寒いところで待ちぼうけ

短編:ミロ


Ωで聖闘士ファイトが出た頃に書いたネタ
(Ω設定:新米青銅聖闘士はパライストラという学園で学んでいます。全寮制で二人部屋。

基本カプはミロ氷の学パロです。

性表現あります。18歳未満の方、閲覧をご遠慮ください。

◆あまのじゃく◆

 空は青く晴れ渡り、空気は爽やか。
 円い闘技場を取り巻く木々は青々と茂り、闘技場の土を蹴って駆けている伸びやかな少年たちの肢体はその碧を映して輝かんばかり。
 飛び散る汗。短パンからすらりと伸びた白い太腿。
 少年たちをぐるりと見下ろすように取り巻く観衆の視線はぎらぎらと、もとい、勝負の行方を見守る熱気で力が入っていた。


 聖闘士ファイト。
 新米青銅聖闘士達の教育施設であるパライストラで行われている恒例行事である。
 後の時代には、実戦を想定し、フィールドにおけるサバイバル要素を加味した、過酷な試練となっていく行事ではあるが、この時代ではまだそれは年に一度の娯楽的な意味合いが大きく、とどのつまりは『運動会』と同義でしかない。競技の内容も『運動会』らしくパン食い競争だとか二人三脚だとか、馴染みの呑気な種目ばかり。
 とは言え、競技者は皆、聖闘士だ。
 競技種目の呑気な響きとずいぶん違う激しい光景が繰り広げられる。音速の100m走、小宇宙燃焼しての騎馬戦、うっかり異次元に飛ばされることもある綱引き……あとは推して知るべし。
 娯楽とは言え、単なる親睦で終わらない真剣さは、優勝者には『一人部屋へ移る権利』が与えられるがゆえだ。
 うなぎの寝床のような狭っくるしい二人部屋に押し込められて、少年たちのフラストレーションは高まる一方。
 青銅聖闘士になってこれでやっと一人前になったと胸を張ったのも束の間、あれよあれよと言う間に入寮させられて、集団生活の中、一からまた聖闘士のなんたるかを叩き込まれているのだ。これでフラストレーションが溜まらない方がおかしい。
 同室相手が気の合う存在ならそれなりに寮生活を歳相応に楽しめるのかもしれないが、しかし、それとて24時間、365日起居を共にするとあれば、まあその、お年頃の少年達、色々と不都合がその。
 気が合う相手でさえそれだ、気が合わない者と同室になった日には朝から晩まで剣突とそりゃあもうイライラは募る。
 だから、観る者(この日ばかりは雑兵も黄金聖闘士も関係なく盛り上がる)にとっては年に一度の娯楽であっても、参加している青銅聖闘士達にとっては、重大問題。
 私闘が禁じられている彼らにとって、これは向こう一年間の天国地獄が決する真剣勝負の場なのだ。

**

 くそ、あいつか……。
 得点板を見上げて氷河は、ビスクドールのように整った相貌を盛大に歪めた。
 己の得点は僅差ながら頂点から後れを取っている。
 頂点の位置にいる男の名を、まるでその名自体が氷河を嗤ったかのように忌々しげに見上げて、氷河は首を振った。
 聖闘士ファイトは残すところあと一競技。だが、挽回できぬ点差ではない。
 最後一つの競技は借り物競争。
 実力よりも運に左右されることが大きい競技である。
 誰が作っているのか、最終競技に相応しい難カードが毎年用意されていて、借り物には『四度死んだ男』だの『脱皮したことがある人』だの絶対にありえないような言葉が躍ることもあると聞く。
 が。
 この勝負もらったな、と氷河はフッと口元を綻ばせた。
 運には実は自信がある。
 かつて修行地を決めるためのくじで、まさかの出身地を引き当てるというミラクルを成し遂げたことがある。何の根拠もなく、今回も同じミラクルが起こるような気がして競技場へ向かう足取りは軽やかだ。
 そんな氷河へ向かって後ろから追い越しざまに、現在暫定一位の男がふん、と鼻を鳴らす。
「負けを悟って気楽になったか?」
「誰が。負けるのはお前だ、一輝」
 この忌々しい男が氷河の同室相手なのである。
 もちろん(?)気が合うとは言い難い。犬猿の仲、というのともまた少し違う、何かにつけ互いに意識せずにはいられない、同じ空間にいるだけで言葉にできないピリピリとした緊張感が走る、氷河にとってはどうにも苦手な男だ。
「俺に勝つつもりか?潔く負けを認めて勝負を下りた方が恥をかかずにすむだろうにな」
「今のところ五分と五分だ。負けてはいない」
「正確に言え。俺の51勝49敗だろ」
「数字に細かい男はモテんぞ、一輝」
「数を数えられないバカよりはモテる」
 年中この調子で言い争いの絶えないこの男とあと一年間も同室など絶対にごめんだ。
 一輝が優勝して一人部屋権を手に入れた場合であっても、同室は免れるわけだが、どうせなら己が勝って意気揚々とおさらばしたい。負け犬として取り残されるのは腹が煮える。
 絶対にコイツにだけは勝つ、と氷河はしっかりと鉢巻を締め直す。
 その背後で、僕たちも一応いるんですけど、と瞬が苦笑いをする。
 結局似たもの同士なんだ(断じて違う!)、好きにやらせとけば、と星矢が言う声に、二人が互いにつぶし合ってくれれば俺達は漁夫の利だ、と笑う紫龍の声が氷河の背を追いかける。


