寒いところで待ちぼうけ

短編:ミロ




◆海の青と空の青◆

 じりじりと肌が灼け付く音がする。
 痛いほどの日差しに氷河は手を翳し、雲一つなく晴れ渡った空を見上げた。
 暑いのは苦手だ。
 照りつける太陽の熱も、眩しすぎる光も、年中低く雲の垂れこめている雪と氷の大地で育った氷河にとっては、体中の力を奪い去って行く脅威に過ぎない。
 なのに。
 なぜ俺はこんなところにいるんだろう……。
「気持ちいいぞ。君も早く来い!」
 波打ち際で、豪奢な巻き毛が楽しそうに揺れている。
 氷河のところからは逆光でその表情は見えないが、見なくてもわかる。きっと、あの太陽に負けないほど邪気のない笑顔で子どものように笑っているに決まっている。
 氷河は溜息をつき、焼け付いた白い砂に足を一歩踏み出した。

**

 氷河はミロと太平洋に浮かぶ赤道直下の小さな島に来ていた。
 無論任務だ。
 だが、自分が来る必要があったのか、と思うくらいに何もすることなどなかった。
 ミロは終始上機嫌で、氷河が手を出す隙を与えず、与えられた魔族討伐任務をあっさり終わらせてしまった。氷河は憮然とミロに抗議する。
「俺に実戦で学ばせてくれるはずじゃなかったのか」
 確かにミロは女神にそう言って、わざわざ氷河を呼び寄せた上で帯同させたのに、学ばせてくれるどころか、氷河が不穏な気配を察した時には全てが終わっていた。
 氷河の抗議を背中で聞いて、ミロは肩を揺らして笑う。
「だから君は坊やだと言うんだ。手取り足取り教えてもらえるとでも思っていたのか?どうやら我が友は君を相当に甘やかしているらしい。黄金聖闘士の闘い方を間近で見たんだ。まさか何も得るところがなかったとは言わせないぞ」
 そんなことを言われても。
 氷河が目にしたのは翻るマントの白、それだけだ。自分が飛び出すより早くミロの閃光が走ったのだ。風をはらんで翻ったマントが重力に従って静かに彼の背を覆うように垂れた時には、その村を長年苦しめていたという悪しき眷属は皆地に伏せ、煙のように失せていくところだった。あれで一体何を学べと?
 だが、ミロの動きにまるでついてゆけなかった、と認めてしまうのはどうにも悔しい。
 結局、氷河は口の中で、「まあ少しは勉強になった、というか、次からは俺にやらせてほしい、というか、」と、はっきりしない言葉をもごもごと呟くにとどめた。
 屈んで自分の荷物の中をごそごそと探っていたミロは、ほら、と振り向きざまに何かの布きれを氷河の方へと放って寄越した。
 反射的に手を出して受け止め、なんだ?というようにその顔を見ると、青い瞳が笑って弧を描いていた。
「見てもいないのに『勉強になった』、とは坊やも立派になったもんだ。ならばもうこれ以上学ぶ必要もあるまい?残りは休暇だ」
 カアッと氷河の全身が熱くなった。
 ミロは氷河が彼の動きにまるでついていけなかったのは先刻承知なのだ。ひどい、なんて人だ、と憤りかけ、だが、そもそも自分が正直に「速すぎてわからなかった」と言いさえすればかかなくて済んだ恥だ。
 どんな反応を返せば、このバツの悪さが失せるのかわからず、しかめっ面で氷河は両手で受け止めた布地をぎゅっと握りしめることしかできない。
 いつもならさらにからかって氷河を頑なにさせるミロは、珍しく、横顔に軽い笑みを浮かべただけでまた背を向けた。そしてそのまま、鼻歌でも歌い出しそうな様子で纏った聖衣を解き始める。
 バツの悪さを抱えたまま、見るともなしにぼんやりとそれを見ていた氷河は、ミロが聖衣のみならずその下の着類まで脱ぎ始めたことにぎょっと目を剥いた。
「ちょっ……な、なにをやっているんだ、ミロ……!」
 慌てて止めようとしたときにはもうミロが纏っているものは薄布一枚となってしまっていた。
 こんな日の下で恥ずかしげもなく下着一枚となったのかと思いきや、それは。

 ……サーフパンツ……?

