寒いところで待ちぼうけ

短編:カノ


カノン×氷河
14歳と14歳。もしも同じ歳の二人が出会ったら。


◆あの日のきみに◆

 何か変だ、と氷河は思った。
 いつもの通り、師を訪ねて聖域に来たのだが、無人の白羊宮に足を踏み入れた瞬間から、強烈な違和感を覚えて氷河は首をひねった。
 同じく無人の金牛宮を通り抜ける時に、その違和感はますます強くなる。
 宮の佇まいは氷河のよく知るそれなのだが、冴え冴えと無機質な空気が宮全体を覆っていた。
 まるで主のない宮のような。
 同じ不在でも、ほんの少し宮を留守にしているのと、守護する主人をそもそももたないのとでは、どこか宮の空気が違っているのだ。この空気は主人のないそれに似ている、と氷河の背が寒くなる。
 そんなはずはない。
 十二宮は聖戦を終えて、女神の福音に再び主人を取り戻したはずだ。
 知らず、氷河の足が速くなる。
 誰か、誰でもいい、知った顔を見つけて、この背へ降りかかる不吉な冷たさを追い払わなくては。

 と、前方に人影が見えた。
 第三の宮の前だ。
 ということは、第三の宮の主はいるのだ。よかった、と安堵して、氷河は早足で駈け寄って───さらなる混乱に陥った。
 カノンだ、と思って近寄ったのだ。
 正確に言えば、第三の宮の守護者は二人いるのだから、頭からカノンの方だと信じ込んで駈け寄るのはおかしな話なのだが、遠目で見たその人物が、雑兵と同じ簡易な修行服を纏っていたからカノンだと結論付けたのだ。
 サガはあまりそういった格好をしない。
 カノンは双子座聖衣を自由に纏うことを許されていて、その上センスのいい粋な装いもできるくせに、何故か一番簡素なそれを好んで纏うのだ。
 カノンがいるならいつもの聖域だ、と安堵したのに……
 ……誰、だ……?
 カノンは氷河より頭一つ以上上背がある。
 だが、今、目の前に立っているのは、せいぜい氷河と同じか、ほんの少し高い程度。
 袖口からのぞく腕は明らかに鍛え抜かれた聖闘士のそれなのだが───どう見ても───少年に見える。
 自分と同じ歳の頃ほどの。
 本当に、誰だ?
 部外者が簡単に立ち入れるような領域ではない。
「……あの……?」
 いくらか警戒を帯びて、氷河は恐る恐る声をかけた。
 何か考え事をしていたのか、声をかけられて初めて氷河に気づいた様子の少年はハッと顔を上げて、そして、氷河の格好を上から下まで観察するように視線を往復させた。
「青銅か?」
 背に負った白鳥座の聖衣箱に気づいたのだろう、そう問うた少年へ、氷河はこくこくと頷いた。
「どこへ行くのか知らないが今日はやめておけ。…………新しい黄金の就任式で上は手一杯だ」
 何故か少年はそれを吐き捨てるように言った。
「就任式……?新しい黄金……?」
 氷河の疑問に少年は答える素振りは見せず、わかったらさっさと帰れ、と鼻を鳴らして背を向けた。
「ちょっ……待って、カノンは!?」
 慌てて氷河は少年を呼びとめた。
 彼の言った内容がてんで理解不能だったが、本来のこの宮の主であるカノンに会えさえすれば、きちんと説明してくれるに違いない、とそう思ったのだ。
 が、少年は氷河の言葉にギクリと肩を強張らせて、鋭く振り返り、氷河の喉輪を締めるように腕を突き出した。
「なぜその名を!」
 軽く咳き込みながら、氷河は咄嗟の防御に少年の腕を掴んだ。
 ぐぐ、と拮抗する力で対抗して腕を締め上げれば、少年は、へえ、やるじゃないか、と傲岸な笑みを見せて、氷河の喉輪をさらに締め、だが、あと一瞬でも長く締められたら意識を失う、という絶妙なタイミングで氷河を放してみせた。
 体を二つに折ってげほげほと激しく咳いて、涙目になって氷河は少年を見上げる。
「お前こそ……けほ……誰なんだ。カノンって言うのはここの宮の主だ」
 その瞬間の少年の表情を、氷河は一生忘れられないだろう。
 海の色をした瞳が大きく見開かれ、怒りと鬱屈に激しく揺らいだ後、それは酷く傷ついたように歪められた。
 喧嘩をして、勢い余って取り返しのつかない酷い言葉を投げてしまった時のような後ろめたさを禁じえないほど、その表情の変化は激烈だった。
 こめかみを短く痙攣させて黙り込んだ少年に、あの、と氷河はおずおずと声を上げる。
 が、くるりと少年は氷河に背を向けて、スタスタと宮とは別の方角へ歩き始めた。
「あ、ちょっ……どこへ……!」
 何が起こっているのかはわからぬが、傷つけたまま(多分、傷つけたのだ)、別れてしまうのは憚られて、氷河は少年の背を小走りに追う。
 少年の乱れた歩調に、肩の辺りで無造作に断ち切られた髪の毛の先が右に左に揺れている。
「おい……!待てったら……!」
 肩ごしで振り返って、氷河が追ってくるのを発見した少年は、チ、と舌打ちをして石段を下りる途中ですぐに脇道へと逸れた。だが、それでも氷河が追うのをやめないと見るや、雑草生い茂る斜面へと飛び下りて、道なき道をほとんど駆けるような速さで歩いて行く。
 聖闘士としては身軽な性質の氷河も軽やかにその後を追ったが、背に負っていた聖衣箱の重さだけ後れを取っていて、なかなかその距離は縮まらない。
 来るな、と背中で威嚇している少年が、さらにスピードを増して駆け始めるのを、離されてなるものか、と氷河も必死に食らいつく。
 少年の全身を薄らとエネルギーの波動が包んでいる。意識的にか無意識的にか小宇宙が燃えているのだ。
 そこまで本気で拒絶されているものを追うのもどうかと思ったが、だが、今更後にも引けず、氷河はひたすらに先行く背を追いかけ続けた。