 土埃舞うフィールドに立って、氷河はチラリと観客席の方向に目をやった。
 鮮やかな赤毛が真っ先に氷河の目を惹く。
 指導教官のカミュだ。
 わたしの愛弟子が負けるはずがない、と涼しい顔で座っているように見えるが、目が全然笑っていない。顎に軽く当てているように見える拳の指の節が白く色を失っていて、相当に力が込められているのが遠目にもはっきりと見える。
 だが、その光景は氷河を鼓舞こそすれ、萎縮させるものではない。
 この世で一番敬愛するカミュに期待されていると思えば、一輝との確執は抜きにしても頑張らないわけにはいかない。

 よし、と拳を握った氷河はそのまま反対側の観客席へ視線を滑らせて……ドキリとその心臓を跳ねさせた。
 日の光に反射するオレンジがかった金色の豪奢な巻き毛。
 ブロンド率の高い学園であるというのに、それは、氷河の視界でひときわ存在を主張する。
 彼もまた指導教官のひとりだ。
 だが、『教師』と他の教官と一括りに扱うにはあまりにも……
 数日前にからかうように耳元を撫でた低音が甦る。
「坊やが一人部屋になればもっと」
 もっと、どうだというのか、その声は笑って先を続けなかった。
 放課後の木陰で。
 誰もいない教室で。
 誰にも言えない秘密めいた関係は背徳的なものだと知っている。
 氷河の視線に気づいたのか、ニッと口角を上げた彼の指が動いて、唇に人差し指が当てられた。
 カッと氷河の頬が熱くなる。
 違う、これではその不純な動機のためにがんばっているみたいだ。
 俺はそんなつもりでは。
 別に逢引きのための場所など俺は必要としていない。あれは彼が強引に構ってくるだけで。俺は。俺は別に。


