カノン×氷河
恋愛に至る前
◆恋と呼ぶにはまだ遠く◆
「……っ」
右足に受けた鈍い痛みに息をのんで、氷河は空中でやや姿勢を崩した。
だが、白鳥の名を冠しているだけあって、意識するより早く身体が自然と受け身を取っていて、無様に地へ倒れることは避けられた。
左足一本で軽やかに地面へと着地して、は、と息を整えていると、霞む土煙の向こうへ立っていた男がゆっくりと近寄ってきた。
「足をやったのか」
悟られるほど大きく傾いだわけではないのに、神を誑かした男の目は騙せぬらしい。
「たいしたことはない。まだ動ける」
珍しくも師以外の黄金聖闘士の胸を借りているのだ。この程度のことでその貴重な機会を無駄にしたくはない(何よりこの時間が終わるのがいやだ)、と氷河は地につく度にズキズキと足首に走る痛みに蓋をして虚勢を張った。
「見せてみろ」
だが、男は少年の見え透いた嘘を難なく看破して、す、と足元へ跪いた。
ずっと格上の、そして年上の男を地へ跪かせたまま見下ろす、という状況が落ち着かず、仕方なく、氷河はその場へ腰を下ろした。
近くなった目線が、ちら、と氷河の方へ投げられる。
「痛いか?」
「……少しだけだ」
嘘をついても見抜かれてしまうのだ。
怪我の具合を確かめるように足首を撫でている男の手のひらに上がる動悸をごまかすためにも、そう、憮然として答えるしかなかった。
「今日はもうやめにしよう」
「!……まだ始めたばかりだ!」
共に忙しい身、顔を合わせる時間はそう多くない。
偶々一致した空白の時間、たまには少し鍛錬でも、と拳を合わせたものの、久しぶりに会った高揚が少年の注意を少しく散漫にさせてしまったのだ。
せっかくめったにない機会なのに、と駄々をこねるように首を振った氷河へ、男が少し困ったように眉を下げた。
「怪我をさせて帰したのでは『先生』に叱られてしまう」
「聖闘士がこの程度のことを怪我と呼んでは、そちらの方が笑われる」
「身軽さが売りの白鳥星座だからこそ『この程度の怪我』が響くものだ。今日はもういつもほど軽やかに飛べはしまい。加減を失った俺のミスだ、許せ。───俺に加減を失わせたことはほめてやるぞ」
悔しさと情けなさで氷河は唇を噛んだ。
一瞬前まで、久しぶりにその姿を聖域で見かけた嬉しさで心を弾ませていたのに、それはあっという間にしぼんでしまった。
会えて嬉しかった、のに。
このひとに、少し距離が近づいたところを見せたかった、のに。
そんな顔をするな、と男が氷河の頬を撫でた。
「帰れって言ったわけじゃない。まさか時間が許す限りずっと拳を合わせているつもりだったわけではあるまい?汗をかく方法はほかにもある」
「え、」
驚いて見開いた氷河の瞳に、精悍な男の顔が間近に迫っていた。
氷河の膝を割り開くように置かれた片手を支えに、ぐ、と乗り出された体躯で氷河の上に影が落ちる。
「あの、」
さら、と男の長い前髪が氷河の鼻先を擽った。
ほのかに香る汗に、ドッと氷河の鼓動が増す。
氷河の動揺を全て見透かしているかのような、余裕の形に結ばれた、男の形のよい唇に視線がいって、氷河はかあっと頬に熱を上らせた。
「カ、カノン……」
男の顔がさらに近づく。
氷河を見つめていた薄い色の双眸が閉じられた。
男の指が触れている頬がひどく熱くてのぼせそうだ。
「あ……、」
覚悟を決めて、己も瞳を閉じようとした時、氷河の鼻先にふぅっとからかうような息がかけられた。
「!?」
な、なんだ?と慌てて目を開いてみれば、男は自分の鼻を指さして、「泥。ついていたから取ってやった」とくつくつと肩を揺らして笑っていた。
な、と声を失って真っ赤になった氷河へ、一足早く立ち上がった男が手を差し伸べる。
「鍛錬は終わりだ。ちょうどデスマスクから唐辛子をたくさんもらって困っていたんだ。少し消費につき合え」
「あ……汗って……そ、そっちか……」
「ん?ほかに何がある?」
「………………なんでも、ない」
彼流のからかい、なのだろうか。
それとも、自分が勝手に先走って勘違いしただけだろうか。
男は氷河に心を悟らせるような隙は見せない。
だから氷河には、ついてこい、と先行く男の背へ、聞こえないように小さく恨み言を言うだけしかできない。
「……ス、しても、よかったのに」
背中へ投げられた大胆な誘いともとれる呟きを拾ってカノンは苦笑する。
お前はちゃんと意味がわかっているのか……?
「大人の男」がそれだけではおさまらないことも……?
あんな初心な反応を見せられては、名を馳せた「悪い男」もさすがに毒気を抜かれるというもの。
カノンは半身だけ振り返って、少し膨れっ面で俯いている少年へ、ほら、と手のひらをさしだした。
拗ねていた少年の頬が、へへ、とはにかむように緩んで素直に指が重ねられる。
ほらみろ、まだ子どもだ。
───言い聞かせていないと忘れてしまいそうなほど、少年期の成長は早い。
生憎としばらくサガは帰らない。
さて、困った、とカノンは隣で弾むブロンドに気づかれないように息を吐いた。
(fin)