寒いところで待ちぼうけ

短編:その


ヤコフ(22歳)×氷河(29歳)くらいだといい


◆初恋は今◆

 ごう、と風がうねりを上げて丸太造りの小屋をギシギシと揺らした。
 手元に広げた古い書物の小さな文字を追うのに夢中になっていた氷河は、揺れた名残でカタカタと震える窓硝子の方へと視線をやった。
 室温と外気温との差で薄らと曇った硝子の向こうに、低く垂れ込めた鈍色の雲が速いスピードで流れていくのが見える。雲の谷間から強い気流が吹き下りては、冷たい白銀の大地を削り取るかのように渦を巻き、巻き上げられた雪煙が視界を奪う。分厚い雲と舞い上がる雪に太陽の光は遮られ、昼間だというのに、まるで夜に向かう刻限のように辺りは薄暗かった。
 だが、ここシベリアの冬ではそれらは日常の光景だ。窓の外の景色に特段興味を引かれるものを見つけられなかった氷河は、再び長い睫毛を伏せて文字の続きを追う。
 広げていた書物は、ほとんど何も残されていなかった師の私物から見つけた貴重な一冊だった。幼い頃は、師がページを開いた隣でいくら覗き込んでみても、一向に理解できない難解なだけの文字群だったが、聖闘士として経験を積んだ今は、乾いた土に水が染み込むように内容が次々と頭に入り、ああ、あの時の師の言葉はこういう意味か、と新たな発見があるのだった。時を隔ててもなお、師から教わることはまだ多い。
 が、氷河の集中はまたすぐに風の音によって途切れた。
 二度目はすぐに書物へ戻ることは諦めて、集中を乱す要因を探るべく、氷河は目を閉じてじっと神経を研ぎ澄ませる。
 時折建物を揺らし、大地の鳴き声を引き出しては不意に凪いで静寂を呼ぶ風の音。いつもと同じ、厳冬に向かう前の極北の大地を渡る風だ。だが、ごく微か、何かが空気の流れを乱している。
 ああ、なんだ、とすぐにその正体に気づいて氷河は目を開いた。
 ハッハッという獣の息づかいと、ザザッと何か重い塊が固く凍った根雪の上を滑る音。
 あれは犬橇の音だ。舞い上がる雪煙でまだその姿は氷河の視界に現れていない。だが、氷河の戦士としての鋭敏な感覚は近づいてくるその気配を無意識のうちに捉えていたのだ。
 氷河の口元に微かに笑みが浮かぶ。
 さてはヤコフのやつだな。心配ないから来なくていいってあれほど言っているのに。
 ヤコフときたら、氷河がシベリアにいる間中、やれ燃料だ、それ食料だと何かと理由をつけては通ってくる。同じコホーテク村内とはいえ、氷河のいる小屋の辺りは、地図上どこにも属さぬわけにはゆかぬからそう名付けられているにすぎない、村の外れも外れ、誰も人の居ぬ僻地だというのに、だ。(それとも、だから、か?)一度で済むような用でも何度にも分けて訪ねてきて、その間隔は一週間と空いた試しがない。
 これではヤコフの生活が破綻してしまう、と氷河の方からシベリアに戻っていることを特別に知らせたことはない。だが、不思議なことに、氷河がこの小屋に戻って数日も経たないうちに必ず彼は現れて、「ひどいや氷河、帰ってるなら帰ってるって知らせてよ」と拗ねた顔を見せるのだ。
 空けている時間が多い割に小屋に荒れた様子が見られないことからして、ヤコフは氷河がいるいないに関わらずここまで通ってきて、氷河の帰る場所を温かく整えておくために何くれと心を砕いてくれているのかもしれなかった。
 あれほど俺に構うなと言っているのにしようのないヤツだな、と、口元に笑みを湛えたまま立ち上がって、氷河は、暖炉に薪を何本か投げ入れた。自分にはちょうどよい室温だが、雪の中を駆けてきたヤコフを迎え入れるには少し寒すぎるだろうと気になったためだ。
 新たな燃え種を得て、ぼう、と大きく伸びをした炎の温かな橙色の光が柔らかく氷河の頬を照らす。
 机の上へ置いていた師の遺品を丁寧に本棚へと戻しながら、氷河は再び窓の外へと視線をやった。
 白く霞む視界の中に、ようやく、こちらへ向かって駆けてくる何頭もの犬の姿が小さく現れる。
 やはり犬橇だ。
 爆ぜる炎の勢いで、急激に上がった室温に結露を増した窓硝子を手のひらで拭って、氷河はヤコフの姿を探すべく冷たい硝子に額をつけた。
 ……?
 犬達の様子が何かおかしい。
 リードと呼ばれるポジションにいる先頭の二頭は、雪と見紛うほどの美しい真っ白な毛並みのサモエド犬と、濃いグレーの体躯に靴下を履いたかのように足先だけ白いハスキー犬で、間違いなくあれは氷河も馴染みのヤコフの飼い犬だ。
 よく訓練されていて、どんな荒天でも橇を引くのを厭わぬ彼らだが、今日はずいぶん動きに統制が取れていない。いつもなら整然と足並みを揃えて駆ける二列の隊列が、時折、右に左にと揺れ動いて、進む方向が定まらず、先頭のリーダー二頭がしきりに何かを気にするように何度も振り返っている。
 何かいつもと違う異様なものを感じて、氷河は不審に眉根を寄せた。
 ヤコフは一体何をしているんだ……?
 手綱を引くなり、コマンドを出すなりしてやらねばならぬマッシャーは一体何をしているのかと、氷河はさらに目を凝らした。
 だが、時折、風に舞う雪煙が犬橇の姿を氷河の視界から隠してしまう。
 ───どうも変だ。
 ざわざわと騒ぐ心のままに、氷河は慌てて雪の中へと飛び出した。
 不協和音のように乱れたリズムで走る犬橇に向かって、氷河は雪の中を必死に駆ける。後先考えず飛び出した足元は雪用のブーツなどではなく、水を吸って重く爪先に纏わりつく靴がひどくもどかしく、何度も氷河は舌打ちをする羽目になった。
 それでも聖闘士の脚力は、犬達が氷河の元へ駆けるよりはずっと速いスピードで氷河を橇の元へと運ばせた。
 見知った人物の匂いを嗅ぎ分けたのだろう、途中からは、行き先を迷うようだった先頭の二頭が安堵したように氷河に向かって一目散に隊列を率いて来た。氷河の元へ辿り着くと、立ち止まって千切れんばかりに尻尾を振った先頭の二頭に続く形で、犬たちは次々に前の尻尾にぶつかるように重なって、いささかの混乱の後に全体の歩みが止まった。
「やっぱりお前たちだったのか。ヤコフはどうした?」
 人間の言葉を解しない犬に聞くまでもなく、かなり手前から橇の主人が不在なのに氷河は気づいていた。いつものように荷は乗っている。だが、手綱を握っているべき人物の姿がどこにもない。
 その上───
「それは血なのか?」
 隊列の真ん中辺りにいた犬の毛に赤いものが散っているのを発見した氷河は総毛立った。
 何が起こったんだ。まさか俺がここにいることでヤコフが何かに巻き込まれた……?
「ヤコフ……!」
 自分を訪れてきたはずの青年の名を叫ぶように呼んで、氷河は犬たちが走って来た方角へと雪を蹴った。