「……いったいなんだ……?」
 本当に暑いな、とミロは豊かな巻き毛をかき上げながら、いたずらっこのようにニッと笑った。
「『真夏に海辺で任務』……ほかに何をするんだ?泳ぐに決まっているだろう?ほら、君も着がえるといい。喜べ、俺とお揃いだ」
 言われて初めて氷河は自分が握りしめていた布きれを、日の下にしっかりと広げた。
 なるほど。
 トロピカル柄のずいぶん軟派なサーフパンツだ。泳ぐにはうってつけ。

 ……ではなくて。

「どうして聖衣の下にこんなものを……」
「手間を省いたんだ。君にも先に渡しておけばよかったな」
「あ……呆れた……!」
 最初から、そのつもりだったのだ、この人は。
 どうりで「任務」だというのに最初から上機嫌だった。氷河に学ばせるなどというのは口実で。
 バツの悪さもどこへやら、氷河の中にふつふつと怒りがわいてくる。
「俺……俺は真面目にあなたに……」
「君に俺が教えられることは何もないさ。そんなやわな奴に俺は宮を通らせてやったりなどしない」
 なんてひとだろう、ミロと「任務」だからと、本当に真面目に学ぶ機会を得たつもりで心が躍っていた自分の立場は、と氷河の中で湧き上がった怒りは、ミロの言葉に急速に勢いを失った。
 圧倒的な力の差を今しがた目にしたばかりだというのに、いや、目にしたばかりだからこそ、認められて悪い気はしない。
 ミロのこういうところはずるい。
 もしかしたら、一刻も早く海に飛び込みたくて適当なことを言っているだけかもしれない、と思いながらも、真っ直ぐに氷河を見る青い瞳に嘘はない気もして、いつも簡単にごまかされてしまう。
「……でも『坊や』なんだろ」
 精いっぱいの氷河の反論は、思った以上に拗ねた色が滲んでいた。
 ほら、そういうところが「坊や」なんだと笑われるに違いない、と唇を噛む氷河の前へ大きな影が動いた。君主に伺いを立てる騎士のように跪いて、きつい日差しにじわじわと焼け付く氷河の手をミロの大きな手のひらがそっと取った。
「任務だと言わなければ君は来てくれなかった。君と『休暇』を過ごしたかったんだ、いいだろう、氷河?」

 ……やっぱりミロはずるい。
 これで頷かずにいられる奴なんかいるわけがない。

**

 ミロは大きなイルカさんフロートに身体を預けて、気持ちよさそうに目を閉じて浅瀬の波間に漂っている。
 任務のついでの休暇だったのではなく、もしかして休暇のついでの任務だったのではないかと疑いたくなるほどにずいぶん用意周到だ。
 しぶしぶ聖衣を解いて着替えた氷河だが、だからと言ってまだ燻る気まずさと気恥ずかしさに能天気にはしゃぐ気にもなれず、波打ち際で気後れしながらそっと足を海水に浸した。
 想像していたよりほんの少し冷たくて、灼熱の太陽に照らされて火照った肌には心地よい。
 足の裏で細かな砂が波の動きに合わせて動いているのがくすぐったくて思わず氷河の頬が緩む。
 ミロがくすりとそれを笑う。
「そんなところで立っていないで、君も泳げばいい」
「……こういう海は初めてなんだ」
 砂浜も。凍りついていない海面も。眩く光る水面も。
 泳ぐことなど息をするのと同じくらい馴染みの行為だが、自分の知る海とはあまりにかけ離れたこの姿は、落ち着かない気にさせられて氷河は戸惑う。
「変な奴だ。凍った海が普通だと思っているなら改めた方がいい。ほら」
 ミロが立ち上がって氷河の方へ手を伸ばす。
 大きな手のひらから零れた海水が、ザ、と水面を不規則に波立たせる。
 凍った海面に閉じ込められて、行き場を失って暴虐をふるう潮流は今はない。
 白く泡立つ海面に誘われるように、氷河はおずおずと差し出された手を取った。と、その瞬間、強い力がその手を引いた。あっと思った時には口の中に塩辛い味が広がっていた。
「な、何をするんだ!」
 海水の中に沈んだ身体を引き起こしながら目を白黒させれば、ミロは、ははは、と笑いながらイルカの背に乗って沖へと逃げる。
 逃げるなんて卑怯だ!とそれを追う氷河の声もじわりと頑なさが綻び始めていた。


