アニメ40話、69話の行間はこうだったらいいなという捏造。
流血&暴力描写あります。苦手な方は閲覧をご遠慮ください。
◆未ダ夜ハ明ケズ◆
昼は50度を超える灼熱地獄、夜はマイナス数十度の極寒地獄。
その名はアンドロメダ島───。
それがミロの今回の任務地だ。
聖域に仇為す逆賊集団の粛清を、と、教皇は言った。
だが……。
**
ケフェウス座アルビオレの噂はミロの耳にも届いていた。
黄金聖闘士を凌ぐほど、という実力もさることながら、主に、その誠実さにおいて、彼は自分の弟子だけに留まらず、多くの聖闘士からの信頼を勝ち得ていた。
彼の元に師事したいと集まる者は引きも切らず、数多の聖闘士の中でも彼の教えを受けた者は枚挙に暇がない。
だが、その中の一人、アンドロメダがはるか極東の島国で謀反の狼煙を上げた。
初めは、単に、青銅聖闘士数名が聖域の禁を犯して見世物まがいの私闘を演じた、という、愚かではあっても何ら脅威に思われなかった出来事は、だがしかし、粛清に向かった白銀聖闘士が、どういうわけか格下である彼らの前に次々と斃れたことによって一気に緊迫した事態へと変貌した。
明らかにこの聖域に弓を引いたのだ、彼らは。
しかし、アンドロメダの師、アルビオレは、不遜にもそのことを「弁明することは何もありませぬ。我が弟子の為したこと、何ら女神に恥じることはございませぬゆえ」と言ったのだという。
それは師もろとも、聖域に反逆を表明したに他ならない。
その噂は衝撃と動揺を伴って聖域中を駆け抜けた。
かつてこれほどまでに聖域の求心力が低下した時代があっただろうか。
元々、黄金聖闘士でありながら、十二宮の守護を放棄して招集命令に応じないジャミールのムウや、五老峰の老師の存在があることは聖域に暗い影を落としていたが、ここへ来て、この謀反の動きは致命的だった。
青銅聖闘士どもの抹殺にはアイオリアが向かった。
招集に応じない五老峰の老師へはデスマスクが。
黄金聖闘士自らが刺客として動かなければならないほど、事態は切迫しているのだ。
ミロは無性に苛立った。
女神を護る使命を帯びた聖闘士が、その女神のおわす聖域になぜ逆らうような真似をする。人格者と謳われたさすがのアルビオレも、先生、先生と崇められているうちに驕り高ぶり、目が曇ったか。女神の聖闘士であることを忘れた輩に用はない。
血気盛んな年頃のミロに、刺客として白羽の矢が立ったのは当然の成り行きだった。
『アルビオレ及び彼に与する者の全員抹殺』
それが彼が受けた勅命だった。
久しぶりの実戦に、血が騒ぐ。
黄金聖闘士を凌ぐ実力とやらが、楽しみでさえあった。
所詮は小さな島のお山の大将。圧倒的な力の差を見せつけて、叛乱者の末路がどうなるか思い知らせてくれよう。
ミロは余裕から笑みすら浮かべ、猛り狂う己の中の闘争本能を隠そうともせず、高揚した気分で聖域を発ったのだった。
**
その気配には聖域を発ってすぐに気づいていた。
つけられている……?
こちらが気づいたということを気取らせないよう、慎重にミロは相手の正体を探った。
だが、相手も相当の使い手と見え、いくらミロが神経を研ぎ澄ませても、その正体は茫洋として知れず、そうこうするうちに追跡者の気配は消えた。
追跡を諦めたのか、それとも、用は足りたのか……。
黄金聖闘士たるミロに正体を悟られることなく、幾ばくかの距離をついて来ていたというのは只者ではない。
こんなことができるのは、同じ黄金聖闘士である誰かに他ならない。
だが、黄金聖闘士がミロをつける理由がわからない。
青銅聖闘士どもを抹殺するために日本へ発ったアイオリアには、監視役として密かに白銀聖闘士三人がつけられたと聞いている。
だが、それは彼が逆賊の弟だからだ。
アイオリア自身は、女神に忠誠を誓った聖闘士であり、聖域へ献身を捧げて長いというのに、教皇もよくよく慎重なお人よ、と半ば呆れるような気持ちでその噂を聞いたのだが、まさかこのミロにも監視をつけたのか……?
