。深読みはご随意に。原作カラーでお楽しみください。


***


「氷河、君が好きだ」
 主のいない宝瓶宮、しかしそのひんやりとした透き通る空気は、まるでまだそこが水と氷の守護を受けているかのように、しんと冴え渡る。
 何故、此処なのか。
 その答えは、二人を繋ぐ接点でもあるが、同時に、繋がることを阻む楔なのかもしれない。共に口には出さないまま、その理由をお互いが知っている。此処に不在の、人を想う。別たれた友を偲ぶ。導かれた手を悼む。
「君はどうだ?」
 何故、今なのか。
 時が経ち、傷が癒え、いつか痛みの記憶が薄れゆくことを望む一方で、忘れてしまう日が来ることを恐れ拒む気持ちがある事もまた、確かな人の情である。癒えたあとではなくて、今、この痛みを胸に抱えたまま、その答えを知りたい。
「俺は」
 氷河は長い沈黙の後に言って、そしてその先を継げずに押し黙った。薄い金髪の柔らかな先が、漂う冷たい空気の重みに濡れて、水色の瞳を隠すように揺れている。その瞳に、涙の痕は見えない。片目に、包帯が痛い。
 今は答えが出せないことを知っている。だから酷なことを聞いているのだとも。共に過ごしたのは数日。間に在るのは、亡き人。慰め合いたいわけではない、ただ寄り添うことを許されはしないだろうか。心が触れ合うことを感じながらも、先へ進むことを躊躇う。
「決められないのならば今でなくとも良い」
 だが、言いかけたミロの言葉を遮り、少年は、直前まで儚く憂えていた瞳をはっきりと向けた。その力強さは、天蠍宮でミロを圧倒し、覆させた、しなやかで強靭な白鳥の翼を思わせる。赤く燃えさかる蠍の心臓を身に受けることで、その心を捕らえられたのは、逆にミロの方だったのだから。
「いや――――」
 続けられた言葉を聞き終わってから、ゆっくりと目を閉じて、ミロは言った。
「この聖戦を生きて終えた後、返事を聞かせてくれ」
 おそらくこれが最後になるだろう。降りやんだ長雨の次に来たるのは、地の底から這い出ずる闇。宝瓶宮を去りゆく少年の後姿を見送りながら、ミロは思う。
 冴え渡った冷たい空気は、その守護者が、今でもこの宮で、生きて進む我らを見守っているように感じられた。

 双魚宮へ向かう階段を下りながら、呟く。
「このハーデスとの聖戦では、たぶん俺もお前も死ぬことになるだろう。お互いわずかの時間生きのびただけかもしれん……」
 その脳裏に、生きて返事を聞かせてくれと約束した少年のことが浮かんだかどうか、定かではない。
 生きて、再び見えることはなかった。


Oh my boy,
my dear, little one


「それで私は、どうしてあなたと向かい合って茶をすすっているのだろうな……」
 海に開けたオープンテラスのパラソルの下、小洒落たカフェの白い丸テーブルに置かれた冷めたカップの紅茶を見ながら、カミュは本日何度目かの溜息をついた。息の深さは徐々に増す。
 対して向かいに座った長髪の男は、気にする風でもなく、長い足を組みなおして、こともなげに言った。
「それは保護者同伴だからだろう。健全でいいじゃないか」
「私はともかく、何故あなたが保護者の範疇に入るのだ」
「さてな。俺だって、いきなり押しかけられて連れ出されたのだ。お前が一人では寂しかろうとでも思ったのかもしれんな」
 あいつの考えることなど俺には分からん、と肩を竦めてみせるカノンを前に、カミュは更に大きな溜息をもらす。
 それこそ余計な気配りというものだ。第一、カノンとはほとんど話したことがない。蘇ってばたばたしているうちに気づいてみれば、いつのまにかミロがカノンと仲良くなっていて、結果、ミロを挟んで知るようになったが、二人きり差し向かいでいられるほど親しいわけではない。
 全くあの男ときたら。思い立ったらじっとしておれない。ミロは昔から唐突な男なのだ。