 しばらく行くと両脇に二人の姿を覆い隠すように木々が出現し始めた。
 聖域の裾野に広がる森へと入ったのだ。
 氷河をまるで振りきれないことで、逃げる少年の方にもいくらか変化が出始めていた。拒絶していた背中に、後ろの奴は一体どういう奴なんだろう、という隠しきれない興味が滲んでいる。
 少年が、これでどうだ、と時折スピードを増しては挑発的に振り返って、余裕の徴に口元を歪めてみせるものだから、氷河の闘争本能にも火がつく。なにしろ負けず嫌いは筋金入りだのだ。
 そして、その頃には氷河はもう、自分に起こった事態をうっすらとながら理解し始めていた。
 追いかけている少年の背に激しい既視感が脳裏で明滅して、その正体を氷河に告げている。
 ───俺はこの背を知っている。
 前にもこうしてこの背を追って駆けたことがある、ような。
 いや、既視感のような曖昧なものではない、もっと決定的な証拠があった。
 少年が面白がって振り返り、挑発するように時折燃やして見せる、その小宇宙。
 キラキラと瞬く星々の息吹を集めたようなそれは、氷河がよく知るひとのもの。
 氷河は、木々の間を軽やかに縫って飛ぶように駆けながら辺りを観察した。
 風に揺れ、天を目指して伸びる木々が、氷河が知る聖域のそれよりも幾分若い。
 ここは聖域は聖域でも───もしかしたら、自分の知る聖域より前の年代の……?

 当初の目的を見失って、ほとんど子ども同士の追いかけっこの体を為してきていた追跡に終止符を打つために、氷河はようやく、ちょっとストップ!と少年の前へ両手を広げて立ち塞がることに成功した。
 激しく乱れる呼吸が整うのも待てずに氷河は少年の顔を正面からまじまじと見つめる。
 傲岸に口角を上げた口元、肩のあたりで無造作に跳ねるプラチナブロンド、長い睫毛で縁取られた瞳は深海のブルー…………
「あなたは……あなたが…………きみが、もしかしてカノン!?」

 ───時間を遡った…?