 透明度の高い海水は白い砂浜にコバルトブルーの色を添え、キラキラと太陽を反射させる水面はやはり眩しい。
 馴染まない景色ではあっても、潮の香りだけはどこか懐かしい。
 ミロのフロートに二人掴まって沖へと出てしまえば、いてもたってもいられなくなり、氷河はミロを一人残して、くるりと飛び込むように海の底へと潜って行く。
 氷河は目を瞠って海底の景色を眺める。
 珊瑚の森を回遊する色とりどりの魚の群れ。
 氷河の気配に慌てて動きを変える魚たちの銀色の鱗が水面から降り注ぐ太陽の光にキラリと光る。
 目の前を横切って行く小魚の群れはその形を小さく、大きく、自由自在に変え、氷河はそれを夢中で追いかけた。
 時折、群れからはぐれた魚が逃げ場所を探して珊瑚の影へ潜り込む。
 海の青と、珊瑚のピンク、岩肌の黒、底砂の白、数えきれない魚たちの赤、碧、黄……ありとあらゆる色が鮮やかに氷河の周りに広がっている。
 見たことのない幻想的な光景に魅せられ、氷河は息の続く限り水中を泳ぎまわり、ゆっくりと海面へと浮上した。
「魚!魚がいた!」
 息継ぎもそこそこに興奮気味にミロを振り返った氷河に、ミロは吹き出す。
「そりゃあいるだろう。海だからな」
 違う。
 氷河の知る海にはこんなに魚などいなかった。
 あそこで見えるものは、黒と灰色と冷たい白、ただそれだけ。
 モノクロームのような海にあるのは、浮遊する名も知らない微生物と、昏い海溝に沈む船と……。
 氷河は、ミロを置いてもう一度、青い海に潜って行く。
 海がこんなに美しかったなんて。
 氷河にとって海とは、母を、兄弟子を奪った昏い死の象徴だった。
 初めて見る、宝石箱をひっくり返したかのような色鮮やかな景色は、命の輝きに溢れていて。
 不思議だ。
 この海が、あの酷薄な冷たい死の海ともつながっているなんて。
 あの凍える海の先にこの温かい海があり、命を育む海の先には命を奪う海がある。生はいずれ死へ向かい、死はいずれ生へ還る。
 有史以来途切れることなく営まれてきた命の循環。
 氷河はたくさんの命を抱き締めるように両手を広げて、波の揺らめきに身を任せて長い間海中を揺蕩った。


 何度目かの潜水の後、ようやく氷河はミロに意識が戻った。
 浮上して、フロートに体を預けたままのミロのところに泳ぎ寄る。
「ミロも潜ればいいのに。綺麗だぞ、ここ」
「俺はいいさ。坊やが喜んでくれたならそれでいい」
 まるで自分のために連れてきた、ような言い方に、氷河は少し言葉を呑み、だが、不意に気づいて顏を上げる。
 そういえば……ミロは一度もフロートから離れない。
「……もしかして、ミロ、泳げないのか」
 ミロから返事はない。
 片腕を眩しそうに目の上に翳して、聞こえなかったかのように氷河から目を逸らしている。
 ……あ、この感じ。
 本当に地雷を踏んだのか。
 何でも完璧で、隙のないミロが見せたその姿に胸が勝手に疼く。
 もしかして、自分は泳げないのに俺のためだけに?
「ミロ……」
 思わず、呼びかける声に気遣いの色が滲んでしまい、氷河は慌てて唇を噛んだ。それは、プライドの高い男には、決してしてはならぬ気遣いだ。
 しかし、ミロはぷっと吹き出して氷河を見た。
「くくっ……坊やは本当にからかいがいがある。泳げないわけがあると思うのか?俺は島生まれの島育ちだぞ」
「なっ、なんだよっ…人がせっかくっ…!こ、の!だったら…!」
 甘く疼いた胸をごまかすかのように氷河は派手な水しぶきを上げて勢いよく海面下へ戻った。
 フロートの下へ潜り、それをひっくり返すように体をぶつけてミロの腕を引く。バランスを崩して、初めてミロの体が海面下に沈み、氷河はさらに潜ってその足を引いた。何度かミロに蹴られたが、水の中なら黄金聖闘士にも負けない自信はある。(なぜそこまで潜水が得意になったのかという経緯を考えれば、あまり胸が張れないのだが)
 しばらく水の中で格闘を続ける中、一瞬だけミロの全身を水中に沈めることに成功して、どうだ!と笑って氷河は海面に顔を出した。
 二人が暴れた海面は白く泡立ち、ひっくり返ったイルカさんは腹を見せてぷかぷかと浮かんでいる。
 氷河が足を引いて海中に沈めたミロはまだ上がってこない。
「ミロ?」
 今度はきっと自分の足を引いていたずらをしかけてくるに違いない、と思った氷河は警戒して辺りを窺う。
 海面に広がっていた白い泡が次々にしゅわしゅわと弾け、だが、それも次第に減り始める。
 弾けた泡の名残だけが、平らかに変わった波の上へ広がるばかりとなってしばらく経ってもミロは顔を出さない。
 少しずつ、氷河の警戒は不安へと変わる。
 そ、その手に乗るもんか。
 俺が動揺しているのを見て、どこかで笑っているに違いないんだ、きっと。
 氷河は波間に浮かぶフロートを引き寄せ、周囲をぐるりと見回した。が、波間にはミロどころか何の影も見えない。
 圧倒的な質量の海水だけが氷河を押しつぶすように迫る。
「ふざけるのはやめろよ、ミロ!」
 張り上げた声に応える者はない。1時間だって潜っていられる氷河ならともかく、普通の人間ならとても息が続くとは思えない時間が経過している。
 もはや何も考えられなかった。
 まさか本当に泳げなかったのか?俺の前で虚勢を張って……?そんな……そんなはずは。
 昏くつきまとうイメージに勝手に氷河の心が震える。
「ミロ!」
 氷河は長く息を吸い、海底を目指してくるりと身体を回転させた。


