寒いところで待ちぼうけ

短編:


聖戦後、復活のない世界における一輝×氷河


◆水辺の夢◆

「煙草が切れた。ちょっと出てくる」
 そう言って、シャツをひっかける男の背に、氷河は俺も、と思わず声をかけた。
 男が我が耳を疑うかのような表情で振り向いて初めて、氷河は身を起こすことを躊躇った。

「喉が痛いんだ。俺も水を買いに行く。ここの水、まずくて飲めやしない」
 視線を逸らせて紡いだ言葉はひどく言い訳じみていた。
 男は氷河の言葉をどう受け取っただろうか。
 いつものように傲岸に嗤って、喉が痛い原因を揶揄するか。それとも、歩けないだろうが、とニヤニヤ見下ろしているか。
 氷河は視線を上げもしないうちから、そこへ広がる光景を想像して不快になり、やっぱりやめた、俺は帰る、と言いかけた。
 だが、その撤回の言葉は視界が白く染まったことで発せられる前に喉奥に消えた。
 頭の上に投げられた自分の白いシャツをひっぱりながら身を起こすと、男が後ろ姿で「遠いぞ。少し歩く」とだけ告げた。

 氷河が袖を通すのを待ちもせず、既に玄関の方へ向いている足に、帰ると言いそびれた氷河は、慌ててベッドから身を起こしてシャツをつかんで後を追った。

**

 生ぬるい夜の空気を撹拌するように男はしっかりした足取りで歩く。
 氷河はそれを数歩遅れて黙って追う。
 先んじる男の横へ並ぶことは簡単だが、無理に並ぶ必要性も感じなかったから、最初にベッドから抜け出るのが遅れた分だけの距離を離れたまま、同じ歩調で歩いてゆく。

「おい、一輝。コンビニ、通り過ぎたぞ」

 街燈の少ない暗がりに、そこだけ煌々と白い光を発していた空間の前を通り過ぎた男を氷河は呼び止める。

 彼は背中で、「遠いと言っただろうが。そこは俺の好きな銘柄が置いてないんだ。歩くのがつらいならお前は先に帰っていろ」そう言って、立ち止まりもせずにどんどん歩みを進めていく。

 仕方なく、氷河は再び男の背を追う。

 つらつら考えれば、今のセリフはおかしい。
「帰っていろ」とはなんだ。俺の家はあそこじゃない。当然のように俺が今夜も泊まると勘違いしていないか。
 気の利いた言葉を返せなかったせいで、何故か、自分が必死に一輝を追いかけているような言われ方をされたことが悔しくて氷河は不貞腐れた顔で俯く。
 そもそも「歩くのがつらい」原因を作ったヤツの背を、なぜ、俺は今日に限って、ついて歩いているんだ。

 いつもなら───
 そう、いつもなら、氷河を残して一輝は外出したりなどしない、からだ。

 自分勝手で、強引で、傍若無人な男だが、たいてい一輝は氷河が眠りに落ちるまで傍にいる。
 だから、気怠い微睡の中で、不意に離れていった体温を追いかけるように、つい、俺も、と来てしまったのだ。

 一輝は氷河をあまり振り返ることなく、闇色の街を縫うように歩いて行く。途中、いくつかコンビニは通り過ぎたが彼がそこへ足を向ける気配はなかった。
 生ぬるいがいくらか風が吹いていて、真夏の夜だというのにこれだけ歩いていてもさほどの不快感はない。
 隣を歩くわけでなく、話をするわけでなく、ただ、同じ方向になんとなく歩く。


 そのうちに、頬を撫でる風が変わった。
 いくらか水分を含んだ涼しげなものへ。
 氷河がそれに気づいて顏を上げると、ちょうど先行く一輝が、整備された土手の法面に設けられた小さな階段に足を掛けたところだった。
 ざあざあと流れる水音が耳をうつ。護岸を整備してあるところといい、これだけの水量といい、それなりに大きな川へ出たようだ。
 水音だけで、ずいぶん体感温度が下がったように感じて、氷河はその、しっとりと髪を撫でる風の感触を目を閉じて楽しむ。心地よい水辺の空気に、こんなところにコンビニなどないぞ、という無粋な言葉は飲みこんだ。