**

『どこか痛いの?痛いの痛いの飛んでけしてあげる』
 よくそう言って彼の顏を覗き込んだものだ。
 お前は会うたびそればっかりだなあ。俺はどこも怪我なんかしてないぞ、なんて笑われたものだが。
 だって、仕方ない。母に抱かれた自分を見つめる青い瞳によぎる翳や、ぐっと物言いたげに固く握りしめられた拳の意味を知るにはその時のヤコフはまだ幼すぎた。訓練で負った怪我に対してではなく、そうしたなんでもない日常の営みの時にこそ見せる、何かを堪えるかのような苦しげな表情があまりに切なくて、幼いながらも、ヤコフは彼を守ってあげたいと強く願ったものだ。
 願うだけでなく、実際に何度か口にもした。まだ舌足らずな幼児語を操るヤコフのその思いを、大人たちは笑い、言われた本人は困ったように頬を赤らめた。
「聖闘士様を守れるほど強くなるか、なあ、ヤコフよ」
 そう言って笑った父は、無論、そうなれると本気で思っていたわけではなかっただろう。だが、ヤコフは至極大真面目に、うん、と頷いてみせ、それがまた周囲の笑いを誘った。
 彼らが目指す聖闘士というものがどんな存在なのかを知ってからは、笑われた理由は理解できたが、にもかかわらず、依然として、守ってあげたいという想いはヤコフの裡に存在していた。
 二人の年齢差を鑑みれば、それはおかしな感情だっただろう。同じ「子ども」の領域にいたが、むしろ同じ領域にいたからこそ、七歳という歳の差は例えようもなく大きい。証拠に、その人と同じ歳のもう一人の聖闘士候補生のことは、ヤコフはまるで手の届かない年の離れた兄のように思っていた。
 なのに何故、その人に対してだけ、俺が守らなきゃ、俺がなんとかしなきゃ、という気にさせられるのか、ヤコフ自身も長年不思議で仕方がなかった。

