寒いところで待ちぼうけ

短編:その


無印世界、貴鬼(21歳)×氷河(27歳)


◆未来を紡ぐ足跡◆

 最初は風の音かと思った。
 春とは名ばかり、雪にうずもれた小さな丸太づくりの小屋を、いつものように轟々とうねる風が揺らしたのかと。
 だが、自然界のものとは異質な僅かな音を氷河の耳が敏感に捉え、反射的に身構えさせた。
 身構えると同時に、その音の正体に気づいて、氷河はフッと息を緩めて立ち上がる。
 何度も聞いたことのある音……いや、音というより、空気の揺らぎ、だろうか。
 身を切られるような冷気で囲まれた空間の一部が、そこだけ乾いた温かい空間と一瞬つながったことによる風の流れの変化を、長く第一線で戦っている戦士としての本能が敏感に捉えたのだ。

 ゆっくりと、凍てついた扉を開いてやると、案の定、雪の中に見知った顔の青年が立っていた。
「……貴鬼。そんな恰好で……」
 ジャミールでは不都合がなかったであろう軽装はシベリアでは命取りだ。いくらテレポーテーションといえど、寒いだろうに、と続けようとしたが、その言葉は喉の奥で消えた。
 月のない闇夜であっても、小屋から洩れる明かりが白い雪に反射して、彼の顏を照らしている。
 青年の睫毛は小さな氷の粒で覆われていた。このすさまじい冷気の中に晒されるまでは、それは雫として睫毛に乗っていたのに違いなかった。


「早く暖炉に当たるといい」
 自ら訪ねて来たにも関わらず、俯いて、雪の中から微動だにしない青年の腕をひいて、氷河は扉を閉めた。
 自分一人なら、この時期は火を絶やさぬ程度にしか燃していない暖炉に、彼のために幾本も薪をくべてやる。
 ぼう、と大きく伸びをした炎が貴鬼の頬を赤く照らし、氷の粒は再び雫へと姿を変えた。
 いつも陽気で周りを明るくさせている青年の、常にない憂いを帯びた横顔に、氷河は何も言わず、乾いたタオルで彼の髪に、頬に乗った雫を拭いてやった。

 数年前には、氷河の腰ほどしかなかった貴鬼の身長は、成長期を迎えるとあれよあれよという間に伸び、今や、わずかに氷河を勝るほどにまでなっている。しかも、もうとっくに成長は止まってしまった氷河と違い、どうやらまだまだ伸びる余地があるらしい。会うたびに、見上げる視線の高さが変わっている。
 背ばかりではなく、騒々しかったボーイソプラノは落ち着いたテノールへと変わり、子ども特有の柔らかかった肉は鋼のように引き締まった筋肉で覆われた逞しい身体つきへと変わった。

 それだけの、時が、経過したのだ。
 あの時から。

「貴鬼、座れよ」
 氷河は、いつの間にか少年から青年へと変貌を遂げた目の前の男に、暖炉の前のソファへ腰かけるよう促した。
 彼は黙って俯いたままだ。
 氷河は腕を伸ばして、貴鬼の背を柔らかく叩く。
「貴鬼。立ったままだと俺が落ち着かないんだ。お前のことを見上げるのは変な感じがするから」

 貴鬼は、そこで初めて氷河の方を見た。

 彼の師ととてもよく似たスミレ色の瞳が、一瞬、氷河の頭上を彷徨い、それから戸惑ったように視線を下げた。
 自分の予想より低いところにあった氷河の瞳に、経過した時間の長さを改めて気づかされたのだろう、まだ、あどけなさの残る顔がくしゃりと歪む。

「氷河……」
「うん」
 短い返事ではあれど、貴鬼がどうしてここへ来たのか知っているかのような氷河の声に、思わず甘えるように貴鬼は氷河の身体を掻き抱いた。
「俺……今日、21歳になった」
「うん」
 氷河は、それ以上何も問うことはなく、ただ、彼の背に手をまわして、優しく抱き締め返してやる。
 氷の聖闘士の意外に温かな身体に、貴鬼の頬を静かに涙が伝い下りた。



 21歳。

 長い人生のひとつの通過点。
 だが、氷河にとっても貴鬼にとっても、特別な意味を持つ区切りであることは確かだった。

 20歳で命を散らした師の歳を超えるということ。

 師の人生に直接幕を引いた氷河がその時を迎えた時の重さは格別であったが、貴鬼にとっても、それは、やはり平静ではいられない瞬間だ。
 だから、日本でもなく、五老峰でもなく、わざわざ、氷河を選んで訪ねてきたのだ。