『カミュ、お前氷河が好きか?』
 ミロが朝食どきに断りもなく居宅にずかずかと上がり込んで、行動以上に唐突な言葉を吐いたのは、つい今朝方のことである。
 口に含んでいた紅茶をすんでのところで吹き出すのを耐えたのは、クールを信条とする氷の聖闘士として褒められるべきことであろう。心中の動揺は顔に出さぬように、口を拭いつつ平静を装う。しかし、顔に出そうと出すまいとこの友人には大して効果のないことで、またその後の展開になんら変化をもたらさないのも、いつものことである。
『大切な弟子のこと、愛情なくしてここまで育てられはしない』
『それは、氷河を愛しているということか』
 今度は盛大にむせこんだ。
『……お前は、何が言いたい』
『問うているのは俺だ。お前は氷河を愛しているのか?』
 時間や場所の選び方は明らかにおかしい気がするが、冗談で言っているのではないらしい。長い付き合いである。強い眼差しをカミュは見返して、数度瞬きをした。
『……もはや、聞くまでもないような気もするが、それは家族だとか、友情だとか、まして師として、という意味では、ないのだな?』
『無論だ』
 即座に返ってきた返事に、カミュはしばし考え込むように顎に長い指をあて、それから、その間一瞬たりとも背けられることのなかったミロの視線に向き合った。
『それを私に聞いて、どうする?』
『お前と争いたくはない。だが、譲れそうにもない。だから先に聞いておくことにした』
『お前は氷河を愛しているのか』
 それこそ答えを聞くまでもない問いに頷く友の瞳は真剣で、この目は何よりも真実を語る。ゆっくりと息を吐き出して、カミュは一言ずつ、確かめるように言った。
『お前が、本気だというのなら、あとは、氷河の気持ち次第だ』
 言う時に感じた多少の寂しさは、親愛、もしかしたら、友愛からくるものだと、カミュは思っている。
『私がとやかく言う問題ではない』

 分かった、ならば今日は付き合えと、にっと笑い、今の流れで何故そういうことになるのだというカミュの苦情は聞かぬままに、来た時と同様風の如く去っていった友人は、数刻後に戻ってきた。かと思えば、今度は有無を言わさず拉致られた。既に確保されていた目当ての一人と、途中で拾われたもう一人も、その時の気持ちはおそらく同じであったろう。どうやら双児宮で暇を持て余していた方は、もう適応して状況を楽しんですらいるようでもあるが。
 一人悶々と眉に皺をよせたり、溜息をついたり、腕を組みなおしたり、無表情なようで意外に分かりやすい仕草のオンパレードを披露しているカミュを、カノンは籐で編み込まれたガーデンチェアに背を預けて面白げに眺めていた。思っていたよりも無頓着な男なのか、それともよっぽど弟子のことが気にかかるのか、初めて二人で向かい合う相手であるのにもかかわらず、カノンの存在などすっかり忘れて自分の世界を構築している。他人の目を気にせず我が道を行く姿は、ある意味大変図太いと思う。何だか微笑ましい気分でいるカノンをよそに、自分がそんな目で見られていることには、これっぽっちも気づいていない弟子しか眼中にない師は、カノンから見ればまだまだ若造なのだが、本人は立派に大人のつもりである。
 エーゲ海に面した新設のリゾート、有数の観光地であるギリシャに居を置くとはいえ、聖闘士には無用の地である。なんでこういうことになっているのか、今更考えたところで意味はないのだ。真っ青な海に浮かぶ島々へ発つ白い船を見送りながら、潮風の匂いを受けてカノンは思いを馳せる。馴染んだはずの海の匂い、深い海底で出会った彼のもう一人の弟子。ペテンのような神の奇跡で聖冥海の死者がみな蘇ったからといって、カノンの罪が消えないように、すべてが元通りというわけにいかないのは、海闘士として戦った年の割に大人びた隻眼の少年の表情から窺えた。それでも。年若い命が繋がれて、良かったと思う。
 あいつは上手くやっているんだろうか。少年は随分とご機嫌斜めだったように見えたが。
 沈痛な表情の真向いの男とは裏腹に、比較的楽観的な気分で、カノンは海と同じく真っ青に広がる空を見上げた。
 まあ、どうにかするのだろう。あいつに限って余分な心配か。
 真上から射す煌めく光は、待ちきれない夏の太陽の気配を帯びていた。