 その人の最初の喪失体験を知ったのは、ヤコフが「死」をどことなく理解できる年齢になってからだったが、妙に腑に落ちたのを覚えている。
 ああ、それでいつもどこか少し寂しげなのか、と。『痛いの?』と問うたヤコフをその人は笑ったけれど、あながち的外れというほどでもなかったのだ。心に差した痛みを痛みだと本人が気づいていなかっただけで。
 そんな風に自分の痛みに鈍かった彼は、長ずるにつれて感情を隠すことが巧みになり、今ではもう幼かったヤコフが『痛いの?』と聞いた時のような苦しげな表情を見せることはほとんどない。
 ただ、シベリアへ戻る度に彼の捧げる祈りの時間が長くなっていることにはヤコフは気づいている。
 幾多の闘いをくぐり抜けた彼は、何度も傷つき、また多くのものを喪ったのだろう。この小屋を帰る場所として共有していたあれほど仲の良かった師弟の姿も今ではもう二度と見られることはない。兄弟子は氷の海へ消えたと聞いた。師は聖域に帰った後に亡くなったとだけ聞いた。ヤコフはそこに至る詳しい話を一度も彼から聞いたことはない。
 眉一つ動かさぬ怜悧な横顔が捧げる長い長い祈りはまるで懺悔のようで、ヤコフにそこに立ち入らせることを躊躇わせる。共に街に出て、手向けの花を買い求める彼の背に、「そっか、もうすぐ命日だね」などと気軽に声を掛けられるような子どもではもうない。ヤコフに出来ることは、寂しげに伏せられた淡い色の睫毛をそっと見守るのみだ。
 ヤコフをそんな気遣いのできる青年へと成長させた流れる時間はまた、二人を「守る者」と「守られる者」として遠く隔ててしまっていた。
 彼が負っている荷の重さを感じられるようになった今は、もう無邪気に、守ってあげるなどと口に出すことは憚られる。
 橇を引く犬のうち何頭かが子を生した、とか、ばあちゃんの痛風の具合が少しよくなった、とか、彼にそんな話を聞かせながら、ヤコフはいつも泣き出しそうになる。
 こんな平凡な日常が、この人の身にどれだけあったのだろう、と。
 日々感じている小さな幸せが、この人を前にするとこんなにも切ない。
 彼にも同じ幸せをあげたい、と強く願う。温かな家族に囲まれて。おはようやおやすみ、たくさんのキスを交わして。喧嘩して、笑って。
 ヤコフには、彼の背負っている覚悟も重圧も苦しさも、何一つ共有することなどできないなら、せめて、笑顔の一つだけでも、と、甘苦しく疼く胸が希うのだ。
 彼を想うたびに痛む胸に、ああ、そうか、とようやくヤコフは自身の裡に溢れる感情の名を知る。
 これは、庇護欲なんかじゃない。守ってあげたいわけでも、お世話をしてあげたいわけでもなく、俺は、ただ、この人のことが好きなんだ。
 守りたい、と思った最初の瞬間からきっともうずっと好きだった。
 だから、あんな何かを諦めたような寂しげな微笑なんかじゃなくて、もっと、胸が痛くなるほど幸せに笑う姿が見たい、と胸が疼くのだ。
 好きな人には笑っていて欲しい。ヤコフの中に育っていた感情は、ただ、それだけの───

**

「……ちょっと笑い過ぎじゃないの、氷河」
「いやっ、だって、お前……!」
 憮然とした顔でコートについた雪を払うヤコフと、身を二つに折って笑い続けている氷河を、犬たちが不思議そうに見上げる。
 重い木の玄関扉の内側へ設えられた小さなスペースは犬たちの指定席になっていて、何頭かは既に慣れた仕草で雪の中を駆けて疲れた身体を毛布の上へ横たえている。
 ヤコフが床の上へと払い落とした雪は、暖炉の熱によって次々に水滴へと変わった。
 引き攣れた笑い声を上げて目尻に涙を浮かべている氷河を後目に、ヤコフはすっかりとだれた様子の犬たちをキッと睨みつけた。
「お前たちのせいだからな!」
 ふるふると小刻みに肩を震わせたまま、氷河は主人に叱られた犬たちに近寄って、庇うようにその頭を順に撫でる。
「いや、賢い奴らだ。なんせ……」
 後はまた笑いの発作がこみ上げてきて、氷河の声は震えるばかりで言葉にならない。

 振り落とされたのだ。ヤコフは、犬橇から。

 今日は二頭の若い雄犬の犬橇デビューの日だったのだ。とは言え、ヤコフだって犬橇を操って長い。八頭中二頭が新人だったくらいで操縦を誤ったりはしない。……という慢心がいけなかったのだろうか。
 大好きなご主人様を乗せて、長い距離を駆けるという初仕事。
 敗因は、多分、ルーキー二頭にやる気がありすぎた、ことだろう。出発前からずいぶん勇ましく地面を前肢で叩く姿を、頼もしいと感じていたことは振り落とされた今となっては滑稽でとても口には出せない。
 初曳きのセオリー通り隊列の中程に配置された二頭は、ヤコフの発するコマンドなど耳に入っていないかのように、最初から前の犬を追い越す勢いの全力疾走を見せた。後列の犬はその勢いに引きずられ、前列の犬は後ろからの追い上げに本来のペースを乱され、足並みが揃っていないくせにやけにハイスピード、という非常にアンバランスな状態のまま橇は進んだ。
 そんな状態で長距離が走れるはずはない。案の定、走り出してしばらくするとハイペースについて来られない犬が出始め、あっという間に綱は撓んで絡まり、犬たちは次々に雪の中に突っ伏すように転がった。綱が絡まった拍子にその金具で怪我をして血を流す犬の様子を見てやり、荷に乱れがないか確認をして、ヤコフが橇へと戻ろうとした時───
 あろうことか、興奮状態にあったルーキー二頭は、ヤコフが橇へ足を乗せるか乗せないかのうちにコマンドすら待たず走り始めてしまった。どうも、止まってしまった橇を「自分たちの駆ける力が足らなかったせいだ」と盛大な勘違いをしたらしく、今度こそ、と鬼気迫る形相で力強く曳き始めたのだ。そのあまりの自信たっぷりな勢いに他の犬もすっかりと押されて同じように雪を蹴る。結果、あっという間に橇から振り落とされたヤコフは豪快に雪の中に尻もちをつくことになった。
 慌てて、おい止まれ、と叫ぶヤコフに、先頭を走る二頭が素早く反応して振り返った。よし、いいぞ、とヤコフが満足げに頷いたのもそこまで。
 背後から激しい追い上げを食らったリーダー犬は、振り返ったにも関わらず、駆ける勢いを止めることなく、そっとヤコフから目を逸らした。
 おいっ!目が合っただろう、今!逸らすってどういうことだよ……!
 すみません、帰りに寄りますんで。そんな雰囲気を背中に醸しつつ、氷河宛の荷物をたくさん積んだ犬橇は、雪の中にヤコフを置いたまま走り去ってしまったのだった。
 遠ざかる隊列は、先頭の二頭が進行方向だけはかろうじて舵きりしているのが見え、そこは日頃の訓練の賜物だな、とヤコフは安堵の息をつく。
 ……いや。じゃなくて。
 どうすんだよ、こんな見渡す限りの雪の中で!
 家まで数キロ。氷河の小屋まで数十キロ。
 自らの二本の足しか移動手段のなくなった今は目指すべき地点は明らかだ。だが、それでは主として示しがつかない。あいつらめ、絶対に追いついてぶん殴ってやるからな、とカッカしながら雪中行軍よろしく雪をかき分けかき分け進んでいたところに、青い顔をした氷河がやってきた、のだった。
 事の顛末を聞いて、雪のように白く血の気を失っていた氷河の顔にみるみるうちに赤みが差し、目を逸らされたあたりの説明でついに氷河は、堪えきれない、と勢いよく吹き出した。氷河と共に戻ってきた犬橇を今度こそ主として操るヤコフの隣で、氷河は小屋までの道中をずっと笑い続けていたのだ。