 自分か、彼のひとか、それともあるいはこの「場」が。
 神の支配する領域では、時に人知を越えたことが起こることを氷河は身を持って知っている。

 ついに追いつかれて、だが、自分を必死に追いかける存在があることを少し愉しげに笑っていた少年は、「カノン」と呼ばれて再び表情を強ばらせた。
 氷河の背に負った聖衣箱へ視線をやって複雑な表情を浮かべ、警戒するように氷河を睨みつけると、俺はサガだ、カノンなどと言う名は知らん、とたちまち態度を硬化させた。
 だが、その複雑に歪んだ表情にますます見覚えがあって、氷河は確信した。
「やっぱり、あな…きみがカノンなんだ!」
 どことなく不安を感じながら十二宮の石段を登っていたのだ。
 姿形はまるで違えど、少しでも見知った存在に出会った安堵に、カノン、と飛びついてしまった氷河のことは責められはしまい。
 警戒を漲らせていた少年は、あまりに屈託なく飛びつかれたことに毒気を抜かれたのか、カノンじゃない、と怒ったように鼻を鳴らしはしたが、それとわからぬほどごく僅か擽ったそうに頬を緩ませ、そしてそのことに自分で気づくと、慌ててもう一度苦い顏をつくってみせた。
「……もしかしてお前、俺と遊んだことでもあるのか」
 ほかに、見知らぬ少年に懐かれる理由など見つからなかったのだろう、氷河の腕を振りほどきながら少年はそう問うた。
「遊んだ……?……というか、まあ、」
 説明は難しい。
 この世界は氷河の知る世界と地続きだろうか。
 このカノンとあのカノンは同じ人間か、それともたくさん分岐した過去あるいは未来で別の道を歩むことになる違う人間か。
 迷って、氷河はただ曖昧に頷いた。
「俺はきみを知っている」
 言って、氷河は可笑しくなって笑い出した。
 きみ、とは。
 俺が、カノンに!!
 体格はやはり氷河より少々(少々、だ。多分いつか俺だって追いつくはずだ)恵まれているが、でも、まだまだ子どもらしさを残したあどけない頬も、追いかけっこにむきになる(まあ自分も同じだが)余裕のなさも、まるっきり全部が全部氷河と同じ位置にあった。
 あなた、と呼びかけるのは変だ。だからといって、元のカノンを知るからにはお前と呼んでしまうのも憚られる。
 結果の、きみ、だが、遠くて遠くて遠い背中が一気に近づいた気がして、嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちが氷河の口元を緩ませる。
 氷河が笑うのを怪訝な顔で流しておいて、少年カノンは眉間にしわを寄せた。
「…………俺は『聖闘士』は嫌いだ。遊び相手に聖闘士を選ぶはずがないんだけどな……」
 あまり追求されたら話がややこしくなる。
 氷河は慌てて、それより戻らなくていいのか?と話を逸らした。
 森を分け入り、すっかり十二宮から遠く隔たってしまっている。
 カノンは十二宮の方角へチラと視線を流し、それから、は、と投げやりに笑った。
「どうでもいい」
「…………だけど、宮が無人のままだ」
「それがどうした。無人の宮など掃いて捨てるほどある」
「でも、」
 新しい黄金の就任式、と言っていた。
 氷河が感じた、「宮の無人感」は正しかったのだ。十二宮はまだその主人を得る前だ。
 ほんの僅かの宮をのぞいては。
「皆が教皇宮にいるのなら、今、きみ以外に宮の守護ができる人間はいないはず。宮を意味もなく無人にしておくのは女神の聖闘士としては、」
「煩い!『聖闘士』なら就任式に全員揃っている!俺には関係がない!だいたい護るべき女神などいやしないのにぼんやりと宮にいることに何の意味がある!」
 突然に声を荒げた少年の瞳の奥でチカチカと激しい怒りが瞬いていて、氷河は声を失った。