 仏頂面でも整った顔立ちは良く目立つ。ふんわりとした薄い金髪と、アイスブルーの瞳。ほっそりとした少年らしさを残しながらも、筋肉のついた引き締まった体は、この年代特有の、少年から男性へと変わるその瞬間を捉えた、不思議な中性的魅力も兼ね備えている。少年の纏うのは確かにこの上ない不機嫌なオーラなのだが、それすらも美しい顔立ちを際立たせ、迫力を欠き、むしろ――氷河本人がその評価を聞いたら、表情を更に険しくして不機嫌さを三割増しにしたかもしれないが――、むしろ非常に庇護欲を掻き立てられる。
 ことさら人目を引くのは、なにも氷河のせいばかりではない。大股でずんずん歩いていく少年の数歩の後ろ、太陽の光を受けた長い豪奢な金の巻き毛を揺らして、口元に笑みを湛えて付き従う長身の男もまた、多少きつすぎるきらいはあるが目鼻立ちのくっきりした華やかな容貌を惜しげもなく曝している。付き従う、にしては、胸をはって歩く様がゆったりと、堂々とし過ぎているような気もするが、かえってその不釣り合いさが傍から見たら大変滑稽でもあり、笑いを誘う。二人を盗み見る視線や、冷やかしの口笛に、こういうことに免疫のない氷河がカッとして振り向く前に、ミロは細めた流し目と口元の笑みを投げて黙らせた。
 口の端を上げて軽く笑ったミロの顔は、彼を知る者なら誰しも見たことのある表情なのだが、今日は微妙に眉根が緩んでいて、少しだけそのきつい顔立ちに優しさを滲ませているようにも見える。いや、この場合は、参ったなと言う気持ちも入っているのかもしれない。立ち並ぶ店々で売られている焼いた貝の匂いが旨そうだとか、爽やかな海風が心地良いなとか、そんなことをときたま独り言のように投げかけてはくるが、別段返事を求めようという気はないらしく、完全無視を決め込んでいる氷河に、ミロはただついて行くばかりだった。
 どれくらい歩いただろうか。氷河とて、どこに向かおうなどと意識して歩いていたわけではない。いつの間にか人影もまばら、保養地の敷地からは外れ、海にせり出した岩肌の露出した半島まで来ていた。弧を描く海岸線の向こうに、先刻までいた白い壁に青い扉の建物群がひしめき立つのが見える。空と海との境界線は、紺碧よりも僅かに深い碧を帯びた海の色と、接するところだけ光に白く抜ける蒼天で形作られ、真上から射しこんでいた日がやや角度をつけてなお、その輝きを増す。
「氷河」
 折れたのはミロの方だった。ようやく氷河に向けて声をかける。氷河は無言のままだ。
「たまにはこういうところもいいだろう。ギリシャに来ても聖域に閉じこもってばかりでは面白味もあるまい」
 なおも押し黙って歩を緩めない氷河に、溜息を悟られぬよう、からかうような口調で言う。
「せっかく来たんだ。いつまでも拗ねていないで、少しは周りを見て楽しんだらどうだ、氷河」
「そんなこと誰も頼んでいない」
 はたと立ち止まって、ミロに背を向けたまま、氷河は初めて口を開いた。口調に抑揚はない。
「来たければ、あなただけで来ればよかったんだ」
 師のもとへ駆け上がる十二宮石段の途中、天蠍宮の柱影からいきなり現れたミロに捕まったのは、おそらく偶然ではない。なかば引きずられるように石段を上る間、言いたいことは山ほどあったはずなのに、何故か口に出すことは出来なかった。宝瓶宮にたどり着く前にかけられた一言、カミュも納得済みだ、こちらを向かずに言ったミロの様子が普段の自信ありげなこの人の印象とは少し違っているようで、理由や意味を聞いてはいけないような気がした。違う。意味は分かっていた。だから、聞く必要もないことで。分かっていても、そう言うミロの言葉が胸に響き、見えないところに魚の小骨のように刺さって、後に続くはずの反論を奪った。
 ぼんやりとしている間に、ここまで連れてこられたかと思えば、同じく呆然としていたカミュと、今にも吹き出しそうなカノンを残し、雑踏の中に飲み込まれることとなった。二人の姿が見えなくなって、ここがどこだかも分からない状態でぽかんとしていたところへ、さて、どうする? とニヤリ顔で言ってきたミロの悪戯っぽい笑みでようやく我に返り、同時に怒りも湧き起こって、そして、今に至る。
 何に腹が立っているのか。
 全てだ。いきなり連れてこられたことも、氷河の意見も返事も全く聞こうともしないことも、師をこんなことに巻き込んでいることも。だが、おそらく何よりも。