 どこだ。
 氷河はミロの小宇宙を探して、神経を研ぎ澄ます。
 微かに感じた気配の方へ顔を向けると、海底に力なく四肢を投げ出して揺蕩う白い体を視界に捉えた。
 氷河の心臓が音を立てて跳ね上がる。
 瞬時に過ぎる昏い海のイメージが二重写しのように重なり、やや乱れたフォームで、氷河は慌ててミロを目指して深く潜った。動揺のあまり、せっかく長く吸いこんだ息がごぼりと口から漏れる。珍しいことに少し海水まで飲み込んでしまい、苦しさでまた、ごぼり、と息が漏れた。
(ミロ!)
 泳げないなら泳げないなりの態度でいればいいのに、あんな風にわざと挑発するなんてばかだ、このひとは。
(ミロ!……ミロ!)
 もどかしい身体を操ってようやくミロの元へ辿りついた氷河は、波の動きにゆらりゆらりと揺れている腕を掴んだ。
 真紅の閃光を放つその逞しい腕は、彼の魂と言ってもいい。それを動かす意志を手放して潮流に身を委ねている姿はとても見ていられるものではなかった。

 俺の、せいだ。

 氷河は掴んだ腕を引いて、ミロの体を抱くように抱えて浮上しようとした。
 しかし、氷河の足が海水を蹴る寸前で、力を失っていたはずのミロの腕がゆらりと動き、氷河の腰にまわされた。
 な、と氷河が驚いて振り向くと、ミロの瞳が、パチリ、と音がしそうな勢いで開かれた。

 あ、やられた……

 そう思った時には、ミロによって氷河の唇は塞がれていた。
 怒って突っ張るようにミロを押し戻す腕を掴まれて、酸素を奪われるように深く口づけられる。
 ふざけるのはやめろ、と暴れる氷河の腰を宥めるようにミロが撫で、海より青いブルーの視線が、暴れるのはよせ、ほら、もっと周りを見てみろ、と釘を刺す。
 氷河の激しい動きに海の生物たちは驚き、怯えて逃げ惑っている。
 あ、と氷河はその動きを止めた。
 ミロが、な?と瞳で笑って、抵抗の止んだ体をそっと抱き締め直した。
 長い金の巻き毛が海の中でゆらゆらと氷河の周りを揺蕩う。
 オレンジがかったミロの金髪と氷河の淡い金髪がまるで意志をもった生物のように絡まり合って二人の姿を包む。
 金色の柔らかな繭の中で交わす口づけは、周囲を包む生命の輝きにもまして温かく、時折、近寄って来ては髪をつつく熱帯魚たちに、氷河はしばしの間、怒りを忘れて陶然と見入っていた。

「……あなたなんか嫌いだ」
 眩しく光を反射する水面から顔を出し、さすがに切れた息をはっはっと整えた後、氷河はそう言ってミロに背を向けた。水をかいて岸を目指すのを、ミロの笑い声が追いかけてくる。
「俺は嘘はついていないぞ。言っただろう。島生まれの島育ちだと。君が勝手に誤解したんだ」
「違う、そういうことじゃない」
「じゃ、どういうことなんだ」
 穏やかな表情を見せる青い海だがそれなりに潮の流れというものはある。だが、推進力を無理な方向へ働かせず、うまく水をかくタイミングを合わせるコツを知っていれば地上と同じ、とまではいかずともそれなりの速度で進むことができる。
 ミロを本気で振り切るつもりで泳ぐ氷河の目には岸がぐんぐんと近づいてくるのに、背にかけられるミロの声は一向に遠のいてゆかない。
 泳ぎが得意、というのは本当のようだった。ミロを振り切れないばかりか、ミロの方が氷河を追い越す気配もなく、それがずいぶんと勘に障り、氷河の感情をこれ以上なく波立たせた。

