寒いところで待ちぼうけ

短編:


聖戦後、復活のない世界における一輝×氷河


◆郷愁はいつか◆

 いつまで待たせる気だ、あいつは。

 一輝は苛々と左腕に巻いた時計を目の前に掲げた。
 約束の時間はとうに過ぎている。
 過ぎているどころの話じゃない。もう2時間は待ちぼうけだ。
 さっきから何度も携帯電話を鳴らしているのに、虚しく呼び出し音が鳴るだけで、主は一向に出る気配がない。

 クリスマスの飾り付けで賑わう街の中、周りで同じように人待ち顔をしている男女は次々に目的の相手を見つけては去っていく。長いこと粉雪のちらつく寒空の下を、独り、立ち尽くしている一輝に同情の視線をくれながら。

 任務の合間を城戸邸で過ごしている氷河が、気まぐれに一輝のマンションを訪ねてくる程度には距離が近づいて。
 初めて。
 初めて氷河の方から誘いがあった。
 映画が見たい、のだと。
 氷河が指定したのは、複雑に絡み合う男女の心理を、抽象的な映像や幻想的な自然の映像になぞらえて描写することが有名な監督が撮った恋愛映画で、難解なことで名を馳せている作品だったが、それと共に、ベッドシーンが官能的だということでも知られていた。
 氷河の方から自分を誘ってきたことにも驚いたのだが(まあどうせ日本の地理に疎く、一人で出かける自信がなかったが、瞬や星矢が不在だったとかそんな消極的な理由だろうが)、年齢指定もついているその作品を見たい、と選んだことにも驚かされた。
 だが、一輝の方に否やがあるはずがない。
『デート』と呼べるほど甘い時間を過ごせると期待しているわけでは全くないが、それでも、外で待ち合わせる、などという初めての出来事に僅かに気持ちが浮き立っていなかったと言えば嘘になる。
 じゃあ、とクリスマスイブを指定してやったら何の抵抗もなく了承されたこともそれに拍車をかけた。
 それなのに。

 自分から誘っておいて遅刻とかナシだろうが。

 互いの気持ちを言葉にしないまま、つきあっているようなつきあっていないような微妙な距離を保っている二人だ。
 こういう時の待ち合わせは非常に複雑で繊細な問題を孕んでいる。なんとなく、先に着いて待っていた方が負けたような気がするものだ。
 一輝だとてまだ氷河との関係を達観しているわけではない。当然、誘った方の氷河が時間より前に来て待ってしかるべき、程度の認識で時間ぴったりに現れてみれば、待ち合わせ場所には誰もいなかった。その時点で、自分だけがその日を楽しみにしていたようで、若干プライドが折れた。
 なのに、2時間。ありえない。アイツは一体何を考えているんだ。
 30分を越えたあたりから、苛立ちを通り越して心配になってきた。電車の乗り換えがよくわからなくて迷ってでもいるのか?電話にも出ないということは何かが起こったのか?
 一輝に対してはずいぶんつっかかる氷河だが、だが、むやみに約束を破るようなヤツでもない。

