寒いところで待ちぼうけ

短編:ミロ




◆Lesson◆

 はあ、と氷河はため息をついて窮屈に締めた襟元へ指を差し入れて少し空間を作った。
 慣れない正装に息が詰まる。
 全くお嬢さんも人が悪い。
 財政難なのでこのためだけに人を雇う余裕などないのです、と悪戯っぽく笑った女神は、各界の名士を集めたレセプションに、己の戦士たちを駆り出していた。
 手厚くもてなしてあげてくださいね(あなた達の働きに資金集めの命運がかかっているのですよ)、という微笑の前に拒否権などない。
 ホスト役も給仕も警備もこなせ、という無茶ぶりを、忠義に篤い男たちは女神のためならば、と全うしようと努力しているところだ。
 広いホールには、着飾ったたくさんの人間がそこかしこで小さな輪を作って飲み物を片手に談笑していて、その中を、サガを従えた女神が輪から輪へ渡り歩いて、世情がどうだ、とか、聖域が世界に貢献する役割がどうだ、とかいう話題を巧みに振りつつ、最後は柔らかな(そして押しの強い)笑みを添えて、ところで聖域の財政事情なんですが、と切り出している。
 最高位の戦士たちは、と言えば、やはり氷河と同じく正装させられて、女神の要求どおりに、気の利いた会話で場を盛り上げつつ、ギャルソン代わりに飲み物や軽食も給仕して歩き、要人が外部から万一狙われるようなことがないように鋭く辺りに気を配る、という万能な器用さを発揮している。(者もいるし、初めからどれかひとつだけだ、と諦めている者もいるにはいた)
 で。
 困ったのは氷河たちだ。
 酒の相手が務まるでなし、政治的話題に交れるわけでなし。黄金聖闘士が睨みをきかせている中では警護にしたって何もすることなどない。かといって、聖域あげての行事、何も働かないでいるのも気が引ける。
 結局、空いたグラスを下げて歩く、とか、上着や荷物を預かる、とか、その程度の雑用にしか役に立たないのに、とりあえずは何となくふわふわと人の波を漂っているのだ。

 氷河は広いホールを見渡した。
 人の輪を縫って歩いている、豪奢な巻き毛がひと際目立つ男の姿が目に入って、氷河の心臓が打つ速さを増した。
 数えきれないほど似たような格好をした人間がひしめいているのに、なぜかその人はどこにいてもわかる。
 氷河がもう少し己を客観視できるほどの大人であれば、自分がそれほど意識して目で追っているのだ、ということに気づいたに違いないが、残念ながら今はまだそこまでの自覚はない。
 勝手に視界に飛び込んでくる、本当に派手な容貌のひとだ、と、相手の方にその原因を委ねたまま、少年は跳ねた鼓動を宥めて、そして、また無意識にその姿を探すのだ。
 男はシャンパングラスを乗せた銀のトレイを片手に、さり気なく飲み物を勧めながら、甘い笑み(完全に営業用スマイルだ。普段の彼は笑っていてもどこか凄味を失わないものだが)を振りまいている。
 何を話しているのかは氷河のところまで聞こえないが、動く先々で老若男女問わず次々に新しい顔ぶれに掴まっているところをみると、きっと、巧みな話術で場を盛り上げているのだろう。
 ふわふわとした耳触りの良い言葉だけで会話をくるむようなひとではないが、鋭い切り口ときっぱりとブレない意志の強さは話していても清々しいものがあるのだろう。
 その上、あの見目良さで今夜限定の甘い笑みを惜しみなく振りまいている、とあっては。
 皆、彼を呼び止めたがっているのは素直に頷けたが、氷河の胸の内側にはなんとなく正体のわからないもやもやしたものが燻っているのだった。