なんのために。
実戦を前に高揚していた気分が冷水を浴びせられたように、急速に冷える。
その後、追跡者が再び現れた様子はない。
つけられていると感じたのは考えすぎだったのだろうか。
だが、仮に監視の目があろうがなかろうが、ミロのとるべき行動は変わらない。
ミロは邪念を振り払うように、二度、三度と頭を振って、再び先を目指した。
**
生命の萌芽の恩恵に何一つ預かることない、乾いた岩肌ばかりの死の大地にミロは降り立った。
炎熱地獄にいるかのような、暑さで陽炎のように霞む景色の向こうに、白銀聖衣を纏った、精悍な顔つきをした男が立っている。
歳の頃はミロと同じくらいか。
彼は、気配を消して突然に現れたミロの姿に驚き、ハッと顏を上げて視線を向けた。
「お前がケフェウス座アルビオレか」
「いかにも。あなたは黄金聖闘士……」
「蠍座スコーピオのミロ」
アルビオレが、やはり、というように小さく頷いた。
その貌は、聖域顛覆を虎視眈々と狙う逆賊、というよりは、信じるもののために命を捨てる覚悟をした潔さに満ちていて、ミロは、一瞬、おや、と思った。
聞いていたのとずいぶん印象が違う。
否。
以前に聞いた噂―誰もが慕う人格者―どおりの印象というべきか。
ミロはアルビオレに意識を集中させたまま、すばやく周囲に視線を巡らせた。
アルビオレを囲んで十数人。
……これが叛乱者集団……?
聖衣を纏っている者は片手にも満たない。
残りは、未だ聖闘士にもなりきれない少年───子ども。
その上、青銅の一人は……女だ。
ミロの目には、単に『師に教えを請うために集まった弟子たち』であるようにしか見えない。
ぐっと臓腑が冷える。
勅命は全員の抹殺指令だった。叛乱の芽は一人残らず討ち漏らすな、と。
だが……これは何かの間違いではないのか。
逆賊アルビオレ、そして、百歩譲って仮に女であっても聖衣を纏っているならば、聖域の掟に縛られるのは当然のこと。禁を破ったというのであれば、粛清もやむなし。
しかし、聖衣も纏っていないような子どもまでというのは、本当に女神の御意志であろうか。
アルビオレの洗脳教育を受けたのなら容赦はするな、と、そういう意味なのか。
教皇は、この子らの存在をご存じないのではないか。
ミロは静かに彼らを見た。
対峙するアルビオレの瞳はミロ以上に静謐さを湛えている。そこには、畏れも迷いも見られない。
あどけない顔つきの彼の弟子たちは、明白にミロに畏怖を抱いているというのに、青ざめた顔のまま、逃げ出しもせずに彼らの師を守るように周囲を囲んで立つ。
それほど幼くとも、敵を前に背を向けない、というのは彼の教育の賜物だ、一人も逃げ出す者がいないとは賞賛に値する、と場違いなことをミロは思った。
どうする。
勅命どおりに全員抹殺でいいのか。
その時、ミロは、不意に突き刺すような殺気を肌に感じた。
いる───。
あの、追跡者の小宇宙をすぐ傍に感じる。
気のせいなどではなかった。
やはり、ミロは監視されているのだ。
そして、そのことに気づいた瞬間、ミロの背を、冷たく重い衝撃が駆け抜けた。
御存知、なのだ、教皇は。
ここにいるのは、聖闘士になる前の子どもばかりだということを。
試されているのは、ミロがアルビオレを討つか否か、ではない。勅命どおりに、女、子どもを含む全員を抹殺するか否か。
どういうことだ。
これは俺に対する踏み絵でもあるのか。
逆賊の弟アイオリアを試したように、俺を試しているとでもいうのか。
己の誇り高い女神の聖闘士としての矜持に泥を塗られたように感じ、怒りのあまりミロの視界が赤く染まった。
忠誠心を疑われたことが気に入らぬ。
そのために、不必要に非道な命を下されたことが気に入らぬ。
同僚同士に監視させ合うというやり方が気に入らぬ。
女神のため、勅命のためなら、非情に徹する覚悟はとうにできていたが、たった今、気が変わった。
どれほどの大義があろうとも、こんなやり方で、このミロが動くと思われたとあっては蠍の名が泣く。
自分の納得のいかない理由では、例え女神であっても、俺に指ひとつ動かさせやしない。
追跡者は誰だ。
相変わらず、巧妙に正体を隠してみせているが、隠しきれない攻撃的な小宇宙が、アルビオレの佇む岩肌の奥からひしひしと感じられた。
隠しきれない……?