 聖戦後、聖域には何度か訪れてはいたが、混乱と多忙を極めていた十二宮、まともにミロと顔を合わせたのは以来初めてで、そしてとても久しぶりのような気がした。にもかかわらず、何事もなかったかのように、そうだ、何事もなかったかのように、相変わらず強引で、尊大で、笑っていて、笑いかけてきて、それが無性に腹立たしくて、そして泣きたいような気分になった。
「そう言うな。君も一人では来にくかろうと思ったから、カミュも一緒に誘ったのだ」
 ひょいと両手を上げて続けるミロは軽い調子で、氷河の心中など分かろうともしない、それに腹が立つというんだ。
「君の出した条件は満たした。何の不満がある?」
「条件じゃない!」
 おどけて言ったはずのミロの言葉に、思いの外大きな声を被せてきた氷河の声は、確かに怒りを帯びていた。ミロを向いた視線は氷のように鋭くて、しかし、アイスブルーの視線の奥に熱を秘めているのが、彼の師によく似ている。
「あなたは、信用ならない」
 しかし、すぐに視線は背けられ、氷の芯に籠った熱の所在を確かめ損ねたことを、ミロは失敗したと思う。
「まあ……だまし討ちみたいな真似は悪かった」
「俺が怒っているのはそのことじゃない」
 すぐに返ってきた言葉も、先ほどのような荒げた調子は抑えられていたが、明らかな怒気はそのままにある。強い意志の力を感じる、清廉な少年の潔癖さが、なんとなく痛い。
 返事を返しあぐねていたミロに、氷河は続けた。
「……あなたは嘘つきだ」
 苦しげなその言い方に戸惑いを感じながらも、ミロは会話を拾う。
「君に嘘などつかない」
「嘘だ」
 即座に返る。黙って、先を続けるのを待った。
 俯いた氷河の瞳は、長い前髪に隠れて見えない。しばらくの沈黙のあと、隠れた瞳の下で、微かに口が動くのが見えた。
「返事は、聖戦の後に聞くと言った」
「確かにそう言った。だから今、」
「生きて終えると言った」
 ああ。
 それは一つの理解で、納得でもあった。
「置いていったじゃないか。一言も言わず」
 ぼそりぼそりとこぼされる言葉を、ミロは黙って聞いていた。
「ハーデス城へ発つ時だって。嘆きの壁でも」
 次々に親しいものを失っていった少年の、たぶん心の本音なのだろうと思う。
「待っていてはくれなかった」
 分かりはする。分かりはするが、女神の聖闘士である自分たちは、その甘えを受け入れてやることは出来ない。許すことも、かといって、覚悟が足りないと叱ることも。だから。
「駄々をこねるな」
 冗談に流してやるしかないと思った。
「戦いを経て、一回り大きくなったかと思えば、まだまだ坊やだな」
「そういうことを言ってるんじゃないんだ!!」
 だが。
 勢いよく見上げてきた顔に、目いっぱいまで開いた大きい瞳は、力強く、激しく、火のように、そして彼の扱う氷のように透き通り曇りがなかった。その迫力に気圧されて、ミロは息をのんだ。
「俺は待つことしか出来ないのか。あなた方と横に並んで戦うことも許されない。俺は守られているだけの子供じゃない」
 一息に、それから、吐き出すように言った。
「置いて行かれる者の気持ちなど、あなたには分からないんだ……!」
 言ってからはっとした顔はすぐに伏せられ、また、俯いた先で眉を寄せる。
「すまない、ミロ。言い過ぎた」
 氷河は一度、振り払うように首を振る。
「あなたも、カミュを失ったんだ。俺は、共に師を想ってくれる人がいたことが、嬉しかったはずなのに。ひどいことを言った」
 伸びすぎた前髪の間に揺れる瞳は、少年の繊細さと率直さを、同時に表す。
「そんなことが言いたかったわけじゃないはずなのに」
 顔を歪める少年は今、必死で大人になろうとしている。感情と理性と、葛藤の間にあるものは、ただ純粋な想いで。
 思わず伸ばしたミロの手は、少年の頬に触れる直前で動きを止め、一瞬だけ掠めて離れ、代わりにさらりとした金糸を掬う。
「俺が間違っていた。ほんの子供だと思っていたのに、いつのまに大人になったんだろうな」
 肌に触れるか触れないかの位置に置いた右手から、さらさらと髪が零れ落ちる。告げられる言葉は、静かで、ともすればとてもこの男らしくはなくて、でももしかしたら、こちらの方にこの人の本当の姿があるのかもしれないと、漠然と氷河は思った。
「だがこれだけは信じてくれ。君は一人前の戦士だ。それを軽んじたことは、天蠍宮で君と戦ったあの日以来、一度たりとも、ない」