 こんなカノンなど知らない。

 そもそも氷河はカノンの過去に詳しくない。
 どのような経緯で海龍となったのか、サガと袂を分かつまで聖域でどう過ごしていたのか、彼自身が語ることはないからだ。
 彼が兄によってスニオン岬へ幽閉されたことと、それが契機となってあの海底での戦いが引き起こされたことは知識として知ってはいるが、海底では直接の関わりはなかった。
 だから、氷河の中でリアルに実感できる『カノン』は冥界でのカノンだ。
 双子座の聖衣を纏い、誇り高く、自らの犠牲を厭わず、女神の聖闘士として闘ったあの背、あれがカノンだ。
 だが───双子座聖衣はただひとつ。あれほどの力を持っていたカノンだが、それを纏ったのはサガの死後、冥界においてが初めてだったはずだ。

 怒りをぶつけられて初めて、少年カノンと邂逅したことに混乱と興奮の中にあった自分が、あまりにデリカシーのない発言をしたことにようやく氷河は思い至った。
 このカノンは、氷河の知るカノンとは違うのだ。
 聖衣も宮も持たず、まだ降誕していない女神の愛も知らない、ただの、道に迷った少年だ。

 少年は固く握った拳を震わせて、再び、きつく氷河を拒絶しようとしていた。
「そんなにいい子になりたいならお前が戻ればいい。青銅といえどお前は聖闘士だ。だいたいなぜ俺についてきた。どこかへ行く途中だったんだろう、今なら宮はどこも無人だ、どこへなりと好きなところへさっさと行け!」
 師を、訪ねてきたのだ。
 新しい黄金の就任式、というのはもしかしたらその師カミュのことかもしれない。
 自分よりまだ年若い(幼いとすら言える)師が今まさに教皇宮でアクエリアスを拝命しようとしているのだと思えば、その瞬間を覗き見てみたい、というのは、非常に魅力的な誘惑だ。
 だが、氷河は首を振る。
「俺は『きみ』に会いに来たんだと思う。だから、十二宮にはもう用がない」
 なぜ、自分が時を越えてこの少年カノンと邂逅しているのか理由はわからない。
 だが、新しい黄金聖闘士が誕生した祝福の言葉であふれる聖域に、この少年をひとり帰したくない、ということだけは確かだ。

「会いに来た?………俺に?」
 カノンの瞳が猜疑に満ちる。
 氷河は背に負っていた聖衣箱を下ろした。
 頭上の太陽が揺れる木の葉の間からきらきらと零れて下生えの若い草を光らせている。
 はー、走ったから暑くなった、と氷河はTシャツの首元を指で摘んでパタパタとあおいだ。
 特に意図はない。
 だた、この世界には氷河が訪ねようとしていた青年の方の師はいないようだから目的は失われた、時間はたっぷりある、と思って腰を落ち着けただけだ。
 この少年が、氷河とゆっくり会話を楽しむとは到底思えなかったが、喧嘩だろうが組み手だろうが、少年の気が少しでも晴れるなら、とことんまでつきあうつもりで。
 と、猜疑に満ちていた少年の瞳が細く弧を描いて、へえ、と口元がニヤリと持ち上がった。
「素性を明かして遊んだことは一度もないが……そうまで必死に俺を探して訪ねて来たってことは、そんなに悦かったのか」
「?……まあ、そうだ」
 ははっと少年は侮蔑したことがありありとわかる笑い方をして氷河を流し見た。
「これは傑作だ!聖闘士様が、俺を!」
 げらげらと笑い転げているカノンの口から発せられる言葉の抑揚は、あまり好意的とは言えないものだったが、そんな風にくるくると変わるカノンの表情自体が氷河には珍しくて仕方がない。
 日頃カノンに感じている大人の落ち着きは眩しく見えると同時に、二人を隔てる高い壁にもなっていたのだ。
 それが、どうだ。
 このカノンは自分と大差ないほど(もしかしたら自分よりさらに)きかん気で血の気が多くて、その上、初対面(?)の相手への最低限の礼節すら守らない問題児ときている。
 ばかりか、聖域に感じている鬱屈や抱える孤独をまるで隠しきれずに怒りや侮蔑として発散させているくせに、カノン、と呼ばれると激しく警戒しながらも、どこか嬉しそうに頬を緩ませる隙まで見せているのだ。