 氷河は柔らかな白い毛並みに顔を埋めるようにして、いいこだ、とリーダー犬の頭を撫でている。
「えらいぞ。ちゃんと行き先はわかっていたんだな。今度からお前たちだけで来たっていいんだぞ」
 主の操縦がなくても来られるってことは証明できたし、とヤコフの方をチラリと見る青い瞳が悪戯っぽく弧を描いていて、ヤコフはますます唇を尖らせた。
 氷河に笑っていて欲しい、とは思っていたけれど、「笑われたい」わけじゃないんだ、俺は、と犬たちを恨めしく見るしかない。
 リーダーの二頭はさすがに超絶に気まずそうな上目遣いでヤコフを見ているのに対し、そもそもの原因の若犬二頭は、呑気に大きな欠伸など見せている。お前らなあ、とヤコフはがっくりと項垂れた。
 それでも、引き返した分だけ予定より長い距離を駆けた犬たちの頭をとりあえずは撫でてやって、ヤコフは雪を払ったコートをハンガーへ吊して窓枠へと掛けた。勝手知ったる他人の家、何をするにも主の許可はいちいち取らない。下手したら主よりずっと、どこに何があるか知っているくらいだ。
 ようやく人心地をつけて、ヤコフは、犬たちのところに座り込んだままの氷河の背へ圧し掛かるように体重を預けながら腕を回す。
「笑い事じゃないんだから。雪の中に放り出されてたんだよ?寒くて冷たくてもうちょっとで凍死するところだったよ」
 ほら、と冷たい手の甲を氷河の頬へ軽く押しつければ、ヤコフの体重を乗せた背がギクリと強ばって静寂が下りた。
 予想していた以上の固い反応が返ってきて、あ、とヤコフの方も小さく肩を強ばらせた。
 今にも倒れてしまいそうなほど真っ青な顔をしてヤコフを探しに来た氷河。
 もしかして、俺、自分が思っている以上に心配させてしまっていた……?
 不意に人生が途切れるような何か、なんて、俺たちが生きている普通の世界ではそうそう起こるはずがないのに。
 氷河がいつもの彼に比べれば違和感があるほどのハイテンションでずっと笑っていたのは、もしかしてそんな動揺を隠すためだったのかもしれないと気づけば、胸がぎゅっと痛くなる。
「……なーんちゃって!シベリア生まれ、シベリア育ちがブリザードでもない雪の中を歩いたくらいで凍死なんかするわけないじゃん!こんなこともあろうかと装備は完璧さ!」
「あ、ああ」
 氷河の手のひらが、自分の胸の前に回された青年の腕の上で体温を確かめるようにゆるゆると彷徨う。
「でも、さすがに顔は寒かった!せっかくのイケメンが凍傷で台無しになっちゃう!あっためて!」
 氷のように冷たく冷え切った鼻先で、ヤコフは氷河の柔らかなブロンドをかき分けてそれをピタリとうなじへと押し当てた。
「あー、氷河の身体ぬくーい!氷河って氷の聖闘士のくせに昔っから体温高いから好きさ」
 無防備な肌に、不意に押し当てられた冷気の塊を小さな悲鳴を上げて抗議した氷河は、だが、固く強張らせた身体をふっと安堵したように弛緩させた。
「おい、やめろ、ヤコフ!何のための暖炉なんだ。俺で暖を取ろうとするな」
 言いながらくすくすと笑い始めた氷河に、ヤコフも気づかれぬよう息を吐いた。
 よかった。今のは「笑われた」んじゃなくて、「笑わせた」みたいだ。
 氷河が笑ったことが嬉しく、ヤコフはますます犬が飼い主に甘えるように鼻先をぐりぐりと押しつける。
 冷たい、冷たいってヤコフ、と氷河は腕の中で身を捩って笑う。聖闘士の力だ。本気で嫌がっていればヤコフの腕なんか簡単に振りほどけるに違いないのに、氷河は絶対にそうしない。離せよ、と暴れる身体を、やだね、とさらにヤコフは腕の中へと閉じこめる。
 戯れに紛れるようにして、ヤコフは、唇をそっとうなじへと滑らせた。
 まずいかな、逸脱かも、という思いが脳裏を掠めたが、蜂蜜色の髪に見え隠れする白いうなじの艶めかしさは抗いがたい魅力に溢れていて、滑らかな肌を食むように密やかに唇に挟んでみる。
 コラ、いいかげんに、と言いかけた氷河の身体が腕の中でピクリと反応した。
 食んだ肌をちゅ、と吸い上げると白く薄い皮膚には簡単に赤い徴が残る。不思議だ。色の白さだけならヤコフの方が白いほどなのに、この処女雪のような繊細さは彼の東洋の血のせいだろうか。
 もう一度、と上がるヤコフの熱を制するように、再び、こら、と突っ張られた腕が二度目の戯れは封じた。
 ヤコフとしては逃すつもりなく固く閉じていた腕の輪から、無理な力を込めたふうでもないのにするりと簡単に抜け出る氷河の身のこなしは紛れもなく戦士のそれで、そこにはやはり「守る者」と「守られる者」の目に見えない壁が存在しているのだった。