 動揺で乱れた呼吸を氷河は深く息を吸いこんで整えた。
 ままよ。
 後であのひとに「俺のために頑張ったのか」とどれほどからかわれることになろうとも、我が師の前で手は抜けない。
 スタートラインに横一線に並んだライバルたちも皆、前を見据えてごくごく真剣な表情だ。
 雑念を置いておいても彼らには負けたくない。
 実力を互いに認め合うからこその強い思いだ。
 氷河は二度三度と肩をぐるぐると回した。
 それを合図としたかのように、号砲係が位置について、と促してみせる。
「よーい、」
 パァン、という乾いた破裂音を合図に氷河は土を蹴って飛び出した。
 ほとんど一瞬で全員一斉に数十メートル先に並べられたカードへと到達する。人数分以上に並べられたカードから、それぞれ、これだ、という一枚を選んで取り上げる。二つ折りにされたカードを開いてそこに書いてある文字を一瞬で読む。
 読んでからが勝負の分かれ目だが。
 読んで───氷河はしばし固まった。
 文字の意味を咀嚼するようにもう一度上から下に視線を流す。今年は特別難問揃いなのか、両横に並んだ気配も同じように困惑してどの方角に動き出せばいいのか迷っている。
 が。
 目の端で一輝が動いたのが見えた。
 これ以上迷っている暇はない。
 一瞬の遅れが命取り。
 くそっ。
 考えて、というよりほとんど無意識に身体が動いていた。
 くるりと観客席の方へ身体を傾けて、氷河は叫んだ。
「ミロ!」
 突然に名を呼ばれて驚くことも躊躇うこともなく、鮮やかな身のこなしでひらりと観客席からフィールドに飛び下りた彼の元へ駈け寄って、その逞しい二の腕を夢中で掴む。
 星矢はまだカードを前に迷い、瞬と紫龍は観客席を通り抜けてどこかへと向かっている。
 一輝は?
 ───いた。
 一輝は逆サイドの観客席へ飛び込んで同じく指導教官のシャカの腕を掴んだところだ。
 実質、勝負は彼との一騎打ちになったようなものだ。
 のぞむところ。
 だが、ゴールへの位置は一輝の方が近い。
 だめか!?
 焦りから足がもつれる。
 が、どうやらシャカは「背負いたまえ」などと一輝に命令しているようだ。
『借り物』が協力的な分こちらが有利だ。
 白いゴールテープを目指して氷河は駆ける。
 最後の直線、シャカを背負った一輝と、ミロの腕を掴んだ氷河が並んだ。
「くっ……氷河、お前には……負けん!」
 背中に負荷をかけられて額に汗を滲ませた一輝が短く吼える。
 こっちこそ、と言い返そうとしたのだが、なぜか応えたのは氷河ではなくミロだった。
「フッ。甘いなフェニックス。貴様に先頭は譲るわけにはいかない」
「!?『借り物』が何を……っ!?」
「『借り物』が自発的に走ってはいけないというルールはない。ここまでよく健闘した。そこだけは褒めてやろう」
 言って、ミロは逆に氷河の腕を掴み返した。
 な!?と驚く氷河の身体がぐん、と前に加速する。真横にいたはずの一輝の姿はもうはるか後方。
 流れる景色に息もできない。
 足は地面を蹴っているというより、空を泳いでいるようだ。
 あれよあれよと言う間に近付いてきた、白いゴールテープに二人の身体が飛び込む。
「一位、キグナス氷河!」
 アナウンスが響き、よし、と拳を握ったミロの身体にもつれるようにぶつかって、ようやく氷河の足が久しぶりに地面についた。
「……な、なんてひとだ……こんな…」
 黄金聖闘士だ。
 しかも指導教官。
 ルールに書いていないとは言え、青銅聖闘士同士の戦いに反則すれすれのような───?
 はあっはあっと激しく肩で息を整えながら、きつい瞳でミロを睨みつければ、ミロは彼にしては珍しく気まずそうに頭をかいていた。
「あー……すまん。つい本気になった。見ているだけというのは性に合わんのだ」
 叱られた小犬のように視線を逸らせて、歯切れ悪く紡ぐ言葉は嘘には見えない。
 そこまでして俺を勝たせようとするなんて(不正で手に入れた一人部屋などいるものか!)、という怒りは、めったに見られないミロの殊勝な姿に一瞬で霧散した。
 代わりに、勝負の主体が誰なのか忘れてしまうほど熱くなるなんて、と呆れた息をひとつつけば、すまん、とミロはもう一度肩をすくめてみせた。
 いつも自信に満ち溢れていて、強引に氷河を翻弄する癖に、時折こういう子どもっぽい一面をのぞかせる。
 困ったひとだ。
 先にそんな顏をされてしまっては怒るものも怒れない。
(彼はもしかしたらそこまで計算してそんな態度を取ってみせたのかもしれないが、計算だろうが天然だろうが氷河が怒れないことには変わりがない)
 脱力したように氷河はその場へ座り込む。
 力の限り駆けて、全身の筋肉が悲鳴を上げている。
 遅れてゴールに到着した一輝も同じようにへたりこんで、背中へ乗せた「借り物」を乱暴に地面に転がしていた。
 とにもかくにも一輝に勝った。
 なら、まあ、いいか。
 一輝の悔しげな表情を確認して、ようやく氷河の口元に笑みが浮かぶ。
 観客席の方へ目をやれば、カミュがよくやった、と満足げに頷いていた。(最後は実力だけで、と言い難い状況だったことはこの際問われなさそうで少々ホッとした)