 しばらくして、水中を蹴っていた氷河の足が砂地へと届いた。ざ、と水を滴らせて立ち上がり、乱暴に水を跳ね上げて岸へ向かう氷河の手を、追いついて同じように立ち上がったミロが、捕まえたぞ、坊や、と引いて止める。
 勢いよく腕を掴まれてよろめいた氷河の横顔にミロの目がかすかに見開かれた。
「……泣くほど嫌だったのか」
「泣いてなんか……」
 ミロに顔を背ける氷河の眦に乗った雫を、ミロは腰を折ってペロリと舐めた。
「しょっぱいじゃないか」
「し、知らないのか。海水は塩辛いんだ」
 乱暴に吐き捨てた語尾が、微かに震えた。
 強い太陽の光が、濡れた前髪を庇として影を作らせ、氷河の目元を隠す。ミロはその影を払うように指先で氷河の前髪を流す。
「キスで泣かれてはさすがに辛いものがあるな」
 違う、そうじゃない、と氷河は唇を噛む。口を開けば、声がどうしようもなく揺れそうだ。
 みっともなく震える声は聞かれたくない。だが、何も知らぬ無垢な少女でもあるまいしキスぐらいで泣いたとミロに思われたくもなかった。
「……今度、死んだふりなんかしたら……許さない」
 何度か氷河の額の上で、稜線を辿るように往復していた指がぴたりと止まった。
 ざわざわと潮騒だけが響く。

 不意に氷河の肩へ腕が回され、濡れた身体が強く引き寄せられた。裸の胸へ氷河の頭が強く押し当てられる。
 ドク、と力強く脈打つ鼓動が、寄せて返す波音の合間に氷河の耳へと届く。
「……悪かった。もうしない」
 似合わず神妙な声を出したミロはきっとカミュから氷河の母親のことを聞いているのだろう。
 違う、と氷河の胸に何かがつっかえた。
 そうじゃない。
 そうじゃなくて───俺は「あなたに」あんなふうに置いて行かれるのがもう二度と嫌なんだ。
 俺を圧倒的に凌駕して、強い命の煌めきを刻みつけていったくせに。生の儚さに慣れた氷河をして、この人だけは絶対に死なないに違いないと安心感さえ与えておきながらミロは───
 胸を重く塞いだその塊を氷河は口にはしなかった。
 その感情がどこからくるものなのか、素直に認めて相手に告げることは、思春期の少年には難しい。未だ母の死の影から逃れられない軟弱な精神の持ち主だと思われることよりずっと。
 ミロの手のひらが子どもを宥めるように氷河の頭を撫ぜる。
 そんなふうに子どもにするように氷河を撫でるのは師の癖だ。なんとなく、このひとにそういう触れ方をされるのは胸が不快にざわざわと騒ぐ。

 子ども扱いされるのも悔しく、だからといって、さらりと自分の感情を種類を認められない程度には子どもで。

 どうしようもなくなって氷河はぎゅっとミロの背に腕を回した。いつになく素直に自分に応えようとする氷河の様子に、慣れた仕草でミロがさらに抱き返す。
 甘い空気を纏わせて背へまわされた腕を氷河は取った。そして、そのまま、す、と身を沈める。
 一回り小柄な氷河が身を屈めたのだ。突然姿を見失って、なんだ、と驚くミロを視界の端に捉え、氷河はさらに取った手を胸へ抱え込んだままミロへ背を向けるように体を回転させた。
 格下とはいえ、同じ聖闘士の力で腕を取られ、バランスを崩したミロの表情がさすがに険しく変化する。
「……く……っ」
 足元が流動する不安定な砂地でなければきっと不意打ちであってもミロは堪えていただろう。
 だが、黄金聖闘士の体躯を支えるには頼りない大地に邪魔をされて、氷河の狙い通りに綺麗に背負い投げが一本……決まった、とは言い難く、思いのほかあったウエイト差にミロを背に乗せたまま、氷河自身も水音を立てて波打ち際へ倒れ込んだ。

「……?何がしたかったんだ……?」
 なんとなく甘い空気が漂っていたような気がするのに、いきなり水の中に二人して倒れ込む羽目になったミロの疑問はもっともだ。
「し、仕返しだ……!あなたが意地悪するから……!」
 予定ではミロを綺麗に波の中へ沈めて、笑いながら言ってやるはずだったセリフを、氷河は真っ赤になってそれでもどうにか強気に言い放つ。
 だが、言った瞬間、ほとんど唇が触れそうな距離に男の精悍な顔があることに気づいて氷河の心臓はドッとその鼓動を早めた。
 ミロの体躯はまだ氷河の上へ重なったままだ。
 いつもならくるくると好き勝手な方向に巻いているミロの金髪が、水に濡れてその曲線を失っている。目の前にいるのがまるで自分の知らない男のようで、氷河はうろうろと視線を彷徨わせた。濡れると意外に長い前髪の奥で海の青にも似た深いブルーの瞳がこちらを見返している。
 と、不意に、マリンブルーが三日月のように細められ、氷河の上でミロは額に手を当て、堪えきれない、というように肩を震わせて笑い始めた。
「初めてだ、あの状況で俺を投げようとした奴は……!まったく、君ときたら……!」
 笑われるのは面白くない。
 それでも、自分の予定とずいぶん違ったが、とりあえずはカラリと軽くなった空気に、ほ、と氷河は安堵した。
 息を吐いた拍子に、淡い色の睫毛にまだ乗っていた小さな雫が空へ散り、それは同じ味をした母なる海へとゆっくりと還って行った。