 何か飲むだろう?と立ち上がった背中で問うて、氷河はそのままキッチンの方角へと消えていく。
 逃げられちゃった、のかな。
 待ってよ、と手を引いて顏をのぞき込んでやれば、生娘の様に初心に薄らと頬を染めているのではないかという気がしたが、その逆に、何ごともなかったかのような顔で、怪訝に見返されるような気もして、ヤコフは深追いするのはやめた。
 好きだという気持ちを自覚したからには、当然の成り行きとして、気持ちを伝えたい、心を手に入れたい、という欲求が湧くものだ。
 だが、もう幼子ではない。心によぎった願望を何でも口にせぬだけの分別は備わっている。
 ここは氷河の帰る場所だから。
 迂闊に自分が気持ちを押し付けて、気まずい思いをさせる羽目になったなら、氷河には居場所がなくなってしまう。だから、この気持ちは安易に告げてはならないものなのだ。
 ……というのは建前で、本当は見えぬ壁に阻まれている現状に、今以上に踏み込んでゆく勇気がないだけなのかもしれなかった。
 氷河の帰る場所を失わせてはいけない、というのはもちろん本心だったが、それ以上に、対等でいることができない己の無力感に打ちひしがれる。隔てられた二人の距離は、己が七つも年下のせいか。それとも、彼を守るための力を何も持たぬせいか。せめて年下でさえなかったら、少しは何かが変わっていたに違いないのに、とヤコフはため息をつく。