 中途半端に中間地点で待ち合わせをしたのが悪かった、城戸邸まで迎えに行くか、と、すれ違い覚悟で一輝がその場所を後にしようとしたその時、人混みの中でもひときわ目立つブロンドが改札から姿を現した。
 氷河は一輝の姿をみとめると、やや驚いたような顔をして近寄ってきた。
「早いな」
 待ち合わせに遅れておきながらこの言いぐさ。心配した分だけ一気に怒りが爆発した。
「お前が!遅いんだ、このバカ!いつまで待たす気だ!」
「……何時にどこを指定したんだ、お前は」
「ハア!?メールをしただろうが!!見ていないとか言う気か?だいたい電話はどうしたんだ、何故出ないんだ」
「ああ……電源を切っていた。電車に乗るときはマナーだろう」
「遅刻しないってのもマナーだろうが!!2時間電車に乗りっぱなしか!?城戸邸からここまで30分もかからんだろうが!」
「2時間?そんなに早い時間を指定したのかお前は」
「公開終了間際の映画なんか上映時間が限られてるだろうが!俺に調べさせたくせに何を言っている。全部書いておいたはずだ。そもそもメールは見てないのかメールは!」
「………見た。お前のメール、ごちゃごちゃ書いていて何が言いたいかよくわからない」
「俺のせいか!?」
 メールを見ておいて何故遅れるんだ。
 だいたいあれ以上に何をどうわかりやすくしろと?『午前十時。〇〇駅前噴水広場』などという、果たし状か何かかと思うような味も素っ気もない用件だけのメールだ。
 怒っているのはこちらの方なのに何故か氷河の方もふくれっ面だ。
「連絡は電話にしてくれ。メールは好きじゃない」
「電話してもお前は出ないだろうが!」
「……一日中電話を持ち歩いているわけじゃない」
「それは『携帯』とは言わん!!!」
「知らないのか。留守電というものがあるだろう」
「留守電は好かん」
「我が儘な……」
「どっちが!!!」

 せっかくの初めての『デート』が、会うなりいつもの喧嘩が始まってげんなりだ。
 常識人は自分の方だと自負している一輝だが、氷河は氷河で俺の方が正しいと思っているのかふくれっ面のまま折れる気配はない。

 互いに気まずい空気を抱えたまま、一輝はそれでもどうにか気を取り直した。
 コイツとつきあうのに、このくらいのことでいちいち目くじらを立てていてはやっていけない。

 周囲にあふれる幸せそうな恋人たちが不毛な二人の喧嘩の内容にくすくすと笑っている。少なくともこの場は離れたい、と一輝は目的地へ向けて足を踏み出した。氷河は、と言うと、むっつり黙り込んだまま、数歩遅れて一輝の後をついてくる。
 そのまま帰ったりしないあたり、氷河にも歩み寄る姿勢があるのか。……ただ単にそれほどその映画が観たいだけか。無表情な奴の考えていることはさっぱり理解できない。

 スタートが遅れたせいで予定がずいぶん狂った。
 午前中に映画を観てそれから飯でも、と思っていたが、とりあえず飯が先だ(だいいち2時間も寒風にさらされて寒すぎる!)、と適当な店へと相談もなく勝手に入る。
 氷河は大人しくついてはきた。
 だが、向かいに座ったものの、メニューを開きもせずに一輝の注文に続けて「を2つ」と付け加えて後は黙り込んだあたり、まだ不貞腐れているらしい。
 だからなんで遅刻したお前の方がそんなに不貞腐れるんだ。

 怒りたいのは一輝の方なのに、先にそんな顔をされてしまえば、同じように怒りつづけていることが子どもっぽい気がして、一輝の怒りは矛先を失ってやがて消化不良のままに消えた。
 いつもこうだ。
 絶対に折れない氷河のせいで、いつも一輝の怒りは有耶無耶に霧散して終わりだ。


 腹ごしらえが終われば、それでも、氷河の表情も幾分和らいだ。
 映画館へと足を進める一輝の歩みについて歩く距離が心なし近づいたような気がしないでもない。

 大衆向けの娯楽作品ではない上、公開終了間際とあって上映されている映画館は限られている。
 一輝が向かった先は路地裏のミニシアターだ。
 氷河一人じゃ確実に辿りつけなかったに違いない。

 チケット窓口で、大人(?学生の身分証明書もないことだしな)2枚、と指定すると、「字幕?吹替?」と聞かれ、迷わず「字幕」と一輝は答えた。
 後ろで「じまく……?」という声が聞こえたので振り向いて「何か問題があるのか」と聞くと氷河は「いや。それでいい」と答えた。
(ちなみに当然のように料金は一輝もちである)