 ───かわいい、と。

 自分の倍も生きているひとには決して起こることがなかった感情が起きて、氷河の胸を温かく擽る。
 怒るだろうことがわかっているから表情には出さないが、悪意に満ちた少年の言葉や態度すらも、愛おしい、と思わせるには十分だった。
(ただし、それは、少年の成長後の姿を知っているからで、こちらが初対面であれば、印象は最悪だっただろう。)

「丁度いい。どうせ町へ下りて遊ぶところだったんだ、だったらお前がつきあえよ」
 哄笑を木々の間に渡らせていた少年は、笑いの合間にそう言って氷河の肩をぐいと乱暴に押した。
 不意を衝かれて、わ、とふらついた隙を逃さず少年が氷河の足を払う。
 ドサ、と柔らかな下生えの草の上へ天を向いて転がされて、不意打ちで組み手でも始まったのかと構えて起き上がろうとした瞬間、少年が覆い被さるように氷河の腰の上へ跨がってそれを阻んだ。
 普段、凍気を武器に闘っているせいか、氷河は接近戦に弱い。同じような体格とはいえど、そんな風に上を取られては抜け出すのは至難の業だ。
 く、と焦って、身体を捩った氷河の腹のあたりで、カチャ、とベルトのバックルが立てる金属音が響いた。
「!?」
 あっという間に前を寛げられて、引き出されたTシャツをぺろんとめくられてしまい、氷河は混乱で大きく目を見開いて少年を見上げた。
 少年の表情は影になっていてよくはわからない。
 少年は氷河のTシャツをめくったきり動きを止めていて、何かに驚いているようだった。
「………………へえ……?」
「…………な、なんだ?」
 少年の指が氷河の腹へ這う。
 氷河の知るカノンの節ばった長い指より少し柔らかで繊細だ。
 それは、つつ、とそのまま胸の上まで滑らかな肌の上を滑り、そして、首元で、ふと止まった。
 しゃら、という音がして、く、と下に何かを引っ張られるような感覚があった。
 視線をやった先にあるのは北十字を象ったペンダントだ。
「『女神の聖闘士』が異教の祈具とは。とんだ冒涜だ。お綺麗な顔をしてやるじゃないか」
 それは母の形見で、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。
 母の形見であろうと、己の戴く神以外へ祈りを捧げるための道具であることには違いない。
 だが、女神は───沙織さんは人間の弱さ、頼りなさに寄り添ってくれる慈愛の神だ。
 本質は勇ましき戦女神であるにも関わらず、己の戦士たちに、否、すべての人間に発揮されるその比類なきやさしさに皆救われている。
 俺たちが仕えるのは、きみが仕えることになるのはそういう神なんだ、とそれをどうにか、この荒んだ孤独な少年に伝えたい、と思ったのだが、氷河が言葉を見つけきれないうちに、少年の方はぺろりと舌を出して唇を舐め、気に入った、異端者同士仲良くやろうじゃないか、と氷河の肌へ濡れた唇を這わせた。
 露わになった胸を悪戯をするようにちゅ、と軽く吸われて、あ、と氷河の身体は跳ねた。
「敏感だな」
 面白がって何度もそこを責め立てる柔らかな髪を慌てて掴んで押しやって、氷河は身体を起こそうと肘をついた。
「な、何をして……!?」
「特別だ。先にいかせてやろう。まだるっこしいのが嫌ならてっとり早く下を咥えてやろうか?」
「し、下……!?えっ……な……な!?」
『遊んで』ってそういう意味か!!とようやく氷河は少年の意図を明確に察した。

 カノン!!!!!
 あなたって、あなたってとんでもない……!?