 氷河のそばへミロが膝をつく。
「君が優勝だな」
 短く、事実を確認しただけの言葉に、「一人部屋」が思い出されて、運動をしたことによる火照りと違うものが身体を熱くする。
 氷河のこめかみを流れる汗をミロの指が掬い取った。
「ずいぶん必死に走ったな。だから俺もついつられた」
「……あいつに負けたくなかっただけで、別に俺は……」
 赤くなって言葉を詰まらせる氷河に、近づいてきたミロの唇が耳元で低く囁く。
「俺の名を呼んでくれたのは嬉しいが……人前で呼ぶ時は『教官』をつけるのを忘れないように」
「!」
 な?と肩に回された手は、傍目に見れば指導教官が生徒のがんばりを労わっているように見えただろう。だが、二人が共有する空間には密やかで淫靡な空気が薄く膜を張っていた。
 ぐるりと周囲を取り囲む、健闘を讃えるための歓声が今は居心地の悪さに拍車をかける。
 自分自身、纏わりつく薄膜の存在を意識せずにはいられないのだ。注視している観客の一人や二人、どうしてその存在に気づかぬと言えよう。
 こんなところで触るな、と氷河は強くミロの手を振り払った。
 ちょうどそこへ、係員が、氷河が手に持ったままだった『借り物カード』を回収に近付いてきた。感じていた居心地の悪さに救い手が現れて、氷河は急いでそれを押し付けるように手渡した。
 係員はそれを受け取り、何気なくそこへ書かれた文字を一読して───氷河の顔とミロの顏を順繰りに見た。
 怪訝な視線を感じて、氷河はサッと視線を逸らせる。
 何だよ、早く向こうへ行けよ……!
 もう勝負はついてすんだだろ。後は表彰セレモニーを終わらせて、晴れて一人部屋の鍵をもらって、そしたらもう誰とも顏を合わせなくて済む。
 この居たたまれなさと気恥ずかしさから今すぐ逃げたい。
 早く一人になりたい。
 頼むから───

 氷河の祈るような気持ちをよそに、その係員は思案気な顔で何度も何度も文字を読み直している。
 そして、くるりと踵を返したかと思うと、おもむろに審判席へと近づいて、審判長へと何ごとか訴え始めた。
 既に嫌な予感がしている氷河は真っ青だ。
 ミロが怪訝な表情となってゆっくりと立ち上がった。
「何かあったのか?そういえば何故『俺』だったんだ?何て書いてあったのかまだ聞いていないな」
 ぐぅっと氷河は喉を締められたような音を出した。
 明後日の方角を向いて吐き捨てるように言う。
「『この世で一番迷惑な人』って書いていたんだ」
「ほう。それで俺か?生意気な坊やだ」
 くっくっく、とミロは金色の髪をかき上げながら喉奥で笑った。
 氷河は笑う気分ではない。
 胃のあたりに鉛を流し込まれたような最悪の気分で、どうやって逃げるか、そのことばかりを考えていた。

 と、その時、ガガッと耳障りな音と共に場内アナウンスのスイッチが入った。
「えー……本来ならばこの後優勝者の表彰式に移るところですが、その前にただ今行われました最終競技に関して、疑義が生じましたので審議を差し挟みたいと思います」
 ざわざわざわ。
 観客席にどよめきが走る。
 氷河はもう貧血を起こす寸前だ。
 超絶に嫌な予感しかしない。
 誰だ、運には自信があるとか言った奴は。(俺だ)
 俺は多分考えうる最悪のカードを引いた。『脱皮した人』の方がきっと何万倍もナシだった。
 アナウンスは無情にも続く。
「最終競技で一位となったキグナス氷河に問います。あなたの『借り物』は隣に立っている人物で間違いないですか?」
 だらだらだら。
 冷や汗が滝のように流れて背中が冷たい。
 審議はいい。
 審議はいいとして、審判席に呼んでこっそり聞いてくれればいいのにどうしてこんな公開処刑のような。
 観客席は一体何ごとかと静まり返っている。
 静寂から逃げるように、氷河は俯いたまま、声なく頷いた。
 それだけで、意識を失いそうなほどの羞恥に苛まれたというのに、それを受けた審判長の目がきらりと光る。
「しかしあなたは常日頃、その人物のことを『大嫌いだ』と公言して憚らないという証言があるのですが」
 だらだらだらだら。
「今しがた健闘を讃えようとしていた彼の手を振り払った、とも」
 だらだらだらだらだら。
「しかもあなたは彼を呼び捨てましたね?ここでは教官には敬称を必ずつける決まりですが?敬称をつけるに値しないほど彼との間に確執が?」
 だらだらだらだらだらだら。
 肯定しても否定しても自分の首が締まる。
 何を言っているのかわからない、と言いたげに苛立ったミロが一歩足を踏み出す。
「おい、氷河が俺を嫌っているとして何の問題がある。生徒が教官を嫌ってはいけない決まりでもあるのか?くだらん言いがかりをつけて勝負を覆そうとするやり方は気に入らないな」
 氷河を庇うための言葉だったのかもしれないが、今は黙っていて欲しかった。
 ミロへ向けて、審判長が、氷河の引いたカードを掲げた気配がした。
 詰め寄ろうとしていたミロの足の動きが止まる。
「ここには『一番大好きなひと』とありますが。これでも審議は必要ないと?」
 しーん。
 観客席の全視線が氷河に集まっている。
 水を打ったような静けさが氷河を苛む。このまま地面の土と同化して融けてしまいたい。
 カミュも。
 一輝も。
 何より───ミロが。
 氷河の答えを待って、静かに視線を注いでいる。