 映画は噂通り難解だった。
 男女の会話の合間、合間に、何の脈絡もなくシーンが変わり、宇宙空間や中国らしき山奥の木立や何もない砂漠が映し出される。
 どうやらそれが二人の心象風景を象徴した光景、らしいのだが、なるほど『不条理恋愛映画』と名がつくだけあって、芸術的ではあるのだろうが、ストーリーをまともに楽しめるようなものではない。(少なくとも一輝はその抽象的な映像からは二人が一体何を悩んで何を揉めているのか理解できなかった)
 すごいと噂のベッドシーンも女優の演技が大げさすぎて一輝には全く官能的だとは思えなかった。これなら氷河の方がよほど……と隣をうかがえば、その氷河は長い手足を持て余すように組んで、無防備に口を開けてすやすやと寝ていた。
 お前が観たいと言ったくせに、俺より先に寝るとかアリなのか。
 眠気を我慢して興味もない映画につきあってやってる俺の立場は。

(確実に氷河のせいだが)変な『デート』だ。
 2時間の遅刻後は会うなり喧嘩、むっつり黙り込んでひたすら飯をかっ込んだ後は映画館で昼寝。
 らしい、といえばらしいが、どうにも味気ない。
 イブに二人きりで恋愛映画、とくればただの『友達』とだってもう少し盛り上がるものではないのか。
 お前は淡白すぎやしないか。というかもう少し俺に対して気をつかったらどうなんだ。俺はお前のナビゲーションシステムか何かか。

 渦巻く不満が被害妄想ではなかった証拠に、案の定、氷河は映画が終わればすぐに「じゃあそういうことで」と一輝に背を向けた。向けておいてしばらくして振り返り「駅までは一緒に行ってやってもいい」とのたもうた。
 駅までの道がわからないんだな、お前は、やっぱり俺はただのナビだったのか、と一輝はため息をつく。

「今度は俺につきあえ。そのくらいしてもいいだろう」
 別に一輝とて何かしたいという目的があるわけではない。だが、イブにそれなりの仲の奴と飯食って映画観て(というか昼寝して)はいさようなら、という奴がどこにいる。
 少しくらい軌道修正を図りたくなっても当然と言うもの。

 一輝の内心が読めたはずはないが、氷河は、躊躇するそぶりを見せた後、最終的にはまあいいけど、と首を縦に振った。
 さすがに自分でもこれではあんまりだと思ったか。

 クリスマスソングが賑やかに流れる喧噪の中を、二人でただ黙って歩く。
 時折立ち止まって、同じものを見ては一言二言、言葉を交わして。相手の視線を追っては興味を惹かれるものを知り、へえ、そういうのが好きなのか、と新しい発見に驚いて。戦いから離れた束の間の休息に、ただの少年の顔に戻って、二人は穏やかな日常を享受する。
 今年はイブが休日とあって、街中の人混みは尋常ではなかった。世の中の一体どこにこれだけの『恋人』があふれていたのかと思うほど、どちらを向いても幸せそうな笑顔でいっぱいだ。仏頂面と無表情の二人の頬も自然に柔らかくほどけるほどに、街にはたくさんの幸せが溢れている。

 だが、そうは言っても、避けても避けても次々に打ち寄せる人の波に次第に氷河が疲れた顔を見せ始めた。
 要領悪く、誰かとぶつからずには歩けない氷河の顔色が次第に白くなり始めるのに、大丈夫か、のつもりで何気なく一輝が差し出した手はしっかり黙殺された。…………意地を張れる元気は残っていて何より。

 夕闇が迫るにつれて、イルミネーション目当てにさらに増え始めた人の海を縫って一輝は駅へと足を向けた。
 氷河のペースに合わせていたら永遠に駅へは辿りつけそうにない、と細身の二の腕を強引に掴んで自分の背に庇うようにして歩く。最初は俺をオンナのように扱うような真似はやめろと抵抗していた氷河だったが、歩きやすさには負けたのだろう、駅へ着くころには抵抗はなくなっていた。