 しばしの後、氷河は白い湯気の立つカップを二つ手に持って戻ってきた。
「ヤコフ……?適当にそこらへんに座っていればいいのに、何で立ったままなんだ?」
「……別に」
 近づいてくる氷河が差し出したカップの中身を確認したヤコフは不満げに鼻を鳴らす。
「俺、もうホットミルクなんて歳じゃないんですけど」
「変な奴だな。飲み物に年齢なんて関係あるのか?いいじゃないか。お前があんまり大量に持ってくるから一人じゃ飲みきれないんだ、早く始末しないと悪くなるだろ」
 なんだよ、俺は残飯係ってこと?とさらに頬を膨らませて拗ねてみせたが、ほら俺のもだ、とこちらへ軽く傾けた氷河のカップの中味も同じ白い色をしていて、一人だけ子ども扱いされたわけじゃないなら、とヤコフはしぶしぶカップを受け取った。
 ふうふうと、二人は湯気に煙りながらカップに口をつける。
 テーブルにもたれるようにして立っている青年の姿が湯気の向こうに揺れるのをヤコフはそっと見下ろした。
 いつ、体格が逆転したのか。
 ヤコフを見上げるアイスブルーの瞳はもうずいぶん前から彼よりずっと低い位置にあった。
 が、氷河がそれに気づいている様子はない。あるいは、気づいていても何とも思っていないだけか。
 遠く隔たれたかに見える二人の距離を少しは近いものにしてみたくて、それで彼を越した背を見せつけるようにわざわざ立ったまま待っていたというのに、変なヤツ、と笑われて、よりによってお子さまの象徴の飲み物を渡されてしまい、ヤコフは、ちぇ、と心の中で舌打ちをする。
「年齢制限のある飲み物だってあるじゃん。子どもはお断り、のやつ。どうせならそういうの出して欲しいなあ」
「飲酒運転(?)になるだろ。飲んでなくたってまともに乗れない橇に、酔っぱらいが乗れるわけない」
 氷河がまた思い出したようにくくっと肩を揺らす。まだその話題ひっぱる?とヤコフはますますぷぅっと頬を膨らませる。
「だったら、泊めてくれたっていいんですけど!」
「何言ってるんだ。お前が帰らなきゃみんなが心配するだろう?」
 電話など引いていない小屋だ。連絡手段などないに等しい。
 だからって、既に成人した年齢の人間が一晩帰って来なかったところで親が心配すると思われているなんて……わかってない。氷河は何にもわかってない。
 どこまでも子ども扱いする鈍感な氷河の前に、もう何度目かの「ちぇ」にヤコフは腐るしかない。
 拗ねた気持ちのまま口をつけたミルクはほんのり甘く、やけに懐かしい味が意外と美味しい、などと感じてしまったこともなんだかおもしろくなかった。
「俺さあ……氷河と一緒に暮らしちゃだめかな」
 独り言のようにポツリと漏らしたヤコフの言葉に、氷河は一瞬睫毛を伏せ、それからすぐに軽く否定の向きに首を振った。そのはずみでカップが揺れ、白い飛沫が僅かに床へと落ちる。
「どうしたんだ、ヤコフ。怒られでもして家に居づらいのか」
「ち、違うよ、子どもじゃあるまいし!……ただ、こうやって物資を届けるためだけに通って来るのも大変だし、だったらいっそ一緒に住んだって別にいいかと思って。ここからだって俺は仕事に通えるんだし」
「ああ……だからいつも言ってるじゃないか。物資の調達なら心配はいらない。一人分の食糧や燃料くらいなら俺が自分でなんとかできる。だからお前は、」
「違うって!」
 意図した方向と違う向きへと進んでしまう会話を、ヤコフは慌てて声を張り上げて遮った。
 駄目なんだ、氷河。
 そうやって俺との繋がりを切ったら。
 氷河は「普通」からますます遠ざかるじゃないか。
 俺はただ、傍にいて、バカみたいな話をたくさんして、もっともっと笑わせてやりたいだけなのに。戦いとか、使命とか、そんな血みどろの世界とは無縁の、くだらない話を、たくさん。
 氷河と同じ年の人なら当たり前に知っているに違いない世界を、ただ少しでも。
「氷河」
 ヤコフは手にしていたカップを傍らのテーブルへ置いた。そして、腕を伸ばして氷河の手首を掴む。世界を護っているはずの手は意外なほど細く、簡単にヤコフの手のひらの中に収まった。
 掴まれた手首に首を傾げ、おい、零れるからやめろ、と抵抗する氷河の手の中からカップを取り上げて、二つを同じように机の上へ並べた後は、背を抱くように氷河の身体を引き寄せた。
 ヤコフ、と咎めるような声は出しても、氷河からこれといった明確な拒絶はなく、細い身体はただ、戸惑う空気だけを纏わせてヤコフの腕の中へ収まっている。
「氷河……一緒に暮らそうよ。俺、ここであなたの帰りを待つよ」
 氷河は困った顔でヤコフを見上げる。
「駄目だ、ヤコフ。家族は離れて暮らすべきじゃない」
「氷河が俺の家族だよ」
「何言ってるんだ、ヤコフ。お前だって人並みに結婚したりしないといけないだろう。普通だったら、そろそろ所帯を持ってたっておかしくないんじゃないのか」
 氷河の口から語られる家族の話はヤコフには重い。その「普通」を自分は手離しているくせに。
「結婚なんてしないよ」
 ヤコフの小さな呟きを拾って、氷河の瞳が笑いを帯びて細められる。
「さてはお前もてないな?しないんじゃなくてできないんだろう?」
「なっ……!違うって!俺、めちゃくちゃモテるんだから!毎日毎日、デートの申し込み全部断って、氷河のところに通って来るの、すっごく大変なんだから!」
「そうなのか?だったら本気で俺に構っている場合じゃない。こんな生活を続けていたら嫁の来てがなくなるぞ。次に誘われたら断らずにそっちに行け」
 あーっそうじゃないのに、とヤコフは髪を掻き毟った。人の気も知らず、挑発的にからかかう氷河を見返してやりたくて、つい、話を多少盛ったのが悪かったのか。(もてるのは嘘じゃない!何度か誘われた、程度だけど)
 それほど氷河の方が大切なのだ、ということが言いたかっただけなのに。
 長年の付き合いだ。まるで噛み合わないやり取りはもう慣れっこだが、それでも、珍しく艶っぽい(?)方向にうまく運べた会話に背を押され、一世一代の大勝負、ヤコフなりの告白のつもりで勇気を振り絞ったというのに、まるきり土俵にも上がらせてもらえない結果に心が折れる。
 氷河の肩口に力なく顏を伏せたヤコフの背を、氷河が慰めるように撫でる。
「大丈夫。自信を持て。お前はいい男だ。料理も上手いし、面倒見もいい」
 褒められるポイントそこか……ていうか、やっぱりモテない男だと思われて慰められてるのか……と、明後日な氷河のフォローに、ヤコフはほとんど氷河の肩に額をめり込ませんばかりに項垂れた。
「いっそのこと俺、氷河のお嫁さんになっちゃおうかな」
 立ち位置は何だっていい、氷河の傍にいられるなら。そんな健気な思いで発したヤコフの言葉に、氷河は目を丸くさせた後、盛大に吹き出し、肩を震わせて笑い始めた。
「おまっ……くっくくくっ……俺の嫁ってお前っ……そこまでモテなくて困ってるのか……っ」
「困ってないってば!」
 もう!とついにヤコフは不貞腐れて、抱いた氷河の背を離した。解放された氷河は、テーブルに腕をついて笑い転げている。
 そこまで笑うようなこと?今だって、氷河の身の回りの世話をして、料理を作ってやって、ハラハラしながら帰りを待って……夫だか妻だかわかんないけど、世の家族と何も変わりはないじゃないか。
 だったらいっそ、本当に氷河の家族を名乗れたらって思って何がおかしい?俺は、ものすごく大真面目に言ったのに。
 牽制球で様子を見ただけのつもりが、これでは勝負に出る前から力いっぱいアウトを告げられたようなものだ。惨敗に次ぐ惨敗。結果がわかっていて本気で好きなんだなんて言えるわけがない。
 すっかりと意気消沈したヤコフは、せめてもの反撃に、と不機嫌に肩を揺らしてみせる。
「笑ってるけどさ、氷河。自分はどうなのさ。俺を笑えるほどモテるわけ?恋人とかいたことあるの?キスなんてしたことある?」
 ピタリと氷河の笑いがやむ。
 何故か薄ら耳を赤らめながら、氷河はええと、と視線をうろうろさせた。
「……まあ、その、それは……アレだ。普通だ。……えー……と、ほ、ほら、あいつらがいる!主人がいなくても俺のとこまで来たじゃないか。そ、相当モテてる、と、言って言えなくも……ない……?」
 彷徨う氷河の視線は最終的に小屋の隅で寝そべる犬の上で止まったのだった。微妙にごまかされた。キスしたことがあるかどうか、なんて、そんな単純なことすら、自分は打ち明けてはもらえないのだ。
 胸に差した痛みは隠してヤコフは笑う。
「犬じゃないか、氷河、しかもあいつらみんな雄犬だよ……!」
 さすがに自分でもあんまりだと思ったのか、薄く色づいていた氷河の耳はみるみるうちに真っ赤に染まり、氷河はヤコフに顏を背けるようにして、逃げるように犬たちのスペースまで歩み寄った。尻尾を振って立ち上がり、我も我もとすり寄る毛並みを順繰りに撫でてやりながら、氷河はチラリとヤコフを振り返った。
「でも、その犬にすら嫌われたお前よりはマシだと思う」
「嫌われてないって。ただ、置いて行かれただけで」
「どう違うんだ?」
 氷河がまた、ふはっと息を吐いて笑う。ブロンドに見え隠れする耳はまだ赤い。たいして上手でもないごまかしだったけど、その力の抜けた穏やかな笑いに免じて深追いはしないでいてあげることにする。
 聖闘士ではない俺は、きっと、氷河が背負ったものを本当の意味で共感することも理解することもできないのだろう。共に歩くことも、家族になることも、支え合うこともできない。甘苦しく疼くこの気持ちはいつまでも昇華されることはきっとない。
 でも、いいんだ。俺の想いは届かなくたって。柔らかく笑う氷河に、負け惜しみなんかじゃなくそう思う。
 違う世界に生きる俺だけど。
 自分が護っている世界にどれほど穏やかで優しい時間が流れているかを知る、そんな指標にくらいは俺はなれるかもしれない。だから、これでいいんだ。
 ヤコフの中で何かが一つ終わりを告げたその瞬間も、氷河はまだ犬の毛並みに頬を埋めて笑っていた。