いや、これは故意に小宇宙を解放させているのか。
ミロに、その存在を知らしめるため。
早く殺れ。殺らねばお前も逆賊だ、それとも代わりに殺ってやろうか?と、重圧を与えるため。
ミロの知る黄金聖闘士の面々を思い浮かべたが、それが誰かという確信は得られなかった。
何しろ、一部を除けば互いに交流はほとんどないのだ。
お前は誰だ、と奴をひっぱり出すのは簡単だが、迂闊なことをして、こんなところで千日戦争に突入だけは避けたい。
アルビオレが第三の男に気づいた様子はない。
ならば好都合。
俺も気づかぬふりで押し通す。
監視を受けねば勅命遂行も困難な愚か者だと思われている男だ、俺は。
ならば、その存在に気づかなかったとしても不思議ではあるまい?
勅命は守る。
ただし、俺のやり方で、だ。
それだけのことを咄嗟の裡にミロは判断し、相対していたアルビオレに、そして第三の男に聞こえるようにと声を張り上げた。
「長年にわたる招集命令の黙殺、此度の弟子、アンドロメダの不始末、もはやお前をこのまま捨て置くことはできぬ。教皇の命により、アルビオレ、お前の命貰い受ける」
「くっ……待て、ここでは……!」
アルビオレの視線が左右に振られ、弟子たちを気にする動きを見せた。
女神の聖闘士であることを忘れたお前であっても、まだそこまでは堕ち切っていなかったと見える。
ならば、子らを救うために、お前は俺の前に這いつくばるがいい。最後の、人としての心が残されているなら。
「問答無用!」
ミロは抑えていた小宇宙を一気に高め、風に翻って視界を遮るマントをバサリと投げた。
黄金の焔のように、強大な小宇宙がミロの体を包んで揺らめく。
アルビオレを囲むように立っていた彼の弟子たちの顏が一瞬、激しい恐怖に歪んだのを後目に、ミロは猛る動的エネルギーの塊となったそれを彼らに向かって一閃させた。
ミロにとってはほんの戯れ程度の動きでしかなかったが、だが、最高位の戦士の小宇宙の塊は衝撃波となって辺りのもの全てを薙ぎ払った。
大地は裂け、岩肌は崩れ、人間は木の葉のように空を舞った。
岩が崩れる轟音に混じる、苦悶に満ちた悲鳴を聞きながら、ミロはたった一人の観客の視線を意識してニヤリと笑って見せた。
ほら。
俺は子ども相手でも躊躇などしていない。
わかったら早く帰るがいい。
だが、温度のない不気味な視線は、ミロの一挙手一投足を値踏みするようにまだ絡みついている。
そう簡単にいくものではないと思ってはいたが、あまり長引くとまずい。
できれば今の一撃で納得してほしかったというのが本音だった。
衝撃波に空を舞っていたミロのマントが重力に従い地面へと落ちて、もうもうと立ち上って視界を遮っていた砂煙がやわらぐと、その向こうに広がる光景に、ミロは目を細めた。
「……ほう」
アルビオレがまだ立っていた。
彼は先に鋼球のついた鎖で防御のための円陣を描き、ミロの放った最初の一閃の衝撃を耐え凌いだらしかった。
噂に高い防御力を誇るその鎖は、アルビオレだけでなく、彼の弟子たちをも衝撃波から少なからず護ったのであろう。
地面に倒れ伏して呻く弟子たちは、その苦痛の声にも関わらず、致命傷を負ったものはいないように見えた。
アルビオレの誇る鉄壁の防御力は、対峙するどちらの男にとっても僥倖だった。
俺が少々手荒なことをしても、お前は命を賭して子らを護る。そうだな、アルビオレ?