**

「痛い……」
 浜辺に座った氷河が肩を押さえて呻く。
 無防備に晒された肌が赤いのは、沈んでゆく日の色を映して、のことではない。
 半日近く、灼熱の光線を受け続けた氷河の肌は痛々しく赤みを帯び、じんじんと熱を持っていた。
 濡れてうなじに貼りついた氷河の金髪をミロは掬うように後ろに流した。
「ここは無事だな。髪のおかげだ」
「あなたはずるい……」
 ミロの方もしっかりと焼けているのだが、氷河より髪が長い分、ひりひりと痛む面積はずっと少ない。
「日焼け対策までは考えてこなかったな。ちょっと見せてみろ」
「……見るだけだからな!絶対に触るなよ!」
 噛みつくような勢いの氷河の腕を掴んで回れ右させると、白かった背中は余すところなく真っ赤になっていた。
「これは痛そうだ」
「『そう』じゃなくて、『痛い』んだ。くそっ、やっぱり嫌いだ、海なんか」
「そう言うな。仕方ない。今日は君に主導権を握らせてやってもいいぞ。背中をつけない体勢で、となると……君が上に乗るか、後ろからか……ああ、でも坊やは後ろから攻められるのは弱いんだったな?こんなに焼けていなけりゃ、聖衣を着けたままで、というのもなかなか燃えるところだが……さすがに今纏うのは無理か?」
 白く焼け残ったうなじに唇を這わせ、なだらかに続く稜線を辿って耳元で甘く囁くミロに、氷河は顔を赤くして振り向いた。
「最低だな、あなたは!聖衣をそんなことのために使おうとするな!ミロの変態!」
 ミロはニヤリと笑って氷河を見る。
「『そんなこと』って何だ?聖闘士が二人いるんだぞ?やることと言ったら決まっているだろう。君は『学びたかった』んじゃなかったか?正面以外からの攻撃に弱い君の弱点克服につきあってやろうかと思っていたが……そんなに期待されては俺も」
「……っ!!」
 ミロの言葉を遮るように、氷河はフルフルと拳を震わせて立ち上がった。
 騙されまいと思っていたのに、またまんまと引っかかった自分が悔しくて、勢いに任せてそのまま背を向ける。
 後ろで、ミロの笑い声と、おーい、荷物も持たずにどこ行くんだという声が聞こえていたが、自分の誤解があまりに恥ずかしくて、氷河は振り返らずにひたすら歩き続けた。


「ほら、いつまでも拗ねるな。可愛い顔が台無しだ」
「……別に台無しのままでいい」
 何しろ、ちゃんとした宿泊施設もないような辺境の地だ。
 氷河の逃げ場所がそうたくさんあるわけもなく、海岸線からいくらも離れないうちに追いかけてきたミロに簡単に捕まった。
 ミロはそのまま氷河の手を引いて歩いて行く。
 どこまで行こうとしているのか、目的はあるのか、集落からも海岸線からも離れ、南国性の樹木がうっそうと茂る森の中をミロは進む。
 太陽が地平線の向こうへ隠れた刻限とあっては、足元もおぼつかず、ともすれば半歩先ゆくだけのミロの背すらおぼろげで、強引に掴まれた手首に感じる温かさだけが世界と自分を繋ぐ拠り所に思え、氷河は途中からただ黙ってついて歩いていた。
 と、時折、頬を打っていた葉が途切れたかと思うと、ぼんやりとした光が前方に現れた。
 小さな丸太小屋だ。扉の所に灯されたランタンの炎が二人を迎えるようにゆらゆらと揺らめいている。
 不審な顔をしてミロを見上げる氷河に、この地へ安寧を取り戻した戦士へのお礼だそうだ、今夜の宿がわりとしよう、とミロは片目をつぶってみせた。
 多分、元は誰かの住居として使われていたのだろう。集落から離れて一棟だけ、というあたり、元の居住者のあまり愉快とは言えない何らかの事情が察せられたが、世から秘匿された戦士の一夜の宿としてはなかなかふさわしいように思えた。何より久しぶりの海に気怠く鈍い疲労を纏う身体が休息を欲していて、柔らかなシーツの海へ身を投げ出したいという誘惑には抗えそうにない。

