◆好きだと言えずに初恋は◆
「ミロ?どこまで行っていたんだ?ずいぶん遅いから心配したじゃないか」
帰宅の気配を敏感に感じて扉を開けてやった氷河が、ものも言わずに飛び込んできた豪奢な金色の巻き毛に目をまるくさせた。
出先で何かあったのか、深い海を思わせる蒼い瞳は不機嫌そうに氷河の方をチラリと一瞥し、そのままスタスタと氷河の脇を通り抜けて宮の居住区の奥へと向かってしまう。
いつもはしつこいほどに構え構えとまとわりついてくるのに、珍しいこともあったものだ、と氷河は怪訝な顔でその後を追った。
氷河がリビングをのぞいてみれば、ミロはくつろぐときの定位置、ソファの片端へと既にその身体をどっかりと横たえていて、氷河の気配に首だけ横柄にこちらへ傾けて、隣へ来い、と視線で命令した。
あのなあ、それが人を呼ぶ時の態度か?と呆れはしたものの、わざわざ呼ぶ時はミロの甘えたい時なのだと知っている今では、その不遜な態度すら、可愛いと思えてしまうから不思議だ。
しょうがないなあ、と氷河が隣へ腰を下ろすや否や、案の定ミロはすかさず自分の頭を氷河の太腿の上へと乗せ、『枕』の感触を確かめるように、二度三度、体勢を変えると、大きな欠伸をしてみせた。
自分が甘えたいがために傍へ来いと命令してみせる『恋人』に氷河の頬が思わず緩む。
氷河は金色の巻き毛に指先を絡めて頭を撫でてやる。膝の上のミロの瞳が気持ちよさげに細められるのが氷河は好きなのだ。どれだけ自由気ままに生きていても、その瞬間だけはミロは自分に全てを委ねているように感じられる。
氷河は身をかがめて、ミロの巻き毛の匂いをくん、と嗅いだ。
「ふふ、お日様の匂いがする、ミロ」
外は汗ばむほどの陽気で、日の光をふんだんに浴びたミロからは、温かい日なたの匂いがした。
「おかえり、ミロ。いなくて寂しかった」
氷河はそのまま身をかがめて、ミロの頬に額にと、キスの雨を降らせた。
ミロがうっとおしそうに氷河のキスから逃れようとするのを、「あっひどい、逃げたな?」と笑って掴まえ、今度は唇に小さなキスを。
観念して氷河の唇を受け止めたミロを抱き締めて、氷河はミロの両の瞳を正面からのぞき込んだ。
「ほんとにいつもどこに行っているんだ?待っている俺の気も知らないで。俺のところにいるのは気まぐれで、いつかそのうち帰って来なくなったりして」
少し恨みがましく、なあ、どうなんだ?と額で額を小突いてやれば、ミロの手が、やめろ、と氷河の額を押し戻すように伸ばされた。そのことが『恋人』の心変わりのようで氷河の方もむきになってミロの額を自分のそれでぐりぐりと押してみせる。
「ほら、言ってみろって。俺が好きなのは氷河だけですって。もうどこへも行きませんって」
珍しくしつこく絡む氷河の手の甲にミロが鋭い爪を立てたのと、氷河の背後から「何やってんだ」と低い声が降ってきたのは同時だった。
ぎゃあ、と二重の意味で悲鳴を上げた氷河は慌てて振り返り、そこにいた人物と目が合うと、真っ赤になってソファから転がり落ちてしまった。
「ミミミミミミミロ…………!いつからそこに……!」
「うるさいな、君は。いつからも何も、俺は『ミロ』と一緒に帰ってきただろう」
ガーン。
そ、そんなに前から。
自分の横を風のようにするりと通り抜けた『ミロ』に気を取られて全く気づいていなかった。
ひどいな、なんで一緒だって言ってくれなかったんだ、と少々無茶なことを思いながら『ミロ』へ視線を向けてみれば、豪奢な巻き毛を持つ金色の猫は、部屋の隅で自分の手をペロリと舐めながら、俺が機嫌悪い時といったらうるさく構うソイツが一緒にいる時だろ、早く気づけよと言わんばかりの冷たい一瞥を氷河に返した。
毛並みがあまりにこの宮の主に似ているから『ミロ』と戯れに名をつけてやったせいか、性格まで似てきて最近ではずいぶん氷河に対してえらそうなのだ。可愛くない。(でもそこが可愛い)
赤くなって床へとへたり込んでしまった氷河の腰を抱くように抱えて元の位置に戻してやりながらミロの──今度は人間の方の──豪奢な巻き毛がくつくつと揺れる。