ミロは間髪入れず、再び小宇宙を高める。
今度は高く振り上げた片足で、地面を削り取るようにエネルギーを放った。
地を這うような衝撃波が、再び、アルビオレの鎖を弾き、次々と倒れた身体を跳ね上げ、空気の渦はその先、ミロに絡みつく視線を断ち切るように乾いた岩肌を砕いた。
「お前たち!」
変声期を迎えてもいない少年たちの悲鳴に、自身も立っているのがやっと、のアルビオレの悲愴な声が重なる。
さあ、膝を折って、俺に命乞いをしてみせろ。
俺の力はもうわかっただろう?
賢いお前ならどうすればいいかわかるはずだ。
だが、アルビオレの瞳は依然としてその力を失わず、どこか哀しみの色を湛えたまま、ぐっとミロを睨み付けた。
その瞳は、ミロが過去に任務で対峙したどの相手とも異なるものだった。
自分に後ろ暗いところがある奴は、こんな極限状態に置かれたらまず何をさておいても利己的にしか行動をしない。
圧倒的な力の前に、弟子など捨て置いて逃げ出すか、ひいひいと泣いて命乞いをするか。
そうするそぶりを少しも見せようとしないアルビオレの瞳は、強い信念の力に満ちていた。
それほどまでに、お前を聖域に歯向かわせているものはなんだ。
絡みつく視線がなければ、もしかしたら、ミロはそう問うていたかもしれない。だが、視線の主は依然としてそこにいる。
いくら威力を押さえてあるからと言って、かろうじて二度、凌いだ彼らが、三度目も凌げるという保証はない。
逆に、凌いだとあっては、監視者の疑いを招いて却って危険だ。
チッ。やむを得まい。
「なかなかやるな、アルビオレ。お前ほどの男、ただ殺すには惜しいもの。せめて、我が最大奥義をその身に受けて死ぬがいい」
声を張り、右腕を掲げて誇示するように紅く光る爪の所在を示す。
「くっ……!」
アルビオレが、崩れていた体勢を引き上げ、鋼球のついた鎖をミロに向かって放った。鎖が遠心力によってぐるぐるとミロの右腕に巻きつき、自由を奪う。
「フッ。この程度の鎖で蠍の毒針を封じたつもりか」
逆に右腕を引いて、アルビオレの動きを封じてみせる。
アルビオレの額に玉のような汗が滲む。ミロが腕を引く動きに合わせて、ズズッズズッとアルビオレの聖衣の踵が地面を削り取っていく。
ミロは、鎖が絡みついていない方の腕を大きく振った。
刹那、竜巻のような猛々しい空気の渦がアルビオレを襲う。二人の戦士を繋いでいた鎖はその衝撃に耐え兼ね、半ばで引きちぎれ、抵抗の術を失ったアルビオレの大柄な体躯が宙を舞った。
「ぐぁあ!」
背後の岩肌に激しくその身体を叩きつけられ、アルビオレが血と共に苦痛の悲鳴を吐き出した。聖衣に守られているとはいえ、三度も黄金聖闘士の攻撃を受け、おそらくあばらの数本くらいは折れただろう。
精悍な顔が激しく歪められ、彼は痛みに体を震わせて耐えながら、だが、叩きつけられた岩肌を支えにしながらずるずると立ち上がった。
血を吐きながらも、身体に負ったダメージを悟らせないよう、やはり強い意志の瞳をミロに定めて、しっかりと二本の足で立ってみせる。
いい戦士だ。
つくづくこんな男が聖域に仇為す存在だとはあまりに惜しい。
ミロは、鷹揚に笑みを浮かべて、ゆっくりとアルビオレに近づいていく。
再び、深紅の爪を顔の前に掲げ、それから、はっきりとわかるように周囲にぐるりと視線を向けた。