「あっ」
 ほかに気を取られていたせいか、氷河の肩が、とん、と一人の紳士とぶつかった。
 すみません、と顏を上げようとした瞬間に、その人物が手に持っていたシャンパングラスの中身が上から降ってきた。
 髪の毛の先から滴るアルコールの香りに氷河の視界が一瞬くらくらと回る。
 空になってしまったシャンパングラスを片手に、その紳士が恐縮した様子で慌ててハンカチを取り出した。
「申し訳ない。ああ……これはいけないな、シャツまですっかり濡れてしまったようだ。すぐに拭いた方がいい。洗面室はどちらだっただろうか」
 慌てた様子でホールの出口を探し始めた男性に氷河は大丈夫です、とぶんぶんと首を振った。
 自分の不注意で、賓客に歓談を中断させ、この場から離れさせたとあっては後で女神に叱られてしまう。
 氷河は、本当に大丈夫ですから、と一人でその場を離れようとしたが、困ったことに男性は、早く洗った方がいい、と氷河の背へ手を添えてエスコートするようにホールの外へと向かい始める。
 固持して振り切れなくもなかったが、親切をあまり頑なに拒絶するのは申し訳ない気がして、迷いながらも強引に背を押されるままとなっていれば、突然に、ぐい、と横から二の腕を強く掴まれて、わ、と氷河はよろめいた。
「……ミロ」
 あちらの端へいたはずが、いつの間にそばに来ていたのか、鋭い瞳でこちらを睨みつけている男に驚いて氷河は声を上げた。
「満足に給仕もできないなら、大人しく引っ込んでいるべきだな、坊や」
 今日初めての会話がこれだ。
 反発より先に、格好悪いところを見つかった気落ちが先にきて、胸を重い塊が塞いだ。
 口を開けないでいる氷河をさらに冷たい瞳で刺しておいて、ミロは氷河の背を押していた男性の方へ慇懃に向き直った。
「この者が大変な失礼を。ようく仕置きして、今日はもう裏方を務めさせますゆえどうかご容赦を」
 本日のホスト役(兼給仕兼警備)とは言え、ミロが最高位の戦士であることは周知の事実なのである。
 その、見るからに鍛えられた体躯の青年がほとんど地に頭を擦りつけんばかりに深々と腰を折る姿に、周囲の輪が落ち着かなくざわめき、注目を集めた男性は少し言葉を失って、いえ、元はわたしの方が不注意で、と口ごもった。
 新しいシャンパンをどうぞ、と低く腰を折ったままのミロにグラスを差し出された男性は、しばし躊躇の後、どうも、とそれを受け取って、氷河の方に、すまなかったね、と声をかけて人の波に消えていった。
「………………あの、俺、」
「ぼうっと立っているなら邪魔なだけだ、来い」
 冷たい言葉に怯んで、動けないでいる氷河の腕を、ミロの手が再び強く掴んだ。
 苛々と尖った空気を纏う背中を見せて、ミロは大股でホールの端まで氷河を引き摺っていく。
 あっという間に終点へ到達して、ミロは壁際に装飾のために吊り下げられていた分厚い帷幕を煩わしげに片手で払った。
 バサ、と重い音を響かせて払った帷幕が揺れて、壁との間の狭く薄暗い空間に二人の身を覆い隠した。
 腕を掴まれたまま、どん、と乱暴に壁に背を押しつけられて氷河はさすがに痛い、と抗議に声を上げた。
「なにをするんだ」
「君はバカか!」
 ホールの喧騒は厚い帷幕に遮られてあまり届かない。その代わり、ミロの声は低く落としてはいたが、外界から切り取られた空間にしっかりと響いた。
 不注意を反省してはいても、一方的に怒鳴りつけられては素直に謝れもしない年頃だ。
「……関係ないあなたにそこまで言われる筋合いはない。だいいち濡れたのは俺であって客じゃないからそこまで言われるほどの粗相でもない」
 そういう問題ではないことは重々承知の上できいた憎まれ口に、だから君は坊やだというんだ、とミロの声はさらに怒気を増した。
「君があの男に酒を浴びせていたのだったらこんなことするものか。どうして気づかない。あの男はわざとしたのに決まっているだろう!今どき田舎娘でも引っかからない古典的な手だぞ」
「わざと……?俺に飲み物をかけたのが?」
「自分の袖口も濡らさずに綺麗に君だけ浴びているのを不自然と思わないのか。簡単な物理の問題だぞ」
「??そうかもしれないが……嫌がらせにしてはずいぶんつまらない手段を取る人がいるんだな」
 聖域になんの敵愾心を抱いているのか知らないが、こんな下っ端の最下級の戦士に飲み物をひっかけたくらいで溜飲が下がるのなら安いもの、と氷河は肩で笑った。
 その様子に両手を壁について氷河を囲うように立っていたミロは、ちょっと待て、と脱力するように氷河の肩口へ顔を伏せた。
「……?」
 壁に押し付けられた姿勢が苦しく、その上、帷幕一枚隔てた向こうに大勢の人がひしめき合っているという状況が気になって、氷河はミロの胸を押して逃れようとした。
 だが、両腕で作られた檻は固く氷河を閉じ込めたままだ。
 自分の髪から滴るアルコールと、ミロの呼気に含まれるそれが混じり、息苦しさに酔いそうだ。
「……あの、ミロ……あなたは戻らないと」
 自分の方はともかく、あれほど目立つ存在だったのだ、ミロが消えたことはすぐに気づかれて誰かが探しに来ないとも限らない。
 こんなところを見られたら誤解される、と氷河はぐいぐいとミロの胸を押す。
「君は自分というものを知らなさすぎる。無防備すぎて気が気じゃない」
 低く落ちた呟きは暗闇にくぐもって消えて氷河には届かない。
「ミロ、いいかげんに……」
 いつまでこうしている気なのか、と見上げれば、ようやくミロは少し氷河の体を離した。
 そして、いいか、と人差し指で氷河の胸を押して険しい顏を見せる。
「いつも俺が助けてやれるとは限らん。自分の身は自分で守ることだな」
「……他愛ない嫌がらせくらいで大げさな」
 その一言が余計だった。
 既に帷幕を上げて去りかけていたミロが鋭く振り向いて、振り向いたかと思うと荒々しく氷河の唇は塞がれていた。
「……ッ!?」
 突然の深い口づけに息を奪われて、知らず、氷河はミロの背へ縋りつく。
 初めて受ける、挨拶のキスとは違う激しい口づけに膝が震える。
 は、と息継ぎに逃げた頃には、男の手の支えがなければ立っていられないほど腰も膝も言うことをきかなくなっていた。
「自分がどんな目で見られているのか、鈍い坊やには呆れて言葉もない。今日こそは大人の流儀をとことん教え込んでやるから覚悟しておけ」
 ずるずると壁伝いに座り込んだ氷河にミロはそう言い残して今度こそ帷幕の向こうへ消えた。
 唇に残る熱に手をやって、氷河は茫然と揺れる帷幕を見つめる。
 ミロは一体何を……。
 一見支離滅裂に見えたミロの言動だが、ここへ来て、ようやく遅まきながら氷河の理解が追いつき始めた。
 ミロが助け舟を出さなければ、もしかして、面倒なことに巻き込まれていた、のか?
 そう言えば、背へ添えていたあの男の手はちょっと不快なほどにやたらと氷河を撫でていた。背、というより、それがほとんど腰に、臀部に近いあたりだったことにも今更に気づく。
 仮に氷河相手に不埒なことを考える輩がいたとして力づくでどうにかされたとは思えないが、逆に怪我をさせてしまっていたら、下手をすると聖域存続にかかわる火種にもなりかねない。
(氷河にその発想はなかったが、聖闘士だって怪しげな薬のひとつでも盛られてしまえばいつもの力も発揮はできない)
 ものすごくわかりにくい流れだったが、ミロに救われたのだ、ということがわかり、氷河は彼が消えた帷幕の合わせ目をぼうっと見つめた。
 それで、ええと。
 大人の流儀をなんだって……?
 キスをされたのだ、という自覚が今頃になってじわじわと遅れてやってきて、今さらながら口腔を弄る濡れた舌が思い出されて全身に熱が回る。
 大人のキスだ。いつものとは違う。
 帷幕の向こうでは酒宴が続いている。
 動揺と混乱で、誰の顔も見られそうにない。みっともなく火照った顔を隠すように、氷河は薄暗い空間へ座り込んだまま、膝の間に顔をうずめた。
 唇がどうしようもなく熱い。