**

 橇から下ろした積み荷を部屋の隅へと運ぶのを手伝い、犬たちの体力が回復したのを確認して、じゃあまた来るね、とヤコフは重い腰を上げた。泊まるわけではないなら日が高いうちに出発しなければ、シベリアの夕闇の下りる早さは慣れていても危険だ。
「帰りは振り落とされないようにな」
 やっぱり最後まで笑われたが、もうさほど気にならなかった。笑われたのだろうが、笑わせたのだろうがそんなことはこの氷河の笑顔の前では些末な問題だ。
「ヤコフ」
 コートを着込み、手袋にゴーグルに、と防寒装備を整えていくヤコフを手伝ってマフラーを巻いてやりながら何気ない調子で氷河が言う。
「早くお前の子を抱いてみたい」
 額の上のゴーグルを下ろそうと手をかけていたヤコフは盛大に吹き出した。動揺のあまり声が裏返る。
「……な、なななななにそのプロポーズ……!?去り際に反則なんですけど!?」
「?……プ……???……!ば、ばかかお前はっ!!」
 真っ赤になった氷河はヤコフの肩を拳で叩く。
 聖闘士の拳を受けて、痛い、と涙目になったものの、折角決別しかけた気持ちを瞬時に引き戻されて、ヤコフは諦めきれずに氷河にずいっと近寄る。
「いやっ、だって俺の子が欲しいって……!それって氷河が産んでくれるとか、」
「誰が欲しいと言った、誰が!男同士だぞ、俺たちは!産めるわけがない!お前が早く所帯を持てばいいなって思っただけだ、俺は!」
「ええーーっ、だって普通そのセリフって『あなたの子種が欲しいわ』とかそういう意味で……」
 なんてこと言うんだこのばか、と氷河はこれ以上赤くなれないほど赤くなってヤコフの肩を押す。
 さらには、お前、ホントに見合い相手でも探した方がいいって、と真剣な顔で心配されるに至って、さすがにヤコフも、やっぱだめかと諦めをつけた。
「……俺の子、見たいの?氷河」
「俺は産めんぞ。……お前もだ」
「知ってるよーだ。ついでに言うと、どうやって子を作るかもちゃあんと知って、」
 余計なことは言わなくていい、と氷河が赤い顔でヤコフの口を押さえる。
「今、そこに立ったお前を見ていたら親父さんにあんまりそっくりだったから……お前が小さかった頃を思い出したんだ。お前もいつか父親になるのかと思ったらつい、な。俺が子を持つことはないだろうから……お前の子を代わりに見てみたい、と思っただけだ。変な意味じゃないしお前にその気がないなら強制する気もない」
 せっかく冗談で笑って別れたかったのに、氷河の口からずいぶん切ない言い訳が漏れて、ヤコフは泣きたくなった。
 俺が幸せだったら氷河、嬉しい?
 俺にいっぱいいっぱい家族が増えたら、氷河も一緒に笑ってくれる?
「ヤコフ、ばあちゃんが生きてるうちに孝行してやれよ」
 すっかりと雪装備の整ったヤコフの背を抱いて、氷河がとんとんとその背を柔らかく叩く。
「……氷河に言われたかないやい。ばあちゃんは氷河のことだって孫みたいだっていつも言ってるんだから。あんまり引き籠ってないでたまにはうちにも顔を見せに来てよね。ばあちゃん孝行だと思ってさ」
 傷だらけの体を見せたくなくて氷河が会いに来ないのは知っている。それでも、ヤコフはそう言う。
 うん、とずいぶん遅れて返事があった。