「『いなくて寂し』くて、『好きだと言』って欲しいのか?俺に?」
「……ね、猫に言ったんだろ、猫にっ!」
「猫相手にむきになって本気で『俺が好きなのは氷河だけです』って言わそうとしてた痛いヤツか……人に素直になれなくて猫相手にこっそり練習していた可愛いヤツか……さあ、坊やはどっちだ?」
氷河の喉からぐぅっと微妙な音が漏れ、ますます真っ赤になってそっぽを向いた。
だが、その赤く染まった頬に、いつまでもニヤニヤと笑う視線が注がれているのを感じて、氷河はキッと振り向いて視線の主を睨み付けた。
「痛いヤツで悪かったな!どうせ!!猫相手に!!本気で!!『好きだ』って言えってせまってたんだっ!!文句あるか!!」
真っ赤になってまくしたてる氷河に、ミロは、どうあってもそっちを選ぶのか、とさらに巻き毛を震わせて笑いを漏らした。
だが、への字に結んだ氷河の唇が色が失われるほど固く噛みしめられているのを見るに至り、次第にその笑いは小さくなり、困ったヤツだ、という溜息へと変わった。
ミロは氷河が坐ったソファの隣へ深く身を沈め、柔らかい笑みを浮かべて氷河の手に自分のそれを重ねた。
「おいで、坊や」
「……い、いやだ。笑うから……嫌いだ、ミロなんて」
「そういうのは言えるんだな。大丈夫、猫相手に練習しなくても、俺が教えてやろう。『好き』の言い方くらい」
「べっべつに、そんな必要はない。と、というか練習とかそういうのじゃない」
本当に君は強情だなあ、とミロは苦笑して、引っ込めようと小さな抵抗を返している手を引いて身体を強引に抱き寄せる。
傾いた上体に、しばらくの間は足を突っ張ってそれ以上距離を詰められてなるものかと抵抗していたが、赤くなったまま少しも火照りの消えない頬をずっと見られているよりはマシか、と、氷河は途中で抵抗を諦め、ミロの胸へ自分の顏を押し当てて隠れるように俯いた。
ミロはよしよし、と先ほど氷河が『ミロ』へしていたように、その髪へ指をさしいれてゆっくりと頭を撫でる。
「坊やは一体何を心配してるんだ?ここは俺の宮だ。どこへも行きようがないだろう」
「そういう問題じゃない。……違う、『ミロ』に言ったんだ、俺は。あなたじゃない」
「俺だろう?」
「『ミロ』だよ」
「強情だな。そこまで強情だと可愛くないぞ」
「男に可愛いってのは褒め言葉じゃない。可愛くなくて結構」
「ずいぶんつっかかるな。一度くらい素直に俺が好きだと言ったらどうなんだ」
「……だから……別にあなたのことじゃないって。俺は本当に『ミロ』のことを言っていただけだ」
ミロはため息をついた。
何が少年をそこまで頑なにさせているのかさっぱりわからないが、これ以上深追いしては泣かせてしまうことは経験上確実だ。泣き顏は泣き顔で好きだが、しかしまあ今日のところは折れておくことにして頷きを返す。
「まあ猫でもいいさ、この際。『ミロ』は君のことが大好きなんだからどこかへ行ったりするものか」
ミロの胸へ埋められていた金の髪が、僅かにピクリと反応し、上を向く気配を見せたが、すぐに元の位置へと戻った。
「……今のところは、だろ」
───ああ言えばこう言う。
元来、気が長い性質ではない。この俺がここまで折れてやったのに、何をそんなに拗ねているんだ、と苛立つ気持ちが、次の言葉をやや冷たくさせた。
「『今のところは』?……まあ一度も好きだと言ってくれない気位の高い恋人よりは毎日大事に甘やかしてくれる愛人の方へ流れてしまうってのは世の常ではあるな」
「!!」
ミロの腕の中で氷河の身体が小さく震え、ぎゅっと身を固くした。伏せた睫毛が何かを堪えるように、何度も瞬く。
ああ、結局泣かせてしまった。
『猫』の話だと言い張っていたくせに。
ミロのどの言葉ひとつも軽く聞き流せずに、簡単に感情を揺さぶられる様を見せるその様子はどう見ても───
ミロは氷河の身体をゆっくりと抱き上げて、自分の膝の上へ跨るように腰かけなおさせた。大きな手のひらで氷河の両の頬を挟んで、おい、と頭を軽く揺する。
「冗談だ。そんな顏をするな。俺はそこまで信用がないのか?」