 さて、と閑散としたホールへ立って、ミロはするりと首元のタイを解いた。
 酒宴は終わり、皆、揃って賓客を見送りに出たところだ。
 辺りに人けがなくなったのを確認してから、ミロは帷幕へと近づく。
 床と帷幕の間に空いた隙間からそれと知らなければ気づかないほどごく僅か、爪先がのぞいていたので、氷河がずっとそこに隠れていることは知っている。
 氷河の姿がないことを不審に思う者はいたが、自分の容姿が人目を惹く部類だと自覚ないままに、無防備に酔客の前にふらふらされていることに比べれば些細な問題だ。
 重い帷幕を手の甲で払うように持ち上げてのぞくと、果たして少年はそこで膝を抱えたまま目を閉じて寝息を立てていた。
 警戒心を刺激してやったはずなのだが、居眠りとはどこまで困った坊やだろう。
 悪い男に攫われても知らんぞ、と苦笑して、ミロは氷河の膝裏へ手を差し入れてその身体を抱え上げる。
 すぴすぴと健やかな寝息はおさまる様子はない。
「……少し痛い目に合わねば学習できないようだな、坊やは」
 愛しげに、だが、不敵に口元を歪めて、ミロはアルコールで濡れたままの氷河の髪に口づける。

(fin)
(2014.11.10up)