 混乱のあまり、自分がよく知る方の『カノン』へ向けて心の裡で非難の視線を向けて、氷河は目を白黒させた。
「ちょっと待て、そういうのは、ナシで!」
「?いきなりいれていいのか。面倒なくてますます気に入った。ま、ちょっとキツイと思うがそれでいいなら、」
「!?じゃなくて!ちょっと俺の話を……!」
「お前もその気で来たんだろうに今更何を。つまらん駆け引きは俺は嫌いだ」
「いやっ、駆け引きじゃなくて、本当に話を……!」
「言いたいことがあるなら早く言え」
 氷河の上へ乗ったまま、苛々と少年は髪をかきあげた。
 無法な空気を纏わせていながら、問答無用で事を進めないあたり、少年の本質はやはり自分が知る『カノン』と変わらないのだな、という思いがチラと氷河の脳裡を過ぎる。
 悪ぶってるだけだ。本当の悪人なんかじゃない。
 今更、宮の守護に戻るべきだ、とか、聖闘士としてその乱れた生活態度はいかがなものか、とかそんなものは氷河が説かずともきっと彼はよく知っている。
 知っていて(知っているからこそ)現実に置かれた我が身の不遇に鬱屈しているのだから、ならば、彼の耳に届く切り口はここしかない、と氷河はきっぱりとカノンを見上げた。
「こういうことは本当に大好きなひととしか、したら駄目だと思う」
 カノンはきょとんと、何を言われたのかわからない、という顔をしてまじまじと氷河を見下ろしている。
「…………は…………?」
「だから、こういう『遊び』はよくない」
「……」
「だいいち俺にもきみにもまだ少し早いように思う。も、もう少し大人でなければ」
「……」
「代わりに組み手なんてどうだろう。きみの体力が余っているならいくらでも俺はつきあえる」
 口をぽかんと開けて氷河の話を聞いていた少年は、組み手、と聞いて肩を震わせ始め、それから爆発するように声を上げて笑い始めた。
 ざわざわと風に揺れる梢に吸い込まれるように大きな笑い声が響く。
 身体を二つに追って、ひいひいと酸素を求めて喘ぎながら、涙目となって少年は氷河を見た。
「お前、気は確かか!?まだ早い?まだ早いだって?」
 どれ、どこまでお子さまか確かめてみよう、と、少年は寛げていたジーンズの前からするりと指を侵入させて、やわやわと氷河の中心を揉みしだいた。
 うっと氷河は腹に力を入れてその愛戯を堪える。
 青い性は油断すると簡単なことですぐに高まってしまうのだ。
 氷河の雄へ巻きつけられたカノンの指は手慣れた所作で巧みに高みへと導いていく。
 あ、あ、と快楽に抗えずに情けなく漏れる吐息にカノンは満足げに唇を歪めた。
「何が早いって?品行方正なふりしてお前にだって欲望はあるじゃないか。さあ、どうする。簡単にはおさまらないぞ」
「……ひ、一人でなんとかするから放っておいてくれ」
「ほらみろ、結局やることは一緒だ、一人でやるか二人でやるかの違いしかない」
「別に二人でやるのが絶対に駄目だとか言っていない。でも、それは本当に好きな相手とじゃないと駄目なんだ」
 ははあ、わかったぞ、女々しい奴め、まずは愛を囁けと言うのか、と少年は笑って、氷河の耳元で『あいしている、』と囁いて、それから不意に思い出したように、お前って名前は何だっけ、と首を傾げた。
 少々甲高くはあったが『カノン』の声で耳元で愛を告げられて背が疼かなかったかと言えば嘘になる。
 だが、少年の退廃的な自堕落ぶりはあまりに胸が痛かった。
「少なくともそんなふうに名前を知らない相手とこういうことをしようと思うのはよくない」
「わかったわかった、わかったからお前の名前を教えてくれ。いくらでも囁いてやろう」
「違う、そんなのじゃ意味がないんだ」
「…………説教する気か、俺に」
 面白がって笑っていたカノンだが、次第に苛々と不機嫌になり始めた。
「そのつもりで来たんだろうが。お前が言ったんだぞ、俺に会いに来た、と」
「そうだ。きみに会いに来た。俺は『カノン』が好きだからだ」
 ストレートな告白に、不機嫌そうに眉を歪めていた少年は微かに狼狽を見せた。
「……つまり俺とやって具合がよかったってことだろう。だったら、もう一度、」
「違う。『カノン』は俺には指一本触れていない」
「まるでわからんな。触れてもないなら一体どこが……顏か?……ああ!なるほど、顏か!そういうわけか。どうりで俺に覚えがないはずだ。はん、品行方正ないい子同士、どこかで会って意気投合でもしたのか?『カノン』と名乗ったかもしれんがそいつは俺じゃない。あいつは教皇宮にいて今日は会えないぞ。不出来な方しかいなくて残念だったな!」