今度は猫の話だ、という突っ込みは入らない。
代わりに氷河は身を固くしたまま、ミロの腕の中で何度も大きく息をつく動きを繰り返した。そして、キッと顏を上げて意を決したようにミロを見る。
「あの、俺、ミロのこと、す」
「きだよ」の三文字はミロの唇とのあわいで消えた。
軽くついばむような動きのまま離れたそれを、氷河は恨めしそうな顔で睨む。
「今、せっかく言おうとしたのに……」
「言わなくていい。この流れで言わせたら俺が自己嫌悪に陥る。冗談が過ぎた。許せ」
「違う。そうじゃない……そういう勢いでもないと言えない、から」
どうしてくれるんだ、もう言えなくなったじゃないか、と眉を下げて俯く金の髪の天辺にミロは何度もキスを落とす。
「『練習』の次は『勢い』か……坊やはまだ本当に子どもなんだな。よし、この話はもう終わりだ。さあ、飯でも食おう。俺は腹が減ったぞ」
仕切り直すように努めて明るく言って氷河に立ち上がるように促そうとするミロの二の腕に、氷河はぎゅっと指を絡めて首を振る。
「言い方を教えてくれると言ったくせに」
「……必要ない、とも君は言ったぞ」
せっかく打ち切ろうとした会話を、氷河の方から追い縋られて、ミロは軽くいなすように答えた。だが、その、相手にされていない感じが却って氷河をむきにさせる。
「ふ、ふん。だ、だったら教えてなんてくれなくて結構。俺だってもう子どもなんかじゃない。一言言うくらいどうってことない。よく聞いとけばいい。……俺は、あなたのことが、す」
再びミロの唇が氷河のそれを柔らかく塞いで、肝心な部分は中途半端にくぐもった音となって消えた。
笑って弧を描いている蒼い瞳に氷河が、この!と肩を押して離れる。
「なんなんだ!言わせたいんじゃないのか!」
「いや?気が変わったな。俺は一生君には『好きだ』と言わせてやらないことにした」
「!!本当に意地悪だな、あなたは!だったら何が何でも言ってやる!す」
わめくように大声を上げようとする氷河の後ろ髪を捉えてミロはまたしても唇を塞ぐ。
視線で、何度試しても無駄だぞ?と笑ってみせるミロの余裕に、氷河の熱はどんどん上がる一方だ。
くそっ。
いつもいつも子ども扱いしてからかってばかりで!
そっちがその気なら……!
言えと言われれば言いたくなくなる、だが、一生言わせないとまで言われては絶対に言ってやる、という気になる。負けず嫌いは筋金入りだ。
少し落ち着け、と宥めるように唇を最後に少し強く吸ってミロが離れた瞬間に、氷河は息を吸いもせずに一息に叫んだ。
「すきだすきだすきだすきだすきだっ……ケホッコホッ……」
息継ぎもせずに早口でまくし立てたために、あっという間に氷河は咽て激しく咳き込んだ。
不意打ちでこれだけ連続で叫べば、さすがに反射神経のいいミロも一つや二つくらいは止めそこなうだろう、と目論んでいたものが成功して、どうだ、俺の勝ちだ、と咳き込みの合間に若干涙目になりながらミロを見上げれば……
「言えたじゃないか」
ニヤリと片頬を歪めたいつもの顏。
ミロは止めそこなった、のではない、氷河の性格を読んでいて故意に止めなかった、いやむしろ最初から全てがミロのシナリオどおりだったのか、と気づいて、氷河は慌てて、今、唇から零れた言葉を打ち消すかのように首を振った。
「卑怯だ!今のは、だって……!」
違う、と何度も首を振る氷河をニヤニヤと見下ろしていたミロは、だが、ややして歪めていた頬を緩めると、ふ、と柔らかく微笑みなおした。
「大丈夫、今のはノーカウントだ。あんな情緒の欠片もないようなものをありがたがるほど俺は困ってない」
「……言ってくれる人がたくさんいるからな」
どうしたことか今日はずいぶん拗ねて唇を尖らす氷河の鼻を、コラ、とミロは指先で弾いた。痛い、と顏を顰めたところをさらにもう一度。
「君の気持なんか、わざわざ聞かなくても手に取るようにわかってるから、だよ」
力を加減せずに鼻の頭を弾かれて痛みでさらに涙目になった氷河は、三度目を阻止しようと両手で鼻をガードしながら、ミロを睨み付けた。