「もう一度やり直そう」
 ミロはやはり静かな声のままに言って、少年の水色の瞳を見下ろした。
「焦っていたんだ、俺らしくもない」
 いつも自信家のこの人の、ほんの少しだけ自嘲的な言い方が、ちくりと氷河の胸に刺さる。そういう言い方をさせた自分に。
「君の気持ちを無視したやり方は謝る」
 上から降る声に、氷河は顔を上げることが出来ない。ミロの言葉には、氷河を責めるような調子など少しも含まれていないのに。
「あの時の言葉に囚われる必要はない。あの時と今は、違う。カミュのもとに行きたいのなら、行っても構わない」
 はっと見上げた顔に飛び込んできたのは、青い瞳で、ミロの目は逸らされず氷河に注がれていたのだと、分かる。
 すっと、少年の前に跪き、ミロはその手を取った。下から見上げてきても、青い視線は変わらず真直ぐに、いつにもなく真摯で、預けた左手から伝わりくる暖かさは、氷河に人が生きている、その実感を伝えてきた。
「だが俺の気持ちはあの時のままだ、氷河」
 同じ瞳に見詰められている。宝瓶宮でのひと時と。
「君が好きだ」
 時を違えて聞く、同じ言葉。
「返事を聞かせてくれ」

「本当に、良かったのか?」
 不意に真顔に戻ったカノンが、突然問いかけてきた。
「氷河は、お前にとって、大切なものだろう」
 物思いから引き戻されたカミュは、改めてこの男の存在を確認した。ぼやかした言い方に、反発は感じない。軽く目を伏せ、カミュはひとつ、呼吸を置いてから答えた。ここずっと、考えてきた答え。
「氷河は私にとって、大切な弟子だ。私の所有物ではない。それに、もう、道を示さねば迷ってしまう子供ではない」
 丁寧に言葉を選びながら、ゆっくりと、しかし意志に満ちている。
「氷河が選ぶのなら、私はその選択を尊重しようと思う」
 最後まではっきり言い切った声に迷いはなかった。
「氷河は、良い師に恵まれたんだな」
 受けるカノンの口調はとても穏やかで。
「アイザックも」
 だから、さらりと出てきた名前を、カミュもするりと受け取った。
「頭上に浮かぶ厚い海の底を見上げていた。海闘士でありながらも、聖闘士の誇りを持ち続けていた。俺よりも、ずっとな」
 意識して思い浮かべたことはなかった。が、常にこの男と自分の間に浮かんでいた名前を。
「カミュ。それを奪った俺に、今さら言えたことではないが。アイザックのこと、すまなかった」
 穏やかだが、深い色を湛える瞳。感情の読めない、ただ何かを思う目。やっと気づいた。ずっと、言いたかったことなのだろうと。
 意識したことはなかったが、カミュもまた無意識はその名前がいつか出ることを知っていて、だから、既に答えは出ている。
「アイザックのことは、あなたのせいではない。そして、詫びも私に言うことではない。彼らが選ぶ時に、正しい選択ができるよう導くのが師である私の役目だ」
 口に出してそれは、初めて迷いを断つ。
「選ぶのは、彼ら自身だ」
 言いながら、カミュ自身も納得していた。彼らはもう、立派に成長した。自分で考え、自分で決める。ただそれが、少し寂しいと思うだけで。
 深く息を吐いて、閉じた目をもう一度開いた時には、先ほどまで浮かんでいた色は、カノンの目から消えていた。
「案ずるな。特別というのは、いくらでも横に並べるものだ。氷河がどんな繋がりを作っていったからといって、お前が師でなくなることも特別でなくなることもない」
 同じ顔の兄を持つ男は、そう言って笑った。
「ミロも苦労するな。お前のような保護者がくっついていたのでは」
 嫌味なものいいにもとれそうなところ、からから笑う姿は屈託なく、そんな気を起こさせなくする不思議な魅力がある。双子の兄とは、違った笑い方だ。
 カミュは、ミロが自分たちを連れ出した意味が、ぼんやりと分かった気がした。