 城戸邸と一輝の住むマンションは逆方向だが勝手に同じ切符を買ってしまう一輝に、疲れたから帰りたい、と氷河が抗議の視線を向ける。
 一輝はその視線を頬で受け止めて言う。
「飯くらいは食わせてやろう」
「別にいい。外で食う」
「イブの夜に予約なしで食えるような店はろくなもんじゃない」
「じゃあ帰ってから食う」
「こんな時間から口を増やして屋敷の人間に迷惑をかけるな」
「じゃコンビニで」
「飯だけだ。何をそんなに警戒している」
「べっ、べつにそんなんじゃない」
「だったらうちに来い。少なくともコンビニよりはマシなものが食えるぞ」
 しばらくの押し問答のうちに、氷河の方の言い訳が尽きた。
 飯だけだからな、と警戒心むき出しでようやく改札を通る。
 そこまで意識されると、逆に嬉しい、とか思う俺はおかしいのか?
 ツンと取り澄ました横顔の、淡いブロンドで隠れた耳がほんのり赤く染まっている。これで飯だけで済ませられたらそいつは男じゃない。
 今言うと逃げられるから絶対に言わないが。



「苦手なもんとかないのか」
 冷蔵庫をのぞきながら背中で一輝は問う。男二人だけのこと、特別に凝ったことをするつもりはなく、途中買い物に寄ったりはしなかった。
(氷河が疲れていてそれどころじゃなかったせいもあるが。)
 とりあえず、腹が満てる程度に有り合わせでなんとかする。
「別にない。食い物ならなんでもいい」
「これから作ってやろうかという人間に向かってそれは失礼じゃないのか」
「?別にまだお前の料理を貶したわけじゃないだろう」
「……いい。お前にそのあたりの機微を求めた俺がバカだった」
「きび?」
「もういい。大人しくそっち行って座ってろ」
 一輝に足で蹴るように追い払われて、氷河はリビングの方向へ向かう。

 予定外に突然寄ったにもかかわらず、整然と片づけられている部屋は常態なのだろう。
 料理するのに困らない程度に調味料類が揃っているところといい、意外にもまめな男だ。
 あれで強引なところさえなけりゃな、と氷河はソファへと腰かけた。
 疲れを吐き出すように深々と息をついて、ふと思う。…………強引なとこさえなけりゃ、どうだっていうんだ?無意識にわき起こった感情を振り払うように氷河は頭を振った。


「…………うまいな」
 氷河は至極残念そうにそう言った。ありあわせで、短時間で一輝が並べた数品をぺろりと平らげた後のことだ。
「慣れているからな」
「……俺だってシベリアにいるときは自分でしている」
 悔しそうに言う氷河に一輝はどうにか笑いをこらえた。 どうあっても、どんな分野であっても一輝に負けるのは嫌なようだ。一輝もそれは同じで、互いにそこを譲らないからこそ喧嘩が絶えないわけだ。

 あー食った、とごろんとそのまま氷河は横になった。
 血の気が抜けてずいぶん白かった頬には赤みが戻っていて、食いすぎてキツイな、などとベルトを緩めようとしている。部屋に来るまであれほど警戒心をむき出しにしていたくせに、来た途端に見せるこの無防備さはどうだ。
『狼』の立場である一輝が説教したくなるほど隙だらけだ。
(まさかと思うが誘われてるのか?───それはナイな)

 一輝は説教の代わりに、帰ってきた時に部屋の隅に放っておいた包みを取り出して、氷河にそれを投げて寄越した。
 食ったら眠くなるな、と目を閉じかけていたくせに片手で簡単にそれを受け止めた氷河は、なんだ、と怪訝な顔で半身を起こした。
 緑と赤のクリスマスカラーでご丁寧にリボンまでかけられて包装されたそれは、確か映画の後、寄った書店でなにやら一輝が買い求めていたものだ。
「?本か??」
「やる」
「俺は……本なんか読まん」
「大丈夫だ。開けてみろ」
 氷河はこんなものもらっても……と困ったように眉根を寄せていたが、一輝が早く、と顎で促すことに負けてしぶしぶ身を起こすと、ゆっくりと包みを開いた。