駄目押しとばかりに、倒れ伏し、もはや、憐れなほどに小さな呻き声しかあげられずに苦しむ、目の前の男の弟子たちに、どいつからにしようかな?と言うように、爪の先を向けて見せると、アルビオレの瞳が初めて動揺を見せた。
ミロはその蠍の毒針をアルビオレの眉間に定める。
「さあ、受けてみるか、真紅の衝撃を。未だこの激痛に耐えた者はない。お前はどちらを選ぶ。降伏か、死か」
アルビオレの視線が、ちらりと、倒れた弟子たちの背へ向けられた。
彼一人なら、おそらく迷いなく最期の瞬間まで潔く戦ったにちがいない。だが、今、ミロが見せた態度によって、弟子たちの末路を思い、一瞬揺らいだのだろう。
さあ、選べ。降伏を。
だが、アルビオレが苦しい息の下でミロに向かって言った言葉は、降伏を告げるものではなかった。
「……スコーピオ……貴公はご存じないのか、教皇は……」
その時だった。
空気を切り裂き、まるで弾丸のように何かが飛来し、アルビオレの、聖衣で覆われていない上腕を掠めた。
「ぐ……ふ……っ……」
アルビオレは言葉の途中で、苦悶の表情を浮かべて、血を吐いた。
一見すると、先ほど岩肌に叩きつけられたダメージによるものに見えたが、ミロの完璧な動体視力は、視界を横切った赤薔薇を確実に捉えていた。
あの薔薇は……魚座ピスケスのアフロディーテ……!
彼が追跡者の正体……!
交流の少ない黄金聖闘士同士であっても、噂に高いその名は知っていた。
教皇の側近と謳われる一人、聖闘士随一の美貌を誇る、十二宮最後の砦を護る男。
有事には教皇の間へ続く石段は彼の毒薔薇で埋められると聞く。
不覚……!
まさか、監視の領分を超えてくるとは……!
弟子ともども、生かしたまま聖域へ捕え帰りたかったが、彼の毒薔薇にやられたとあっては、アルビオレはもう終わりだ。
例え掠めただけとはいえ、猛毒の赤薔薇は、その香気ですら全ての者の生命を奪う。
近づけばミロ自身も危ない。
アルビオレは身を二つに折って血を吐き、大量の脂汗を額に浮かべて、胸を掻き毟るようなしぐさを見せ始めた。
これ以上、彼を、苦しませるわけにはいかない。
いかに俺が鈍い男を装って見せても、毒殺症状に気づかぬのはいくらなんでも無理がある。
やむなし。
彼はもうどうせ助からない。
ミロは苦悶するアルビオレを前に哄笑した。
「愚かな男よ、アルビオレ。聖域に楯突いた代償は高くついたようだな?だが、黄金聖闘士たるこのミロの拳を三度も受けて、なお立ち上がった褒美に、最後はひとおもいにとどめを刺してくれる!」
ミロは太陽を背負うかのように高く跳躍をした。
アルビオレは、それでも、最後の気力を振り絞って、ミロに向かって防御のために腕を突き出した。
その腕をかいくぐり、跳躍した勢いのまま、ミロは手刀をアルビオレの喉元に強く叩きつけた。
ボキ、と鈍い振動が指先に伝わるとともに、アルビオレの瞳からは、ついに最期の瞬間まで一度も失われることがなかった強い光がフッと消え、彼の命はそこで潰えた。
大地に降り立ったミロ自身も、一瞬、ぐらりと身体が傾ぐ。
アルビオレに手刀を振り下ろした瞬間、ほんの僅かに漂っていた猛毒の香気を吸いこんだらしい。
この程度ならどうにかなるものでもあるまいが、それにしても、敵味方、相手を選ばぬとはなんという酷薄な技。
ミロは慎重に、全神経を張り巡らせて気配を探った。
だが、アフロディーテの小宇宙も、あの値踏みするような視線も既に消え、辺りは静寂に包まれている。