「さあ、重大なことですから偽らずに答えてください。あなたは勝負に勝つために『大嫌いな』指導教官の力を利用した?ルールの隙をついて黄金聖闘士の力を借りようと?それとも、真実は違うところにあると弁明をしますか?」

 選択肢は二つに一つ。
 勝ちに拘るあまり卑怯にも重大な不正を働いたのだと認めるか。さもなくば、恥じることなど何一つないのだ、と。そこに書いてある言葉通りに自分はミロを───

「俺……俺は……」

**

「やっと見つけたぞ。こんなところにいたのか」
 坊や、とひどく優しげな低音に、ぎくり、と膝を抱えて座り込んでいた身体が強張る。
 すっかりと日が暮れ、ひたひたと闇の漂う体育倉庫裏。
 寮に戻る気にもなれず、ほかに逃げ場もなくて、誰も来そうにない場所を探して探してそこへ流れ着いたのだ。
 壁に背をもたれて膝を抱えて俯いて。どれだけの時間をそうやって過ごしたかわからない。
「こんな格好のままで……身体が冷えているじゃないか」
 Tシャツに短パン。鉢巻すらまだ手に持ったままだ。
 剥き出しのままの氷河の足や腕を手の甲で触れ、ミロは己の羽織って来ていた上着を氷河の肩へとかけた。
 両膝の間に顏を埋めたまま氷河は顏を上げない。
 ミロの香りがふわりと漂って、一瞬、身体が内側から熱を上げたことにまた自己嫌悪だ。
 ひとまわり大きな体躯が氷河の隣へと腰を下ろして、その手のひらが氷河の髪を梳いて撫でる。
「……あなたのせいだからな」
「そうだな。俺のせいだ」
 昇華しきれない負の感情を八つ当たりでミロにぶつけたのに、あっさりと受け止められてしまい、後に続けるはずだった言葉は行き先を失う。
 本当はミロのせいだとは思っていない。
 あんな事態を招いたのは、結局のところうまく立ち回れなかった自分だ。自己嫌悪で消えたくなる。
「……あなたのせいだ」
「ああ。俺が全部悪い」
 言葉のみつからない居たたまれなさに、仕方なく、もう一度同じ言葉を重ねても、帰って来た答えもまた同じ。
 長い沈黙が落ちる。
 風が木立を揺する音を気が遠くなるほど数え、ようやく氷河はおずおずと口を開いた。
「……あの……カミュ先生は……」
「顔を合わせていないからわからないが、ご機嫌麗しく、というわけにはいかないだろうな。でもまあアイツは君には甘いから大丈夫だろう。俺は当分口をきいてもらえそうにないが」
 叱られるのが怖いわけではない。
 いっそお前のような愚か者の顔など金輪際見たくないと断罪されたいほどだ。
 俯いて唇を噛んだ氷河の頭をミロの手がやや乱暴に小突く。
「馬鹿だな、君は。最初からカミュにしておけば話は簡単だったろうに」
 全くだ。
 なぜ、俺はそうしなかったのか。
 自分の愚かさに気が遠くなる。
 多分、『一番大好きな教官』と書かれていたならば迷わずカミュの元へ駈け寄って腕を取ったはずだ。誰も疑義を差し挟む余地もなかったに違いない。
 咄嗟のこととは言え、話をややこしくしたのは自分だ。

『ミロ教官、を選べば勝てる、と思ったので』

 悲鳴と怒号渦巻く中、氷河の失格が告げられる瞬間、ミロがどんな表情をしたのかはわからない。
 よくよく考えれば、氷河の答えはミロを『青銅聖闘士にみすみす利用された』という不名誉な立場に追いやるものだったはずだ。
 自分が卑怯者呼ばわりされて後ろ指をさされるだけならいい。浅はかなその答えはカミュにもミロにも迷惑をかけたのだ。