 ああ、と氷河は目を閉じた。
 あなたの価値は言葉では言い表せぬほど尊いと言うのに、それをほかならぬあなた自身がまだ知らないなんて。

 カノン、と氷河は少年の背へ抱き締めるように腕を回した。
 少年が戸惑って、ぎこちなく身じろぎをする。
「違う、俺が好きなのは紛れもなくきみの方だ。きみは完璧な人間じゃないかもしれないけど、不出来なわけなんかない。なぜなら、きみはいずれ……」
 ひとつひとつ、氷河が言葉を噛みしめるように少年へ伝えようとしていた時だ。
 不意に、何の予兆もなく、氷河の体がぐ、と大きな負荷で上方へ(それとも後方へ)引かれるような奇妙な感覚があった。
「…………っ」
 抱き締めていたはずの少年の身体が、氷河の腕の中からするりと引き放されてゆく。
「!?…………くっ……」
 抗いがたい大きな力が氷河を時空の彼方へ弾き飛ばそうとしていた。

 何故だ、まだ何も伝えていないのに……!

「…………ッカノンッ!」
 突然に何もない空間へ融け込むように消え始めた氷河に少年は目を見開いて驚いている。
 何ごとかを叫ぶ形に少年の唇が動く。
「カノン、覚えていてくれ、あなたは……きみは……!」
 声はもう互いに届きはしない。
 伸ばされた指先が少年に触れることはなく、その姿は霞の向こうへ虚ろに消えていく。
 見開かれた深海のブルーだけが、銀河を彩る星々の煌きのように、最後まで瞬きもせず氷河を見つめていた。

**

「……ッ!」
 がば、と飛び起きると同時に、カノン、と腕を伸ばして目の前の身体に縋りついた氷河は、それが、先刻までの感触と違って、回した両腕が重ならないほど大きく逞しいことに気づいて、目をパチパチと瞬かせた。
「………なんだ、『カノン』か……」
「俺を呼んで飛び起きておきながら、がっかりするとはどういうことだ」
 苦笑する声は甘く耳を擽る馴染みの低音。
 氷河はゆっくりと辺りを見回した。
 ベッドの上だ。
 場所は───
「ここは双児宮……?」
「覚えていないのか?」
 カノンはそう言って少し気まずげに氷河の額にかかった前髪をかき上げた。
 カノンの指が触れた瞬間に、電流のような痛みが頭蓋を揺さぶって氷河は顏を顰めた。
「…………っ!」
「酷く腫れてきたな。本当に悪かった。もう少し休むといい」
 ええと。
 そう、確か───
 勢いよく内側から開いた扉に頭をぶつけたのだ。
 不幸な事故だ。
 カノンは任務のことを考えていて少々注意力が散漫になったまま扉を開き、氷河の方は突然の訪問を驚かせようとして、聖闘士の全力をもって気配を消して扉の前へ立っていた。
 結果の、扉と額の激しい衝突だ。
 扉の方は半分壊れてしまったことを思えば、氷河の額は腫れたくらいで済んで幸いだったが、さすがに目の前に星が飛び、その場でくたりと気を失ってしまったのだった。