 が、気軽な気持ちでミロに続いて小屋に入った氷河の身体は、ぐるりと内部を見渡して瞬時にドッと熱を上げることとなる。
 人ひとり暮らすのに困らない程度の広さしかない小屋の内側は、部屋らしい部屋も仕切りもなく、扉を開けばすぐに小さなキッチン、南国の名も知らぬフルーツの乗った木造りのテーブル、それから、突き当たりの窓辺の下へはベッドが───ひとつ。
 聖域を頼った村人達が救いの戦士を迎えるために改めて調えたらしく、そこだけ真新しい寝具の眩しい白が氷河の激しい動揺を誘う。
「……っ……俺、俺は……」
 師の目を盗むように、ミロが触れる唇の意味を知らぬほどに子どもと言うわけではない。何より、ほとんどミロに一方的に押し切られたようなものではあったが、何度かその交わりは経験していた。
 だからこそ、のこのこと気軽についてきた己の迂闊さに恥ずかしさで気が遠くなりそうだ。
 まだ、ミロに対して感じている感情に名前がつけられないでいる。氷河の中ではまだ何も始まっていない。なのに、これは───。

 扉のところで立ち止まった氷河の肩を押して、ミロが静かに入り戸を閉めた。
 僅かな音しかしなかったはずが、ミロの手のひらの下で熱を持った肌は勝手にびくりと震えた。
 ミロは氷河を置いて、一歩、部屋の内側へと足を踏み出す。テーブルの上へ乗ったフルーツの中から赤く熟れた小さな果実を房から?ぐと、ミロはそれを口の中へと放り込んでみせた。
「ん。甘いな。喉を潤すのにはちょうどだ。君も食うといい」
「そ、んな、無防備に……毒でも入っていたら……」
 ミロの唇が赤い果汁で濡れている。
 ははっと笑った瞬間のぞいた舌も赤く濡れていて、あの舌がいつも俺を、と、また氷河の熱が上がる。
「白鳥は慎重なことだ。だが俺は蠍だ。毒には強い」
 第一そんな物騒なものは入っていやしない、と伸びてきた腕が氷河の唇へつるりと冷たい果実を押し込んだ。
 歯の間でプチ、と弾けた丸い実は瞬間、瑞々しい甘い芳香を放って、濃密な味を口の中いっぱいに広げてゆく。濃い芳香に、くらくらと酔いそうだ。
 ミロはその様子を唇の端で笑い、濡れて絡まる長い髪を掻き上げた。
「まずはシャワーだ。潮でベタベタだ。一緒に浴び…」
 光速の勢いで氷河は首を左右に振る。
 首がもげるぞ、と笑って、ミロはあっさりと一人で、バスルームと呼ぶにはずいぶん簡素な扉の奥へ消えて行った。


 ミロと入れ替わるようにして、氷河もちょろちょろと頼りない水流の下に身を置いて、海水でべたべたしていた肌を洗い流す。
 地下水でも汲み上げているのか、水圧は頼りなかったが、冷たい水は肌の火照りに心地よかった。
 だが、肌の上を灼いた熱とは別の何かが、ドッドッと氷河の鼓動を乱れさせている。

 ───ミロがバスルームから出るのを待つ時間のなんと長かったことか。
 ぐるぐると意味もなく小屋の中を歩き回り、だめだ、やっぱり俺だけ一足先に帰ろう、と決意して顔を上げたのと、耳を打っていた水音が途絶えているのに気付いたのは同時だった。
 水を滴らせたまま、ほら、と氷河のために開いた扉を支えたまま立つミロに───逃げ場もなくなった。

 唇の上を流れ下りていた塩辛い水から次第に塩気が抜け、完全に真水へと変わってしまえば、もうほかにすることもなくなり、仕方なく氷河はレトロな形状のバルブをきゅっと閉めた。
 氷河は深く息を吸い込み、それをふーっと吐き出した。

 ばかばかしい。
 俺、何を一人で自意識過剰になっているんだ。

 頭を振って、氷河は水滴を拭うようにタオルを乱暴に肌に押し当てる。拍子に、忘れかけていた痛みがひりひりと肌を突き刺して、うっと氷河は呻いた。
 そうだ。
 今日はそもそも、痛くてそれどころなんかじゃない。
 突き刺す痛みに何度も呻きながら氷河は扉の所へかけていた洋服へと手を伸ばした。
 あまりの痛みに下だけはかろうじて穿いたものの、上はもう服を着ることは諦めてタオルを肩にかけたまま扉を開けると、ベッドに腰掛けて濡れ髪を掻き回していたミロが顔を上げた。