 唇を噛んで、瞼の裏へせり上がる涙を堪える氷河を、ふふっと、空気を震わせる笑い声が包む。
 おいで、とミロが氷河の方へ腕を伸ばす。いやだ、と氷河は首を振る。
「もう誰も見ていやしない。二人きりだ」
 何を恥ずかしがる、とミロは言うが、そうじゃない。自己嫌悪でとうてい顔を上げる気になれないだけだ。
 だが、そんなずぶずぶに沈んだ心ごと、ミロの腕は氷河の身体を抱き上げて己の膝へと乗せる。向き合うように抱き上げられた身体をミロの腕が抱き締める。
 明かりはない。
 ほとんど何も見えぬ中、ミロの額がそっと氷河のそれへ当てられた。ほんのりと男の汗が香る。
 カミュに顔を合わせていないと言った。何でもない調子でふらりと現れたように見えたが、もしかしたらもっとずっと必死に氷河を探していたのかもしれなかった。

「俺は、君に手を出すべきではなかったな」
 ただでさえ苦しい胸の内に、ずん、と重いものが落ちた。
「今更どうして……」
「本当に今更、だ。全く、堪え性がなかったとしか言いようがない。誰かさんみたいに君が大人になるのを待つ、なんて悠長なことできそうになかった。……俺もずいぶん子どもだな」
 自嘲的に笑うミロの姿が痛くて仕方がない。やめろよ、と氷河はミロの頭を抱くように腕を回した。
「今更そんなこと言われても困る……」
 後先考えずに咄嗟にミロを呼んでしまったほど、感情が大きく大きく育ってしまったというのに。
 やっぱり、間違いだった、とか、そんなのはあんまりだ。
「あんな風に坊やを窮地に立たせて、さすがに少々堪えた。本当に悪かった」
「困ってなんかいない。あれは、俺が勝手に……あなたは悪くない」
 ついさっきまであなたのせいだ、と拗ねていたくせに、必死でそう訴えて首を振る氷河に、ミロは苦笑して、その髪を撫でた。
「いや、そうじゃない。相手があのフェニックスでなければ、俺ももっとうまく立ち回った」
「……?」
 なぜここで突然一輝が?と氷河は怪訝にミロを見返した。
 光源がなく、暗い双眸にはどんな色が乗っているのか、いつもにまして読めない。ミロの腕の輪がきゅっと縮められて息が苦しい。
「君をあの男のそばに置いておきたくなかった。だから、俺はつい我を忘れてむきになったんだ。そのことが結果的に君を不利な立場に追いやった」
「でも、一輝とは別になんでも……」
「今は、な」
 今どころか、この先もずっと同じだ。ミロは何を言っているのだろう、と氷河は笑った。
「変な感じだ。あなたでもそんなことを思うこともあるんだ。意外だ」
「君は危なっかしいからな。放っておくとすぐに横から攫われてしまう」
「あんな奴、ただの喧嘩相手だ。それ以上のものは何もない。お互い嫌い合ってるくらいだ」
「そうか。ならいいが。……君の『嫌い』は当てにならないことを知っているもんでな」
「……?どういう意味だ」
「いい。忘れろ」
 ミロの指が氷河の後ろ髪に挿し入れられる。退路を断っておいてから唇を重ねるのがこのひとのやり方だ。
 逃げなくなった今でも、ミロはいつもそうする。
 重ね合された唇は温かく柔く氷河の芯を蕩けさせる。

 は、と上がった息のままに、氷河はミロを呼ぶ。
「……ミロ」
「ん?」
「利用したって言ってごめん。本当は俺……」
 その言葉をミロに対して言ったことは一度もない。どれだけ甘く淫靡な時間を共に過ごしていても、己の感情に名をつけたことはなかった。
 カードにある文字を呼んで、咄嗟にミロを呼んで。
 そうだったのか、と今日初めて自分の裡にある感情の名を知ったのだ。ミロに対してですら一度も曝け出したことのない心を、あんな、衆人環視の中で言えるはずもなかった。
 言葉を選び、迷う氷河の唇に、ミロが悪戯っぽく笑って人差し指をあてる。
「言うな。俺はデザートは楽しみにとっておきたい派なんだ」
「ばっ……」
 バカじゃないのか、と氷河は赤くなる。
 せっかく素直な気分だったのに、そういうことなら二度と言ってやるものか。
 何も伝えてはないのに、全てお見通しの余裕が悔しい。

 目を細めて笑うミロの口づけは次第に深まる。
 唇だけでなく、耳にも。首筋にも。急上昇する熱を戸惑い、氷河はミロの肩を押す。
「こ、ここで……?」
「しばらく二人きりでは会いづらくなるからな。君が嫌ならしない」
 その言い方は狡い。
 氷河がどう答えるか、彼はきっとそれも知っている。
 氷河に選択権を与えたふりをする、大人の狡さに、嫌だ、と抵抗してみせようか。
 だが、少年の小さな反逆などお見通しというようにミロの唇が触れた耳朶を含んだまま囁く。
「俺を呼んでくれて嬉しかった、氷河」