「…………あ」
 包みを半分開いたところで、氷河の唇から小さな声が漏れた。
 出てきたのは、写真集。
 表紙を飾るのは目に鮮やかな永遠に広がる白銀と、それを縁取る、彼の瞳のように澄んだアイスブルーの空。

『シベリア-美しき大地の詩-』

 表紙には箔押しでそうタイトルが刻んであるが、氷河の目はその文字を追ってはいない。
 懐かしく胸が疼くその美しい写真に目が釘付けだ。
 氷河が生まれ、母と過ごし、そして師と兄弟子と過ごしたたくさんの愛すべき思い出が詰まった──そして今は墓標だけが待つ──ふるさと。

「お前が今日本当に観たかったのはそれだろう。写真集なら文字もないしお前でも楽しめる」
 そう何気なく視線を逸らして言う一輝に、氷河が顔を跳ね上げた。
「…………いつ気づいた」
「お前がそのシーン以外寝てるからだ。気づくなという方が無理だ」

 映画の中のたったワンシーン。
 続くすれ違いに心を凍らせた女の心象風景を象徴していた氷の大地のカット。
 吹雪く白銀、遠くに霞む鈍色の海、低く垂れ込めた雪雲。
 酷薄な自然を、だが壮絶な美しさとして捉えた映像は、その映画のCMの中でよく流されていた。
『シベリア』であるともないとも説明のなされていない、たったそれだけのシーンをもっとよく観てみたいと、街歩きの苦手な氷河をして動かしめるほどにそれは郷愁を誘ったのだ、きっと。
 一輝にはシベリアもアラスカも北海道も変わらぬただの雪景色だが、氷河にとってはもしかしたら特別な馴染みの地であったのかもしれない。
 スクリーンに映し出されたその光景を、明かりの落ちた館内でもその澄んだ色がわかるブルーの瞳が食い入るように見つめていた。
 見ている一輝の方が切なくなるほどに。

 だが、氷河は首を振って、しばらく言いよどんだ。
「違う、そっちじゃない。…………もう一つの方だ」
「ああ…………」
 そちらの方は、何と答えれば彼を傷つけないか一輝の方も答えるのを言い淀んだ。

 氷河は……おそらく、日本語の読み書きが得意ではない、のだろう。
 通じないメールの文章。
 開きもしないメニュー表。
 文字を追っている様子のない字幕。

 会話で困ることはないから、全く気づかなかった。(そしてここまで気づかせずに来たことは賞賛に値する)
 よく考えてみればわかりそうなことであったのに。
 幼い日の氷河は母から日本語を学んだだろうか。
 父の国の言葉だということで、少しは学んだ……のだろう。
 一輝が初めて氷河に会ったときには、わずかな片言を操って、最低限のコミュニケーションは取れていた。その後、1年、城戸邸で過ごしている間に彼の言語能力はめきめきと上達していた。(口数が少なかったのであまり気づかれることはなかったが、瞬とはよく話をしていたようだった)
 だが、その後シベリアへ行き……彼の師が日本語を教えたかどうかは一輝にはわからない。
 再会した後、氷河が会話に困っていた節はなかったから忘れぬ程度には日本語を操る場面があったのかもしれない。
 だが、読み書きまでは。
 彼の母が教えたとして、当時、氷河は就学前の幼子だ。ひらがなくらいは教えたかもしれないが漢字までその歳の子どもに教えたとは思えない。
 一輝ですら、修行地で、ほぼ独学で全てを学んだのだ。
 自分は日本人だという誇りがあったから、師の目を盗んで日本語で書かれた書物を手に入れて、難解な漢字もことわざも学んだ。だが、第一言語が日本語でなかった氷河は……。