 ミロに触れられている指先が熱く、心臓の鼓動さえもそこから聞こえてくる気がする。何度か口を動かしたけれど、出かかっているはずの言葉は、どうしても出てこない。瞬きをする揺れる水色の瞳の先にある、海色の青い瞳は一度も翳らずに見返してくる。
 静止した状況を動かす役目は、今、氷河の手に渡されて、動き出すその時を待っている。
「カミュは敬愛する師だ。他に代わりはいない」
 長い時の末にどうにか言った最初の言葉は、そこで途切れて、次の言葉を紡げず静寂を呼んだ。
「ああ」
 耐えきれずに逸らされた氷河の目と、流れる沈黙を受けて、ミロは少し寂しげにふと笑う。
「分かった」
 降りた時と同じくすっと立ち上がった姿は凛と気高くて、離れた手の熱に焦りを感じながらも、氷河はつい見惚れていた。だから一瞬、反応が遅れた。
「ミロ、違う」
 止めようと声をかけた時には、ミロはくるりと背を向けていて、横からの日差しを反射した濃い金色の髪の先がきらきらと輝いていた。
「そうじゃないんだ」
「君の気持ちは分かっている」
 半身を氷河の方に翻し、注がれる視線はまだ優しげで。なのに、この期に及んでどうして肝心なことは何も言えないのだろうか。
「だからっ……」
 一言が、言えない。この人のせいじゃない、でも。
「分かっていないのはあなただ……!」

 視界に飛び込んできた跳ねる金糸と、引き寄せられた首。次の瞬間の衝撃は、固いものが当たる音と多少の痛みと、それにも負けずに押し付けられた柔らかい口唇の感触で終わった。
 目を閉じる暇なく重ねられた口がゆっくり離れてから、水色の瞳が目の前で瞼の下から現れるのを呆然と、ミロは見ていた。
「……まさか、君に、奪われるとはね」
 ミロはぽつりとこぼす。
 氷河の、少し怒ったような仏頂面は最前のものと似ているが、照れてはにかんだ表情が加わっている。
「カミュのことだって、あなたは勘違いしている」
 氷河は引き寄せた首はそのままに、吐く息のかかるくらい近い口元で言った。
「カミュは特別だ。他に代わる人はいない。でも、あなたにだって代わりはいないんだ」