「わかっているのに、じゃあ、なんで言わせようとするんだ」
「……そこを突かれると俺も痛いな。言葉なんかいらない、と言ってやる余裕がない程度には俺も大人じゃないってことだ。何しろ君の周りには障壁がずいぶん多いからな」
そう言って、ミロは視線をチラリと斜め上へやった。そちらの方角にあるのは次の宮だが、ミロが言いたいのはそのさらに先に控えている宮にある障壁のことだろう。
その障壁のことについてはもうとっくに二人の間では解決済みの話であるはずが、こうして度々持ち出されるのには確かにミロの余裕のなさの顕れのようにも思えるが、それでもやはり、自分を大人じゃない、と簡単に認めてしまえるミロは、氷河からするとずっと大人だ。
「ミロは大人だよ……」
氷河よりずっと大人で、綺麗で、強くて、優しくて、少し意地悪で、気まぐれで。
そして自分は、何にも持たない子どもで。
だからこそ言えない。
好きだと言ってしまったら。
獲物を追いかける猫のようなところのあるこのひとは、手に入れた獲物をどれだけの期間、飽きずに構っていられるだろうか。
『別に好きだったわけじゃない』
傷付かない様に、せめて、そう逃げ道を用意しておきたくなるほど、本当は、とても───
自分の中にある強い感情を嫌でも自覚させられて、甘く切なく疼く胸の痛みに鼻の奥がツンと痛くなり始めて、氷河は慌ててミロの首へ腕を回して、顏を隠すようにぎゅっとしがみついた。
「ミロ……さっきのもう一回聞きたい」
「……?どれだ」
「『気が変わったな』ってやつ」
「『一生君には好きだと言わせてやらない』?」
そう、と肯定のしるしに、氷河はさらにぎゅっと腕の輪を狭めた。
『一生』
きっと深い意味なく口をついて出た言葉だろう。
そんなものが、彼の心を将来にわたって束縛できるとは思わない。
それでも、もしかして、と思う。
戯れの関係ではないと、自信を持てたなら。
「ミロ……早く俺を大人にして欲しい」
あなたにふさわしい、と。
隣に立っていてもいいのだと、好きだと言ってもいいのだと、自信が持てるように。
『坊や』じゃなく、対等に扱ってもらえたら、いつかはきっと。
「……君は時々すごいこと言うな」
「……?」
部屋の隅でだらんと身体を伸ばして寝ていた『ミロ』がむくりと起き上がり、いいかげんにそこをどけ、俺の昼寝の邪魔だ、とソファの前まで近づいてきて、なー、と一声鳴いた。
その声に、ミロの首へしがみついていた氷河が腕の力を緩めて、振り返ろうとした。
が、すぐにミロの手のひらによって顎を捉えられ、あっという間に唇を塞がれる。
「……あ……っ」
思わず開いた唇の間を割って侵入してきた熱い舌が氷河のそれを柔らかく絡め取る。
「ん……ふぁ……」
先ほどまでの触れるだけの口づけとは打って変わって、情事の最中のように深く施される口づけに、氷河の息が上がり、酸素を求めて身を捩る。だが、後ろ髪をミロに掴まれ、しっかりと退路を断たれた上でさらに激しく貪られ、甘い声が堪らず鼻へ抜けて行った。
二人の足元では、行き先を奪われた金色の巻き毛の猫が催促するようにウロウロと行ったり来たりを繰り返す。
ようやく唇を解放された時には、氷河の頬は紅潮し、すっかり力の抜けた身体はミロが腰を腕一本でどうにか支えてやっている状態になっていた。
ミロの肩へ頭を預けていた氷河は、それでも、ソファの下を苛々と左右に往復している『ミロ』に気づき、ゆっくりと手を伸ばす。
「ミロ……」
大好きな氷河に名前を呼ばれて、猫は、なー、と鳴くと、ソファの座面へと飛び上がり、氷河の膝の上へと乗った。
氷河は片手でその身体を抱いて、胸元へ『ミロ』を抱き寄せた。
金色の猫の蒼い瞳を見つめながら、氷河は言う。
「すきだよ、ミロ」
表情を隠す長い金糸を唇で手繰って白いうなじへ唇を押し当ててミロが問う。
「それはどっちだ?」
氷河の指先が『ミロ』の巻き毛をくるくると弄ぶ。
「………………ねこ」
くくっと笑ったミロの巻き毛が氷河の頬を柔らかくくすぐった。
それはやはりほんの少し日なたの匂いがした。
(fin)