 世界のために、地上の愛と平和のために、と、迷いなく己の命を犠牲にした師達のことをこの上なく敬愛している。
 だが、自分がその年齢に到達して初めてわかる。
 手が届かないほど、年上の、成熟した大人の男だった、と思っていた彼らの歳になってみて初めて、自分達にはそう見えていた彼らは思っていたほどには超越した存在ではなかったのではないか、と。
 彼らの歳を越えた自分たちが、まだ、迷い、苦しんでいるように、彼らの中にも、弱さや葛藤は存在していたのではないか。

 ほんの少しの躊躇いも、迷いもなく、気高く誇り高いまま散っていった彼らの苦しい胸の裡を、なぜ、あの時にもっとわかってやれなかったのだろう。

 語り合いたかった。
 もっと、もっと。
 同じ、聖闘士として、多くのことを語る時間が欲しかった。

「氷河……会いたい。ムウ様に会いたいよ……」
「うん……俺もカミュに会いたい……」

 二人の黄金聖闘士の弟子は、同じ想いを共有して、ただ、互いの体を抱き締め合う。他の誰とも共有できないその想いは、だからこそ、多くの言葉を必要とせず、互いの寂しさ、切なさを伝え合って、ひび割れた心の隙間に浸透してゆく。

 会いたい。
 大きくなった俺を見て。
 できることなら再び叱って欲しい。
 自分は、まだまだ、だから。
 あなたの力が必要だから。

 泣いて泣いて泣き暮らした日々は過ぎ去り、二人で過ごした館に、小屋に、色濃く残っていた師の気配が、日に日に薄くなってゆくことにたまらない寂しさを覚えながらも、喪って久しい師の背中を想うことは、日常の営みに紛れて少なくなってゆく。
 それでも、時々、どうしようもなく会いたくなる。
 特に、こんな、特別な夜には。

 互いの身体を、自分が求める、その人であるかのように強く抱いて二人は熱を、鼓動を伝え合う。
 優しく背を撫でる手も、柔らかく耳を打つ心音も、どれだけ欲しても欲しても、もう師からは再び与えられないもので。
 けれど、記憶の中で、そんなふうに何度も抱き締められたのは確かな事実。とても厳しい師で、めったなことでは褒めてなどくれなかったけれど、それでも、大切にされていたと知っている。その記憶があればこそ、どれだけつらくても何度でも立ち上がれる。

 ───カミュ、あなたに、たくさんの愛をもらったから。

 ───ムウ様、あなたに、生きていく強さをもらったから。



 パチン、と薪が爆ぜたのをきっかけに、貴鬼が涙に濡れた顔を上げた。
 氷河は、その涙を親指の腹でそっと拭ってやり、彼の頭を撫でてやる。かつて、よく、そうしてやったように。
 涙を見られた気恥ずかしさと、子ども扱いされた不満から、貴鬼は、視線を逸らせて怒ったように少し唇を突き出した。
「……今日は特別。いつもこんなに泣いてなんかないんだからな」
 言い訳じみた貴鬼の声に、氷河は一瞬、頭を撫でる手を止め、それから今度はやや乱暴に、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜるようにさらに強く撫でた。
「泣いたっていいんだ。お前は一人でよくやってるよ、貴鬼」
「氷河だって、一人なのは同じじゃないか」
 貴鬼が素早く周囲に視線を巡らせた。
 一人分の食器、一人分の寝具、一人分のコート……
 それは、ジャミールの自分の館でも同じ光景なのだが、日の光がふんだんに降り注ぐあの高原で見る景色と違って、この冷たい雪に閉ざされた小屋で見るそれは、とりわけ寂しい光景のように貴鬼の目には映った。
「一人って……俺はまあ、もう大人だし」
「俺だって大人だもん」
「お前が?」
 まだ、子どもだろう、と言わんばかりの氷河を、貴鬼は恨めしそうに睨んで、まだ貴鬼の髪を掻き混ぜている氷河の手首を掴んだ。
 無駄な肉の削ぎ落された、骨ばった手首は、簡単に貴鬼の手の中におさまってしまう。
「……氷河、痩せた」
 そのことを確認するように、もう一度、氷河の身体に腕をまわす。
 やはり、腕の中に抱く身体の感触が、気のせいか小さいような気がして、気遣わしげに氷河を見る貴鬼に、氷河は密やかに苦笑した。
「聖闘士だぞ?そうそう痩せたりするものか。変わったのは俺じゃない。お前がまた大きくなったんだ」
「そうかな。氷河、ほっといたらまともにご飯食べなさそうなんだもん。ちょっと心配だよ、俺は」
「お前に心配されるようじゃ、俺も終わりだなあ」
 呑気な氷河の声に、思わず、貴鬼は膝の力が抜けかかる。