 一輝はこんなところまで散歩したかったのだろうか。
 散歩というにはずいぶん足取りが確かで、目的があるように見えた。
 今も、やはり迷うことなく土手を下り、背の高さほどもある、多くの外来種で構成された茂みをかき分けて進んでゆく。

 氷河は迷う。
 茂みに見え隠れしている彼の背が、いつもより寡黙すぎて。

 彼を一人にしてやるべきのような、一人にしてはいけないような。
 そのどちらとも判断がつかず、結局、男の後を、少し間を置いて歩くという中途半端な行動でその判断を保留にさせた。

 一輝は、時折氷河の視界から消えながら、水際まで歩んだようだ。
 顏を打つ、意外と鋭い葉たちに辟易としながら、ようやく開けた視界に、膝をついて水際に座り込む一輝を見つけて氷河は戸惑った。

 一輝の首がくい、と僅かに傾いで、それで、多分、横へ来いと呼ばれたのだということがわかる。

 一輝は暗く揺れる水面をじっと見つめている。
 水面は吸い込まれそうに昏く、全方向から聞こえるような水音は煩いほどなのになぜか気持ちを鎮めてゆく。
 遠くの街明かりが、ゆらゆらと揺れる水に反射して、時折、男の精悍な横顔をぼんやりと浮かび上がらせる。

 一輝は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、中から1本を取り出して火をつけた。火をつけた後は、吸うでなく、指先で弄んだまま、虚空に向かってそれを掲げ持つ。

 煙草が切れたから、と言って出てきたはずなのに、お前がその指に挟んでいるのはなんなんだ、と不審げな瞳を向ける氷河に向かって、一輝は少し指先を揺らしてみせた。

「送り火だ」

 そう言って、一輝は黙った。

『送り火』

 日本の風習の知識の少ない氷河も、なんとなくは知っている。
 お盆に帰ってきた死者の魂を現世からあちらの世界へ送り届けるための道標。

 そう言えば、つい3日ほど前も、一輝はベランダでずいぶん長いこと煙草を吸っていた。誰を待っていたのか、誰を送るのかは聞かなかった。

「……悪い」
 もしかして、一人になりたかったんじゃないのか、だったらついてきて悪かった、そういう意味を込めて踵を返そうとしたが、一輝に腕を引かれて、逆に隣に座るように促された。
 一輝は、煙草が入っていた胸ポケットから小さく折りたたんだ紙片を取り出した。煙草は指先に挟んだまま、器用にそれを開くと、それは手のひらに乗るほどの小さな舟へと変わる。
 いつの間に手にしていたのか、一輝は小さな白い野の花をその船へ乗せて、そっと水面へ浮かべた。
 意外と速い水の流れに、頼りなく浮かぶ小さな紙の舟はくるくると回り、だが沈むことはなく、流れに乗って遠ざかる。
 夜目にも波間に浮かぶ白い紙片は鮮やかだったが、しだいに暗闇に溶け込むように小さくなるその姿は、何とも言いようのない寂しさがあった。


「……なぜ、せっかく帰ってきたひとを、また送り出さなきゃいけないんだ」

 あまりの寂しい光景に、ちょっと拗ねたような声が氷河から漏れた。

「もう住んでる世界が違うからだ」
「だったら……なぜ帰ってきてしまうんだ」

 年に一度。
 帰ってくると思えば未練がつのる。
 もう一度、あの姿を見られないかと。
 幻でも。ひそやかな影でも。わずかな気配でも。

「二度と帰らない、ということを再確認するためだろ」
「……禅問答かよ。変な風習だな」
 男は返事をしない。

 彼の指先から重力に従って灰が落ちる。


「死者の魂を悼む期間に生まれたってのは、お前らしいな」
 長い沈黙の後に、氷河はそう呟いた。
「死と対極のところにある、お前らしいよ。生まれた時から反抗的だったんだ、お前はきっと」
 重ねてそう呟く。