アルビオレの最期を見届けて、監視者は去ったのか。
それでもしばらく、そうして立っていたが、何も起こらないことを確認して、ようやくミロは四肢に漲らせていた緊張をフッと解いた。
だが、不意に強烈な違和感がミロを襲った。
────静かすぎる。
先ほどまで苦悶の声を漏らしていた子らはどうなった。
ミロは鋭く後ろを振り向き、衝撃で思わず目を見開いた。
そこには、師同様に、胸を押さえた姿勢のまま、虚ろな瞳を空に向けた屍が転々と転がっていた。
香気、だ。
アフロディーテがアルビオレに向けて放った猛毒の薔薇の香気は、その軌跡上の生命を悉く奪い尽くしていったのだ。
なんということを……!
ミロの端整な顔が、嫌悪に歪められる。
まさか一本の薔薇で、この場にいるもの皆殺し、とまでは意図していなかったに違いあるまいが、だが、目的のための犠牲を厭わなかったのだ、彼は。
こうなることを恐らく予想していて……いや、もしや、そのことにすら頓着しなかったのではあるまいか。
反吐が出そうだ。それが女神の聖闘士のやることか。
いや、勅命は全員抹殺、だった。ならば、彼の方が正しいのか。それにしても赤子同然の無抵抗の彼らにこんな……ああ、違う。
彼らが逃げる術なく、抵抗を奪われていたのは俺のせいだ。
監視者の視線を欺くため、致命傷を与えなかったとはいえ、一時的に彼らから動く自由を奪っていた。
……殺したのは、俺だ……。
ミロは膝をつき、ガラス玉のような瞳を虚空に向けている少年の瞼を指でそっと下ろした。
目を閉じて、祈りを捧げようと頭を垂れた時、ミロの耳に、獣の唸り声のような低い声が届いた。
ハッと視線を上げると、幾ばくか離れたところで、苦しげにもがく影が見えた。
生きている者がいる。
ミロはそちらの方角へ足早に近づいた。
一つ……二つ……三つ。
蠢く影は三つ。
皆、聖衣を纏っている。一人混じっていた女聖闘士の姿もあった。
たまたま毒薔薇の香気の軌跡から逸れていたことが幸いしたか。
意識なく、青ざめた唇を震わせて、うう、と苦痛の声をあげているが、ミロの見立てでは致命傷と言える致命傷はないように見えた。
ミロは苦痛に喘ぐ少年の肩に手をかけ、右腕を鋭く振り上げ、だが、それを打ち下ろす寸前にその動きを止めた。
────おかしい。
アフロディーテは、俺を監視しているのではなかったのか。
俺が、勅命に忠実に行動するかどうか監視していたのならば、今、この瞬間をこそ、どこかで見ていなければいけないはずだ。
だが、彼は最後まで見届けることなく、既にこの島を去った。
であれば、これは俺に対する踏み絵ではなかったのか。
それに、あの毒薔薇。
なぜ、あのタイミングで撃つ必要があった。
俺はあの時確実にアルビオレを追い詰めていた。放っておいても勅命遂行に不安があるようには見えなかったはずだ。
この、不快に付きまとう違和感の正体は一体何だ。
任務を与えられていながら、俺一人蚊帳の外だ。
最初から最後まで何もかも気に入らないことだらけだ。
ミロは今一度、眼下の少年を見下ろした。
そして、打ち下ろす寸前で止めていた手を、鋭く振り下ろした。
その、胸の中央に。
真央点───。
仮に血を止めたとて、この過酷な環境で、指導者を失った彼らが命を繋ぐことができるか否かは運次第。だが、逆賊の弟子とはいえど、女神の御加護があるならば、生き抜くこともできよう。
お前たちの生死は女神の御心にお任せするとしよう。