 相変わらず、自覚ないんだから……。


 遠い遠い昔、彼と兄弟子との戦いの場に貴鬼は居合わせた。

 兄弟子と過去に何があったのかはずいぶん後になってから知った。だが、そんな事情を何も知らなくとも、あんなにつらく、苦しい戦いを貴鬼は見たことがない。
 疑問を差し挟む余地のない、全き敵相手なら、氷河は、惚れ惚れするほど冷静に、まさに氷の戦士にふさわしい冷酷さでもって向かってゆく。
 なのに、あの時の氷河は、お前を斃す、と対峙しながらも、ずっと拳が震えていた。貴鬼の低い視線はそれを余すことなく捉えていた。
 師と戦ったばかりだというのに。
 自分の命を救ったという兄弟子とまで、立ち位置を異にして会いまみえる運命におかれるとは。

 震えてきつく握られた拳に、留めきれずに落ちる涙に、貴鬼は思わず思ったのだ。

 氷河、もういいよ。
 オイラが守ってあげるから。
 氷河の代わりに戦ってあげるから。
 だから、もう、そんなに苦しそうに立ち上がらないで。

 だが、まだ子どもだった貴鬼には、氷河の代わりに戦える力はなく、氷河は、想像を絶する葛藤の果てに女神の聖闘士としての使命を遂げた。震えていたはずの拳に師から継承したもの全てを乗せて。

 心打たれるほど氷河は強い。だけど、とても哀しい強さだ、それは。

 だから、氷河がどれだけ不要だと言っても、心配で心配で気にせずにはいられない。
 ここに……
 この、小屋で、氷河は師と兄弟子と一緒に過ごしたはずだ。
 まるで、小屋そのものが墓標のようにポツンと雪原に立っている、そんな寂しい景色の中に一人きりで、なんて、放っておけるはずがない。それはあまりに切な過ぎる。


「氷河……どうせ寂しい独り者どうしなんだし、いっそのこと俺達、一緒に住まない?」
 氷河は、青い瞳をまるくさせた後、プッと吹き出し、そのまま声を立てて笑った。腕の中で肩を震わせて笑う氷河に、貴鬼は唇を尖らせて拗ねてみせる。
「俺、冗談のつもりじゃなかったんだけど」
「ああ、悪い悪い。……一緒に住むというのは、ジャミールで?シベリアで?俺はシベリアを離れるつもりはないが……」
「それは……」

 例え、墓標ばかりの地であっても、シベリアというのは氷河にとって、とても思い入れの深い、愛着ある地であるのだ。同様に、貴鬼にとっても、ジャミールは特別な場所で。

 言いよどんだ貴鬼を前に、氷河はまだ殺しきれない笑いを含んだ声で言った。
「だいたい一緒に住む意味なんてないだろう」
「なんでさ」
「だって、お前はいつだって好きな時にここへ来られるだろう?寂しくなった時だけじゃなくて、気が向けば、いつでも。同じ家の中に住んでいるようなものだ」
 違うのか?と、弧を描く青い瞳に貴鬼は、胸を衝かれた。
 それは。
 いつでも来てもいいということ?
 理由がなくても会いに来てもいい?
 頑なに、他者と混じりあおうとしない氷河の結界の裡に俺は入れてもらえるってこと?俺、年中入り浸っちゃうかもしれないよ?いいの?
 氷河は本当は独りで静かに愛する人達を弔って過ごしたいんじゃないの?俺、知ってると思うけど、ものすごくうるさいよ?ほんの少しも静かに故人に思いを馳せたりできないかもしれないよ?それでもいい?
 ───全部YESだったとしても、でもやっぱりそれじゃ足りない。それだと一方通行すぎる。俺が、好きな時に会いに来るだけじゃなくて、氷河が、俺に会いたいと思ってくれなくちゃいやなんだ。