「お前が俺の誕生日を知っていたとは意外だな。だが惜しいな。俺の誕生日なら昨日だ」
「知っている」
 特に祝ったりはしなかった。
 祝福したり、何かを贈り合ったり、そういう甘やかなやり取りは自分達には必要ないと思ったから。

 一輝の指先で、煙草の火が静かに消えた。
 再び、煙草の箱に手を伸ばして、最後の1本を取り出し、火をつける。
 空となった空き箱を上手に分解して、一輝はもう一艘、舟を作ってみせた。それを氷河の方へ差し出す。

「お前もやるか?」
「……俺は……いい」
 帰ってきた死者をいつまでも自分の元へ留めたい、からではない。
 氷河の大事なひとが帰るとしたら、この地ではない。
 だから、ここから送り出す意味などない。

 氷河は唇を固く結んで、首を振った。

 だが、一輝は、ほら、とさらにそれを氷河に押し付ける。
 ただの遊びだ、拘るようなもんでもない、と促されてようやく、氷河はおずおずとそれに手を出した。
 遊びだと言うのなら、そのまま水面に投げてやればいいか、と受け取ってはみたものの、いざ、手のひらの上へそれを乗せてしまうと、本当にそれがこちらの世界とあちらの世界を繋ぐ渡し舟のように見えてしまい、どうにも粗末に扱えなくなってしまった。

 水面へそっと浮かべてやろうと手を伸ばし、それを離す瞬間、だが、この舟が空だ、ということに思い至る。
 一輝がしたように花のひとつでも入れてやるべきか。
 お遊びではあるが、だが……もしも、あちらの世界へ届くようなことがあるのなら。
 あのひとは、空っぽの舟を寂しがるかもしれない。
 氷河は小さな舟の上へ手のひらを翳した。キラキラと白い氷の結晶が小さな舟底をうっすらと埋めてゆく。真夏のぬるい空気の中でも溶けない白い花を乗せた舟は、ゆらりゆらりと岸を離れ、そしてゆっくりと暗闇に消えて行った。

 消えた先に、あのひとがあちらの世界へと戻る背が見えるだろうかと、知らず目を凝らす。

 それが無駄なことを知っているが、それでも、小舟の行く先を追うように見せて、氷河は、長いこと暗い水面のそのまた向こうを見つめ続けた。


「何か、欲しいもの、あるか。1日遅れだが……」
 長く自分の思考に沈んだ末に、氷河は遠くへ目をやったままそう聞いた。

 別に今更、祝いたかったわけではない。
 これ以上の沈黙が苦しかっただけだ。
 舟の消えた行く先を、すがるように見つめ続けてしまう自分の弱さに辟易し、しかし、それ以上に、隣に座る男の静けさが、苦しかった。
 横を向くと、同じように何かを(誰かを)探す瞳があるような気がして、それで、少しでも話題を変えたかった。

 だが一輝から返事はない。

 ざわざわと叢が揺れる音が水音に混じる。

 と、不意に手のひらに温かな感触がもたらされ、驚いて氷河はそちらへ視線をやった。
 いつの間にか二本目も煙草の火は消え、空いた一輝の指先が氷河のそれに絡んでいた。

 手を、つないでいるのか、と遅れて認識したと同時に、唇の上にも同じ体温を感じて思わず目を見開く。
 それは、いつになく優しく触れるだけ触れて、すぐに離れた。

「欲しいものは全部持っている」
 一輝はそう言って、繋いだ手を目の高さまで上げた。

 俺はお前のものなんかじゃない、そう言ってやるつもりだったが、なんとなく、死者を穏やかに見送ったこの静謐な空気を壊すようで、それはやめておいた。

 氷河は代わりに繋いだ手を引いて、一輝の首を引き寄せる。

 いつもは気になる煙草の苦みが今日はなぜか気にならなかった。

(fin)
(2012一輝誕 2012.8.31UP)