 よりによって、なんでそんなところに座るんだ、とまた跳ねた心臓をどう、どう、と宥めれば、ミロが来い、と手招きをした。
 ……抵抗すれば、意識しています、と伝えるようなものだ。
 出来る限りのポーカーフェイスで素直に氷河は歩み寄る。
 ミロは自分のタオルで、氷河の髪を同じようにわしゃわしゃと拭いた。甘さの欠片なく、犬か何かのように扱われて、ほ、と俯いた氷河は小さく息を吐く。
 ほら、やっぱり俺の自意識過剰だった。

「背中もまだ濡れているじゃないか」
「だって……痛いんだ。いいんだ、ほっといてくれ」
「変な奴だな、君は。凍気で冷やせばいいじゃないか」
「…………あっ……?」
 氷河の遅れた反応に、ミロも虚を突かれ、それから身を二つに折って笑い始めた。
「……君という奴は……!まさか自分が凍気使いだって忘れていたと言うのじゃあるまいな?」
 そのまさかだ、なんて言えるわけがない。どうして俺はこの人にかっこ悪いところばかり見せてしまうんだろう、と氷河は今日一番赤い顔をして俯いた。
 遅ればせながら手のひらの中に呼び起こした凍気を薄布のように体に纏いながら、今からするところだったんだ、と言ってみせるのがもう精いっぱいだ。

 引き攣れたような笑いの発作をどうにかおさめたミロは、不貞腐れた顔で俯いている氷河の体をそっと引き寄せる。
「ああ、いいな、コレ。俺も冷たくて気持ちがいい」
「やめろよ、俺が暑いからいやだ」
「ケチケチするな」
 ミロの唇が氷河の纏う凍気を楽しんでいるのか、氷河の肌そのものを楽しんでいるのかわからないような動きで、ゆっくりと肩の稜線を辿ってゆく。
「選ばせてやろう。後ろからがいい、座ったままがいい。君が上でもいいぞ」
 ふん、そう何度も同じ手に乗るか、と氷河はそっぽを向いて答える。
「後ろからだろうと、座ったままだろうとあなたになんか負けないからな」
「へえ?言ったな、坊や。それは楽しみだ」
 氷河の腰を抱くミロの腕に力が込められ、うなじの上をゆるゆると辿っていた唇が火照る肌をちゅ、と吸い上げた。濡れた響きに、赤い果汁で濡れた舌が脳裏を過ぎり、あ、と氷河は声をあげる。
 ぴたりと吸いつくように合わせられた裸の胸へ手を置いて、既に氷河の耳を食むように戯れている男の体躯を押し戻す。
「ま、待て、『聖闘士二人いたらやることは決まってる』んだろう!?」
「聖闘士の時間は終わり。休暇だからな」
「え、で、でも……!」
 ミロの腕の輪の中に閉じ込められた熱を帯びた身体が身もだえするように逃げをうつ。海の色を宿した瞳がその抵抗すら愉しむように弧を描いて細められる。
 ほとんど口づける寸前まで近づけられたミロの唇は、紙一枚ほどの隙間を残して動きを止めた。からかうような吐息が氷河の唇の上を撫でる。
「氷河」
 間に挟んだほんのわずかな空気を震わせて響く低音が甘く全身を痺れさせる。
 ミロの手のひらが包むように触れている頬がただの日焼けにしてはやけに熱い。
「好きになったか」
 唇の間で震えた空気に耐えがたく鼓動が早まる。
 どうせ知っているくせに、何故俺に言わせようとするのか、男の余裕が憎らしい。
「な……に、を……」
 この期に及んで、決定的な言葉を頭の中から追い出して、必死に言い訳を探している氷河の耳へ、だがしかし、予想外の単語が届いた。
「海を、だよ」

 海?

 氷河はまじまじとミロの瞳を見つめ返した。

「海は……」

 手のひらに掬えば透明な水は幾層にも折り重なって青へと変わる。
 命を奪う酷薄さを秘めた青はまた、何ものにも代えがたいほどの命の煌きを内包する優しげな青でもあった。

 マリンブルーの視線は静かに答えを待って氷河の上へ注がれている。

「海は……」

 視界いっぱいに青が広がる。
 ああ、まるで海の中にいるみたいだ。
 もう息もできない。

「海は……好きだ」

 ようやく絞り出した氷河の答えに、そうか、と海の青が笑って揺れた。

(fin)
(2012.6.30up)