生き抜いて、アンドロメダ島を滅ぼした仇敵と俺を思い定めて聖域へ向かってくるならそれもまたよし。
再び会いまみえ、あの、アルビオレの瞳の色に似たお前たちの真っ直ぐな瞳を見ることがあれば、この違和感の正体もわかるやもしれぬ。
俺は、その日を聖域で待つ───。
ミロは立ち上がり、再びアルビオレの骸へと向かった。
彼から少し離れたところに、やはり、この場に似つかわしくない赤薔薇が一輪、弔いの花にしては禍々しい色彩を放って横たわっていた。
憐れな男よ、アルビオレ。
お前ほどの傑物が、なぜ、聖域に弓引くような真似をした。
それほどまでに日本にいる弟子が可愛かったか。
たった一人の弟子のために、数多の弟子を犠牲にして、お前は何を考えていた。
ミロは友の顏を思い浮かべる。
彼もまた、その、日本にいる青銅聖闘士の一人の師であるのだ。
シベリアから聖域に召喚されて以来、彼の顏から憂いが消えることはなく、叛乱の噂が届くにつれ、日に日に眉間の皺が深くなってゆく。
その複雑な心中はいかばかりか。
弟子を持たぬミロには察することしかできない。
アルビオレの死に顔が友と重なり、ミロは身震いした。
カミュよ……お前は裏切るな。
俺はお前を殺したくない。
勅命とあらば、やらねばならぬが───聖域は、何か、どこかがおかしい。
お前が叛乱者を育てたとは思えない。
なぜ、お前の弟子は、叛乱者集団にいる。
お前は何をそんなに悩んでいる。
───得体の知れぬ、昏く蠢く何かが、聖域に巣食っているように思えるのは杞憂か。
ミロはもう一度身震いした。
気温が下がり始めている。灼熱地獄から極寒地獄へと。
遠くに目をやると、海と空との境がじわりとぼやけはじめていた。
夜が来る。
昏く寒い夜が、これから。
(fin)
(extra)
アフロディーテは沈む陽がオレンジに染める海を見つめていた。
まだ、変声期前の少年たちの苦悶の声が耳に残っている。
ミロはどこまで気づいただろうか。さすがに自分の存在に気づかぬほど愚鈍ではないと踏んで、薔薇を回収するようなこともしなかった。
あの年下の黄金聖闘士は、聖域で一番と言っていいほど情に篤い。師を慕う弟子たちの姿を前に甘い顏を見せるような男でないことも十分承知していたが、情の篤さゆえに彼が背負うことになる重いものを考えれば、放ってもおけなかった。
今回のことは……酷く危ない橋だった。
聖域の正義を疑うような際どい任務は今まではアフロディーテたちが秘密裡に遂行していた。暗部を知る人間は少なければ少ないほどいい。
だが、教皇は、相次ぐ青銅たちの謀反の動きに苛立っている。全ての黄金聖闘士の忠誠心を試すような真似をせずにはおれないらしい。今まで暗部からは遠ざけていたミロやアイオリアにまでこのような勅命を下すとは。
ミロほどの男、これをきっかけに却って疑念を生じさせる結果にならぬとも限らないというのに。
アフロディーテは自分の手に視線を落とした。
白魚のようだ、と称される長く白い指。
───汚れている。
わたしの手はきっと、女神を護るにはふさわしくない。
聖域が必要としているのは、血に汚れていない高潔な手だ。例えば──ミロやアイオリアのような。
彼の手が血に濡れなかったのであれば、いくら己の手が汚れていたところで痛くも痒くもない。
フッとアフロディーテは視線を上げて笑みを浮かべる。真紅の薔薇より美しい、艶やかな笑みを。
(fin)