 となるとあれは自分の願望か何かが見せた夢だったのか。
 時を遡って少年カノンに出会ったような気がしたのだが。

 ベッドの縁に腰掛けていたカノンが、気遣わしげに氷河の髪を撫で、そして、おや、と指先で何かを摘み上げた。
「この季節には珍しい青葉をくっつけてきたのだな。どこを通ってきたのやら」
 見れば、カノンの手のひらの上に、緑鮮やかな若い草の葉が乗っていた。
 刹那、森の中を渡る爽やかな風が頬に感じられた気がして、あ、と氷河は息を飲む。

 違う、あれは現実だ。

 それは、潜在意識で強く望んだ結果か、神の悪戯か。
 氷河は紛れもなく、時間を越えて少年の日のカノンに出会って来たのだ。

 ただ、時間跳躍には犯してはならない掟がある。
『過去に干渉するべからず』
 氷河がカノンに言おうとした言葉が、その後の未来を変えてしまう可能性があったから、神は、あるいは氷河を過去へ押しやった超次元の存在はそれを許さなかったのだ。
 起こってしまった過去は変えられぬ。
 過ちも、大いなる罪も、どれだけ望んでもなかったことにはできない。
 人間に変えることが許されているのは、これから起こるはずの未来だけだ。
 だから、己の弱さも過ちも抱えて彼は、そして己は生きていくのだ。

 氷河はカノンの手のひらの上から若い草を摘み上げた。
 本葉になる前の柔らかな感触は、少年の繊細な指先に少し似ていた。
 一番言いたかった言葉を言えないまま別れてしまった少年はあの後、どうしただろう、と、不意に視界が滲んで歪んだ。
「……そんなに痛むのか」
 痛いのは胸だ。

 きみはいずれ、誰にも引けを取らぬほど気高く誇り高い女神の聖闘士として聖戦を戦うのだ、と。
 自らの罪を抱えて真っ直ぐに立つ彼自身の前では、輝く黄金の聖衣ですらその光が霞むほどに、比類なく、きみは強く、美しい。

 伝えたかった。
 カノン、と呼ばれて、擽ったそうに頬を緩ませたあの少年に。

「カノン……」
 潤んだ瞳を隠すように氷河はカノンの胸へ自らの頬を押し当てた。
「悪い夢でも見たか」
 ベッドの縁へ腰かけたカノンが、珍しく甘える様子の氷河の背を戸惑いながらゆっくりと撫でる。
 あの少年はもうどこへもいない。
 二度と会えないのだと思えば、息苦しいほどに胸が痛くなって、氷河はカノンの背へぎゅっと腕を回して縋りついた。
「カノン、俺はあなたが好きだ」
 氷河の目線に合わせるように腰を折った男に氷河がそう言えば、カノンは少しだけ驚いた顔をして、ああ、知っている、と宥めるように唇にひとつ口づけを落とした。
 すぐに離れていこうとする唇を留めるように、氷河はカノンの首へ腕を回した。
 二度、三度と、求めに応えるように唇を重ねておいて、カノンは少し体を引く。
「そこまでだ」
 は、と熱のこもった息を小さく吐いて、立ち上がろうとした男の腕を氷河は掴んで止めた。
「……あまり煽ってくれるな。俺は我慢がきくような性質じゃない」
「さっきあなたが俺を煽ったんだ」
「俺が……?煽った覚えはないが……打ち所が悪かったのだな。今日はもう大人しく寝ていろ」
「あなたも一緒に」
「無茶を言うんじゃない。どうなっても知らんぞ」
 駄々っ子を宥めかねて困惑で眉を下げる男に氷河はくすくすと笑った。
 さっきとまるで真逆の図式だ。
 あの少年はいつ、このカノンになったのだろう。

 カノンはため息をついて、氷河の身体を包み込むように抱いた。
 柔らかな金糸の上を滑るように唇が触れる。
 額に、頬に、と場所を変えてキスを落とした唇はやがて耳元へそっと寄せられる。
 低い囁きが、あいしている、と音を結んだ気がして、氷河はハッと男の顏を見た。

 氷河、と名を呼んだ男の瞳は少年と同じブルーを湛えてやさしく弧を描いていた。

(fin)

(2014.11.21UP)