 たくさんの言葉が喉奥までせり上がってきて、だが、あまりに多くの言葉が一度に浮かんだため、そのどれも、音となって貴鬼の口からは外に出ることはなかった。
 代わりに、胸を衝かれた、その衝動のままに、氷河の後ろ髪を引いて、まだ笑みを浮かべている氷河の唇を塞いだ。


 何が起こったかよくわからなかったのだろう。しばらく氷河は無反応だった。だが、貴鬼が、薄く開かれた氷河の唇を舌で割ると、驚いたように体を硬直させた。
 今度は貴鬼がくすりと笑う。
 鈍いよ、氷河。

 貴鬼は、子どものように甘えて涙を流したことをごまかすかのように、深く挿し入れた舌で口蓋を舐め、温かな舌を探りあて水音をたててそれを絡ませた。
 身を竦ませている氷河からは、しかし、抵抗らしい抵抗はない。
 子どものすることだから、と相手にされていないようで悔しく、貴鬼はむきになって長く深く口腔を犯し続けた。
 かくんと氷河の膝の力が抜けても離れることを許さず、片腕だけで腰を支えて熱を奪う貴鬼に、ようやく氷河が、やめるんだ、と言うように肩を押して突っ張った。

 氷河の身体を解放して、貴鬼はニッと笑う。
「俺、もう子どもじゃないよ、氷河」
「……お、お前はまだ子どもだ」 
「の割には息があがってるみたいだけどお?」
 からかうような貴鬼の口調に、氷河は拳をつくって貴鬼の肩を押した。
「生意気言うな。……ったく、どこで覚えたこんなこと……」
「上手かった?」
「し、知るかっ!そんなこと聞くうちは子どもだっ」
 怒って、というより、赤い顔を隠して、背を向ける氷河を逃がさぬように貴鬼はまた腕に抱いた。
 人肌がたまらなく恋しくて、離れがたい。
 同じ空間にいるだけでは足りない。
 もう誰も失いたくない。腕の中の熱を永遠に感じていたい。
 氷河の抵抗がないのをいいことに、ぎゅうぎゅうと強く抱き締めて、柔らかく肩に流れるブロンドに顔を埋める。
「……子どもじゃないよ、氷河。だって、俺、もうムウ様の歳、超えちゃったんだ。もう、子どもなんかじゃない。そうでしょ、氷河?」
 氷河が後ろへ腕を伸ばして、貴鬼の癖毛をくしゃりと引っ張った。
「バカだな。問題は年齢じゃない。中身だ。お前はそのままでいいよ。無理して大人になることない」
「……無理してない。大人だもん。……なんなら、続きも試す?」
 唇で髪に埋もれたうなじを探り当て、そこへキスを落として囁けば、白いうなじは朱に染まった。僅かに温度の上がった腕の中の身体が心地よくてまた、貴鬼は強く抱く。
「温かい、氷河。……ムウ様、誰かとこうしたこと、あったかな。誰かと……キスしたことあったかな」
 こんなに温かくて気持ちいいこと、知らずに逝ったと思いたくない。
 カミュはどうだったと思う、とぐいと身を乗り出して氷河の顏をのぞき込めば、その頬はこれ以上ないほど赤く染まっていた。

「へ、変なこと考えるなっ。ムウが聞いたら怒るぞ」
 貴鬼の鼻の奥がまたつんとする。
「……怒ればいい。貴鬼、それを下衆の勘繰りと言うのです、って怒って怒って怒って……それで……怒りのあまり戻ってくるといい……」
 貴鬼の声が揺れて、氷河の髪に、また、涙の雫が落ちる。

 氷河のシャツの裾に手をかけたまま、微かに震えている貴鬼の指を包むように氷河はその手を重ねた。
 貴鬼の行為を承諾するでなく、拒絶するでなく、そっと身体を反転させて絡みつく腕をほどく。
 そのまま、何も言わず、今度は逆に貴鬼の身体を抱きかかえるようにして、ソファの背へ互いの身を委ねる。

 涙を流す貴鬼の頭を胸に抱いて、ゆっくりと髪を梳く氷河の指の動きは、貴鬼に、師の指を喚起させた。
 氷河と師とはほんの少しも似てなどいないのに、触れる指の優しさはどこか懐かしく、また胸の奥が疼いて、今度こそ、子どものように声を上げて貴鬼は泣いた。