 ……本当に狡いひとだ。

**

「……っ……ふっ…」
 殺しても殺しても漏れる声が、狭い体育倉庫内へ響いて反響する。背後から肉を打つ音と、くちゅくちゅと濡れた響きがそれに混じる。
 どの建物からも離れた深夜の倉庫はあまりにも静寂にすぎた。
 自分とミロが紡ぐ卑猥な音が耳に入る音の全て。神経は昂り、貫くミロの楔から伝わる熱が芯を灼く。
「……やっ、ミロ、もう……!」
 既に何度か懇願して吐精したというのに、またも滞留する熱の放出を求めて氷河は顏を後ろへと傾ける。長い指が眦に滲んだ涙を救ってそれをペロリと舐める。
「まだ我慢できるだろう?」
「……そんな……っ」
 こういう時のこのひとは本当に意地悪だ。
 涙を浮かべる瞳に宥めるように触れる唇は酷く優しいくせに、一向に氷河を揺さぶり、追い詰める責め立てをやめようとしない。
 だから壊れた蓄音機のように、何度も何度も彼の名を呼ぶ羽目になる。いくら抵抗したって無駄だ。
「……ミロ……ミロッ……ミ」
 勝手に漏れる言葉を止めるように、大きな手のひらが突然に氷河の口を覆った。
 耳元に、シッと短く叱るような声が降る。同時に、ジャリ、と隔てた扉の向こうで、動くものの気配が小石を踏んだ音がした。
「っ!」
 二人だけだと思われた空間に、突然の闖入者。
 喉奥で吸い込んだ息を引き攣らせて、氷河は震えた。
 扉はどうだっただろうか。
 盛り上がり、高まる熱がもどかしく、もつれ込むようにこの中になだれ込んで、鍵をミロがどうしていたか記憶にない。
 万が一気づかれでもしたら、と気が気ではなく、氷河は息をするのも忘れて硬直した。
 カサカサという紙の音。
 カチリという金属音。
 数瞬遅れて、扉の隙間を縫って漂う紫煙の苦い香り。
 喫煙だ。それも生徒の。
 当然許されていない。許されていないからこそ、その人物も人気のない場所を探してこんな場所まで来たのだ。
 背にピタリと覆いかぶさる汗ばんだ体躯が神経を研ぎ澄ませているのがわかる。
 しばし動きを止めて、動向を窺っていたミロは、外の人物の目的を確かめた後はゆっくりと穿つ動きを再開させた。
「……っ!?」
 抗議に首を振ると、深く穿たれて甘く燻っていた熱を再び熾された。
 もういかせてほしい、と何度も懇願した時には与えられなかったそれを、こんな状況だというのに、愉しんででもいるのかミロは何度も奥へと突き入れる。
「……っ……っ」
 深く突き入れられる度に漏れる声はミロの手のひらの中へ消えていく。
 いくら音を殺していたって、この淫靡な空気が外へ漂っていないなんて保証はない。紫煙が今薄く氷河の周りを漂っているように。
 いやだ、ひどい、と思うのに、身体はどんどん極みへと向かって高められていく。氷河の口を塞いでいるミロの手も熱い。
「…………ッ!!」
 奥深くの窪みを何度も熱い張り出しに擦り上げられて、もうどうにもならなくなって、氷河は身体を震わせて精を吐き出した。
 く、と小さく吐いた男の声と共に、身体の内側に熱いものが広がっていく。