「そうか」
 ほ、と息を一つ吐いてミロは呟いた。
「俺も随分と独り相撲をしていたものだな」
 やっとミロを放した氷河との距離は、少し離れはしたけれど、今までのいつよりもずっと、近くにいるような気がする。
「だいたいミロは鈍感なんだ」
 拗ねたような言い方が可愛いと思う。
「言うな、坊や。この俺を鈍感呼ばわりとはね」
 からかうような調子がいつものミロで、氷河はそのことに、安堵している自分を感じた。
「だが今日は、君からの口づけに免じて許してあげよう」
「っ……そういうこと、言うな」
 調子に乗らせるとすぐにこれだと、伸ばされる手を振り払う仕草も、こういう時は逆効果だと本人は分かっていない。
「それにわざわざこんなところにまで来て、回りくどいことしなくったって話すことはできただろ」
 敢えて甘さを振り払うような口調を作った。
「こうでもしないとカミュに勝てるような気がしなかったんだ。せめてムードくらいは演出しないとな」
 ミロは少し困ったような顔をして、肩を竦めた。
「それと、俺の覚悟がね」
 小さく言った。
 が、すぐにあっけらかんと、直前の台詞とは反対に、笑い飛ばす鷹揚な仕草でもって繋げてみせた。
「雰囲気って大事だろ? 開放的な場所に来れば、普段言えないことも、言える気になる」
 対する氷河は、ふと真剣な目になる。
「それは、俺に対して?」
「何のことだ?」
「とぼけなくていい。我が師と、カノンも連れてきたのは、そういうことだろ」
 真直ぐに向けられる瞳は、どうにも誤魔化せそうにない。
「君には敵わないな」
 笑ってミロは続ける。
「妬けるな。カノンの分際で君に気にしてもらえるなんて」
「俺じゃない。アイザックが」
 切ってから、氷河も続ける。
「雨が降ると眺めてるんだ、と。笑うでもない泣くでもない顔をして、ただ眺めている。そういう人なんだって。カミュと自分を見る時の目も、それに似ているって」
 それをじっと聞いてから、ミロは満足げに言った。
「何だ。あいつも随分慕われてるんじゃないか。知らぬは自分ばかりなのだな」
 そして穏やかに笑う。

「……あなただって」
 下を向きながら口籠る氷河に、ミロは目を向けた。
「あなただって、自分のこと、何もわかってない。さっきも言った。カミュのことだって、あなたは勘違いしている」
 思い切ったように見上げて言った。
「カミュは、俺があなたをとってしまうのを、許してくれるだろうかって、そう思ったんだ」
「それは……流石に、見当違いだぞ」
 思いもよらない氷河の言葉に呆気にとられているミロに対して、氷河は思いの外真剣だ。
「だから、分かっていないって言うんだ」
 頬を膨らませ不貞腐れた表情は、少年を少年らしい幼さに見せる。
「あなたは時々、すごくよく人のことを見てるんだな、って思うことがあるのに。自分のことにはいつだって的外れなんだ」
 だが、見上げる透明な視線は、そこから脱して大人になる、曖昧で危うく、されど力強い生命力に溢れている。
 繊細さと純粋さと、何よりこの力強さが、自分を惹きつけてやまないんだとミロは思う。
「さっきのこと、確かにそれもあるが。それだけではない」
 ミロは西に傾いた太陽の、赤く変わりゆく光を横顔に受けて言った。
「君を連れてきてやりたかったんだ。こういうところへ」
 氷河の金糸と白い肌が、赤い光に映える。
「それに俺も今回のことで学んだ。少しは分かるようになったぞ」
 含み笑いの声、口の端を上げた笑い方。ああ、この人らしい顔になった。ほっとしながら、氷河は頭の隅で思っていた。たぶん、俺はこの表情が、自信に満ちていて、でも優しい、そんな顔が、好きなんだと思う。
「いま、君が思っていることとか」
 今度こそ、金の髪の下に手を差し入れ、愛おしげにその頬に触れた。
「氷河」
 大きな手で包み込んだ顔を優しく引き寄せ、間近に来た瞳で見つめ合う。
「歯のあたらないキスの仕方を教えてやる」
 吐息が口唇を柔らかく撫ぜるのを感じて、目を瞑った。