**

 ふるり。
 僅かな冷気を感じて、貴鬼は目を覚ます。
 視界に入った暖炉の火が消えかかっている。身を起こそうとして、自分がまだ氷河の腕の中にいることに気づいた。
 ああ……結局、自分は温かな腕に包まれて、一晩中、ぐだぐだと泣き言を漏らしながら、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。
 子どもじゃないが聞いて呆れる。
 貴鬼を起こさぬよう、そのままの姿勢で同じように眠っていた氷河は、今、貴鬼の動きで目を覚ましたらしい。
「ああ、火が消えてしまうな」
 そう呟いて、貴鬼から離れ、部屋の隅へと積み上げられていた薪を取りに行く。
 暖炉に薪をくべて、再び火の勢いをつけようとしている氷河の背に、貴鬼は座ったままの姿勢で声をかけた。
「氷河……昨日はごめん。俺、変だったよね?」
 氷河は一瞬、動きを止めた。
 だが、その背中は、肯定も否定もせずに、また一本、薪を火の中へ入れる。
「昨日言ったことも……したことも、全部忘れて。どうかしてた。俺……嫌になる。いい年してまだまだ弱くてさ」
 今度は氷河はほんの少し顔を貴鬼の方へ傾けた。
「生きているから……そういう日だってあるさ」

 生きているから。

 年齢だけは重ねて、だが、まだ崇高だった師の域には達していない自分は、この先もあちらでぶつかり、こちらでぶつかりするのだろう。
 だが、いつか、再び、師の前に立った時に、恥じて顔を伏せねばならぬ生き方だけはすまい。
 あなたが遺したものを、ひとつ残らず、すべて、次代へと繋ぎました、と胸を張って報告したい。


「氷河、俺、帰るよ」
「そうか。飯くらい食っていくか。少し待ってくれるだけで用意できる」
「ううん。やらなきゃいけないこと、いっぱいあるんだ。俺、これでも結構腕のいい修復師になったんだよ」
「ああ。知っている」

 貴鬼は、戸口へと向かう。
 家の中からでも跳べるが、人の家を訪ねる時は、必ず、家の外側へ跳んで、同じ地点から帰ることにしている。
 それが空間移動者の最低限の礼儀だと、そう……これも、師から教えられたことだ。

 貴鬼が扉を開く瞬間、その背に氷河が声をかけた。
「貴鬼、お前はだんだんムウに似てきたよ。そうして立ってる後ろ姿なんてそっくりだ」

 ああ……どうして、今、そんなこと言っちゃうのさ、氷河。
 また涙が出てしまう。

 そんな、最大限の賛辞を、別れ際に、なんて。

 貴鬼は咄嗟に振り向き、氷河の唇を掠め取るように一瞬だけ口づけを落とした。
「また来てもいい?」
「いつでも。好きな時に」
 挨拶のキスと受け取ったのか動揺を見せない氷河が恨めしく、思い直して、再び唇を塞ぐ。今度は深く。触れる皮膚の体温が混じり合うまで、長く。
 ん、と声を漏らして、逃げていく腕を捕えて、耳元に唇を寄せて低く囁く。
「これは忘れないで。昨日と違って、今は冷静だから」
 瞬時に唇に触れた耳が熱くなる。
 なのに、氷河は顔色を変えないまま、何を馬鹿なことを、と貴鬼の身体を押し戻した。
 微妙に逸らされた視線を捕まえるように、少しだけ身を折って、氷河の視界に無理矢理顔を傾げると、淡い色の睫毛が瞬いて、また逃げた。
「言ったよね?好きな時に来ていいって。次はキスだけじゃすまないかもね?」
「……あんまり大人をからかうんじゃない」

 大人、か。
 8歳と14歳の間にはずいぶん大きな壁があったように思うけど、21歳と27歳の間にはそれほどの壁を感じない。
 こういうことなら、歳を重ねてゆくのも悪くない。


 貴鬼は笑って、もう一度だけ、氷河の温もりを求めてその身を腕に抱き、それから、雲が低く垂れこめているものの、珍しく風が止んでいる戸外へと足を踏み出した。

「あれ」

 跳躍する目的地のビジョンを頭に思い描いて、小宇宙を高めようとすると、雪の中に、こちらへ向かう人影……犬影?が見えて、貴鬼の集中は途切れた。
 背後の氷河も、あ、と小さく声をあげる。