 外の気配はいつの間にか消えていた。

**

 無造作に扉を開いて気怠い体を滑り込ませた氷河は、薄暗闇に人の気配がすることにギョッと目を見開いた。
 深夜ではあったが、自分の部屋だ。
 一輝はとうに荷物をまとめて念願の一人部屋へ出て行ったに違いないと思ったから音を消す努力もせず扉を開いたのにまさか───いるのか、一輝。
 なぜだ、と疑問を感じながら、今更ながらに足音を消して、そっと室内へと足を進ませる。
 果たして一輝はいつもどおり、壁際にくっつけられたベッドのへこちらへ背を向けるようにして身体を横たえていた。
 どういうことだ。
 お前は一人部屋へ移る権利を与えられたはずだ。
 氷河は反対側の壁へとつけられたベッドへと腰かけた。弾みで、ギ、とスプリングが鳴り、思わずギクリとして氷河は一輝の方向へ視線を流した。
 さすがにこの時間だ、眠っているようだ、とほっと息をついた瞬間、衣擦れの音がして、その身体がくるりとこちらへ反転をした。
 暗闇に同化した黒曜石の瞳が気配だけで氷河を捉えている。
「こんな時間まで逃げ回っていたのか」
「……余計なお世話だ。お前こそ。なぜ出ていかない」
 一輝の頭と思われるあたりの空気が、ふん、と笑いで揺れた。
「本当にどこに雲隠れしていたんだ、お前は。知らないのか、俺も失格だ」
「何?どういうことだ」
 意外な事実に憎まれ口も忘れて思わず氷河はそう問うた。
「あの阿呆が物言いをつけたのさ。『わたしは『目の上のたんこぶ』などではない。よってこの男も失格にしてくれたまえ』とな」
 一度では理解できなかった。
 何度か聞き返して、ようやく氷河は理解した。
 つまり。
 一輝が引いたカードには『目の上のたんこぶ』と書いてあったわけだ。
 カードの中身を知ったシャカ自らが自分はこのカードの条件を満たしていないと告げ、そしてその進言が採用された、と。
 なんという結末だ。こんな───こんな、主観で簡単なに結果が左右される競技で俺たちの向こう一年間の明暗が分けられるっていうのか。
 そうか。
 所詮は娯楽。年に一度のお遊びだから、だ。
 俺も『目の上のたんこぶ』を引けばよかった。どっちにしたってミロを呼んだと思うけれど。
 長い時間を悩んだ自分がばかばかしくなって、氷河は乾いた笑いを漏らした。
「笑いごとか。俺はもう金輪際あの男とは関わらん」
 一輝の困っている様子は愉快で、氷河の笑いはしばらくの間続いた。
 笑いながら氷河はゆっくりとベッドの上へ自分の身体を横たえた。動いた拍子に軋んだ関節の痛みに、ほんの僅か前のふしだらな営みが惹起されて思わず頬が火照ったが、幸い、暗闇がその動揺を覆い隠してくれた。

 氷河の動きにぎしぎしと弾んでいたスプリングの動きが静まってしまえば、しん、と沈黙が落ちた。
 一輝はまた眠ったのか。
 静寂が下りれば、同じ空間を共有している人間がもう一人いることが強く意識されて、ピリピリとした緊張感が走る。
 ───やっぱり、苦手だ。
 こんな夜があと一年も。
 同じ空間にいるだけで精神をすり減らす生活。笑いで忘れかけたが、考えただけで憂鬱だ。
 氷河は両腕を頭の下で組んだ。
「氷河」
 眠ったはずの暗闇から呼ばれて思わずギクリとする。
「嘘をついただろう」
 ドッと心臓が跳ねあがる。これだからこの男は。
「なんのことだ」
「お前は打算で動けるタイプじゃない。こと、俺との勝負に関しては特に」
「ふん。俺を知ったような口をきくな。お前の顏を見ないで済むなら何だってするさ」
 平静を装った声が微かに掠れる。
 それ以上の追及はさせない、と氷河は肩まで布団を引っ張り上げると一輝に背を向け、壁をじっと睨みつけた。
 背後の気配に動きはない。
 身体も精神も今日はいろいろありすぎて疲弊しきっているというのに、漂う緊張感に全く睡魔が訪れる気配はない。
 時計の秒針すら煩いほどの静寂。
 カチカチと刻むそれをしばらく数え、氷河は壁を向いたまま小さく呼んだ。
「一輝」
 眠っているならそれでいい、と思って呼んだ声はずいぶん低かったというのに、なんだ、とすぐに反応がある。ピリピリと刺す空気が二つのベッドの間に横たわっているのを感じているのは氷河だけではないのかもしれない。
「お前……煙草、吸ったりするのか」
 唐突な氷河の問いに沈黙が返る。
 やがて、ごろりと、向こう側でも一輝が壁の方を向いた気配がした。
「抽斗の上から二番目。吸いたいなら勝手に取れ」
 またドッと心臓が跳ねた。
 一輝だったかどうかはわからない。他に生徒は多い。

 ミロは何か気づいていたのだろうか。突然に余裕がなくなったような、激しい責め立ての記憶にきゅう、と身体の奥が鳴り、また頬が火照る。

 向こう側のベッドで、ギ、と身じろぎにスプリングが揺れる音がする。

 それはずいぶんと長い時間続いていた。

(fin)
(2014.3.19up)