 バカな奴。
 そのことを俺が嗤うとでも思ったか。
 英語もロシア語もギリシャ語も操れる奴が日本語の読み書きが不十分だからって嗤う奴などいやしないのに。それでも、話せる言葉が読めない、ということは彼のプライドがよしとしなかったのだろう。
 今も、お前にだけは知られたくなかったのに、と悔しそうに俯く金の髪が痛々しい。
 たった一言、読めない、教えてくれ、と言いさえすればいくらでも教えてやったものを。
 プライドが邪魔をするというのなら何も俺に聞く必要はない。瞬あたり、きっと喜んで氷河の力になったに違いないのに。
 独りで。
 誰にも頼ろうともせずに。

 いつ気づいたか、何故気づいたか答えようとしない一輝に、氷河の方は俯いたまま諦めたように息を吐いた。
「わざとお前を待たせたわけじゃない」
「ああ」

 コイツは時間も場所も何一つ読めないメールを受けて、それでも、待ち合わせに来たのだ。
 どうやって当たりをつけたのか。
 文字の形の似た駅名を探して?
 それとも、ただ、俺の気配を頼りに?
 方法などどうでもいい。
 それでも、お前は来た、のだから。

 一輝は腕を伸ばして、表情を隠す金の髪のてっぺんをポンポンと叩いた。そして、逃げかける腕を強引に引いて、氷河の身体を引き寄せる。

 悔しそうに身を固くしているのを背後から包み込むように抱きしめて、一輝はテーブルの上に乗っていたペンを取った。
 今しがた氷河が開いたばかりの包装紙の裏地の白へ、いくつか文字を書く。
 ───『氷河』
「お前の名だ」
「……さすがに自分の名前くらいは書ける」
 ───『一輝』
「俺の名前だ」
「簡単なんだか難しいんだかわからんな。覚えにくい。お前なんかこの棒一本で十分だろう」
 照れたように憎まれ口をきく氷河が……どうにも愛おしく思えて困る。一輝は氷河の肩へ顎を乗せたまま、腰を抱く腕の輪を狭めた。
「会話が出来るんだから、覚えるくらいわけない。俺の所に来たら一つずつ覚えて帰ればいい」
「……お前は教えるのが下手そうだ」
「生徒が優秀なら問題ない。だろう?」
 微妙にプライドをくすぐる一輝の言葉に、氷河はしばらくの沈黙の後に、まあな、と頷きを返した。
「母国語だ。1年もすればお前なら完璧だ」
「俺の国は……」
 唇を結ぶ氷河の横顔は、ここは俺のふるさとではない、と拒絶しているかのようだ。
 だが、一輝には確信がある。
 今は違っていても。
 いつかきっと。
 日本語の柔らかな響きがどうしようもなく懐かしくて、帰りたい、とそう思える日がくるはずだ、こいつにだって。死者へ感じている郷愁はいつか薄れゆき、生きているものの温かさを帰る場所だとする日が、きっと。
「本を読んでやろう。これから、毎晩。一緒に文字を追えばいい」
「……お前がか?」
「バカにするな。俺は結構うまい。いつも瞬をこれで寝かしつけてた」
「寝るほど退屈だったんじゃないだろうな」
「退屈かどうか自分で確かめてみればいい。退屈ならもう来なくてもいい。そうでなければまた来ればいい。どうだ?」
「……毎晩?」
「毎晩」
「眠る前に?」
「眠る前に」

 氷河はしばらく写真集のページをぱらりぱらりとめくって黙ってそれを眺めていた。

 やがて、視線は美しい白銀の大地に落としたまま言う。
「……一冊。一冊だけならつきあってやってもいい」

 氷河らしい答えだ。
 だが、まずは一冊。
 お前の『母国語』で読む最初の物語にふさわしいのは…………

 一輝は本棚へと視線を上げた。


(fin)

(2012氷河旧誕祝 2012.12.25UP)