 犬たちが雪の中で、とんとんと地面を蹴るような仕草を見せた。
 走りたくて仕方がないのだ。
 コイツら、ほんとに帰りは大丈夫なんだろな。
 一抹の不安を抱えてヤコフは橇へと向かう。
「後でお前が落ちていないか、確認に行ってやるから」と氷河が笑う。
 切ないまま別れずにすんで、ヤコフはことさらおどけるように肩を竦める。
「じゃね、氷河。ちゃんとご飯食べなよ」
 別れの挨拶にヤコフは氷河の頬にキスをする。ああ、とヤコフの頬にも氷河はキスを返す。
 二人の間に距離がなくなった瞬間、ほんのりと誘うようにミルクの香りが漂って、思わずヤコフは氷河の唇を見た。
「……どうかしたのか?」
 橇に乗り込む途中で動きを止めてしまった青年を青い瞳が怪訝に見返した。
「氷河……」
 ヤコフは下げていたゴーグルを再び額の上へ上げた。薄着のまま雪の中へ立つ氷河の腕を掴んでゆっくりと引き寄せる。
 怪訝な顔をしたままヤコフに引き寄せられるに任せている身体を包み込むように抱いて、ヤコフは自分よりも低い位置にある氷河の額へ唇を押し当てた。そのまま、瞼、頬、鼻の頭、と辿って下りる。
 最後に唇へも。
 初めて触れる肉付きの薄い唇は意外なほど柔らかく、その感触を確かめるように、ちゅ、と軽く吸って……、そこで離れるつもりが、刹那、積年の想いが堪え兼ねたように爆発し後は夢中で舌を挿し入れた。
 混じり合う仄かなミルクの味が、甘く魂を震わせる。
 どくどくと激しく脈打つ鼓動が、その甘さに拍車をかけ、急上昇した熱がさらなる刺激を求めて鼓動はいや増した。抵抗されたならきっと我を失ってさらに逸脱しただろう。
 だが、ヤコフが強く掻き抱いた身体はまるで無抵抗だった。長い睫毛が驚いたように何度か瞬くのをヤコフは自分の頬の上で感じていた。
「……ヤコフ」
 戸惑うような声が唇の合わせ目から漏れたことで、ヤコフはハッと我に返って身体を離した。
「さ、さよならのキスだってば!」
 挨拶にしてはずいぶん感情が乗ってしまったことは隠しようもなく、雪の中に気まずい沈黙が下りる。
 違う。これでは氷河を困らせてしまう。
 咄嗟にヤコフは言い換えた。
「れ、練習!いつか、恋人ができた時のために!」
「……俺で練習するな」
 氷河の空気が固い。困ってる───怒ってる?
 慌ててヤコフはさらに重ねる。
「ど、どうだった?うまい?俺」
「うまいかどうか知らないが……最初のデートで舌は入れるな」
「あ、何、その経験豊富です、みたいな返事」
「……け、経験はなくともそのくらいは知っている」
「ないんだ、経験……」
「!そ、ういうわけでは……!」
 いつもの軽い調子にうまく軌道修正した会話にヤコフは駄目押しとばかりに続けた。
「なんなら子を作る練習もさせてくれる?」
「お前と言うやつは……!」
 いいかげんに早く帰れ、とすっかり笑って背を叩く氷河に、わかってますよーだ、とヤコフはその表情を隠すようにゴーグルを下ろした。
 今度こそ本当に橇に乗り込んで、ヤコフは氷河へ向かって片手を上げる。
 行け、と力強く手綱を握れば、犬たちは、今度は一糸乱れぬ動きで雪を蹴った。
 流れる景色に、手を振る氷河の姿がぐんぐんと遠くなり、あっという間に視界から消える。でも、きっと、まだその顔は笑っているに違いない。

 いつか。
 いつか、氷河に俺の新しい家族を紹介できる日がくればいい。
 氷河が護っている世界で生まれた新しい命を、あのとても寂しがり屋で優しい腕の中に。

 だから、あれは本当にサヨナラのキスだ。
 あんなふうに触れるのは最初で最後。
 長かった初恋に俺は今日別れを告げた。

 ヤコフは、よーし、と前を向く。
 速いスピードで流れていく景色がほんの少しだけじわりと涙で滲んで揺れた。

(fin)

(2013年10月パラ銀16発行氷河受アンソロ「甘」より再録)