 辺りには薄い闇が訪れ、ちらほらを明かりが灯り出していた。水平線の向こうに沈んだ太陽の残光が、海面を赤紫色に染めている。
「帰ってこないな」
 相変わらずのんびりと寛いでいる男をみて、カミュは改まった口調を作る。
「あなたこそ、私をけしかけるのは、お門違いというものだ」
 含みのあるカミュの言い方に、意図を感じてカノンはふと目を向ける。
「ばれたか」
 温度のない視線に対して、悪びれもせずに答えた。
「お前が氷河を捕まえておいてくれればと思ったんだが、当てが外れたな」
 しかしそう言う割には、別段残念そうな表情も見て取れない。
「ミロには言わないのか」
「それはもう言った」
 わずかに目を見開くカミュを前に、カノンは続けた。
「俺は氷河と約束をしているから、お前には応えられんと言われた」
 少しだけ視線を脇にやって、思い出すように言葉を紡ぐ。
「それでもお前を想っても良いかと尋ねたら、想うことは止められんだろうなと」
 思うところでもあったんだろうな、と軽く笑った。
「あなたは、それでいいのか?」
「構わんさ。ミロが自由で、己の欲しいものを求めていられるのなら、それも含めて愛する自信はある。だから俺は、ミロが好きだというのなら、お前や氷河も愛することはできると思うぞ」
「あなたは、屈折しているようで、実は単純なのかと思えば、やはりどこか曲がっているのだな」
 カミュは、聞きようによっては大層失礼な物言いを臆面もなく放った後、しばらく無言で顎に手をかけ考えてから、もう一度おもむろに口を開いた。
「私はあなたより、あれとの付き合いは長い」
 瞬間に緊迫した空気が周囲の温度を下げたように感じられたのはカノンの気のせいだったのか、何事も真剣に取り組まねば気が済まない彼の性のなせる業なのか、今日初めて真っ直ぐカノンを見る目は鋭い。
「それを争う気は、俺にはないが」
 カノンの答えは無視して、カミュは見据えるような視線のまま続けた。
「あれはあなたが思っている以上に敏い男だ。懐に入れた相手はどこまでも大切にする。友人である私のことをそうしてきたように」
 それはまるで何かを、宣言するように。
 赤い視線をするりと躱して、カノンは朗らかに笑う。
「分かっているじゃないか。だから氷河のことは安心しておけ、と」
 カミュは、更にその一段鋭い目付きでカノンを見て、それから、ふうと息をついた。
「もしかすると、苦労するのは、氷河の方かもしれないな」
 独り言のようなカミュの呟きにも、カノンは笑って言った。
「ミロは人を振り回すのは得意だからな。追いかけられていると思っているうちに、いつのまにか目が離せなくなっているかもしれんな」
 そんなカノンにカミュは大真面目に言う。
「私は、あなたが私に対して言ったのと、おそらくは全く同じ意味で言ったのだがな」
 今度こそ、本当に意味が分からないといった顔で、カノンは首を傾げた。


――静謐な宝瓶宮の、厳粛な冴え渡る空気の中で告げる。
「いや、答えはもう決まっている」
 色合いの違う二つの青い視線は交わり、その時、もう答えは出ていて、そして知っていた。
「カミュが、許すのなら」
 必要なのは死者の赦し。
「…………この聖戦を生きて終えた後、返事を聞かせてくれ」
 決して与えられることのない許しを、自らに課すこと、それを自らに赦すこと、それは生き残った者達が、死を乗り越え、受け入れていくための、踏み絵なのかもしれない。
「君の中のカミュが、君自身が。それを許すのか、否か」
 氷河の姿が小さくなって、聞こえないと知ってから、ミロは呟いた。
「だが、俺はいつまでも待っている。氷河」
 今にも雪が舞い降りてくるかと思われる、そう望む、曇天を見上げて語りかけた。
「お前は許してくれるかな」
 友へ。
 一つの言葉に込められた想いは時と共に移ろい、意味を変えていく。だがそれは、憂うべきことではなくて、たぶん、それが生きていくということなんだと、思う。


「坊や、前に教えたの、覚えているか?」
「俺だっていつまでも子供じゃない。上手くできるさ」
「フッ、君はいつまでも坊やだよ」

――――俺にとって、唯一の。


My dear, little one
my love

(Fin)

***



 腰が砕けるほど素敵なミロ氷(+行間に色々と!)、もう、すき、すきー!!
 わたしにとってのミロ氷のベストな関係性を余すとこなく書いていただいて、ああもう、ほんとに厚かましくリクエストさせてもらってよかった!
 睡さまはカノミロの方ですが、ミロをかっこよく書くことにかけては右に出るものなしな勢いで超絶イケメンなミロを書かれます。カノミロというカプが苦手でなければ、いえ、苦手でも食わず嫌いな苦手さなのであれば、ぜひに、ぜひにほかの作品も読んでいただいてわたしとともに蕩ける睡さまワールドに浸っていただければと……!硬派だけど蕩けるんですよ~。ほんとにほんとに。
 睡さま、ありがとうございました!



(2012.11.8UP)