 周囲には何もないところだ。
 可愛らしくチリチリと鈴の音が鳴る、あの犬橇の目的地はこの小屋に違いない。

 なんだよ、氷河。

 貴鬼の胸がじんわりと疼く。
 それは、不思議な感覚。
 氷河に、裏切られたような、でも、それを喜んでいるような。

 俺が癒してあげるまでは、この雪の結界で孤独に、亡き師達だけを想って泣き暮らしていてほしかった、という、嫉妬にも似た、小さな、でも理不尽な憤り。
 そして、それとは矛盾して、よかった、こんな寂しいところで独りぼっちじゃなかったんだな、という安堵。

 矛盾する気持ちが複雑に絡み合い、次なる行動をどうすべきか迷う貴鬼の前に、リズミカルに雪の中を駆けてきた犬たちが止まった。
 合わせて、犬たちが曳いていた、たくさんの荷物を積んだ橇から、シベリアらしい、ボアのついた防寒着に身を包んだ青年が、雪の中にずいぶん軽装で立っている貴鬼の姿と氷河とを驚いたような顔で見比べながら下りてくる。
 立ち上がるとひょろりと長身の青年が、貴鬼に、お前は誰だと言いたげな、挑むような視線を投げかけて来た。
 貴鬼は、最後にもう一度、氷河を振り返る。
「また来るから。次が楽しみだね、氷河」
 言いながら、視線はその青年に定めて、やはり挑むように笑って見せ、それから、貴鬼は、彼の目の前で───跳んだ。
 彼の帰るべき場所へと。



「……何だよ。誰、あれ。あれも聖闘士なの?次が楽しみって何さ」
 残された青年は、雪焼けしている頬を膨らませて氷河に近寄った。
 氷河は困ったように笑って、橇を曳いてきた犬たちを撫でる。犬たちの尾が、ちぎれんばかりに振られ、我も我も、と氷河に頭を差し出してきて、橇と犬たちとをつないでいた綱は混乱で絡まった。
「貴鬼だよ。ヤコフ、お前より1つ上だったかな」
 年齢なんて聞いていないのに、そんな返事を返されては、自分の方が子どもだ、と指摘されたようで、ヤコフはムッとした。それでなくても、あんな超人技を目の前で(それも明らかに挑発した!)見せつけられて、聖闘士ではない自分は疎外感を感じたというのに。
「ふうん……でも、背は俺の方が高かった」
 ヤコフの声に含まれた感情の色に氷河が気づいた様子はなく、犬たちに埋もれたまま、歳が近いから仲良くなれるよ、などと見当違いの返事をした。

「子どもじゃあるまいし、歳が近いってだけで仲良くなれたら世話ないよ」
 思わず険の滲んだ声に、さすがに氷河は不審げにヤコフを振り返った。
「?ずいぶん苛立ってるな。なんかあったか?」
「べーっつに!子どもだからね、俺は!」
「……?うん……?(子供じゃあるまいしって今言わなかったっけ)」
「……もういい。氷河のバカ」
「変なヤコフだな。アレだろう、またばあちゃんの雷が落ちたんだろう。今度は何だ?保存食の盗み食いか?薪割りをさぼったのか?……まさか、おねしょってことはないよな?」
「……い、一体、いつの話をしてるのさ、氷河っ!!俺のこと、どんだけ子どもだと思ってるんだよっ!」
「今、自分で子どもだって認めてたじゃないか」
「大人だよっ俺は!!もう酒だって呑めるし氷河より背だって高いだろっ」
「……昨日からやけに自分を大人だと主張する子どもに会うなあ」

 騒々しく、噛みあわないやり取りは、だが、いつものこと。
 ようやく絡まる綱から解放され、二人を見上げる犬たちの、いいから早く水をくれ、と前足を上げて催促する動きに促され、氷河は水を取るために小屋の中へと戻り、ヤコフはその後を追ってゆく。

 室内から、喧嘩するようなじゃれ合うような、二人の声が響いている。

 まるでそれそのものが、雪原に立つ一つの墓標のようだった温度の低い静かな小屋は、新たな声を得て、柔らかく、温かな空気を纏い始める。
 なんということのない、日常の営みの場へと。

 黄金の誇り高き戦士たちが守った、たくさんの可能性に満ちた未来へと続くように、雪原には橇の轍と、犬の足跡が転々と残されていた。

(fin)

(Ω貴鬼登場記念 2012.8.8UP)